夢と現実のはざまで
我に返ると、そこには血まみれで横たわる二人の死体があった。一人は男、もう一人は女。女の顔には見覚えがあった。男は見たことがない顔だった。
冷や汗が噴出してくる。こめかみから頬伝い、あごの先から落下して何かを握りしめた手の上に落ちた。彼はその手元に目を向けた。握りしめられていたのは真っ赤に染まったナイフだった。
洗面所で手を洗いながら鏡に映った自分の顔を見る。寝癖でぐちゃぐちゃになった髪を濡れた手で撫でつける。
「いやな夢を見たな…」
昨夜見た夢はやけにリアルだった。真っ赤な血の色が頭から離れない。
彼女とは付き合って5年経つ。お互い三十を超えた。そろそろ身を固めるのも悪くはない。彼はそう考えていた。
洗面所から出てくると彼はリビングのローテーブルの上で充電していた携帯電話を手に取る。彼女の番号を検索してプッシュボタンを押した。呼び出し音が鳴り始める。5回、6回…。彼女は出ない。すぐに留守電の音声に切り替わる。
「今夜、食事でもしよう。連絡を待ってる」
メッセージを残して電話を切る。携帯電話をもう一度充電器に戻して、今度はその横に置いてある小さな箱を手に取る。ふたを開けると指輪に付けられたダイヤモンドがきらりと光り輝いた。彼は今夜彼女にプロポーズするつもりなのだ。
朝食を済ませ、スーツに着替えた。前の年の誕生日に彼女がプレゼントしてくれたネクタイを身に付けた。テレビからはニュースの音声が聞こえていた。『昨夜発見された二人の遺体の身元は…』そんなニュース、彼は気にも留めずにテレビを消して部屋を出た。
満員の通勤電車に揺られ、会社に到着した。いつものように席に着いてパソコンの電源を入れる。それから給茶機で熱いコーヒーを淹れて来ると再び席に着いた。立ち上がったパソコンの画面を見ながらコーヒーを一口すする。メールをチェックしようとした時、仲のいい同僚が駆け込んできた。
「おい! 田口、ニュースは見たか?」
慌てふためいたその口調はいつもの冷静な彼の姿からはかけ離れていた。
「そんなに慌ててどうしたんだ?」
「それよりこれを見てみろよ」
そう言って彼は立ち上げられたパソコンでネットニュースを開いた。そこには昨夜起こった殺人事件の記事が載っていた。
「これがどうかしたのか?」
「どうもこうもないだろう! この被害者、お前の彼女だろう」
「そんなバカな…」
彼は改めて被害にあった女性の顔写真をみた。“被害女性は川村麻美さん、32歳。都内の広告代理店に勤めるOL”そう書かれていた。彼は放心状態でただ画面を見つめた。
「田口、しっかりしろ」
同僚の声に我に返る。
「ちょっと出かけて来る」
そう言い残すと彼は事件を担当する所轄の警察署へ向かった。
応接説で一通りの事情を聴いた刑事が同僚の刑事に耳打ちした。
「田口洋介35歳。被害者とは5年付き合っていて、今夜プロポーズをする予定だったそうだ」
「もう一人の方は?」
「そっちには心当たりがないそうだ」
「昨夜のアリバイは?」
「ない。ずっと一人で自宅に居たそうだ」
「そうか…」
二人の刑事が目を向けた先には応接のソファに座ってうなだれる田口洋介の姿があった。
「指紋は?」
「あとで湯呑の指紋と照合する」
「逃げる可能性は?」
「ないと思う。かなり挙動不審ではあるが、恋人が死んだんだ。普通なら冷静ではいられないだろう。そもそも逃げるくらいなら、ここへは来ないだろう」
「それもそうか…。じゃあ、ヤツはシロか?」
「それは何とも言えん」
犯行現場には凶器と思われるナイフが落ちていた。ナイフには指紋が残っており、拭き取る余裕がなかったとみられることから、計画的な犯行ではなく、私怨による突発的な犯行だろうと推測されていた。残された指紋に前科者リストと合致するものはなく、また、犯行現場となったマンションの防犯カメラに、不審な男が映っていたことから被害者二人の交友関係を調べていた。そこへ、麻美の恋人だと名乗る田口洋介が現われた。その風体は防犯カメラに映っていた人物に酷似していた。
洋介は麻美が安置されている病院を聞こうと警察署を訪れた。そこで、形式的なものだと言われ、簡単な取り調べを受けたのだった。一通りの話が終わると、すぐに解放され、その足で病院へ向かった。
病院には麻美の家族が既に来ていた。両親と双子の妹。泣き崩れる母親の姿を目にした洋介は一旦その場を離れた。洋介が廊下に置かれた長椅子に座っていると、麻美の妹がやって来た。
「あの…。どちら様でしょう?」
「あ…。麻美さんとお付き合いさせて頂いていた田口と申します」
「田口? さん? 姉とお付き合いを?」
「あ、お取込み中の様なので失礼します。もし、葬儀の日取りが決まりましたらご連絡ください」
そう言って名刺を渡すと、洋介はその場から離れた。5年も付き合っていたのだけれど、家族とは面識がない。病院を出ると、洋介は会社に電話をした。同僚の中野に彼女の葬儀が終わるまで会社を休むと伝えた。
『解かった。部長には俺から伝えておくよ…』
受話器の向こうから聞こえてくる中野の声は洋介の耳には入ってこなかった。
刑事たちは被害者の交友関係を調べて関係者から事情を聴いていた。麻美の友達数人からは洋介に関することもいくつか聞き出せた。それらに共通していることは洋介から聞いた話とはかけ離れていた。
友人A:「田口さん? 恋人? そうだったんですか?」
友人B:「ああ、最近まとわりついて来るっていう人ね? その人が犯人なんですか?」
同僚A:「麻美に首ったけの貢ぐ君でしょう? この間、婚約指輪を出されて焦ってって言ってたわ」
友人C:「なんか、気持ち悪い人だったわ。ストーカーみたいで」
同僚B:「麻美は全然相手にしてなかったわね。だって麻美には他にも付き合っている人が居ましたから」
洋介の周りの人間からも話を聞いた。
友人A:「そろそろ結婚するんだなんて言っていたなあ。でもあいつのそんな相手が居るなんて信じられなかったけど」
友人B:「二人は仲は良かったんじゃないですか? いつもツーショット写真を見せては自慢していましたから」
同僚A:「紹介しろと言っても合わせてもらったことはないですけど、結婚式には呼んでやるって言ってましたから楽しみにしてたんですけどね。いやあ、残念だなあ」
同僚B:「あいつにしてみればいい女を捕まえたと思ったんだよなあ。まさかこんなことになるなんて。あいつも女運がないなあ」
友人C:「俺は絶対に騙されてると思ってたんだ。これであいつも諦めがつくんじゃないか」
洋介が最後に麻美と会ったのは事件の三日前だった。本当はその時に指輪を渡すつもりだった。都内のレストランで食事をした。
「そろそろどうかしら? 洋介もそのつもりなんじゃない?」
「ああ。麻美となら上手くやっていける」
指輪を渡す絶好のチャンスだった。けれど、その後に麻美の口から出た言葉は洋介が想像していたものとは違った。
「そうじゃなくて…。私たち、そろそろ終わりにしましょう。洋介だって新しい彼女が出来たんでしょう?」
「何を言っているんだ。僕は麻美以外考えていない」
「じゃあ、ヒロミってだれ? 最近よくメールしてるでしょう?」
「見たのか?僕の携帯を?」
「そりゃ見るわよ。だって気になるじゃない。好きな人が浮気しているかどうか」
「まあいい。それはともかく、ヒロミというのは…」
「いいのよ。私、全然気にしていないから。それに私にも新しい恋人が出来たから。だから逆に良かったと思っているのよ」
「ちょっと待ってくれ! これを見てくれよ」
そう言って洋介は指輪の入った箱を取り出し、ふたを開いて見せた。
「あら、とても素敵じゃない! ヒロミさんもきっと喜ぶわよ」
「だから、ヒロミというのは…」
「いいから、いいから。私のことは気にしないで。今日はとても楽しかったわ。ごちそうさま」
麻美は席を立ち、そのまま店を出て行った。
「5年…。5年も付き合ったのに…」
指輪を見つめながら洋介は小さな声で呟いた。そして、洋介は麻美の後を追った。
一方でもう一人の被害者、黒崎貞夫についても調べが進んでいた。29歳、IT関連の社長で羽振りはよかったらしい。関係者の話はこんな具合だ。
友人A:「金遣いは荒かったけど、根は真面目な人ですよ」
取引先社長:「女性関係? あまり聞かないですね」
友人B:「最近、年上の人と付き合っていると言っていましたよ」
社員A「とにかく頭がいいんですよ。でも、女性経験ほとんどなかったんじゃないかな。どちらかというと仕事一筋って言うか…」
社長秘書:「一緒に死んでいた女、社長はきっとあの女に騙されていたんじゃないでしょうか。女には天罰が下ったんだと思うわ。でも、社長は可哀そう」
近隣住人:「気さくな人でしたよ。若いのに町内会の行事にもきちんと顔を出していたし」
このことから川村麻美は二股をかけていて、それを知った田口洋介が二人を殺害したのではないかという結論に達していた。そんな時、鑑識から凶器のナイフについていた指紋と来署したときに採取した湯呑の指紋が一致したとの報告が入った。令状はすぐに降りた。
店を出ると麻美が車に乗り込むところだった。車の外で待っていた男は麻美を抱き寄せるとキスをした。それを見た洋介は頭に血が上った。
「僕だってキスなんかしたことないのに」
洋介は通りかかったタクシーを止めて車の後を追った。車は高級住宅街の高層マンションの駐車場へ入って行った。タクシーを降りると車が停まった駐車場スペースのナンバーを確認し、管理人室に立ち寄った。
「○○番のところで拾ったんですけど」
そう言って、たまたま持っていたキーホルダーをポケットから取り出した。
「ああ、風間さんですね。今お帰りになったところですよ。お渡ししておきますのでお預かりします。書類に記入して頂きたいので、ちょっとだけいいですか?」
「いいですよ」
管理人が書類を探している間に風間の部屋番号を確認した。書類にはもちろんでたらめな名前を書いた。そして、麻美が出て来るのを待った。麻美が出て来たのは翌日の朝だった。風間の車の助手席に乗ってマンションを出て行った。
凶器のナイフが購入されたとみられる雑貨店で店主に洋介の写真を見せると、店主はその写真の男がナイフを買ったと証言した。
刑事たちは麻美の葬儀会場で洋介を待ち伏せした。
二日後、洋介は近所の雑貨店でナイフを購入した。その足で風間のマンションへ向かうと宅配業者を装って部屋のドアを開けさせた。ドアが開くと同時に風間を部屋の中へ押し戻し、自分も部屋の中に入った。そして、我を忘れて風間に切りかかった。我に返ると、そこには血まみれで横たわる二人の死体があった。
洋介は返り血で真っ赤になった服を脱ぎ捨てシャワーを浴びるとクローゼットから風間の服を適当に取出しそれを着て部屋を出た。部屋を出た洋介は真夜中の道をひたすら走った。自宅へ戻った時にはほとんど意識がなかった。そのままベッドに倒れ込んで朝まで眠ってしまった。
洋介に麻美の妹から連絡が入ったのは通夜の当日だった。既に警察から洋介のことを聞かされていた。何も知らないふりをして葬儀に来るように誘導するように頼まれていた。
「ご連絡遅くなり申し訳ありません。急ですけど、本日18時から○○斎場でお通夜を行います。是非、姉を見送ってあげてください。お待ちしております」
「解かりました。一つだけお願いがあるんですが…」
洋介は喪服に着替えて家を出た。渡すはずだった指輪をポケットに入れて。
「一緒に棺へ入れてやろう。天国に行っても麻美は僕のものだから」
最上の入り口では喪服姿の刑事が葬儀屋に扮して貼り込んでいた。洋介が到着すると素早く近付き、両側から洋介を抑え込んだ。
「田口洋介だな。川村麻美及び風間貞夫殺害容疑で逮捕する」
「麻美を殺害? 僕が? なんかの間違いだ。僕はやっていない」
もがく洋介を抑え込んで一人の刑事が手錠をかけた。洋介はそのままパトカーに乗せられて連行された。
洋介は全て夢の中の出来事だと思い込んでいた。
「凶器のナイフからお前の指紋が検出された。それにお前が現場で脱ぎ捨てた福からも検出された汗と浴室で見つかった髪の毛から同じDNAが出た。ゴミ捨て場から発見された風間の服からもおまえのDNAが検出されているんだ。防犯カメラに映っていた班のンの映像もあるんだ。言い逃れは出来ないぞ」
「違う! あれは全部夢だったんだ。だから、僕はやっていない…」
洋介はポケットから箱を取り出した。
「僕は麻美と結婚するはずだった」
箱には返り血を浴びた時の血痕が付着していた。
「これを鑑識にまわせ。付着しているのは川村麻美と風間貞夫の血液だと証明されるだろう」
「僕はやっていない…。そうか! これも夢なんだ。早く目を覚まさなくちゃ。そして、麻美にプロポーズしなくちゃ…」
洋介は無期懲役が確定した。地方の拘置所に送られ服役した。
「38番、面会だ」
洋介が面会室へ行くと、向こう側に中野が来ていた。
「指輪は渡して置いた」
「すまない」
服役する際、洋介は仲のいい同僚の中野に指輪を麻美の妹に渡してくれと頼んでいた。あの日電話で約束したからと。
結婚のゆいた箱は証拠品として押収されたけれど、指輪は返してもらえた。洋介はそれを中野に託したのだった。指輪を預かった中野は家族に渡そうと河村家を訪ねた。既に争議も終わり、麻美の亡骸は火葬も終えていた。けれど、同僚の頼みをむげに断れなかった。
「初めまして。中野ヒロミと申します。田口にどうしてもと頼まれてやって来ました」
「わざわざ、ありがとうございます…」
川村家に着くと、妹が対応に当たってくれた。洋介との約束は覚えていた。
「病院で始めたお会いした時、優しそうでとても人を殺せるような人には思えませんでした。姉を殺した人からのものなんて本当なら預かったりはしないんですけど、私にはどうしてもあの人が姉を殺したとは思えないんです」
「お気遣いありがとうございます。俺もそれは同感なんですが、あれだけ証拠が出てきたらどうしようもありません」
「田口さんが姉と付き合っていると言った時、正直信じられませんでした。今まで姉が付き合っていた人とはまるで違うタイプの人でしたから。でも、田口さんなら姉を幸せにできるんじゃないかとも思いました」
「ええ。あいつは麻美さんを心から愛していた」
「それはお預かりします。私が責任を持保管します」
「それにしても、あなたは麻美さんにそっくりですね」
洋介が部屋を出た後、まだ意識があった風間は隣で横たわる麻美を見た。自分の血を浴びて血まみれになっている。麻美の身体に付いた血をぬぐっていると麻美が目を覚ました。
「どうしたの? えっ! 血?」
驚いた麻美の顔を見て風間は微笑んだ。
「大丈夫だから…」
その時、背後から近づいてきた何者かが落ちていたナイフを拾って振りかざした。そして、風間の背中に何度も何度もそのナイフを突きたてた。
「キャー!」
麻美に覆いかぶさるように絶命した風間を押しのけてその女は麻美にもナイフを振りかざした。
洋介は釈放された。真犯人が逮捕されたのだ。逮捕されたのは社長秘書の中島幸恵という女だった。ゆきえは嫉妬から麻美を殺そうと計画していた。秘書という立場上、風間の部屋へは自由に行き来できた。あの日は風間が麻美を自宅に呼んでいることを知っていた。今日は来ないでくれと言われていたから、きっと麻美が部屋に来るに違いないと思った。マンションの入り口で見張っていると、案の定、麻美を連れて風間が帰宅した。幸恵は合鍵でマンションに入ると、仕掛けおいた盗聴器で中の様子を窺い、風間がシャワーを浴びている間に麻美を睡眠薬で眠らせた。そして、首を絞めて殺そうとした時に宅配業者がやって来た。浴室から出たばかりの風間がドアを開けると宅配業者は風間を部屋の中へ押し戻し、持っていたナイフで切りつけてきた。幸恵は慌ててベッドの下に隠れた。風間を襲った宅配業者は蕎麦楽そこに立ちすくんでいるようだったが、間もなく服を脱ぎ捨てるとシャワーを浴びて風間の服を着て部屋から立ち去った。風間はかなり出血しているようだったが、意識はあった。そんな状態でも麻美を愛おしそうに見つめている姿に幸恵は耐えられなかった。こっそりベッドの下から抜け出すと、宅配業者が落として行ったナイフを拾い上げた…。
拘置所を出た洋介の前に中野が居た。その後ろに隠れるように女性の姿があった。彼女は洋介の姿を見て、嬉しそうに微笑んだ。彼女の指にはあの指輪がはめられていた。