裸足のマルショフ
生まれながらにして自由などなかった。マルショフは茶色い天井を見上げながらそう思う。
祖父も、母も、弟も、友人だって、みんな不自由が当たり前で、拘束の繰り返しを生きていた。
マルショフは思う。この連鎖は、きっと断ち切れない。
乾いた粘土のような地面に茅葺が敷き詰めてある寝床がマルショフの家だった。そこは人が二人横になれば、三人目のスペースがないほど狭い。それははっきり言ってしまえば、家畜小屋だった。でもマルショフは6才のときからずっとここで暮らしている。だから、ここがマルショフの家だった。
マルショフは6才のときに家族と離れ離れになって、家畜小屋の持ち主でもある大地主のもとでの生活をスタートさせた。
マルショフは一日一食だけ許された食事をほおばって、大地主から下されるありとあらゆる命令に従った。ほとんど裸に近い格好で、たいした道具も与えられず、満足に水を飲めないなか、マルショフは一日一日を踏みしめるように乗り越えていった。
マルショフには唯一といってもいい拠り所があった。それは年に一度だけ許された、手紙の交換だった。
マルショフは家族がどこにいるのかも知らなかったが、大地主は持ち前の権力ゆえに顔がきくのか、マルショフの家族の居場所をすべて把握していた。そこで、使用済みの裏紙を使用した手紙のやり取りだけは大目に見てくれたのだ。
しかし逃亡を防ぐためか、書面上で地名を教え合うことだけは双方で禁止事項とされた。だとしても、この手紙がマルショフにとって人生でただ一つ残された希望の星であることになんら変わりはなかった。
そんなマルショフが従順だった大地主に対して脱走を決意したのは、彼が16才になった年だった。
理由は単純だった。母からの手紙が返ってこなかったからだ。
母の身になにかが起こったことは明確だった。母は紙面上で体調が悪いなどと言うことは一度もなかった。しかし、それはしょせん文字でのやり取りのこと。そこに必ずしも真実ばかりが並べられているとはマルショフも思わなかった。
だから、マルショフは母を求めて初めて自分の家を飛び出すことにした。幸い、大地主はいまさらマルショフが逃げ出すなんて思ってもみなかったから、脱走は労せずして成功した。
マルショフは昼夜を問わず駆けた。目的はもちろん母を探し求めることだったが、いまマルショフにはまったくことなる感情が芽生えていた。
それは物心ついてから初めて、自らの意志で、自らの意思で、自らの足で、前に進んでいるということだった。緑なんてまるで見受けられない赤く焼けた大地を、マルショフは獣のような速さで駆けた。それは「走る」というよりも動物が「跳ぶ」、跳んでいるというほうが適していた。
マルショフは人間としての尊厳や喜びに身体的な爆発からたどり着いた。頭ではっきりと理解しているわけではない。簡単な文字の読み書きがかろうじてできる程度のマルショフにとって、人間のあるべき姿を言葉として理解することはできなかった。
しかし動物としての本能から導き出された解が、いまマルショフの全身を駆け巡っていた。
マルショフは気絶するまで、地面にどっぷりと浸かった太陽に向かって駆け続けた。
マルショフが目を覚ますと、そこは粗末な小屋だった。その粗末さは飛び出してきた家畜小屋と大差がなかった。それでも骨身に染みるまで見飽きたかつての”家”と見間違うはずはなかった。
ここは知らない場所だ、とマルショフは思った。
マルショフは知る由もないが、彼は数日にわたって国境に向けて走り続けた。もとよりマルショフの家が国境付近にあったことも手伝って、ついにマルショフは隣国へと逃れることに成功したのだ。しかし、皮肉にも隣国とて状況はまったく変わらなかった。
地面に座り込むマルショフには渇ききった絶望しかなかった。彼の足には鎖がまきつけられ、伸びた鎖は壁へと繋がっていた。マルショフはほんのわずかな距離を這うことしかできなかった。
かつての”家”にいたころのマルショフなら、それについてなにも、本当になにも思わないだろう。
しかし、いまのマルショフはちがった。
マルショフは知ってしまった。知ってしまっていた。マルショフの身体は知り過ぎてしまっていた。
マルショフは口を大きく開くと、力の限り舌を伸ばした。
太陽は完全に沈んでいた。