第2話 ルームメイト②
士官学校生の朝は5時に始まる。点呼の後、各々授業の予習や朝の鍛錬に励み、朝食をとり、8時から授業開始だ。1コマ45分の授業を午前に4つ・午後に3つ受ける。授業が終わると19時の夕食まで再び鍛錬を行い、それ以降は自由時間、夜は23時に消灯だ。土曜も授業はフルにあり、生徒たちが唯一ゆったりできるのは日曜だけだった。
もっとも、鍛錬・勉強の時間と割り振られているところは人によって、また所属する課程によっても過ごし方がずいぶん違う。普通・術師・特殊課程の場合でも、訓練をするのに校庭や別館の修練場を使う者もいれば、寮内にある修練場を使う者もいるし、学校の敷地内に広がる森の中で1人修行する者もいる。あるいは図書館で勉強する者もいるし、自室で勉強する者もいる。中には鍛錬も勉強もせずに睡眠をとる者もいる。
このように、士官学校は授業時間以外の過ごし方については比較的寛容で、自主性を重んじる傾向があり、しかし規律を破った場合には罰則が設けられていた。また定期的にある実技テストで成績の振るわない者に対しては、教官の監視・指導のもとで鍛錬をこなさなければならなかった。そんな訳で、生徒のほとんどは毎日鍛錬を欠かさない。
授業初日の月曜日、1日の最後の授業である7限目。
教室内には黒板に当たる硬いチョークの音と、教師が教科書を読み上げる単調な声が響いていた。
「――というわけで…、この場合まずXの値を求め、それを――」
アマナツにとって興味もなく、また内容もほとんど分からない数学という科目は、退屈なものでしかなかった。
今まで学校と名のつくものに通ったことのない彼女は、こういった一般的な教養科目が苦手だった。
幼いころに恩人やその仲間たちに出会い、親交を深めていく中で、彼らに各種学問のごく初歩的なことは教わった。しかしほとんどの時間は生きていくための術――戦闘技術を学び、彼らと別れた後は帝国の辺境の地を1人で旅していた彼女にとって、数学や理科なんてものはどうでもよい学問だったのだ。
クローゼ家の本家がある西部第3区でライムントとルーカスに会って、ヤマトにある祖父の家に住むようになってからは、修行の合間に祖父に勉強を見てもらっていたが、それもせいぜい初等学校卒業のレベルまでだ。
いま士官学校5年生がやっているレベルの授業では、アマナツがついていけるはずもなかった。
そう考えると、編入試験の仕組みと内容もいかがなものか、とおもわず考えてしまう。試験では編入する学年は年齢に関わらず指定することが出来、その代わり学年にあわせて難易度があがる仕組みになっているのだ。
基礎運動能力と戦闘力、一般教養の3つの試験で成り立っており、3つの科目の合計300点満点中200点以上が合格ラインとなっている。各科目での最低合格点は定められていない。
試験結果の詳細は知らされていないが、アマナツが受かったことから考えても、基礎体力と戦闘力で合格ラインの200点を取っていたことは確実だ。なにしろ一般教養の試験では、ほとんど白紙の状態で提出したのだから…。
なんとか無事入学した今となっては、彼女の一番の問題は足りなさすぎる学力をどうするかだ。現にいま受けている数学だけでなく、午前中の公民と生物学(理科は化学・生物学・地学・物理学の中から1科目が必修だ)もちんぷんかんぷんだったのだから。このままでは確実に卒業が危うい。
アマナツはぼんやりと男性教師の、こちらも危うい感じに薄くなった頭頂部を眺めながら、とりあえず1年生の教科書を買って勉強するしかないよね…、と思い、ため息をついた。
席が1番後ろの窓際ということもあってか、眠くて仕方がない。ちなみに隣は早くも見慣れてきた仏頂面のルームメイトだ。
このクラスの生徒たちは編入者に興味津々らしく、授業中でもちらちらと彼女を見る者がいるほどだ。休み時間の廊下はもっとひどい。必ずといっていいほど、すれ違う人から視線を向けられるのである。
アマナツは全く意識していないが、他人から見られる原因は見慣れない女生徒だからというよりも、彼女の非常に整った容貌にある。
細いうなじを覆う程度の長さの眩いばかりの綺麗な金髪に、オレンジがかったはちみつ色の瞳。顎の細い顔の中には、それぞれのパーツがバランスよくおさまっている。すっと通った鼻筋はどことなく貴族的な香りを漂わせているし、紅い唇は年に似つかぬ妖艶さを醸し出している。おまけに士官学校用の軍服の上からも、発達のよい体つきが見て取れる。
そんな彼女を、当然周りの数少ない女子は羨望や感嘆、時には嫉妬のまなざしで見、男子は口を開けて見とれる者がほとんどであった。
しかし彼女自身がその美貌もあいまって、一種独特の近寄りがたい雰囲気を纏っているので、実際に声を掛ける生徒はほとんどいない。
朝のホームルームで初めてクラスメイトたちと対面した時もそうだった。皆大いにざわついたものの、休み時間になっても彼女に声をかける者はいなかった。皆遠巻きにしてちらちらと見るだけだ。しかしその視線には険は含まれていない。どちらかと言うと、声をかける機会を掴めずにいるようだった。それは彼女の隣の席がこれまた近寄りがたい空気を身に纏う基本無表情のエーリヒだからかもしれないし、このクラスにアマナツ以外女子がいないのも一役買っているのかもしれない。
そんな色んな意味を持った視線を向けられるアマナツの方はと言えば、女子がいなくて不安だとかいうのではないものの、周りの目がうざったくて仕方がなかった。
ちょうど教師の説明が一区切りしたところでチャイムが鳴る。途端に教室は喧騒を取り戻し、これでアマナツにとっての軍士官養成学校の授業初日が終わった。
やれやれ、と息を吐き、彼女は軽く伸びをした。やはり慣れていないせいか、半日ただ椅子に座っているだけだと疲れて仕方がない。頭は働いていないのに。
明日は午前に対人格闘術と剣術の授業があるので、いまからワクワクしている。別に授業自体が楽しみなのではなく、体を動かせるのが嬉しいのだ。
「さーてと、ご飯ご飯」
鞄に教科書等を放り込んで、いそいそと寮へ戻る。最もその前に鍛錬の時間があるのだが。
昨日気まずい沈黙に耐えた後に食べた寮のご飯は、なかなかおいしかった。ほかほかのブロート(パン)を頬張りながら、やはり毎日の食事は重要だとしみじみ思ったアマナツであった。
石畳の道を歩きながら、今日のご飯は何だろうと考えていると、下校途中の生徒たちのざわめきの中から「か、返してよっ」とか細い声が上がるのが聞こえた。
ん?と思いそちらを見やると、ひときわ体格の良い男子生徒が高々と教科書を上に挙げているのが見えた。人混みに紛れて分かりにくいが、その横では小柄な女子と思しき生徒が必死になって教科書を取ろうとしている。
「士官の卵の学校でも、悪ガキ大将はいるもんだねぇ」
アマナツはやれやれと肩をすくめながら呟いた。周りの生徒も彼女自身も、助けに動く気配はない。
と、そこで唐突に「おい、パス」と声がすると、ポーンと教科書がアマナツの方に放られた。
正確にはアマナツの手前にいた男子生徒にパスされたのだが、コントロールが少々悪かったらしく、男子生徒の手のすり抜け、彼女の方に落ちてきたのだ。
当然易々とキャッチし、それを見た小柄な生徒がこちらへ猛ダッシュしてきたので、差し出す。
「私の教科書返し…って、あ、あれ?」
目をパチクリさせるその生徒はやはり女子だった。漆黒の髪が肩のあたりで揺れ、同色の瞳が驚いたようにアマナツを見あげる。おそらく、ヤマトの出身だろう。それにしても小柄だ。170cmちょっとのアマナツの肩に届くかどうかというところだ。
「あ、ありがとう…」
そう言って差し出されたままだった教科書を受け取りはにかむ彼女を、アマナツはしげしげと観察した。小柄な体格、くりっとした目、すばしっこい動き、まさに小動物という言葉がぴったりの少女だった。しかしどう見てもその細い体躯は戦闘に向いてるようには見えない。最も、それはアマナツにも当てはまるのだが。
編入したばかりで詳しくは分からないが、胸に付いている校章――双翼を広げる大鷲――の下にある、課程ごとの紋章の色が同じところをみると同学年のようだ。しかし色は同じでも、紋章が違った。アマナツたちの紋章は剣と盾だが、この少女は天秤だった。
「天秤ってどこの紋章?」
「え?ああ、医療課程だよ」
医療課程ということは、本人の戦闘力は関係ないはず。どうりで小柄で軍人らしくないわけだ。
「そうなんだ。私、昨日転入したばっかりだから、あんまり分からないんだ」
「…え?じゃあ貴方がアマナツ・フレデリカ・クローゼさん?」
「知ってるの?」
驚いたように言う少女に、逆にアマナツの方がびっくりして目を瞬かせた。
「有名だもん」
昨日編入したばかりなのに、何を有名になるっていうんだ?
アマナツは釈然としない思いで首をかしげる。
「…私、まだ何も問題起こしてないよ?」
完全に未来の問題児が前提である。
「も、問題?…いや、編入生ってすぐ噂になるから。それに…」
「?」
少女はアマナツを見あげて、顔を染め、ほう、と息をついて、呟く。
「…すごく綺麗」
「??」
ますます不可解な面持ちになるアマナツ。自分の整った容姿に自覚のない彼女はいつも、周りから向けられる視線にも頓着しないのだ。
「おい!お前」
「うん?」
尖った声で呼びかけられてそちらを向くと、先ほどのガキ大将がずんずんとこちらに近づいてくるところだった。彼は振り返ったアマナツを見て動きを止め、驚いたように目を見開いた。しばらくの後に我に返ると、わざとらしい咳払いをして、びしっと医療課程の少女の教科書を指さす。
「お前にパスしたんじゃねえよ!返せ」
「え、この子の教科書じゃないの?」
「わ、私のだよ」
「なら良いじゃん。何も問題ないでしょ」
アマナツとしては思った事を言ったまでだったが、その返事はガキ大将には気に食わなかったらしい。きっと彼女を睨むと、おもむろに掴みかかる。
が、アマナツは掴まれる前に動いていた。
邪魔な鞄を放り、体を捌きつつ伸ばされた右手を掴み、己の体をその下にもぐりこませる。腕にぐっと力が入り、彼女よりはるかに重いはずの体躯が軽々と宙に浮き、地面に叩きつけられた。
近くにいた医療課程の少女が声を上げる間もない一瞬の出来事に、少女だけでなく投げられたガキ大将も周りの生徒も、皆があっけにとられた顔をしている。それほど見事な一本背負いだった。
アマナツだけが涼しい顔をして、パンパンと手をはたいていた。
「やれやれ。言っとくけど正当防衛だよ」
ガキ大将は最初こそ咽せながらも何が起こったか分からないという顔をしていたが、やがて事態を飲み込むとさっと顔が赤くなった。
がばっと起き上がると、アマナツにタックルする。が、ひょいっと躱されてたたらを踏んだ。
「しつこいね」
アマナツは呆れたように言いながら、後ろの少女を手でやんわり押して遠ざける。正直言って邪魔だったのだ。
一方、ガキ大将は相当頭に血が上っているらしく、喚きつつ再度突っ込んでくると拳を振り上げる。モーションが大きすぎて、胴ががら空きだ。
アマナツは避けずに、逆に一歩踏み込んだ。左拳が的確に鳩尾にはいり、相手がうぐっ!?と呻く。ついでなのでそのまま体を沈めて右足を軸に体を回転させ、左足で相手の足を思いっきり払った。
バランスを崩し、音を立てて再び地面に倒れこむガキ大将に、おもわず周りの生徒からおおっ!と声が湧き上がる。
「す、すげぇぞ、あの女」
「格闘術半端ねぇ!」
すっくと立と上がったアマナツはそのまま鞄を拾い上げ、
「私、お腹空いてるんだ。そんなに悔しいなら、また今度ね」
と咳き込むガキ大将に言葉を投げかけ、すたすたと歩き出した。
感心や羨望、果てにはちょっとした畏怖の視線を向ける周りの生徒を一向に気にせず、寮に向かう。すでに彼女の頭の中は、晩ご飯のことでいっぱいだった。
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