第一話 クラウツ卿と少年(7)
次の日。ファミリアが自室に備え付けられているシャワールームから出てくると、見覚えのある男性が彼女のベッドに腰掛けていた。驚きに固まる部屋の主をよそに、男性は笑顔で彼女に近付いて来てハグをした。
「おはよう、ジェーン。ずいぶんと刺激的な格好だね」
「あなたがこんな時間に来るとは思っていなかったからよ。ここ数日、とても早起きなのね」
ファミリアは突然の来客の腕から抜け出しながらそう言うと、羽織っていたバスローブを脱ぎ捨て、執事が用意していったと思われる余所行きの服を身にまとった。
「それだとまるでぼくが朝に弱いみたいじゃないか」
「あら、違ったかしら?」
「それは君のほうだろう?まったく・・・。あの頃はよく毎朝こうやって君を起こしにきたね」
「懐かしいわね・・・」
「ああ。あの頃はまだ、君のお父上もクラウツ卿もご健在で・・・父もまともだったからね」
彼はファミリアに近付きながら、一人では着辛いその服の着付けを手伝っていった。
「ここ、曲がっているよ」
「あらありがとう。相変わらず気が利くわね」
「昔から君のことになると、何をしていても楽しくてね」
「光栄だわ」
ファミリアはそう言うと、服を着るために頭の上の方で無造作に束ねていた髪をほどいた。石鹸の香りが、髪の広がるスピードよりワンテンポ遅く広がる。
「それで、元婚約者のお屋敷をこんな時間に訪れて、いったい何の御用かしら?」
「ジェーン。ぼくにとって君は、いつまでも変わることなくフィアンセだよ」
「あら、これは失礼。それで本当にどういった御用なのかしら?」
「本当に用というほどのことではないんだけれどね・・・今日は、仕事はあるのかい?」
「残念ながら、ね。ここ数日、貴方がアポなしで押しかけてくるものだから、予定が狂いまくっているの」
「それは申し訳ないことをしたね。それじゃあ、これ以上フィアンセの予定が狂う前に邪魔者は退散するよ」
突然の訪問客はそう言うと、ファミリアの頬に触れる程度のキスを残して部屋を出て行った。廊下に出て扉を閉めようかというタイミングで、待ち構えていたかのように執事が廊下の奥から姿を現した。
「パイソンさま、お帰りでございますか?」
「ああ、すまなかったね。朝早くに」
「いいえ。私こそ対してお構いも出来ず、申し訳ありませんでした。入り口までお送り致しましょうか?」
「いや、いいよ。この屋敷のことは君より詳しいから」
「それは出すぎたまねを致しました」
執事が一礼すると、男性は片手を上げてファミリアにウィンクを一つ送ると、そのまま屋敷を後にした。
「ずいぶん遅かったわね。彼と一緒に来ているのかと思っていたわ」
「申し訳ありません。なにせ今は手のかかる方がもうお一方いらっしゃいますので」
「言うようになったわね」
「失礼致しました。・・・彼は相変わらず貴女にベタ惚れのようですね」
「そうね。寝込みを襲われなくて良かったわ」
「それは私が阻止いたしましたので」
執事はそう言うと、彼女の服のおかしな部分を直し、まだ手付かずの状態の髪を今の服装に合うようにまとめていった。
*
同じ日の早朝。チャイムの音を聞いたセバスチャンは、朝食の準備を一旦やめて玄関へと向かった。玄関の大きすぎる扉を開くと、赤い絨毯が敷かれた玄関ホールに見覚えのある東洋系の顔をした男が姿を現した。
「これは、バーディン・ジュニア。ようこそいらっしゃいました。本日はいったいどういった御用件でしょうか」
「ジェーンはまだ寝ているかい?」
「ええ。そうでございますね・・・そろそろお目覚めになられる頃かと思いますが」
執事が胸ポケットにしまっていた懐中時計を確認しながらそう言うと、ジュニアは満足気な笑みを浮かべて彼女の部屋の方へと足を向けた。執事は彼の前に歩み出ると、にっこりと微笑みながら口を開いた。
「お待ちください、パイソンさま。いくら幼馴染とはいえ、主人の寝室へ紳士をお通しするわけには参りません」
「フィアンセでもかい?」
「ええ。仮にお二人がご結婚されていたとしても、お嬢さまが気分を害されるようなことは私が阻止致します」
執事がそう言って一礼すると、遠くから部屋の扉が開閉する音とシャワールームの扉が開閉する音が聞こえた。もちろん、ジュニアの耳にはこの音は聞こえていない。執事は再び懐中時計を取り出すと、時間を確認してジュニアへと薄く微笑んだ。
「どうやらお嬢さまとカーチスさまがご起床されたようですね」
「それじゃあ、もう彼女の部屋に行っても平気ということかな?」
「ええ、構いませんよ。私はカーチスさまのお世話がございますので、ここで失礼致します」
執事がそう言って一礼すると、ジュニアは足早に彼女の部屋へと歩いていった。その後ろ姿は、執事の目から見ても、とても幸せそうに見えた。
*
少年が目を覚ましてから自分の状況を把握するまでに、多少間があった。いつもと違う広い部屋、そこに置かれた一世代前の様々な調度品や家具。以前の雇い主の家でも充分寝心地が良かったが、それよりもさらに寝心地の良いベッド。褐色の肌を覆うシルクの部屋着。何もかもが、彼にとってはじめての経験だった。
彼はベッドから羊毛とも毛皮ともつかない肌触りの絨毯の上へ降りると、その感触を楽しむこともせず足早に部屋の出入り口の扉へと向かった。扉を開けて外に出ると、朝だというのにまだ薄暗く、赤を基調とした絨毯が敷かれた長い廊下が広がっているだけだった。少年は恐る恐る一歩、また一歩と歩みを進めていく。ファミリアの部屋や玄関ホールがある方向とは、逆の方向に。
「迷子になってしまいますよ」
その言葉と共に急に肩を掴まれて、少年は衝動的にその腕を引っ掻くようにして振り払った。彼の肩を掴んでいた執事の手から滴り落ちる液体が、赤い絨毯に黒い斑点をつける。
「あっ・・・セバスチャン、さん・・・」
「被検体でも、やはりある程度の訓練はされているんだな」
執事は先ほどまで血が滴り落ちていた右手で、勢いで落ちた鼻眼鏡を拾い上げた。彼の右手にはもういっさいの傷がついていない。
「どうかしたか?融合児である俺たちの傷の治りが早いのが、そんなに珍しいか?」
「いえ、そうじゃなくて・・・セバスチャンさん、目が悪いんですか?」
「ああ、これか?」
鼻眼鏡が右目を覆うように掛け直すと、彼は再び口を開いた。
「この屋敷に来る前、まだ研究所にいた頃の後遺症みたいなものだ。右目はこれがないとほとんど何も見えない」
「でも、融合児って傷がすぐ治るんじゃないんですか?」
「普通の融合児なら、な。だが、俺は失敗作だ。治るよりも早く、同じ所を何度も傷つけられたら、治るものも治らない。常人より傷の治りが早いというだけで、不死身なわけではないからな。まぁ、そうやって俺たちから得た知識で、良融児が作られたんだろうが」
セバスチャンはそう言うと、少年を自室へ戻るように促した。少年が部屋に帰ってくると、執事はその部屋のクローゼットにしまってあった服を少年に着せていく。いくら少年がスラム出身といえども、その服が高価なものであることくらいは解った。服を着替え、綺麗な皮靴を履き、髪を整えたところで、遠くからかすかに聞こえた扉の開閉音に執事は耳をそばだてた。
「では、私はこれで失礼致します。お呼びするまで、こちらでお待ちください」
執事がそう言って頭を下げると、少年は彼のフットワークの軽さに少々驚いてそのまま近くにあったイスに腰掛けた。
「父さまと母さまに、この姿を見せたかったな・・・」
扉が閉まってから、自分の姿を鏡で眺めていた少年は、小さくポツリと呟いた。
少年の父はセバスチャンと同じく、50年前の戦争で滅亡を余儀なくされたある部族の生き残りであった。一方、母は良家の―――つまり、成り上がりではない貴族の―――出身であった。しかし少年とその双子の妹が生まれた頃には、二人はスラムの一角でひっそりと暮らしていた。何故スラムにいるのか、どうしてここで生きなければいけないのか、そんなことは彼の両親にとってはどうでも良いことであった。まだ幼い二人の子供と、愛する人といられれば、それで二人は幸せだった。そんな二人を見て育った子供たちも、両親と同様の思いを胸に抱いて暮らしていた。
けれど、運命は時として残酷だった。流行病が、少年の両親を襲った。けして治らない病ではなかった。それでも、幼い子供たちに両親を助ける術はなかった。流行病は両親を連れて逝くと、今度は幼い兄妹へと牙をむいた。ゆっくりと、だが確実に病は幼い兄妹の身体を蝕んでいった。そろそろ生きるのを諦めて両親の元へ逝こうと瞳を閉じた時であった。何の因果か、瞳は再び光を取り込んだ。機械に囲まれた部屋で、手術着に白衣を着た男たちが幼い兄妹を見つめていたのである。
ああ助かった。
研究所で二人がそう思えたのは、後にも先にもその一瞬間だけだった。