第二話 クラウツ卿とその武器(6)
その日の夜。少年は寝る前にファミリアの自室を訪れていた。机に灯る明かりが、ぼんやりと彼女の顔を照らしている。その横顔が、少年には今にも消えてしまいそうに見えて、キューッ、と胸の奥が傷んだ。
「・・・ファミリアさん、大丈夫なんですか?」
「ああ、昼間の話かしら?大丈夫よ。わたしのことは心配ないわ」
そう言ってファミリアが微笑むと、彼女の横に立っていた執事が彼の元へ歩み寄った。ランタンのようなライトを手にとると、少年と共に彼女の部屋を後にしていく。
部屋を出て少し進んだところで、少年はおずおずと口を開いた。
「セバスチャンさん、あの・・・」
「なんでございましょう?」
「ファミリアさん、本当に大丈夫なんですか?」
何故だか、少年には彼女が死に急いでいるように見えたのだ。それが自分のせいではないということは、彼にも解っていた。解ってはいたのだが、膨れ上がった不安は、まだ少年と言う言葉が似合う彼の心には重すぎたのである。幼子のように無条件に慰められたかったわけではないのだが、言葉は苦しさを吐き出すように口から零れ落ちていた。
少年の言葉に、執事は小さくため息を吐いてから口を開いた。
「お嬢さまはお前が知っているような、スラムの影でさらに濃い影が迫りはしないかと日の光におびえているような奴らとは違う。お嬢さまは、さらに濃い影が来るのを日向で悠々と待っている、そう言うお方だ」
「それは、貴方を信頼しているから・・・」
「いや、お嬢さまは俺のことも、一緒に仕事をしている彼らのことも、幼馴染のあのフィアンセのことも、誰のことも心から信頼はしていない。信用はしているかもしれないけれどな」
笑いを堪えるかのように執事はそう言って、大きくため息を吐いた。少年はそんな執事を不思議そうに見上げている。
「どういう、ことですか?」
「“簡単に人を信じ、その甘さに溺れるな”ということだ。お嬢さまは心から信頼した人に裏切られることに、何よりも恐怖を感じていらっしゃる。もう一度裏切られたら、あのお方はきっとその甘さを求めて彷徨うことになる。そうなったらもう二度と、このセカイでは生きていけない。それだけでなく、目的を果たすことも出来なくなってしまわれる」
「目的、って?いったいなんですか!?」
「おっと、おしゃべりがすぎましたね。さあ、もうおやすみください。明日もきっと早い」
いつの間にか部屋にたどり着き、ベッドへと導かれていた少年は、それに抗うことなく眠りの世界へ誘われていった。
執事は静かに少年の部屋を後にすると、足早に主人の部屋へ戻って行く。雇い主は先ほどとは違い、船に取り付けられているような連絡用の筒の近くに立っていた。この管のような筒は先代の頃には既にここにあり、屋敷の全ての会話がここで聞けるようになっているのである。代々当主になった者とその最も近しい従者だけが、この管から全ての会話を聞くことができるのだ。他の者は例え家族であろうとも会話が筒抜けになっているということは知らない。
「ずいぶんと楽しそうだったわね」
クスクスと笑いながら、ファミリアは彼女の自室へ戻ってきた執事に微笑んだ。
「おや、聞いていらしたんですか」
「ええ」
「私としたことがついおしゃべりがすぎました。申し訳ございません」
「あらいいのよ、気にしないでちょうだい。事実だもの」
彼女はにっこりと微笑んでそれらの蓋を閉めると、ベッドへと文字通り転がり込んだ。執事のため息が聞こえる。
「それにしても、彼はかわいそうね」
「どちらにしても死ぬ運命だったのでございますからね」
「彼女が兵器になるために自分が殺されるのがイヤで研究所から逃げ出してきたのに、自分が死なないと妹が人としても死んでしまうなんて」
彼女をベッドサイドに座らせて、彼女の履いていたミュールを脱がせながら、執事は伏し目がちに頷いた。
「ええ、その通りでございますね。自分が死ぬことによって妹が完全なる兵器になってしまうというのは、なんとも残酷なものでございますね」
「本当、このセカイは狂っているわね」
そう言いながら、彼女は起こしてた上半身をベッドへ倒した。靴を脱がせた執事は、失礼いたします、と呟いて彼女を抱き上げると枕を起点とした定位置へ彼女を移動させた。
「まったくでございます」
「・・・わたしがしてきたことは、いったい何だったのかしら」
主人がポツリと呟いたその言葉に、布団をかけ直していた執事は目を瞬かせた。
「と、申されますと?」
「融合児計画の犠牲になる子どもたちを、わたしはスラムで何人も見てきたの。その中には貴方やあの子の妹のような白髪赤瞳も多くいたわ。わたしがロナルドのおかげでスラムから抜け出せた時に、一緒に救い出してあげたかった。本当よ?けれど・・・ロナルドには“ただ彼らをスラムから貴族の世界に解き放っても意味はない”、そう言われたわ。わたしだってそんなことは解っているのよ。だから、年々広がっているスラムに学校を建てたの。彼らの教養が増えれば、生活は変わるはずですもの。
・・・エゴなのかもしれないわ。わたしのようなクラウツ卿の名前を引き継いだだけの女に、彼らを救えるかなんて解らないもの」
「あの方の言葉を信じた貴女の行いは、確実に成果を出していますよ」
「どうして解るの?」
不安に満ちた瞳が、傍らの執事を見つめる。見上げていた視線が、徐々に見下ろすそれへと変わったのは、布団を整え終えた彼が床に跪いたためだ。
「私が救われました。あの日、奴隷以下の扱いを受けていた私を、貴女は救ってくださいました」
「・・・貴方一人を救っただけでどうにかなるほど、このセカイはもう甘くないわ」
力ない微笑みが、吐き捨てるようにそう告げた。
「私だけではありません。彼や彼の妹もお救いになるのでしょう?」
「ええ・・・そうね。そうよね」
「はい。目の前のことから一つずつこなしていけばよろしいのです。夏休みの初日に後三〇日で夏休みが終わってしまう、と想像する方はいないでしょう?」
「例えが遠すぎて解りにくいわ」
「これは申し訳ありません」
執事がそう言って微笑むと、彼女は楽しげな笑みを浮かべて布団へもぐりこんだ。不安など、もう微塵も感じられない。執事は彼女の布団の乱れた部分を直すと、ランタンの明かりを消して部屋を後にした。




