プロローグ
周囲を高いコンクリートの壁に囲まれた研究施設から、激しいサイレンの音が響き渡る。スラム街と貴族が住む街の、ちょうど境目のような所に建てられたその施設から、一人の少年が走り出てきた。白い髪に褐色の肌をした少年の青い瞳は、悔し涙に濡れていた。
「ちきしょう!あいつら、ハンナを・・・ハンナを・・・!」
少年の叫び声にも泣き声にも聞こえるその声は、響くサイレンの音と自身が蹴り上げる砂利の音にかき消されて、空に溶ける。
少年を追いかけてくるのは、まだ十代も半ばの彼を追いかけるには重装備な、手術着に白衣姿の大人たちであった。少年は彼らの撃ってくる銃弾をなんとか交わしながら、好奇の香りに包まれる貴族の館が建ち並ぶ通りへと逃げ込んだ。
「おっと!大丈夫かい?」
角を曲がった所で、少年は一人の少年とも青年ともつかない見た目の男性とぶつかった。黒い髪に白い肌、どちらかと言えば東洋系の顔をした男性はそう言ってにっこりと微笑んでいる。男性は路地から響く足音と銃器のこすれる音に気が付くと、少年が立ち上がるよりも早く、自分が着ていたロングコートの下に彼をすっぽりと隠していた。少年が困惑に抗議の声を発そうとすると、コートの外から聞き覚えのある声が聞こえてきて慌てて口を噤んだ。
「これは、バーディン・ジュニア。お騒がして申し訳ありません」
その言葉に、バーディン・ジュニアと呼ばれた男性は臆する様子もなく言葉を紡いでいく。
「おや、所長自らこちらまでいらっしゃるとはめずらしいですね。どうなさいました?何か、事件でも?」
わざとらしくきらめかせた瞳にも、所長はまるで気付く様子など見せない。それもそのはずだ。
「ええ・・・。実は研究所から小猿が一匹逃げ出しまして、見かけておりませんか?」
「さぁ、あいにくと。どのような容姿のお猿さんなんです?」
「白髪に、褐色の肌をしておりまして・・・」
「まさか・・・!瞳が赤色だとおっしゃるんですか?」
驚きに、東洋系の顔をした青年は目を見開いた。その姿に、所長は大袈裟に体の前で両腕を振っている。
「滅相も無い!条例に触れて私の首が飛んでしまうではありませんか!」
「ははっ。それもそうですね。どうやら、お役に立てないようです。申し訳ありません」
「いいやこちらこそ、お手数をおかけ致しましたな」
所長と呼ばれた男がそう言って踵を返すと、バーディン・ジュニアと呼ばれた男は再び口を開いた。
「ああ、そういえば。父がまた、そちらの研究所を視察に伺いたいと申しておりました」
「おお、そうですか。そうですか。それでは、また。お手間を取らせて申し訳ない」
「いいえ。早くお猿さんが見つかると良いですね」
男性は男たちが去っていくのを見送ると、コートの下に隠していた少年を表に出した。コートの下に隠す時にはあまり気にもとめていなかったが、なるほど、確かに彼の容姿は所長が言う褐色の肌に白い髪の毛だった。
「所長が言っていた小猿ってのは君のことだね?」
「あんた、あの連中の知り合いなのか!?」
少年は立ち上がると、その勢いのまま青年の胸ぐらに掴みかかった。男性はそう言った事に慣れているのか、やんわりと返答する。
「ぼくがというよりは、ぼくの父がだけどね」
「頼む!あいつをあそこから助け出してくれ!」
「おいおい、君はぼくの話を聞いてくれていたかい?」
ぼくには無関係なんだよ、と辟易する青年の気持ちなど、今しがたまでスラム街にいた少年にはてんで理解の及ばない話で合った。
「あいつを、ハンナを助けてくれ!俺のたった一人の兄妹なんだ!」
少年はそこまで早口にまくし立てると、緊張の糸が切れたのか、男性にもたれかかるようにして倒れこんだ。手はまだ彼の胸ぐらを、というよりはコートの端を掴んでいる。
「やれやれ・・・子守りはあまり得意じゃないんだけれどね」
男性はそう呟くと少年を抱き上げ、彼が父と共に暮らしている屋敷ではなく、彼の父が彼に与えた別邸へと向かった。