終曲
雨が降っている。
頭上には墨で塗りつぶしたような、漆黒の雲が覆っていて、日の当たらない下界は陰鬱なほど、闇だった。
どこまでも平坦で、頑丈に続く厚い雲のせいで、空は押し潰されたように低く感じる。夜に等しい闇のせいで、深淵に突き落とされたような感覚を覚える。
人工建造物の犇き合う細い路地の中に、暗黒色に彩られた衣服を身に纏った人々が満ちている。そのせいか、天上も天下も、混沌とした闇の趣を見せている。
狭い道でも、車一台が通るくらいの幅はある。そのために、人が群がる道路の中に、時折一般車が通過しようと進入してくる。人間の群れが邪魔になって車はろくに進めず、人々のほうも、同類や突如現れた車が道の流れを悪くしている。
――ブウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥ――ッ!
一台の車が警笛を鳴らした。途切れることのない、一筋の破壊的な音。不快感を募らせる高質な騒音が、雑踏の中に浸透していく。
しかし、人々の流れは変わらない。道路に溢れた黒い塊は、急ぐことも、引き返すこともなく、ただ同じ方角へ、変わらぬ速度で移動するだけだ。
別段、黒い集団が車の運行を阻害しようとしているわけではない。単純に、人々のほうも身動きが取れないのだ。あまりの人口集中に、人の動きは、自然と遅い歩行者の速度に近づいてしか、動かない。
しかし、車のほうにそんな理解はない。
――ブウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥ――ッ!
車の運転手は、苛立ちを露わにして警笛を鳴らし続ける。
しかし、苛立っているのは、何も身動きの取れない運転手だけではない。
「うるせーぞ、莫迦ヤローっ!」
雑踏の中から、野蛮な声が上がる。
黒装束の人々も、この異常な人口密度に辟易している。雨天のために各々が傘を持ち、そのせいでいっそう窮屈に感じる。
互いに傘がぶつからないように、それぞれの人間が自己の領域を保持する。そのために、道という限られた空間から出ることができず、身動きも限定される。
「うるせーって言ってんだろ、莫迦!」
どんなに怒鳴っても、窓に覆われた車内に届くことはない。警笛と喚き声が、沈黙に服して歩みを続ける人々の鼓膜を激しく震わせて、脳内のストレス指数をいたずらに上げていく。一部で互いの傘が衝突して、集団の神経はさらに張り詰めたものになる。
咲希の背後で車が通り過ぎていく。車が通れる空間が開いたのか、車は遅れを取り戻すように速度を上げて、その勢いで近くにあった水溜りを踏んでいった。
「きゃっ」
跳ね上がった水が、咲希の太腿を濡らした。
「大丈夫?」
咲希の悲鳴を聞いて、隣を歩いていた早沙音が声をかける。
「うん。平気」
足元を見てから咲希は答えたが、靴の中は湿気という感覚を超えるほどの水気に満ちていて、歩くたびに水分を含んだ靴下が、靴の中で不快な音を立てる。
早沙音は嫌悪の眼差しで通り過ぎて行った車を睨んだ。
「何あの車、感じ悪い」
「でもこれだけ人がいれば、気分も悪くなるよ」
咲希の言葉に、早沙音は納得した様子を見せない。
「でも車には歩行者保護の義務があるんだよ。例え歩行者信号が赤だろうと、人が渡っていたら車は黙って待ってなきゃいけないの。これ、常識」
「それは極端過ぎ」
早沙音にそう返しながら、咲希は黒の集団の流れに従う。
咲希の格好も、黒一色だった。八月もあと数日して終わりとなる。夏休みも過ぎて、そろそろ二学期が始まる頃合いだというのに、今咲希が身に付けているのは地味な冬服。臙脂のリボンがないせいで、黒の色がいっそう際立って見える。
九月も間近だと言うのに、夏の熱気は衰える様子を見せていない。雨が降っているとは言え、夏の雨は気温を下げるのに役立たない。湿度はさらなる温度を人体に提供して、人の密集は他人の体温をしつこく感じさせる。
とても衣替えできる時期ではない。
しかし、ここにいる人間がみな黒一色で身を包んでいるのには理由がある。
「何もこんなときにやらなくてもいいのに」
松風高校に通う同じクラスの女子生徒が呟いて、咲希の耳にその声が聞こえた。
「…………」
咲希は一瞬ムッとしたが、そこで言葉を挟むのは周囲の目があって憚られた。そして、何も言えない自分に嫌悪を抱く。
咲希はようやく目的としていた建物に到着した。その建物の前に掲げられた看板を目にして、咲希は改めて今日という日を実感する。
――白百合真奈の葬式。
今日の夕刻から、通夜が始まる。
「…………」
無言でセレモニーホールに向かう咲希に、自動ドアは無音で開いた。
中に入ると、扉の両脇に左右に二人ずつ、合計四人の人間が立っていた。彼らも黒に統一された衣装を身に付けている。
その中の一人から、ビニール袋を渡された。どうやら傘は各自で持っていなければならないらしい。
「えー、何よそれ」
入り口が見えなくなったところで、早沙音が声を上げた。
「傘立てあるじゃないの」
確かに入り口のすぐ近くに傘立てがある。そこには一本の傘も入っていない。
「傘立てあるのに使わせないなんて変じゃない。非効率よ。何のために置いてるの。傘立ては飾りじゃないのよ」
不服そうな早沙音に、咲希は宥めようと声をかける。
「今日は人が多いからじゃない。みんなが一遍に傘置いたら、入りきらなくなるんでしょ」
「でもぉー……」
早沙音は不服の声を上げる。
「誰にも使わせないのはないんじゃない。先に来た人から使わせればいいじゃないの。早い者順なら誰も文句言わないのに。これじゃ何のために傘立てがあるのかわからない」
「親族が使うんだって」
横で林が顔を出してきた。
「だから空けているらしいよ」
早沙音はなおも不平の声を上げる。
「だからって、全部使うわけじゃないでしょ」
「知らないよ」
何か思いついたように、早沙音は手を叩いた。
「じゃあ、余ったら使ってもいいよね」
「……………………たぶんな」
そんな会話を済ませた後で、咲希たちは受付に名前を書きに向かった。
咲希たちの集団は十人ほど。受付を済ましてしばらくその場に留まっていると、松風高校の同じ学年の女子たちも、少し遅れてセレモニーホールの中へ入ってくる。
受付を終えて、彼女たちも咲希たちのところに合流する。
「みんな早いね」
向かってくる女子たちの先頭にいる少女が手を上げる。
「当然!」
早沙音は腰に手を当てて得意そうな顔をする。
「だって気になるじゃない。真奈がどうして死んじゃったのか」
周囲の温度が、一気に下がるのを感じる。女子生徒たちの中央にいる早沙音は、しかし、弾んだ声で話を続ける。
「真奈の死体が見つかったのは、ここから電車で一時間くらい離れた海沿いの町で、海岸のテトラポットに引っかかっていたんだって。おかしくない。何で真奈はそんなところで死んでたの?何かの事件に巻き込まれたんじゃないかしら」
「…………………………………………」
女子たちの中から、言葉が失われていく。冷めた空気の中で、早沙音の活気を得た声が異質に拡散する。
「真奈の服や体中が傷だらけだったんだって。たぶん流されているうちに物に引っかかってできた傷だろうって、みんな言ってるよ。知ってた?水死体って、水を飲むからお腹が蟾蜍みたいに膨らむんだって。気持ち悪そう」
――ゴンッ。
楽しそうに話をしていた早沙音の頭が、一瞬上下した。それに気付いて、俯き気味だった少女たちは一斉に顔を上げる。
「いった~い」
早沙音は頭を擦りながら振り向いた。他の女子生徒にも、彼女の姿が見えた。そこには、林が無言で立っていた。早沙音の頭のすぐ近くにある右手の拳骨が、妙に印象的だ。
早沙音は顔を顰める。
「ちょっと、何するの」
精一杯の不満を込めた文句も、林は動じなかった。
「お前なあ、もう少し空気読めよな」
いつもの男っぽい口調が、今の林の存在を際立てる。
しかし、早沙音は自分の頭を押さえたままなおも林を睨みつける。
「何がよっ」
わかっていないのだ、本気で。
早沙音のお喋りは節度を知らない。時と場所を選ばないし、それを聴く人間の気分も考慮にない。
そんな身勝手な話し方ではいけないと忠告しても、早沙音には理解できない。早沙音ならきっと、「言論の自由だ」とでも言うのだろうか。世の中には空気の読めない人間が、少なからず存在している。
「ここでする話じゃないだろ」
林の忠告を、しかし早沙音は全く意に介さない。
「何言ってるの。今日が絶好の収集日和じゃないっ」
そんな会話をしているうちに、大分時間が経っていたのか、セレモニーホールの入り口から真奈の親族の人たちが入ってきた。咲希は真奈の両親には会ったことがないが、周囲の視線と、傘立てを使用していることから、自ずと推測できた。
「ようやく本命が来たわ!」
真奈の親族が到着したことに気付いた早沙音は、危うく周囲の注目を集めてしまうような大声を上げた。
「私ちょっと行ってくるね」
「待てよっ、早沙音!」
目をキラキラさせながら駆けていく早沙音の後ろを、林が慌てて追いかける。ただでさえ重い空気の、さらに気分が悪くなるような空気の淀みきったところへ、早沙音は迷いなく飛び込んで行った。
早沙音のやりそうなことは、ここにいた女子生徒全員が予想できる。真奈の死に関する詳しい情報を聞き出そうとするに違いない。
女子たちの目元が、明らかに陰りを帯びていく。
「おっす」
どこかから声をかけられて、女子集団は声の主に目を向けた。
「委員長」
咲希もその人物に目を向ける。咲希のクラスで委員長を務めている男子生徒だ。
「委員長も来てたんだ」
「ま、役職上ね」
誰かの問いに、委員長が答える。
その言葉を聞いた瞬間、咲希の中で何かが動いた。心の中に鉛が転がり落ちてきたような、そんな感覚。周囲の女子たちの空気も、僅かに変色を見せたような気がする。
「全く、やってらんねー」
続けて、言葉が流れた。
周囲の空気が、明らかに色を変える。そこに居合わせたほとんどの女子たちが、真っ先に驚いたように口を開ける。ホール内は湿気のせいで蒸し風呂状態なのだが、それに拮抗するように顔色が冷めていく。
委員長の言葉は、しかし、それで終わらなかった。
「なんで俺がこんなところに来なきゃならないわけよ。折角の休みだって言うのに」
「ちょっとぉ」
女子の輪の中から声が上がった。
「そういう言い方ないでしょ」
咎めるように、委員長を睨む。
その声をきっかけに、他の女子たちの冷えた頬が、見る見る朱の色を帯びてくる。
「そうだよ」
「クラスメイトが死んだのよ」
委員長が割って入る。
「でも四ヶ月くらいしか一緒じゃなかったし、それ以前に、俺、白百合とはあんまり話したことなかったし」
「そういう問題じゃないでしょ」
女子の中から不満の声が上がる。
「同じクラスの人が死んで、そんな言い方ないでしょ」
「そうよ」
「あんた、委員長なんだから、少しは人の気持ち考えなさいよ」
「――だったら」
委員長が語気を強めて声を上げる。
「お前らだって、死んだ二年の先輩の話を教室でするなよな」
女子たちの空気が一瞬ざわめく。
「あれは……」
「早沙音が勝手に喋ってただけで」
「あたしたちは、別にしたくてしてたわけじゃ……!」
「してただろ」
委員長の冷たい言葉が女子たちの口元を硬直させる。
「自殺だとか、いじめだとか言って、盛り上がってたじゃないか」
女子たちは、それぞれに目線を落として口を噤む。何か言いたげに唇を動かしている女子生徒もいるが、上手く口が開かない。
「市倉ー」
その言葉はこの集団の中のものではない。
委員長が振り返り、それに合わせて女子たちが声の方向に顔を向けると、咲希たちの担任の教師がこちらに歩いてくるのが見える。
「何っすかー」
「ちょっと来てくれないか?」
委員長は女子たちを一瞥してから、担任へ「はーい」と返して、珍しく整えられたスーツを着用した担任のもとへと向かっていった。
担任と委員長が見えなくなった辺りで、女子の一人が口を開いた。
「何よあいつ」
それをきっかけに、再び不満の声が上がる。
「感じワルー」
「自分が悪いこと言ったのを棚に上げちゃってさぁ」
「ふざけんじゃないわよ」
彼女たちの口から、止め処なく悪態の言葉が溢れ出る。
「………………」
咲希は、そんな少女たちの輪からそっと抜け出して、二階へと続く階段へと向かっていく。葬儀の会場は、この建物の二階。真奈の遺体は、真奈がまだ元気だったときの写真と一緒に、そこに安置されているはずだ。
咲希は、人々の声から離れるようにして、二階の会場へと足を速めた。




