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第四楽章 天使に口づけを

 (せみ)に眠る時間はないらしい。辺りはすっかり暗くなって、雲の隙間からは星の明かりが所々に見えるくらいだ。風はない、真夏の夜。日は沈んだのに、熱せられた空気はまだ灼熱(しゃくねつ)の温度を含んでいる。

 深夜の病院は、廃墟(はいきょ)に似ている。それが町の中にあるのならまだ周囲の明かりがあって違和感はないのだが、街頭のない、人気のない村くらいの大きさの地域で、ぽつんと浮かんだ異様に大きな総合病院、そこから一切の明かりが失われると、不自然な闇がそこに浮かび上がる。

 一般駐車場にも車はほとんどなくなって、それでも数台残っているのは、付き添いの人がいるからだ。

 闇の中で、一つの影が(うごめ)いている。森の中から現れた影は、走るようにして駐車場を突っ切って、そのまま病院の前までやって来る。正面の入り口は閉まっているためか、影は木々が(しげ)壁際(かべぎわ)で立ち止まる。

「…………」

 警戒するように左右を見渡す。

 この夜更(よふ)け、周囲に人の姿はなく、それどころか中に入るための入り口だって存在していない。

 誰もいないことを確認して、影はそのまま頭上を見上げる。空に向かって伸びた壁は、およそ十階近い高さがある。

 ――さわさわさわさわ…………。

 影の髪が、病院の壁に向かって伸びていく。

 四方に広がった髪は、さらにその長さを伸ばして壁に張り付いていく。風にも(なび)かないその髪は、まるで一本一本に生命が宿っているように、自由に動く。

 ――ぴた。

 髪の動きが止まる。広がることも、伸びることもない。微風(びふう)に揺られて木々のざわめきが聞こえるのに、その髪は少しも動いている様子がない。

 ――するするするする…………。

 影が、昇っていく。

 張り付いた髪が壁を()い登るのと一緒に影の体が上へ上へと昇っていく。髪は吸盤(きゅうばん)のようにぴたりと張り付いて、影を壁伝いに運んでいく。

「到着っ」

 影が病院の屋上まで登りきる。病院の屋上、そこには何もなく、ただ月の光だけが辺りを薄く照らしている。

 影はキョロキョロと辺りを見回す。

「さーて、どこかなぁ?」

 影は屋上を歩いた。屋上はかなりの広さがあって、影は端に沿うように歩いていく。じっと下を見つめて、何かを探しているようにも見える。

「えーっと……。どの辺り、って言ってたっけ」

 影はズボンのポケットから一枚の紙切れを取り出した。

「九階の森側」

 書かれた文字をそのまま読んで、影はさらに歩を進める。

「こっちで、いいのかな?」

 影は森に面したほうを歩いている。明かりがないために、木々はいっそう暗く映る。ただ森という闇だけが、目の前に広がっている。

「そもそも、ここ何階建て?」

 しばらく同じ場所をぐるぐると歩き回っていたが、突然影は歩きを止めた。

「やーめた」

 影は手にしていた紙切れを丸めて、ぽいと投げ捨てた。

「う~ん…………」

 影は両手の指先を立てて、それぞれ頭の側面に当てて(うな)る。頭痛のために頭を押さえているようで、実に奇妙な恰好だった。

「こっち!」

 影は指を指して、そちらに向かって急行する。

「よっ」

 影はそのまま屋上から飛び降りた。落差は十階分、そのまま落ちるのかと思ったが、すかさず髪が伸びて壁に引っかかる。

 昇ってきたのと同じ要領で、影は壁伝いを這っていく。

 しばらく移動して、影は壁に張り付いた窓を覗きこんだ。

「はずれ」

 影は再び動き出す。

 そんなことを何回か繰り返しているうちに、影は一つの窓の前でピタリと動きを止める。そして、中をじっと覗き込む。

 窓の中は、病院らしくどこかの病室だった。あまり使われている印象がなく、部屋にある三つのベッドは布団(ふとん)(たた)んだまま、使われた形跡がない。

「……」

 影はさらに部屋の中を注視(ちゅうし)する。

 四つあるベッド、その内一つに人の姿が見える。ベッドの中で、男が一人眠っている。暗くて顔つきまではっきりとはわからないが、ベッドの隣の机に古びた帽子が置いてある。

「見ぃーっけ」

 影がにやりと笑う。

 同時に、髪の形が変わっていく。壁にくっついたものはそのままだが、他の部分がするすると集まっていく。束になった髪は、一本の鋭利な針の形へと変形していく。月明かりに照らされて、髪の針が光ってみる。

「それじゃ……」

 言いかけた瞬間。

 目の前の窓ガラスが砕け散った。



 砂が散っているみたいだった。

 月明かりに照らされて、砕けたガラスの破片がキラキラと輝いている。ただ光を反射しているだけなのに、まるで自ら光を放っているような不思議な光景だった。

「!」

 白百合(しらゆり)咄嗟(とっさ)に顔を両手で守った。それに呼応(こおう)するように、壁に張り付いた髪が白百合の体を後退させる。

 無数の細かいガラスの破片が白百合の体に当たるが、しかし白百合の体には傷一つ付かない。舞ったガラスは、そのまま地面に落ちて草の中に消えていく。

「あっぶないなー。もう」

「やはり来ましたか」

 声がして、白百合は腕を()いた。

 割れたガラス、そこから外に向けて銀色に輝くものが伸びている。月明かりを反射している、巨大な鎌。刃だけで一メートルを超えている。

 部屋の中の明かりは消されていて、広がるのは漆黒の闇。その部屋の中で、赤く光るものが見える。

 鎌を手にしている人の姿が見える。白百合と同じ少女の姿をしている。暗くて色までは判別できないが、どこかの制服を着ているみたいだ。その少女が手にしている不釣合いに巨大な鎌、そして顔全体を白い仮面が覆っている。

 髑髏(どくろ)()したような仮面、髑髏の仮面を顔から少しずらした恰好で被り、その左の眼窩(がんか)にはカーディナルレッドの膜が貼られて、それが光ってみえる。

 カーディナルレッドの膜から覗く瞳は、白百合とは対照的に、冷たく鋭利な色を帯びていて、鎌を持つ少女の雰囲気を印象付ける。

 一条(いちじょう)は白百合を薄く(にら)む。

「白百合」

「あなたは……!」

 白百合は一条から目を()らすと、体を(かが)めて素早く壁を蹴った。

 それだけの動作のはずなのに、白百合の体は壁から一気に三十メートル近く離れて、放物線を描いて地面に着地する。

 着地してすぐに、白百合は病院から背を向けて、そこから離れるように駆けていく。

「逃がしはしません」

 一条は持っていた鎌で割れたガラスを枠から全て落として、窓枠に足を乗せると、そのまま外へと飛び出る。

 落差は病院九階分、普通の人間なら即死だ。しかし一条は地面に降り立っても平気なようで、そのまま白百合の消えた闇の中へと駆けていく。

 その頃の白百合は、森の中を走っていた。

「何で。あの人」

 すぐに森はなくなって、広い空間に出た。白線が引かれて、その中に何台か車が見える。駐車場のようだ。

「……」

 白百合は辺りを見渡して、再び走り出そうと一歩を踏み出す。

 ――ザッ!

「……!」

 一条が、目の前を(ふさ)ぐ。

「逃げるつもりですか?」

 一条が口を開く。

「襲ってきたのは、そちらです」

 白百合は足を止めた。

 目の前を塞ぐ一条、その一条の手にした巨大な鎌の切っ先が白百合へと向いている。鋭利な刃は月明かりを受けて冷たい光を放っている。一条の放つ言葉にも、凍えそうなほど、冷たいものが含まれている。

 一条の仮面の、カーディナルレッドの左の眼窩が闇夜の中で(あや)しく光る。

「その節はどうも」

「それはこっちのセリフ」

 白百合が()ねた子どものような声を出す。一応に怒った表情を作っているが、どこか緊張感がなくなる、幼い顔つき。

「あれ、結構痛かったんだからね。熱かったし。死ぬかと思った」

「死んでいればよかったのに」

 そう、はっきりと言う。

 躊躇(ためら)いも、冗談めいた素振りも見せずに、一条は白百合に向かって、ありのままを口にする。あまりにも普通すぎる口調に、白百合の顔から笑みが引く。

「あのとき死んでいれば――」

 一条は刃を白百合へと向ける。

「今、私に殺されずにすみました」

 鎌の刃は白百合の体の中心、胸部の辺りを狙っている。

 白百合の首筋に冷たいものが走る。(ほお)の上を嫌な汗が這い落ちる。白百合はきつく口元を結ぶ。

「…………偉そうに」

 笑みを、作る。精一杯の強がり。

 幼い顔の白百合には、とても不釣合いな勝気(かちき)の笑みだった。

「あのとき私がやられたのは、宗助(そうすけ)って人のせいだからね。あの人が割り込んでこなかったら、今頃……」

若草(わかくさ)総指揮官を気安く呼ばないでください」

 白百合は、途中で言葉を飲み込む。

 一条の語気に力がこもる。冷たい声が、いっそう低く凍える。無感情が激情にのまれて、周囲の空気が凍りつく。

「あなたにそんな資格はありません」

 一条の冷たい瞳が白百合を睨みつける。殺意のこもった瞳、それが白百合の体を射抜(いぬ)く。全てが凍りつくような、絶対(ぜったい)零度(れいど)の瞳。

「……ふーん」

 一条の瞳に睨まれて、しかし白百合は精一杯の強がりを見せる。

「でも、私とあなたの実力ははっきりしてる」

 一条の瞳に冷静さが戻る。

 白百合は得意そうに続ける。

「あなたの得意技は、私には効かない。一対一じゃ、私のほうが断然……」

 その言葉は、途中で遮られた。

 ――おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!

 火炎が辺りを取り囲む。

「!」

 白百合は驚いて周囲に目を向ける。

 辺りを昼間のような明るさが覆い尽くす。一条と白百合がいる、半径五十メートル近い空間を炎が取り囲む。

「やっと追いついたぁ」

 声が聞こえたのは、ちょうどそのときだった。

 白百合は振り返った。

 少女の姿が、そこにあった。年は白百合と同じ頃、手にした花柄模様の扇子と、何より頭の上に乗った(あか)い仮面が目を()く。

「二人ともぉ、速すぎぃ」

 少女の口が動く。(つや)のある声だった。綺麗で、いつまでも耳に残るような、独特な声。白百合とは対照的な大人びた声、しかしこの場には異様な響きを与える。

「残念ですが…………」

 一条が口を開く。

「今回は一対一ではありません」

 二人に挟まれて、白百合は交互に相手を見る。白百合にとって、この立ち位置はかなり不利だ。一人で二人を相手にしなければならないこともそうだが、挟まれるような形になっては両方を同時に見ることは難しい。

 一条の力は知っているが、もう一人は未知数。迂闊(うかつ)に動ける状態ではない。

「あらぁ……」

 新たに現れた少女が興味深そうに白百合を凝視する。

「あなたぁ」

「知っているのですか?高峰(たかみね)

 その名前に、白百合は反応した。

「…………え?」

 白百合は高峰と呼ばれた少女を凝視する。後ろで一条が構えていることを、一瞬だけ忘れていた。

 高峰は艶のある声で答える。

「今あたしが通っている学校のぉ、クラスメイトですぅ」

 その返事に、白百合はさらに絶句した。

「……高峰、さん?」

 白百合はまじまじと高峰を見つめる。

「本当に、高峰さん?」

 白百合は、自分の記憶に残っている高峰と、いま目の前にいる高峰の姿を比較する。

 普段の高峰のイメージは、しかし良く思い出せない。今まで全く口を利いたことがなく、話しかけても高峰が口を開いたことはなく、高峰から話しかけられることもない。

 よく周りの女子は、高峰のことをお人形さんみたいというけれど、白百合はその理由をよくは知らない。確かに、肌が白くてお人形のようにも見えるかもしれない。

 それ以外に、高峰の特徴は特に思いつかない。

 高峰が大人びた笑みを見せる。余裕の感じられる、優しそうで、恐怖を感じさせる、不思議な笑顔。

「あたしはぁ、あたしぃ。同じクラスでしょうぅ、|真奈<rp>(</rp><rt

text-decoration:none>まな》ちゃん?」

 白百合はビクッと肩を震わせる。

 自分の名前を呼ばれたことに、妙な違和感を覚えた。高峰から今まで自分の名前を呼ばれたことがないからかもしれない。その音は、執拗(しつよう)に白百合の頭の中に張り付いて、まとわりつく。言いようのない不快感がある。

「そっか…………」

 白百合は口を開く。

「高峰さんって、組織の人だったんだ」

 言ってから、白百合は急に腹立たしさを覚える。

 ――ああ、もう。私のバカ。

 白百合は自分を叱咤(しった)する。

 ――どうして私は気配を読むの下手かな。

 MASKS(マスクス)には、普通の人にない気配がある。それは、フラストやトレスト、フルセルフにもあるように、通常の人間以上に心を解放できる人間は、普段からその気配がある。もちろん、フラストなどは心の塊だから感じ取れやすいが、普段のMASKSは仮面を被っているので、そうそうわかるものではない。

 それでも、気付けない自分に、白百合は嫌気(いやけ)が差す。

 ――言われるまで全然気付かないんだもん。…………いや、言われてもわかんないけどさ。

 高峰をじっと見ていると、背後から声が聞こえてきた。

「高峰」

 白百合はハッとして振り返る。

 高峰のことばかり意識していて、もう一人の存在をすっかり失念していた。

「どんな相手だろうと、敵である以上、情けは……」

「わかぁってますよぉ」

 一条の言葉に、高峰は笑って答える。

「情けなんてぇ、かけるわけないじゃないですかぁ。それにぃ、あたしクラスの子たちとぉ、話したことないですものぉ」

 白百合は背筋が寒くなるのを感じる。

 冗談めいた高峰を言葉は、しかし軽い調子だからこそ、危険が伴う。まるでなんとも思っていないような、これから起こることを理解していないような発言に、白百合の身体(からだ)は緊張のせいで強張(こわば)っている。

「そう」

 一条が頷く。

「それなら、よろしい」

 一条は手にした巨大な鎌を構える。

「…………」

 白百合は横目で一条の動きを見る。

 ――す……。

 後ろで高峰が手にした扇子を肩の辺りまで持ち上げる。

「…………」

 白百合は二人に意識を集中させる。

 緊張が、周囲に満ちていく。時間が止まりそうなほど凍った空気がこの空間を埋め尽くしている。

 辺りは昼間のように明るく、周囲からは炎の燃える音が聞こえる。三つの影が、炎火に照らされて揺れ動く。

「では――」

 一条がすっと体勢を低くする。

「行きます」

 一条が走り出す。

「っ!」

 白百合も、一条に向かって突進していく。



 雨宮(あめみや)は河原の上の緑地帯に寝転がっていた。

 見上げる空には無数の星々が輝いて、漆黒の闇を蒼色(あおいろ)に染める。周囲の明かりは弱く、星の輝きは(かえ)って強く、際立って光る。

 雨宮の周囲に、人の姿はない。河原にも、遠くに見える橋の上にも、人影は見受けられない。

 それもそのはず、もうすでに時刻は次の日をまたいでいる。多くの人間は眠りにつき、安息を得ているはずの時間。

 そんな時間に、雨宮は河原で寝転がっている。寝ているわけでもなく、また寝ようとしているわけでもない。

「……」

 雨宮は一度体を起こす。

 暗闇の中で、じっと川の流れを見ていたが、諦めたようにまた頭を草の上に乗せる。

「眠れないな」

 雨宮は()め息を()いた。

 最近は、ずっとこんな調子だ。

 普段は早く寝てしまう雨宮だが、ホテル暮らしをするようになってからは、なかなか寝付けないでいる。

 いつも押入れの中で眠っているので、ベッドの上に横になると無性(むしょう)に違和感を覚える。普通は、柔らかいベッドのほうが寝心地がいいはずなのだが、固い板になれているとその柔らかさは反って不自然になる。

 加えて、若草の話を聞いてからはいっそう目が()えてしまい、じっとしていられない。部屋の中では()えられず、(しま)には外にまで出てしまうほどだ。最初のうちこそ、ホテルの外に出ることに抵抗を感じていたが、もう慣れた動作だ。

 それに、夜の外が嫌いな雨宮だったが、街灯のほとんどない、田舎の漆黒の闇は、逆に雨宮に恐怖を与えない。

 そして、この場所は、川のせせらぎが聞こえるこの場所は、雨宮にとっては居心地がいい。

 川の流れる音が、心地よいからではない。川の流れる音を聞いていると、余計なことを考えなくて済むからだ。

 ここにいると、部屋の中にいると頭をよぎるようなことが、少しは減ってくる。それでも、全く考えずに済むわけではない。

「フルセルフ、か」

 (つぶや)いたときだった。

 上から足音が聞こえた。

 緑地帯の上を歩いている、足を踏みしめる音。それがこちらへと近づいてくる。

「何をしているんですか?」

 声が降ってきて、雨宮は顔を上げた。

 暗闇の中に人影が立っている。が、その人物は上下ともに黒い衣服で身を包んでいるので、顔だけが白く浮かんで見える。

「こんなところで」

 人影は雨宮のすぐ隣に腰を下ろして、雨宮はようやくその人物が誰なのかを理解した。

 雨宮は体を起こして答えた。

「どうしても、眠れなくて」

「眠れなくて?」

 クロが訊き返す。

 雨宮はもう一度答える。

「ここにいます」

 クロは納得したように微笑む。

「そうですか」

 雨宮はクロのほうを向いて訊いた。

「クロさんも、眠れないんですか?」

 クロは、さも可笑しそうに笑った。

「そういうわけではありません。ただ、誰かがいるような気がしたので来てみたら…………」

 すっと、クロが雨宮に向けて指を指す。

「君がいたんです」

 指を下ろして、クロがもう一度微笑む。

 雨宮は妙な居心地の悪さを覚えて、顔を下に向ける。何か会話をしようと思い、雨宮は必死で言葉を探す。

「クロさんは、どうしてここにいるんですか?」

 クロはなんでもないように答える。

「この辺りが私とアオの寝場所なんです」

 その答えに、雨宮は目を丸くする。

「ここで、寝てるんですか?毎日?」

 クロは当然そうに答える。

「そうです。こっちに来てからは、ずっとここで寝ています。それ以外の場所でも、大体は野宿です」

 雨宮は返事に困った。

 やや迷ってから、雨宮は思い切って訊いてみた。

「なんで、野宿なんですか?」

 MASKSは組織から、フラストと戦うのに必要なものはもちろん、普段の生活に必要なものまで支給される。生活費や住居の手配まで組織が全部行ってくれる。

 雨宮にも現在暮らす家があるように、クロにだって生活住居が手配されているはずだ。それにクロはホリック、MASKSの中でも上位の実力を持つ上級生なのだから、雨宮よりもずっといい生活ができるはずだ。

 そのクロが、野宿。

「どちらかというと…………」

 クロはしばらく考えてから口を開く。

「私には住む場所を必要とする理由がわかりません」

 雨宮はますます困った。

 そんな雨宮の様子を見て、クロは微笑む。

「私とアオは長いこと野宿の生活をしていたので、家があることに逆に違和感を覚えます」

 そう言われて、雨宮は反応に困った。

 何か触れてはいけない部分だったのかもしれない。

 MASKSには、他人には言えない部分がある。MASKSの多くは、精神的な問題を抱えて、普通の生活ができない人たちを組織が集めて、心を解放できるように調整したものらしい。雨宮も、組織にいたころからなんとなくそんな雰囲気を感じ取っていた。

 ――だって、僕だって。

 雨宮はそれ以上の言葉が思い浮かばず、黙り込んだ。

「ところで――」

 雨宮が黙っていると、今度はクロのほうから話しかけてくる。

「どうして眠れないんですか?」

 訊かれて、雨宮はハッとする。同時に、何と答えて言いか迷う。

 クロはいつもの優しい笑みを浮かべる。

「当てましょうか」

 クロは、最初から答えを持っていたように、すぐに答える。

「若草さんを心配しているんですか」

「え、ええーと……」

 雨宮は言葉を(にご)す。

「それもありますけど…………」

「違いますか?」

 クロはしばらく考えてから、再び雨宮に向き直る。

「もしかして、榊原(さかきばら)さんのことですか?」

「…………」

 雨宮は答えなかった。

 クロはそれで納得したようだ。

「では、気にしている、のほうが正しいですか。そうなると、新しく見つかったフルセルフのことも、気にしていますか?」

 雨宮は、小さく頷く。

「いつ戦闘になってもおかしくない、と言われてから、少しだけ」

「君は矛盾(むじゅん)しています」

 クロは困ったように眉を顰める。

 その仕草(しぐさ)は、わがままな子どもに言い聞かす母親のようにも見える。

「最初に私と会ったときは、戦いたくないと言いました。でも、君はいつも戦いのことを気にしている。いつ戦いになるかわからないと言いつつ、いつでも戦いになることを望んでいるみたいです」

 雨宮は表情を強張らせる。

「それは……!」

 違います、と言う前にクロがそれを遮る。

「構いません」

 クロの顔には別段責めるような感じはなく、清々(すがすが)しい印象さえ与える。

「私たちは矛盾している。そういう存在なんですよ、MASKS(わたしたち)は」

 言ってから、クロはふっと笑う。

「これは一条さんのセリフですけれど」

 雨宮は少し意外な気がした。

 ――あの一条さんが……?

 一条とは何度か顔を合わせているが、雨宮から見て一条は、何でも完璧にこなそうとしているように見える。完璧以外を認めない、といった感じ。その一条が、自分のことを矛盾した存在だと言う。

「だから――」

 言いかけて、クロは途中で言葉を止める。

 いきなり言葉をやめたので、雨宮は不思議に思う。

「……」

 クロはズボンのポケットの中から、服と同じく黒い携帯電話を取り出した。

「若草さんからメールです」

 開いた画面を見て、クロが言った。

 雨宮は(わず)かに緊張する。

「…………フルセルフが現れたようです」

「!」

 雨宮は驚く。

 若草からフルセルフの存在が確認されたと言われたのが、つい先日のこと、それが再び現れた。

「場所は……!」

 雨宮は反射的に叫んでいた。

「特に書いてありませんけど、若草さんが直接送ってきたのですから、おそらく病院でしょう。普通は一条さん辺りが報告しますから、一条さんは戦闘中でしょうか」

 雨宮は話の途中ですでに立ち上がりかけていた。

「早く、行かな……!」

 いと、と言うつもりだったが、その言葉は途中で言い切れなかった。

 ――どすっ!

 雨宮は顔面から地面に倒れた。

 何かが雨宮の足に引っかかったようだ。

「………………」

 雨宮は顔を上げて、そのままの姿勢で振り返った。

 柔和(にゅうわ)なクロの顔がそこにあって、けれどクロの左手は雨宮の右足をしっかりと(つか)んでいる。

「どこへ、行くんですか?」

 優しい問いかけに、雨宮は慌てたように答える。

「病院、ですよ。早く行かないと。クロさんも!」

「何故ですか?」

「何故って……」

 雨宮は言葉を失った。

 敵が現れたというメールがきた、だから雨宮はそこに向かおうとしているのに、クロからその理由を求められる。雨宮にとって、充分な理由のつもりだったのだが、クロはそれでは納得しないらしい。

 雨宮が言葉を探している間に、クロのほうから口を開く。

「若草さんからのメールには、フルセルフが現れた、としか書いてありません」

「…………」

「出動命令は、出ていません」

「…………でも!」

 クロは掴んだ足を引き寄せる。

「いいですか」

 クロの顔が、雨宮のすぐ近くまで迫る。

「向こうには一条さんの他に、君のお友達、ええーと名前は、高峰さんでしたか、その二人がいます。本来、MASKSは単独行動をとり、一人でフラストを相手にしなければいけない」

「でも……!」

「君の言おうとしていることは大体想像がつきます。二人では不安があるのでしょう、フルセルフ相手には。私たちは一度フルセルフ、広末(ひろすえ)くんと戦っていますから」

 その通りだった。雨宮はクロの話を黙って聞いた。

「でも、それでも君が助けに行く理由にはなりません。MASKSのトップ、若草さんからその指示が出ていません」

 雨宮は言葉を失った。

「チームを組んで敵を倒さなければいけないなら、そのチームだけでなんとかしなければいけません。無理ならば撤退(てったい)か、救援を求めるなりします。その連絡があるまで、私たちは動けません。自分の持ち場を離れてはいけない、組織で習ったでしょう?」

 雨宮は(うつむ)いてしまう。

 そう、教わった。

 MASKSの基本は単独行動、一人で戦うこと。(ゆえ)に、応援が来ることは期待できず、応援に向かうことは(すす)められない。

 相手の力が自分の戦闘能力を超えている場合に限り、近くを管轄(かんかつ)しているものに応援を要請できる。相手がトレストと判断されれば、ホリックに救援を求めることもできる。

「…………でも」

 雨宮は口を開く。

「何かあってからでは、遅いと思います。クロさんも言っていたでしょう、この間、僕たちがフルセルフに勝てたのは、相性(あいしょう)が良かった、って」

「確かに、言いました」

「もしも今回の相手が、一条さんや高峰さんには相性の悪い相手だったら?」

「しかし君が行っても役に立たないこともあります。それで君までやられれば、被害は増えるだけです。――その場合は?」

 クロがじっと雨宮を見つめる。

 雨宮はすぐに言葉が浮かんでこない。

 自分はホリックではない。MASKSの中でも、そんなに実力があるわけでもない。手助けに行っても、役に立たないかもしれない。

 それでも――。

「それでも、行かないよりはいいです」

 答えた。

 雨宮の答えを聞いて、それでもクロはまだ雨宮を見ている。足を掴む腕の力も、少しも緩めてくれない。

 十秒ほどして、クロはふっと口元を和らげる。

「わかりました」

 クロは手を放した。

「行きたければ、どうぞお好きにしてください。念のため言っておきますが、私は行きません。命令がありませんから」

 クロはその場に腰を下ろした。川のほうを向いてしまって、もう雨宮のほうには視線も向けない。

 しばらくして状況がわかると、雨宮は立ち上がって、クロに向かって頭を下げる。

「ありがとうございます」

 雨宮は脇に置いたショルダーバックを掴んで、坂道を昇っていく。上の遊歩道に着くと、雨宮は顔を右手で覆い、すぐに払う。

 直後、雨宮の姿はそこから消えた。途端に辺りは静かになって、川のせせらぎが心地よいリズムを(きざ)む。

 クロは視線を落とす。

「感謝されてしまいました」

 その視線の先に、一匹の黒猫がいた。

「ニャー」

 猫は、一声鳴いた。

「それはそうですけど」

 クロは困ったような表情を作る。

 猫がもう一度鳴いた。

 クロは微笑を浮かべて黒猫を見る。

「雨宮くんも、なかなかやりますよ?」

 クロの言葉を聞いて、黒猫は再び鳴いた。今までのものより長く、今までより低い声で、少しだけ重い雰囲気が(ただよ)う。

「それを言うなら――」

 クロはアオの頭を()でて、川のほうへと目を向ける。

「――私たちのほうが、壊れています」



 背後で火炎がうねる。

「熱っ」

 白百合の髪が背中を守るように広がる。

 白百合は地面を蹴って、前へと逃げる。

 ――ヒュン!

 前から、白銀の鎌の軌道が見える。

「くっ……!」

 首筋を、刃が狙う。

 白百合の残像を、一条の鎌が()ぐ。

「…………」

 一条の被った仮面、左の眼窩に白い点が浮かぶ。

 一条は頭上を見上げる。地上から十メートル以上の高さに、白百合の姿があった。咄嗟に、一条の攻撃を(かわ)すために、空へと跳んだようだ。

「ふー。危な」

「逃がさないわよぉ」

 高峰は手にした扇子を一振りした。

 ――おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!

 火柱が上がる。それが白百合の周りを一気に取り囲む。

「!」

 白百合の姿が、炎の中に消える。

「そおおぉぉらあ!」

 高峰は扇子を(あお)ぐ。

 火柱はさらに勢いを増して、大きくなる。炎は(うず)となって、辺りを明るく照らす。

 ――ぼおおぉぉあっ!

 火柱が、中央ほどで霧散する。大きく伸びた髪が、巨大な鉤爪(かぎづめ)のような形で現れて、その真ん中に白百合の姿が見える。

「このォ!」

 白百合は地上を見下ろす。周囲を囲むように炎が(おお)い尽くし、その中に高峰の姿は見えるが、一条の姿が見当たらない。

 ――ぞわっ!

 白百合は咄嗟に背後を振り返る。

 闇の中に、闇と同じ色をしたローブを(まと)った死神がいる。その死神の肩に、一条が乗っている。

 ――しゅ!

 一条が肉薄(にくはく)する。

「……っ!」

 白百合は空中で身を(よじ)り、それと同時に白百合の髪が一条の刃を受ける。

 ――ギギギギギギギギッ!

 金属と金属がぶつかり合う音。

 一条の鎌と白百合の髪、二つは拮抗(きっこう)して、直後、両者は離れる。二人は地面の上に着地し、互いから視線を外さない。

「高峰」

 一条は近くにいる高峰に、目も向けずに口を開く。

「あなたの役目はあくまで私の補助で……」

「わかぁってますよぉ」

 一条の言葉に、高峰は笑って答える。

「あたしの役目はぁ、一条さんの補助ぉ。直接攻撃するのはなぁしぃ、ってことでしょうぅ。ちゃぁんとわかぁってますよぉ、自分のことぐらいぃ」

 高峰は自分を卑下(ひげ)するような調子で言った。

「あたしの力はぁ、そんなに強くありませぇんよぉ。よっぽぉどぉ弱ぁいやつじゃぁない限りぃ、一撃じゃぁ倒せないんだからぁ。あたしにはぁ、あなたの補助ぐらぁいしかできませんよぉ」

 一条は僅かに背後を振り返って高峰を見る。

 大人びた女性の、ねっとりとした笑みが、一条の瞳に映る。言葉の調子とは裏腹に、どこか自信のありそうな、それでいて不満の色など全く感じられない、独特な表情がそこにある。なんとなく、感情の裏が見えてこない。

「わかっているなら、いいです」

 一条は再び視線を前へと戻す。

 落下の衝撃をツインテールが受けてくれたのか、白百合の髪は背丈以上の長さまで伸びて地面に触れている。白百合は顔を起こして、睨むように一条のほうへと視線を向ける。白百合の顔には不満を(あら)わにした表情が張り付いている。

「……ずるい」

 白百合が口を開く。

「ずるいずるいずるいずるい!二人掛りなんて、ずるいよーォ!せこいよーォ!卑怯だよーォ!自分たちが正しいと思うんなら、一対一で、正々堂々と戦うもんじゃないのォー!」

 訴える白百合。

 子どもっぽい言い方で、緊張感が薄れていく。加えて、自分が不利なことに対する言い訳のような感じもするが、しかし白百合の言うこともわかるような気がする。

「勘違いをしていませんか?」

 しかし、一条の言葉は冷たい。

「これは、勝負ではなく…………」

 その冷めた目で、言葉で、一条は返す。

「殺し合いです」

 殺意のこもった瞳で、一条は白百合を見据える。カーディナルレッドに染まった右目が、さらにその印象を強める。

 白百合は(くや)しそうに表情を歪める。その顔は、勝負に負けたときの子どものそれと同じ色をしている。

「……ああ、そう」

 不意に、その表情が(くず)れる。

 肩を落とし、顔を(しず)めて、白百合の口から溜め息が漏れる。何かを諦めたような、何かを悟ったような、そんな様子。今までの騒がしい白百合の態度からは一変して、どこか暗い印象さえ与える。

 白百合が上目遣(うわめづか)いに、目を上げる。

「それなら、いいよ」

 そんな白百合の様子には構うことなく、一条は鎌を構える。

「あなたを、殺す」

 直後、一条は白百合に向かって駆けていく。両者の間に空いていたかなりの距離が、あっという間に詰まってなくなる。

 一条は鎌を振り上げる。

 ――ギンッ!

 一条の攻撃を、白百合のツインテールが防いで受ける。

 しかし、白百合自身は受ける気がないのか、体は衝撃のまま吹き飛ばされて、地上から十メートル近くまで浮かび上がる。

 一条は背後に向かって叫んだ。

「高峰!逃がさないで」

「わかぁぁって、ますよぉぉおおおおッ!」

 高峰が手にした扇子で煽ぐ。

 ――おおおお……。

 白百合が飛ばされた方向、炎の壁が突然膨らんだ。

 白百合が炎に衝突する直前、炎の(かたまり)が破裂した。

 ――おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!

 辺りがいっそう明るくなる。

 膨張した炎は白百合を飲み込んで、そのまま白百合の姿は炎の中に見えなくなる。炎は(こぶ)のように膨らんで、火の粉を散らしている。

 高峰がもう一度扇子を煽ぐ。

 ――おおぉぉぉぉああ!

 炎の塊が、再び爆発する。

 周囲に炎を散らして、火炎の筋が(いく)つも降ってくる。

 その中から、一際大きな炎の塊が落ちてくる。

「…………」

 一条は炎を凝視する。

 炎の中に、何か黒いものが見える。それを()き尽くすように、炎が尾を引いている。

 ――どさっ。

 それが地面に落下した。

「…………」

 中で燃えているのは、人の形をしているように見える。胴があって、手と足があって、頭があって。頭からは体全体を包み込めるほどの長い髪の毛が、無秩序に伸びている。炎をまとって、全てが黒く焦げついている。

 その人間は、受身をとらなかった。動いた様子も見られない。あれだけの炎を受けて、しかもこの落差、まず助からないと考えるのが普通だろう。

 一条は背後に訊いた。

「やったのですか?」

「まぁさかぁ」

 高峰の艶のある声が返ってきた。

「あたしの炎はぁ、そこまで強くありませんよぉ。もしも真奈ちゃんが心の解放をやめてたらぁ、話は別ですけどぉ」

 一条は視線を正面に戻す。

 炎の塊は次第に勢いを失って、中から黒いものが現れる。()げたように真っ黒な塊、そこから(けむり)が上がっている。

 ――ジャリ。

 黒い塊が、動いた。

 両手を地面につけて、()せていた体を持ち上げる。長く伸びた髪が邪魔をして、顔までははっきりと見えない。四つん這いのような格好になって、それから足をついて立ち上がる。

 一条は構えの姿勢をとる。

「まだ動けるようですね」

「…………」

 返事はない。

 一条の被った仮面の左の眼窩が、カーディナルレッドから真紅へと、その色を緩やかに変えていく。

「殺……」

 言いかけた、瞬間。

 白百合が顔を上げた。

 ――ぞわ。

 空気が変わった。

 夜色の空気の上に、別の感触が広がっていく。重い、鎖のような空気が周囲に溶け込んで、空気そのものに質量が加わる。

「!」

 一条の体に重圧がのしかかる。

 一条は視線の先の白百合を見た。最初よりも明らかに伸びた髪は、すでに地面にまで達して、戦闘中でも乱れなかった髪は今ではパーマをかけたようにうねりが(ひど)い。

 白百合の体は、全体が夜に溶け込むように黒くなっている。それが炎を浴びて焦げたものではないことに、一条はようやく気が付いた。髪から肌までは闇の色に染まっているのに、服だけは汚れた形跡すら見当たらない。

 顔を覆い隠す髪の毛の隙間から、一条は白百合の目を垣間見た。それはもう、人の目をしていない。

 (へび)の、瞳だ。金色に輝く、爬虫類(はちゅうるい)の目。その二つの獣の瞳が、一条と高峰をじっと見つめている。

 ――パキ。

 白百合の背後で音がする。何かが割れる音。一条は、その姿を見た。

 闇色のローブを纏った一つの影、巨大な鎌を手にした死神。死神は白百合の背後で構えたまま、動く気配がない。

 そして。

 ――パリン。

 空気に圧縮されるように、死神の体はガラスのように砕け散る。

「馬鹿な……!私の殺意(しにがみ)が」

 一条は驚愕(きょうがく)に目を見張る。

 ――白百合は、見ていないはずなのに。

 白百合は、正面に立つ一条と高峰のほうを向いて、背後にいた死神には目もくれない。

 ――何か、様子がおかしい。

 そう、思った瞬間。

 ――どさ。

 背後で物音がした。

 一条は振り返ろうとして。

「どうか」

 しましたか、と言いかけて、しかしそれ以上の言葉は一条の口から出てこなかった。

 ――なに?

 一条は振り返ろうとして、しかし首が数ミリメートル動いたところで静止している。

 ――体が、動かない?

「あれぇぇぇぇ?」

 白百合の声が聞こえる。

「なんで、あなたは動けるのぉぉ?」

 一条は視線を白百合へと向ける。

「ねえ、なんでぇぇぇぇ?」

 さっきまでと変わらない、幼い声に、子どもじみた言い方。しかし変わり果てた姿から(はっ)せられるその声は、何も変わらないその声に、強烈な違和感を覚える。

 白百合はすっと一条に向けて指を指す。

「普通は、高峰さんみたいになるんだよぉ」

 白百合が指しているのは一条の後ろ、一条は振り向こうとする。見えない鎖かなにかで拘束(こうそく)されているのか、思うように体が動かない。少しずつ、少しずつ動かして、ようやく背後の高峰を見た。

 視線の先に高峰はなく、目線を落とすと舗装(ほそう)されたコンクリートの上に高峰が倒れている。高峰の体は硬直したように動かなくて、開いた口からはか細い息が漏れて、開いた目は動揺したように(せわ)しなく動き回る。

 不意に、呼吸の音が弱くなる。激しく動き回っていた目もピタリと止まって、その瞳から生気が()せていく。

 ――高峰!

 一条の目に、生気の抜けた、人形のような姿をした高峰の姿が映る。

「あなたも気付いてると思うけど――」

 白百合の声が聞こえて、一条は正面に視線を戻す。

「私の能力は、相手を縛ること」

 白百合は言葉を続ける。

「最初のときの発動条件は、相手を見ること。でもこの能力は弱すぎて、心を解放できない普通の人や、あなたのように心の一部から生成したものぐらいしか縛れない。フラストや、あなたたちMASKSにはちっとも通じない」

 でも、と言って白百合は笑みを浮かべる。

「心と体を一致させた今のわたしなら――」

 一条がピクリと反応する。

 ――心と体を、一致させる…………?

 白百合は言葉を続ける。

「私の近くにいる人、皆を縛れる。その人を見なくてもね」

 白百合は得意そうに語る。

「縛る力は、あなたも感じてわかるように、さっきよりもずっと強い」

 ねえ、と白百合は一条に訊く。

「メドゥーサ、って、知ってる?」

 一条の口は、すでにうまく回らなくなっている。それでもその名前は聞いたことがあるし、どんなものかも知っている。

「メドゥーサ、ギリシャ神話に出てくる怪物で、髪の毛は全部が蛇でできている女神様。見たものを石にすることができる」

 白百合は背後で散乱している死神の破片を掴んだ。

「私が石にするのは、体じゃなくて心」

 だから、と言って白百合は手にした破片を握り(つぶ)した。

「あなたの死神さんも、石にできる。フラストもそうだし、あなたたちも。今の高峰さんは、心は石になっているけど、体は石になってない。だからまだ生きているけど、何も見えていないし、何も聞こえない。今の高峰さんは何にも感じることができない。心が石になっているから」

 でも、と言って、白百合は不思議そうに一条を見る。

「どうしてあなたは、まだ立っていられるのかなぁ?」

 口元に自分の人差し指を当てる。

「心も、完全に石になっているわけじゃなさそうだし、なんでかなぁ?」

 調べるように、一条の体を上から下まで見回す。

「わかった!」

 突然、白百合はぱちんと両手を叩く。顔色は黒ずんでいるが、その表情は素晴らしい思い付きをした子どものように輝いていた。

 白百合は口を開く。

「あなた、もしかして大切な人がいるの?」

 白百合の好意(こうい)の目が一条を見つめる。

 不意にそんなことを言われて、一条の思考はうまく回らない。その言葉の意味すら、今の一条には理解できていなかった。

 白百合は、さらに続ける。

「あなたの大切な人は、誰?」

 訊かれて、一条の思考が回り出す。

 ――大切な、人?

 頭の中に、その言葉が染み込んでいく。思考回路に広がって、無意識の中でその意味が拡散していく。

 ――ありがとう。

 途端に、一条の頭に一人の姿が思い浮かぶ。暗い部屋に、誰かといる。そんなとき、自分は泣いていて、顔を(そむ)けている。だから、相手の顔は(ゆが)んで見えない。でも、言葉だけは、その人の声だけは、何故かはっきりと聞こえている。

 顔を上げようとして、でもそれができない記憶の自分。見せられないし、見てはいけないと思った、あのとき。そのときの自分を見せたら、そのとき相手を見てしまったら、(すが)りついてしまいそうだから、また縋ってしまいそうだから。

 その瞬間、二つの景色が重なって映る。

 同じ姿、同じ状況、暗い場所、自分は泣いていて、けれどそのときの自分はその人にしがみついていた。胸の奥に仕舞いこんだ、最初で最後の自分。

 ハッとして、直後、一条は奥歯を強く()んだ。

「……ふざ、け…………ない、で………………」

 (かす)かだったが、その声が聞こえて、白百合は軽く驚いた。

「まだ(しゃべ)れるんだ」

 楽しげに笑う白百合を見て、一条は激情にかられる。

 ――殺してやる。

 一条は頭の中に浮かび上がった情景を必死で塗り潰していく。それを消し去るように、頭の中で言葉を反芻(はんすう)させる。

 ――私には、いらない。

 感情はいらない。

 戦いに集中しろ。

 感性を()()ませ。

 ――私が、やるべきことは。

 ただ一つの。

 純粋な。

 殺意を。

 ――殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる…………!



「ぶっ殺してやらああああああッ!」

 銃声が(とどろ)いた。

 ――ドドドドドドドドドドドドドドドドッ!

 白百合の周囲を銃弾の雨が降る。

「!」

 白百合は驚いて、後退する。

 ――誰?

 顔を両手で守りながら、白百合は腕の隙間で前を注視する。

 ――私のメドゥーサの領域に入って来たのは?

 白百合と、一条たちの間、一条の一メートルほど前に人影が見える。男の人だということは、白百合にもわかった。声の調子や立ち振る舞いがそんな印象を与える。

 その男は、どちらかというと少年と言ったほうが適切だろう。少年は、しかしすぐ近くで立っている一条よりも背が低い。一条はそこまで背は高くない。少年の身長が、その年代の男子よりも圧倒的に低かった。

 右手には、少年の体躯(たいく)とは不釣合いな無骨(ぶこつ)なサブマシンガンが握られている。そして最も印象的なのが、顔の右側面に引っかかっている、右目が異様に膨らんで、鮮やかな彩色(さいしき)(ほどこ)された仮面だ。

「……雨………………宮…………」

 吐き出すように発せられた一条の言葉に、白百合は驚愕した。

「雨宮、くん?」

 雨宮は両手でサブマシンガンを構える。

「テメーが新手のフルセルフ、ってわけか」

 雨宮は迷わず引き金に指をかける。

「ここでくたばりやがれええええェェエエエエエエ!」

 銃口から勢い良く銃弾が放たれる。

 ――ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ!

 その景色が、白百合には他人事のように見えていた。銃弾が飛んでくる様子は瞳に映っている。自分に向かって来ていることを頭の片隅(かたすみ)で理解していたが、実感が()かない。

 衝撃が、体中を駆け巡る。一度に何発もの銃弾が体に衝突して、その反動で体がいくらか後退する。

 白百合は、受けようとはしなかった。手はだらりと垂れたまま、髪の毛も反応しない。飛んでくる銃弾をそのまま身体(からだ)に浴びて、白百合の体は地面の上に倒れた。

 ――ドッ!

 雨宮は引き金から指を引いた。

「なんだよ?」

 不服そうに相手を睨む。

()けもしねーのかよ」

 倒れた相手を見下ろして、雨宮は顔を歪める。

「反撃の一つでもしてきたらどーだ。あぁ?」

 大声で相手に怒声を浴びせるが、倒れた相手からは何の返答もこない。雨宮の表情がさらに不服そうに歪んでいく。

 白百合は雨宮の言葉には答えず、体を起こそうと緩慢(かんまん)な動作で動き始める。

「雨宮くん?」

 雨宮の指が微かに動いた。

 白百合は立ち上がりながら、もう一度呟いた。

「ねえ、雨宮くんなの?」

 雨宮は答えなかった。

 白百合は立ち上がり、雨宮の目を見てもう一度訊いた。

「本当に、雨宮くん?」

 怪訝(けげん)そうな目をして、雨宮は白百合を見返す。

「テメー、誰だ?」

 雨宮の詰問(きつもん)に、白百合は努めて明るく応じる。

「私だよ。あ、こんな姿じゃわかんないか」

 闇色の肌に、同じく漆黒の伸び放題の髪、その隙間から見えるのは金色に光る蛇の瞳。白百合は微笑んで、答える。

「クラスメイトの、白百合真奈」

 雨宮は目を見開く。

 まじまじと、目の前にいる白百合の姿を凝視して、無意識のうちに雨宮の口から言葉が漏れた。

「白百合……?」

 その様子を見て、白百合は笑みを浮かべる。何かを悟ったような、何かを諦めたような、悲しい笑顔。

「そっか……」

 ――転校してきた高峰さんが、組織の人なら。

 白百合は呟く。

「そうだよね」

 ――雨宮くんだって。

 雨宮はギリッと奥歯を噛み締める。

「何一人で納得してんだ」

 銃口を白百合に向ける。

 雨宮は引き金を引いた。

 ――ドンッ!

 銃弾が一発、銃口から弾き出される。弾丸は真っ直ぐ白百合に向かっていって、しかし弾丸は擦れ擦れのところで白百合の脇を通り過ぎる。その間、白百合は一歩も動かず、防ごうとも避けようともしなかった。

「……!」

 雨宮は目を見張った。

 白百合が避けようとしなかったこともあるが、何より自分が敵に銃弾を当てられなかったことに驚愕している。引き金から指が外れていることに、雨宮はまだ気付いてない。無意識のうちに、雨宮は引き金を引くのを止めていた。

 白百合は身動き一つしないで、雨宮を凝視する。

 ――雨宮くんも、組織の人。

 白百合は理解した。

 ――(いつき)さんの、壁。

 それが何を意味するのか。

「……それなら」

 ならば、自分がしなければいけないことは。

 ――樹さんを邪魔する人は、みんな……!

 白百合の瞳がすうーっと細くなる。

 野生の目をしている。肉食動物が獲物を見つけたときの、標的を狩るときの、冷酷(れいこく)な瞳、残酷(ざんこく)な目付き。命を、相手を(かて)として認識したときの、非情の意志。

「…………なんで」

 雨宮の口から言葉が漏れる。

「……なんで、お前なんだよ」

 その言葉を、白百合も耳にする。

「なんでまた、こうなるんだよ」

 白百合の瞳が大きく開く。

 ――雨宮くん。

 野生の色が失せていく。鋭利な目つきは()せたように消えていき、白百合の肩からも力が抜けていく。

 突然、白百合は雨宮に背を向けて、そのまま勢い良く駆け出した。

「あ」

 全速力で走っていく白百合は、あっという間に病院の駐車場を出て、道を抜けて、夜の闇の中に姿を消してしまった。

「………………」

 その後ろ姿を、雨宮は呆然(ぼうぜん)と見つめていた。

 硬直したように、雨宮は静止して、目的を失ったように、雨宮はなにもしない。その場に漆黒の静寂(せいじゃく)が広がっていく。

「なにを…………して、いるんですか……」

 声が聞こえて、雨宮は振り向いた。

 体を動かそうとして、けれど体を動かすことができない、そんな状態の一条が目に入る。喋る言葉も、途切れ途切れになっている。

「早く……追いな、さい。逃が、しては…………」

 雨宮の感覚がようやく戻ってくる。

「言われなくても」

 すっと、雨宮は右手を地面と平行に上げる。

 ――ドォン!

 銃口から弾丸が一発、放たれて、銃声が雨宮の体を(しん)から震わせる。

「わかってるよォ!」

 雨宮はさっと正面へと向き直り、すぐさま白百合の後を追って駆け出した。雨宮の姿はあっという間に闇に溶けて、一条の視界から消える。

 ――まだ、動けませんか。

 一条は体を動かそうとして、感じ取る。

 ――どうして私は、大事なところで……。

 一条の手に力が入る。鎌を握る手が震えて、かたかたと音を立てる。一条のつけた仮面、髑髏の左の眼窩を覆っていたカーディナルレッド、その色が、次第に輝きを失っていく。

 一方、雨宮のほうは、 病院から大分離れて、田舎道をぐんぐんと進んでいく。最初は畑が道の両端に並んでいたが、次第に荒地が続くようになって、剥き出しの地面の上には何も見えない。建造物の数も、だんだんと少なくなって、間隔が大きくなっていく。

 建物が突然なくなって、広がるのは夜の空。白百合が橋の上に飛び移るのを見て、雨宮もその後を追う。

 そこで、ようやく雨宮はこの場所を理解した。

 空と同じように、漆黒の空間。天も地も、等しく闇の色を()びている。その上に浮かぶ船の(たぐい)が見えなかったら、この時間では判別がつかなかっただろう。

 一面に広がる、海原(うなばら)

「……」

 雨宮は足元に目を向ける。暗がりのせいで距離感がつかめないが、橋の立地条件からして、相当な高さがある。

 雨宮は視線を正面へと戻す。

 白百合はさらに先、崖のように聳え立つ場所まで行って、そこで立ち止まっている。雨宮は速度を上げる。

「……」

 白百合は、自分の背後を見下ろしていた。

 広がるのは、色のない漆黒の海。空と違うのは、星がないこと。永遠と広がる無は、見るものにこの世の深淵(しんえん)を覗かせる。

 気配を感じて、白百合は顔を前へと向ける。

 追いついた雨宮が、白百合の目の前、十メートルの手前で立ち止まる。

「…………」

「…………」

 二人は、互いに視線を交わす。ときが止まったような静寂が辺りを包む。その中を、海の音だけが流れ込んでは消えていく。

「残念だが……」

 最初に口を開いたのは、雨宮だった。

「もう行き止まりだぜ」

 雨宮は不敵な笑みを浮かべる。

 それを見返す一条の顔は、その姿とは不釣合いなほど、静かだった。

 ――カチャ。

 雨宮は銃口を白百合に向ける。

「ねえ。雨宮くん」

 白百合の言葉を、銃声が遮った。

 無数の銃弾が、サブマシンガンから乱射される。

 白百合は、黙ってその光景を見ていた。周囲で弾丸が飛び交う、しかし、白百合は表情一つ変化しない。

「ちっ……」

 雨宮は引き金から指を引いた。

 白百合に向かって放った弾丸、しかし乱射されたそれは一発も、白百合には命中しなかった。

「雨宮くんにだけは、教えてあげる。私の能力の、本当の意味」

 白百合の澄んだ声が、海の音と混じって聞こえてくる。

「私は、何でも独り占めにしたいと思ってる」

 白百合は言葉を続ける。

「世界中に溢れている、いろんなもの。誰かの持っている素敵なものや、誰かの持っているすごい才能や魅力(みりょく)まで。何でも欲しいと思っている。何でも、自分のものにしたいと思っている。それが、私」

 白百合の表情は、微笑んでいるようでも、悲しんでいるようでもある、どこか抽象的で、不思議な雰囲気を帯びている。

「――その私の思い、私の心が、今の私の能力」

 榊原さんが言うには、と前置きしてから、白百合は言葉を続ける。

「フルセルフの能力は、個々の人間の心が反映するんだって。その人の思っていることや感じていること。性格とか、過去の経験なんかが、その能力を決定する、って言ってた」

 白百合は作ったような朗らかな声を出す。

「私もね、樹さんの暗示をもらってから初めて気が付いたの。私が、自分が、こんなにもみんなの持っているものを欲しがっているなんて。正直、最初はビックリしたんだ」

 でも、と白百合は悲しそうに呟いた。

「私にも、縛れないものがあるの」

 それは、と言いかけて、白百合は言葉を切った。

 もどかしいほどの沈黙、言うのを躊躇っているような白百合の態度、しかし、決心したのか、白百合は口を開いた。

「――私の、大切な人」

 そう、言った。

 たったそれだけの言葉。言ってしまえば、それだけでしかない。それが、しかし、雨宮の鼓膜を大きく揺さぶる。自分の鼓動が波打っている音が、妙にリアルに響いている。

「私の大切な人だけは。私が一番欲しいと思っている人だけは、縛れない。――私の能力って、無意識なんだよね」

 軽い調子で言っているが、雨宮は白百合のように笑うことはできない。

「自分では意識していなくて、勝手に誰かを縛っちゃう。だから能力っていうのは、少し変かな。自分では気付いていないところで誰かを縛ってる。気付かないうちに、誰かを独り占めしたいと思っている」

「だから…………」

 雨宮が割ってはいる。

「だからなんだって……!」

「だからっ」

 白百合が先に叫んだ。

 白百合の言葉に邪魔されて、雨宮は咄嗟に押し黙ってしまう。

 白百合は、言葉を続ける。

「だから、私は雨宮くんを、縛れない」

 答える。

「私にとって、雨宮くんは大切な人だから」

 それだけのことだ。難しいことは何もない。白百合の力、フルセルフとしての能力、それは相手を縛ること。全てを自分のものにしたいという独占欲が、無意識のうちに誰かを束縛している。

 しかし、その能力の唯一の欠点、それは白百合にとって最も大切なもの、大切な人、大切な存在だけは、縛ることができないこと。

「関係ねーな」

 雨宮が口を開く。

「俺には関係ねェ。俺には、大切な人なんて必要ない。俺が必要としているのは――」

 雨宮はサブマシンガンの銃口を白百合に向ける。

「失うことだ」

 はっきりとした声で、言う。

「敵は全部、消す。俺の障害になる奴、全部を、この手で消し飛ばしてやる。俺の望みは、それだけだ」

 引き金を、引いた。

 ――ドォン!

 銃声が響き渡る。

 同時に、白百合の体が揺れる。

「!」

 目を見開いたのは、雨宮だった。

 白百合は目を閉じて、その動きに身を任せる。

 ――ありがとう、雨宮くん。

 白百合の体が、宙に浮かぶ。その下は、漆黒の闇が広がっている。

 ――やっぱり、雨宮くんは、優しいね。

 雨宮が叫び声を上げる。

「白百合さん!」

 その瞬間、雨宮の顔から、仮面が消えた。

 音もなく、跡形もなく、仮面は闇に溶け込むように、そこから消えた。

 雨宮は咄嗟に走り出していた。

 ――間に合って……!

 二人の距離は、およそ十メートル。雨宮は右手で掴んでいたサブマシンガンを、無意識のうちに離していた。ゴツゴツとした路上に、金属の塊が音を立てる。

 ――こんな距離。仮面を外していたら、すぐなのに。

 ようやく雨宮が(がけ)(そで)辿(たど)り着いたとき、白百合の体は重力に従って、闇へ闇へと落ちていく。

 雨宮が叫び声を上げた。

 白百合は静かに目を開ける。

 ――私のために、泣いてくれる。

 暗闇に邪魔されて、雨宮の表情は霞んでいたが、白百合の瞳には妙にはっきりと映し出されていた。

 ――私なんかのために。

 白百合は、病院の駐車場でのことを思い出す。あのとき、雨宮を目にして、白百合が考えたことは、雨宮を殺すことだった。

 榊原のため。榊原もまた、白百合にとっては大切な人だった。自分が縛れない存在。榊原樹のために、白百合は化物(フルセルフ)になることを承諾(しょうだく)した。榊原樹のために、白百合は彼の仲間になることを決意した。榊原樹のために、彼を邪魔する存在を消そうと決心した。

 ――それなのに。

 雨宮も、大切な人だ。学校にいて、一番白百合が欲しいと想った存在。白百合にとっては、ただ一緒にいられればよかった。ただ、近くにいられればよかった。ただ、雨宮を見ていられればよかった。

 雨宮と一緒にいたかった。雨宮を見ていたかった。雨宮のことをもっと知りたかった。そんな、大切な存在。

 ――殺そうとしたのに。

 戦いの最中に見た、雨宮の涙。

 お互いが、お互いの立場での障壁、つまりは敵だ。戦い合い、殺し合うべき立場にいる。そんな中で、雨宮は泣いてくれた。自分と戦うことに、悲しんでくれた。

 ――私、最低だよ。

 自分は殺そうとしたのに。目的のために、自分の身勝手で殺そうとしたのに。自分の心に、嘘を吐いてまで。

 ――だから、ありがとう。

 闇へと落ちていく中で、しかし白百合の顔は穏やかだった。恐れも、(おび)えもない。とても穏やかで、静かな表情をしている。

 ――でも、泣かないで。

 雨宮の顔は、目の前に映っている雨宮は、いつもの雨宮だった。学校にいるときと同じで、小さくて、白百合より少しだけ小さい、まだ幼さが漂う、まだ成長を知らない無垢(むく)な顔。

 彼の瞳に、涙が溢れていることを除いては。

 ――私は、笑っている顔が好きだから。

 白百合は思った。

 ――笑っている雨宮くんが、好きだから。

 白百合は願った。

 ――だから、笑って。

 白百合は笑っている雨宮の顔を思い出そうとして、でも浮かんでくる顔はなにもなかった。いま見えている、目の前に映る雨宮の表情だけが、白百合の視界を一杯にしている。

 ――ようやく、素直になれたのかな。

 すっと、白百合の体から闇が引いていく。

 肌を、髪さえも覆い尽くしていた闇が水に溶けるように薄くなって、跡形もなく消えていく。人間らしい肌に、白百合らしい髪、そして白百合の瞳が、白百合に戻る。

 ――私は、雨宮くんのことが…………。

 雨宮の見る前で、白百合の姿が消滅した。

 そこに広がるのは、漆黒の闇を(たた)えた巨大な海と、崖を侵食していく小さな波。潮騒(しおさい)の中に、雨宮は一つの音を耳にした。

 ――ダイスキ。


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