第三楽章 地獄の天使
目の前がぼやけている。
霞んでいて、何も見えない。
白い靄のようなもので、辺りが覆われている。
どこかはわからない。何もなくて、何も見えない。自分以外のどんな気配もない。ただ白いだけの、場所。
ひどく懐かしい気持ちになるが、特にいい記憶があるわけでもない。むしろ、その逆だ。とても冷たくて、とても淋しいところ。
それでも、自分にとって、ここが居場所だとわかる。何もなくて、何も見えない、世界から見放されたような、隔絶された場所。心から落ちつける、凍りつきそうなほど寒いところ。
「……」
彼はそこにいる。
ずっと前からそこにいたのかもしれないし、ついさっきここに迷い込んだのかもしれない。どれくらいここにいるのかもわからないし、いつからここにいるのかもわからない。
何もなくて、周囲はただ白いだけ、何も見えなくて、何か目印になるものもない。自分という存在が見えなければ、自分がここにいるのかもわからなくなる、そんな場所。気が狂いそうなほど静かで、心が虚しくなるほど何もない。
そこが、とても落ち着ける。
「……」
白い世界の中で、風が吹いた気がした。
彼の頬に風が当たる感触はない。白い靄も、特に変わった様子もなく、曖昧で一定に漂っている。
彼の目には、靄が少しだけ動いたように映ったが、それも気のせいかもしれない。
――りん……………………。
鈴の音が聴こえた。
遥か遠くから聞こえたのかもしれない。すぐ近くの耳元で聞こえたのかもしれない。ただ、その音が聴こえたということだけがはっきりしている、不思議な感覚。
「……」
彼は靄の中を見た。
遠くか、近くで、何かが動いている。黒い影が、靄の中で蠢いているように見える。限りなく白に近い黒い影が、靄の中に滲んでいる。
「……」
彼の視界は、ただその光景を映している。
最初はほんの数人だけ、それが見る間に増えていって、彼の視界の枠を超えて、当たり全体がぼんやりと黒ずんでいく。一面の雪景色に小雨が降り始めたように、白かった靄が汚れていく。
「……」
彼の周りが汚れていくのを、彼は気付いていた。
この世界が、自分の周りが、次第に汚れていって、近くで、遠くで、それが広がっていく。それは限りなく白い黒のまま、ただ世界を汚していく。
――りん……………………。
鈴の音が聴こえる。
――あいつらを止めよう。
彼は首を振った。
彼は何も言わず、何もせず、ただその場所に、同じ場所に、立ち尽くすだけで動かない。そして、ただ静かだった。
――嫌だって、わからせないと。
「わからないよ」
始めて彼が呟いた。
――りん……………………。
鈴の音が響く。
高く。低く。遠く。近く。
――いやだ。
「我慢すればいい」
――あっちいって。
「こちらから離れればいい」
――来ないで。
「気にすることはない」
――やめて。
「何も感じなければいい」
――見ないで。
「誰も見ていない」
――喋らないで。
「自分には関係ない」
――笑わないで。
「耳を塞げばいい」
――近づかないで。
「逃げればいい」
――触らないで。
「払えばいい」
――睨まないで。
「笑えばいい」
――怒らないで。
「謝ればいい」
――気分を悪くしないで。
「優しくすればいい」
――関わらないで。
「遠くにいればいい」
――そばにいないで。
「距離を置けばいい」
――そこにいないで。
「出て行けばいい」
――悪く言わないで。
「何もしなければいい」
――許して。
「お願いすればいい」
――ごめんなさい。
「その場しのぎの誠意を」
――すみません。
「上辺だけの真摯を」
――申し訳ありません。
「口先だけの善意を」
――謝るから。
「所詮言葉だけ」
――土下座もするから。
「空っぽの態度」
――だから許して。
「許されなくてもいい」
――だからほうっておいて。
「無視してくれれば」
鈴の音が響く。
――りん……………………。
辺りが靄に包まれる。
白く、ただ白いだけの場所。何もない、空虚な世界。
見えるものは白い靄だけで、その先には何も見えない。澄んだ鈴の音だけが遠くに消えていき、何も聞こえない。
彼は口を閉じる。静寂が広がって、しかし彼は安堵しない。穏やかになった無色の空間、彼はただ黙って、そこにいる。
全てが失われた世界、彼はそこで、世界に溶け込むように黙するだけ。世界に倣って、ただ沈黙に従う。
――りん……………………。
鈴の音が聞こえる。澄んだ音が、遠くから、近くから。彼は耳を澄まして、その音に聞き入る。
「君は他人に合わせるのが好きだね」
彼は振り向いた。
彼とは違う、人の声。
音もなく、気配もなく、彼の背後に人影が立つ。靄の中から滲み出したように姿が希薄で、しかしその存在は彼の網膜にはっきりと像を結ぶ。
彼の口から自然と言葉が漏れる。
「榊原……」
「酷く不自然だ」
影は言葉を続ける。
「不自然極まりない。君は、宗助、他人に合わせようとしているが、その実、確固たる自我を持っている。あれをしたい、これをしたい、その望みがずば抜けて高い。頑固、と言ってもいいだろう」
「……」
彼は何も言わない。
影は溜め息を吐くように、肩を落とす。
「その矛盾が、君の力であることは僕も認めよう。兵器としては申し分のないくらい、完璧な欠陥だ。しかし、今の僕らはトップなんだ。使われる側から使う側へとなったんだ。それなのに、君は昔のまま、何も変わってはいない。他人との協調を望んで、自分の望みを後回しにする。そのくせ、自分の望みが実現に向かわないと納得しない。目標を示さない指導者には、誰もついていかない。意味のない優しさには、何の意義もない。それは傲慢で、ただの無責任と等しい」
僕はね、宗助、と影は続ける。
「この機会を存分に活用しようと思う。折角、トップの身分になったんだ。トップはトップとなって、初めてトップの意義が生まれる。これを活かさなければ、意味はない。活かさなきゃいけないんだ。そりゃあ、僕だって自分自身の欠陥性を認めてはいるがね。だけどね、今は真面目に話をすると、君だって人は完璧には到達しえないと言っていただろう。それを僕なりに考えて、だから僕も君の言うように、完璧に向かえるようにやるつもりさ」
だから、と言って、影は彼に手を差し伸べる。
「僕のところへ来ないか?」
「…………」
彼は、咄嗟に答えられなかった。
じっと、その差し出された腕を見て、靄に滲んだ影のような腕を見て、ただ黙っている。
手を出さなければと、彼は思う。しかし手を出してはいけないと、彼は思う。
影の言うことを信じるのならば、影の意味に応えなければいけないならば、彼は手を差し出さなければと、そう思う。
――でも。
それは同時に、それ以外の何かを失うということだ。
どちらかを、選ばなければいけない。行くべきか、踏み止まるべきか。
「それは……」
ようやく出てきた言葉も後が続かず、すぐに顔を伏せる。五秒くらいの時間を置いて、ようやく彼は口を開く。
「君の言うこともわかる。けど、それは」
彼が顔を上げる。と、影は遠くのほうへと消えかけていた。
「!」
白い靄に飲み込まれて、影は薄く、そして遠くに、小さくて、すぐにでも消えてしまいそうだった。腕を差し出したまま、影は次第にその存在を希薄にしていく。
――行くな!
彼は慌てて、右手を伸ばした。
――りん……………………。
一筋の鈴の音が、空白の世界を埋める。
若草は目を開いた。
視界がぼやけていたが、次第に情景がはっきりとしてくる。目の前には暗い天井が広がっていて、外から漏れる光が室内を仄蒼く照らしている。
「ここは……」
「気がつかれましたか?」
自分以外の声が聞こえて、若草は体を持ち上げようとした。
途端に、体全体を鈍い痛みが覆う。
「っ!」
一瞬顔を顰めたが、若草は痛みを堪えて上半身を起こした。
感覚が急速に覚醒してくる。周囲を見ると、どうやら病室のようだ。四人部屋の窓側のベッドに寝かされているらしい。各ベッドを区切る仕切りが開いていたので、部屋全体を見渡すことができる。
他の三つのベッドはどれも仕切りがされてなく、どれも空だった。布団は綺麗に畳まれて、シーツにも皺がなく、使われた形跡がない。どうやらこの部屋を使っているのは若草だけらしい。
呆然と辺りを見ていると、再び声がかけられる。
「まだ起きられないほうがよろしいですよ」
声のするほうへと顔を向けると、ベッドの隣で一条が座っている。背凭れのない簡素な四本足の椅子、足を揃えて膝の上に両手を乗せたまま、一条はじっと座っている。
「…………やあ、一条くん」
若草は笑顔を向ける。優しく、穏やかで、他者への労りがこもった、どことなく疲労した様子が見られる、いつもの若草の表情。
「…………」
一条は答えない。ただじっと黙って、いつもと同じように、冷ややかな視線で若草を見下ろしている。
「悪いんだけれど、状況を説明してくれないかな?」
「…………」
一条はなおも答えない。
若草は苦笑を浮かべる。
「……榊原と会ったことまでは覚えているんだけれど」
「榊原樹と接触して」
一条は姿勢を崩さず、説明を始める。
「私が榊原と戦闘中、榊原樹の仲間と思われる存在が出現。名は白百合、榊原はそれをフルセルフと呼称していました。そこまでの記憶は?」
「覚えているよ。所々曖昧だけれど」
「私と白百合が交戦している途中、若草総指揮官が対フラスト用捕縛型スタンガンを使用し、白百合の動きを封鎖。直後、若草総指揮官と榊原の戦闘になり、若草総指揮官はフラッシュバックを使用。その記憶は?」
簡素な説明をして、そこで再び若草に訊く。
若草は苦笑を浮かべる。
「残念ながら、覚えていないね」
穏やかに言ったつもりだったが、若草を見る一条の目は冷たい。
若草は慌てて言葉を探す。
「……電気ショックを使ったところまでは、少しだけ記憶に残っているんだ。榊原以外のもう一人の彼女の動きを、どうにかして止めたことはギリギリ覚えているんだけど」
「フラッシュバックを使用した記憶は?」
一条は再び訊ねる。
静かで、鋭い言葉。追い詰めるように、逃げ道を奪うように。そこだけを問いただすように。それ以外の答えは認めないように。
「……………………」
若草は、すぐには答えない。一条の冷気を含んだ瞳に睨みつけられて、上手く思考が回らない。
一条は、身動き一つしないで、座ったまま若草を静かに見下ろす。二人の目線は同じくらい、あるいは実際には少しだけ一条のほうが下なのだが、一条の雰囲気は刺々しく、咄嗟の誤魔化しも認めてはくれない。
若草の強張った唇が僅かに震える。
「…………全く、覚えていない」
若草は、ゆっくりと答えた。
自分ではありのままを言ったつもりなのだが、しかし一条はそれさえ受け付けないように、冷たい瞳で返すだけだった。
若草は困ったように苦笑を浮かべる。
「そうか。私はあれを使ったのか」
とぼけた調子で言ったつもりだったが、一条はそれにさえ反応を示してはくれない。
流石に若草も困り果てて、話題を変えることにした。
「ともあれ、榊原と会えて、これで一つ収穫があったわけだ」
「…………」
一条の反応は、なおもない。
「ここには、組織に所属する医師がいるのかな?」
「…………」
返答が得られず、若草は仕方なく話を続けるしかない。
「まあ、いいさ。僕らの実態が公にならなければ。そうそう、榊原と接触したことで色々と持ってきたものを消費してしまったから、組織に連絡して届けてもらわないと。トレストにも有用な放電式スタンガンと、えーと……。あと、フラッシュバックもか。それを組織のほうに……」
「若草総指揮官」
若草の言葉を遮って、一条が口を開く。
若草は振り向いて一条を見た。射抜くような冷たい瞳が、眼鏡の奥から覗いている。感情を殺した、鋭利な瞳。
「ん?」
若草が一条のほうを見ると、一条は不意に視線を落とす。部屋に明かりがないせいで、一条の表情は影になってよく見えない。
一条はすっと顔を上げる。
「どうして、フラッシュバックを使ったんですか?」
その声に、若草は普段の一条とは異なるものを感じて、ハッとする。
膝の上で揃えられた手は固く握られて微かに震えている。肩も僅かに震えて、一条の頬が普段よりも上気していることにようやく気が付いた。
「使う必要は…………」
固くなった口元を、必死に動かしている様子が見ていてわかる。
「なかったはずです。私が危機に瀕したのは、私の失態です。それを、若草さんが助ける必要なんて、なかった」
「一条くん」
言いかけて、若草はそれ以上の言葉が思いつかない。
若草を正面から見据える一条の目には涙が溜まり、赤く腫れた瞳で真っ直ぐに若草を見る姿は、気丈で、痛ましい。
「あれには……」
そこで言葉が止まる。
その先が、うまくでてこない。
口にしてしまうのを躊躇うような、言ってしまったら何かを失ってしまうような、そんな逡巡。
震える口元で、一条は言葉を続ける。
「フラッシュバックには、副作用があるんでしょう?」
若草は答えない。
沈黙を嫌うように、一条は言葉を続ける。
「フラッシュバック。年月とともに弱体化する仮面を一時的に甦らせる。けれど、その代価として発動中近辺の記憶障害、加えて忘れかけたトラウマを一気に呼び起こして、精神的苦痛を伴う」
若草は一条から目を逸らす。
組織にはMASKS以外がフラストと接触した場合に対処できるような武器を開発しているところがある。放電式スタンガンやフラッシュバックを作っているのが、そこだ。
MASKSは、何年かすると急激にその能力が衰える。仮面を外すことができなくなる。その原因は組織のほうでも未だにわかっていないが、最も有力な意見は慣れだとされている。
MASKSは二つの異なる心の側面を、戦闘の際と普段のときとで入れ替える、それが仮面を外すことであり、それによってフラストと戦えるだけの力を得る。
しかし、何回も心の入れ替えを行っているうちに、二つの心の境界が薄くなってしまうらしいと、組織内の研究グループは考えている。仮面が薄くなる、それによって一時期はMASKSの力は上昇していく。ホリックのレベルがその頃だとされている。
その時期を過ぎると、しかし今度は急激に能力が落ちていき、以降仮面を外すことができなくなる。
フラッシュバックは、仮面を外せなくなった、または元々仮面を外すことのできない人間に、仮面を生成する薬品で、体内に摂取してから数時間は強制的に仮面が形成される。
しかし、フラッシュバックは過去の記憶を甦らせることで効果を発揮させるため、使用者に強い精神的苦痛を与える。フラッシュバックはまだまだ実験段階で、使用してすぐに発狂して精神を崩壊させた被験者もいる。
そんな代物を使えるのは、総指揮官クラスの若草ぐらいしかいない。
「もう、使わないでください」
一条の口が動く。
若草はゆっくりと視線を一条へと戻す。一条は俯いて、そのせいで瞼から溢れた雫が固く結ばれた手の上に零れる。
一条の懇願は、なおも続く。
「もう、使わないでください。約束したはずです。私があなたを守るから。今度は、私が若草さんを守るから。だから、フラッシュバックはもう、使わないでって」
「……すまない」
ようやく、若草の口から出た言葉は、それだけだった。
「すまない」
「謝らないでください」
若草の言葉を、一条は遮る。
若草は言うべき言葉が見つからず、そのまま黙ってしまう。
「あなたは、いつも謝ってばかり」
何かを言いかけて、しかし一条はそれ以上の言葉が続かない。嗚咽に遮られて、一条の口からは言葉になっていない声が漏れるばかりだ。
若草は数秒だけ逡巡して、すっと一条の頭に手を伸ばす。
「ありがとう」
その言葉は、言った若草本人でさえ不自然に感じる、ぎこちない声。
若草は、人に対して感謝の言葉を言うのが苦手だ。そもそも慣れていない。もちろん、他人に対して感謝の感情を持つことはあるが、それに先行して自分の誤りを詫びることがほとんどだ。
一条の言う通り、謝ることのほうが、若草にとっては自然な態度、自然な言葉だった。つい先にでてしまう、謝罪の言葉。
感謝の言葉も、言えないわけではないのだが、どうも不自然になってしまう。
「……!」
一条は驚いたように目を見開く。
「…………」
すぐに目元が歪んで、瞼の間から雫が溢れ出る。
手に力が入って、腕全体が小刻みに震える。
「……」
何かを言いかけて、動きかけた体を、しかし一条は必死に堪えてその場に留める。一条にできたことは、座ったまま俯いて、精一杯に目を閉じることだけだった。
「……」
そんな一条の様子を、若草は静かに眺める。
――ああ、やっぱり私は…………。
若草は一条の頭を優しく撫でる。
「……ありがとう、一条くん」
その言葉が、薄暗い病室の中で虚しく響く。
町のデパートの中、たくさんの人に覆われて、地下一階を丸ごと使っているはずの空間が、窮屈そうに圧迫されている。
雨宮がいるのはそのデパートの地下一階、食品売り場。世間では夏休みの期間中だが、お昼頃のせいもあってか、店内には人が溢れて、賑わっているというよりは狭苦しい印象がある。
雨宮はプラスチック製の買い物籠を提げて、店内を歩いていた。
雨宮のいるのはレジに近い飲み物やヨーグルト、ゼリーなどが置いてあるコーナー。こういう場所では、入り口からレジに向かって一周するような形で人の波が発生するが、雨宮はまさにその流れの終着地まで来ている。
「なー、なー」
横から声が聞こえて、雨宮は振り返った。
左手には腰くらいの高さしかない大きなボックスがあって、中にはヨーグルト、ゼリーなんかがごちゃごちゃに詰まっている。
右手には人の背丈を軽く超える棚が並び、冷気と白色光を放つ各段には、牛乳やジュースの類が整然と並んでいる。
声がしたのは、右手後方。ちょうど棚と棚の切れ目になった間の部分。そこから倉橋は顔を出して、ひらひらと手を振っている。
「何?」
「こっちこっち」
手招きして、倉橋は影に消える。
雨宮は両手で買い物籠を持ったまま、倉橋のあとを小走りについていく。二メートルくらいの高さの棚の間を、倉橋は蛇行するように進んでいく。来た道を忘れないように、雨宮は途中で頭上に掲げられた案内板を確認しながら、遅れないように倉橋のあとをついていく。
倉橋はお菓子が左右に並ぶ場所まで来て足を緩める。何かを探すようにキョロキョロと左右に並ぶ棚に視線を向けて、そしてそれを手に持った。
「これなんてどーよ」
差し出された物。
『激辛せんべい』
「…………」
雨宮は、咄嗟に言葉が出なかった。
「んじゃ決定な」
倉橋は子どもが火を噴いている絵が描かれたその商品を、雨宮の持っている籠へと放り込んだ。
倉橋はこくりと頷く。
「よし。ほな次は」
「倉橋くん!」
雨宮は咄嗟に大声を出す。幸いにして、周囲に人の姿はなかったので、雨宮の声は辺りに拡散して消えていく。
「ん?」
倉橋は三歩進んだところで立ち止まり、振り返る。
「なんや?」
「…………倉橋くん」
雨宮の顔に困惑の表情が浮かぶ。
ちらりと籠の中に入った品物に目を向ける。一枚が掌くらいの大きさの円形焼きせんべい、それが十枚入り。何の変哲もない醤油せんべいにも見えるが、透明な袋越しに見てもわかるほど鮮やかな赤色をしていて、雨宮は醤油せんべいが普通赤色ではないことを知っている。
唐辛子入りという文字と、親切にも唐辛子の絵まで描かれた部分をなるべく見ないようにして、雨宮は籠からせんべいの袋を取り出して、元の場所へと置いた。
倉橋が声を上げる。
「おい、海斗!何すんねんっ」
「これはダメだよ」
雨宮は両手で籠を掴んで倉橋を見る。
「お見舞いに行くのに、これはマズイよ」
「マズイわけあるかい」
倉橋は棚から同じ商品を掴んで雨宮の持っている籠の中に入れようとする、直前に雨宮が籠を引っ込める。
倉橋は眉に皺を寄せる。
「メッチャ美味いで。騙されたと思うて、海斗も食うてみー」
「……………………遠慮する」
目の前十センチメートルの距離に差し出された激辛せんべいから、雨宮は必死で目を逸らす。
雨宮の態度が気に入らないのか、倉橋はさらに掴んだ袋を突き出す。雨宮の顔に、焼けるように真っ赤な着色料に包まれたせんべい十枚を入れた袋が当たる。
「ほれっ」
「……!」
雨宮は一瞬目を見開いて、すぐに後ずさる。よほど慌てたのか、倉橋と三メートルほど距離をあける。
「ちょっと、止めてよ!」
「なんね、大袈裟な」
倉橋は嘆息する。
雨宮は手にした籠を倉橋から隠すように後ろ手に持つ。
「どっちにしたって、お見舞いには持って行けないからね」
倉橋がわざとらしく溜め息を吐く。
「はあぁ……」
つまらなそうな顔をして、倉橋はせんべいの袋を棚に戻す。
「ったく海斗は。ユーモアのわからんやっちゃな」
「……………………別に、笑いは求めてないよ」
倉橋を置いて、どこか別の場所へ行こうとしかけたところで、雨宮はふと足を止めて倉橋へと向きを変える。
「そういえば、高峰さんは?」
不意に別の話になって、倉橋はきょとんとした表情をする。
「さっきからちっとも見かけないんだけど。どこに行ったんだろう」
倉橋は仰々しく腕を組んだ。
「う~ん、灯か?」
しばらく唸っていた倉橋は、思い出したように腕組を解いて、右腕を立てて人差し指を伸ばす。
「灯なら多分、あっちにおるんちゃう」
倉橋は適当な方向に指を指したが、雨宮にはどのコーナーの場所を言っているのかさっぱりわからない。
「なんや来たときからずーっと同じ場所におるで。真剣そうなんで声はかけてないけどな」
雨宮はここに来て一回解散してから、一度も高峰の姿を見ていないので、倉橋の言っている場所がよくわからない。そもそも雨宮はここへ来るのが初めてだし、高峰の行きたそうな場所もさっぱり検討がつかないので、全く未知の領域だ。
「それ、どこの場所?」
「だからあっちや」
再び指を指す倉橋。
雨宮は素直に口を開く。
「…………わかんないよ、それじゃ」
「だからあっちやて、あっち」
しばらく同じ問答を繰り返して、最終的に雨宮はそれ以上の倉橋との相手を諦めることにした。
「こっちで、いいのかな?」
倉橋の指し示した方角に、雨宮はひたすら歩を進める。
倉橋の指した方向は、律儀に整列された棚とは斜めに交わっていたので、雨宮はジグザグに向かうしかなかった。
雨宮は別の列に入るたびに上の案内板を確認して、それから高峰がいないかよくよくその場所を見渡す。
この種の食品売り場では、外周の広々とした空間に一般の食事用の材料、野菜や肉、魚なんかが並んでいるので、内側の棚が並んだ列はおまけのようなものだと雨宮は思っていたのだが、それでも割りと人の姿があって、中には端から端まで歩いて回らなければ確認できないこともあった。
「どこにいるんだろう」
十列目を超えた辺りで、流石に雨宮も飽きてきたのか、僅かに疲労の色が浮かぶ。途中から、お菓子や飲料系コーナーを通り過ぎて、洗剤や食器関連の棚が増えてきて、いくらなんでもこんな場所にはいないだろうと、雨宮も早足で通り過ぎる。
「こっちって、何があるんだろう」
食品コーナーから離れて、雨宮の顔に不安の色が浮かんでくる。調理器具、ペット用品、調味料、奥に行けば行くほどそんなものしか見当たらない。
「あっ……」
頭上の案内板の数字も五番を切って、もう大分端のほうまで来てしまって、雨宮もその列をほとんど素通りしかけた。人の姿も、この辺になるとかなり少なくなって、流し目で見ても高峰らしき人影がいないこともすぐにわかってきた。
雨宮は通り過ぎた一つ前の列に戻る。
「いた」
雨宮のいるところから五メートルくらい入った場所に、高峰はいた。他に人の姿は見当たらず、どうやら高峰一人きりでいるらしい。
「高峰さん」
名前を呼んでから近づいたのだが、しかし高峰は何の反応も示さない。
雨宮は高峰のすぐ傍まで行って立ち止まる。
「お見舞いに持って行くもの、決まった?」
口にしてから、雨宮は周囲の独特な雰囲気に気がついた。
鮮やかな色でカラーリングされた缶、深い茶色の着色がされたビンはカルピスのビンと同じ形をしている。
しかし、周囲に並んだ缶やビンは、雨宮が今までに目にしたことのない種類のものばかりだった。
「…………」
高峰は目の前の棚に、すっと手を伸ばす。一抱えはある大きなビン、茶色っぽい着色がされていて、雨宮は最初カルピスかと想像したが、普通のカルピスがそんな大きなビンに入っているはずがない。
ビンの下部、膨らんだ部分にラベルが貼ってあるらしく、高峰がこちらを向くとそれが何なのかすぐにわかった。
『鬼殺し』
厳しい字体で書かれたその文字を見て、雨宮の背筋がひんやりと冷たくなる。
そのラベルをまじまじと見た後で、雨宮は頭上を見上げた。ここがどういう場所なのか、まだ確認していなかった。
『アルコール類』
お酒売り場だ。
「…………」
雨宮は再度正面へと目を向ける。
高峰は視線を落として、じっとラベルを見つめている。高峰が持っているそれは、端から見てもわかるくらい不釣合いで、大きい。
「…………あの、……高峰さん」
それだけ言うのに、雨宮は大分体力を消耗した気がする。
「あの、その。…………一応、お見舞いだからさ。それは、まずいんじゃないかな」
高峰がすっと顔を上げる。
感情のこもっていない大きな瞳が雨宮を見つめる。白い肌の上にぽっかりと浮かんだ大きな瞳、高峰の目に見られて雨宮の体は金縛りにあったように硬直する。
「うっ……」
何かを言わなければと思う。このままでは有無を言わさず、その禍々しいビンを籠の中に押し込めかねない。
「…………」
一瞬だけでも目を背けたいと思ったが、高峰の瞳の呪縛はそれさえ許してはくれない。体はどんどん冷めていくのに、頭の中は回り過ぎた歯車のように熱くなっている。
「…………ええっと……」
雨宮の口が僅かに動いた。それを機に、雨宮は何とか口を動かす。
「お見舞いに行くんだからさ。ほら、こういうときは果物なんかがいいと思うよ。バナナとか、リンゴとか、今の季節だとブドウのほうがいいかな」
言い切った。
今の雨宮には、これだけ言うのが精一杯だった。
「…………」
その言葉を聞いて、高峰は手にしたビンのラベルを一瞥してから、惜しむように元の場所へと戻す。
「…………」
雨宮は安堵の息を漏らす。それは高峰の瞳から逃れられたことと、高峰がどうにか諦めてくれたことに対しての、両方だ。
高峰はしばらく目の前に置かれたビンを見つめて、気が済んだのか、視線を外して奥のほうへと歩き始める。
「……」
雨宮もその後を黙ってついていく。どこへ行くのかと気になったのだが、数歩歩いてすぐに高峰は立ち止まる。
「…………」
高峰の見ている先を、雨宮は目で追った。
鬼殺しのあった棚とは若干雰囲気が違う、もう少しお洒落な印象がある。そこにもビンが並んでいて、そこにあるビンは一回り小さく、今度こそカルピスと同じ大きさなのだが、そのビンの色は鮮やかな緑色をしていて、中には暗い液体が詰まっている。
「……………………」
雨宮は目の前に掲げられた看板に目を向けた。
変わった字体だったが、感じのよい雰囲気が漂う。そんな文字で『ワインコーナー』と書かれている。
「……………………いや、だから…………」
雨宮が言葉を探している間も、高峰はかなり真剣な様子で目の前に並んだ赤ワインの棚を凝視している。
結局、購入したものは、アロエヨーグルトのパックとバナナ一房。
倉橋は割とすんなり引いたので助かったが、何故か高峰は最後の最後までこだわっていたようだった。最初は雨宮も何とか説得を試みたのだが、なかなか諦めたような素振りを見せず、流石に対処し切れなかったので最後には倉橋の「ほっときーや」の一言で済ませる他に方法はなかった。
会計は、雨宮が済ませることになった。
始めは三人で割り勘をする予定だったのだが、お金を払う段階になって倉橋が、金がないだなんだと言い出して、それと同じくして雨宮が高峰に確認しようとすると、高峰はいつもの無言のまま、しかし微かに不満を滲ませたような表情で雨宮を見返してきて、雨宮はそれ以上の追及を止めた。雨宮がまとめて払ったのだが、結局その負担金は二人からは支給されないだろう。
到着した病院で、倉橋が真っ先に受付に直行した。
「すんませーんっ」
受付で座っている二人の看護師が驚いたように顔を上げる。
倉橋は構わず、遠慮のない声で彼女たちに訊いた。
「若草はんはどこにおりまっか?」
「え?若草、さん?」
倉橋に応じた隣の女性が、横に置いてあるコンピュータのキーを叩いて、映し出された情報を目で追った。
「申し訳ありませんが、そのような方は当病院には入院しておりませんが」
「倉橋くん!」
倉橋の背後から、雨宮が駆け寄ってくる。
「すいません」
受付の二人にぺこりと頭を下げると、雨宮は倉橋のほうを見て腕を掴んだ。
「ほら、行くよ。倉橋くん」
いきなり引っ張られて、倉橋は抗議の声を上げたが、雨宮は強引に倉橋を連れて行く。二人の看護師はきょとんとした様子で二人を見送った。
受付が見えなくなるところまで来て、雨宮は腕を放して倉橋を間近から見上げる。
「もうっ。何やってるの、倉橋くん」
雨宮の真剣な目に、しかし倉橋は当たり前のように答える。
「何って、若草はんのおる場所訊きに行ってたんやん」
まるで気付いていないような倉橋の反応に、雨宮は苛立ちを感じながらも、何とか説明の言葉を探す。
「僕たちのことが、世間に知られてたらまずいでしょ」
倉橋の頭は、まだ雨宮の言わんとすることを理解していない。雨宮は強い口調で、さらに言葉を続ける。
「若草さんの入院だって、無関係の人たちに知られてるわけないでしょ」
「ああ、そういえば」
倉橋はぽんと手を叩く。
「すっかり忘れてたわ」
「……」
雨宮は頭が痛くなるのを感じる。
その横で、倉橋は悩みのない晴れやかな表情で高峰へと顔を向ける。
「ほな、灯。案内よろしゅう」
高峰は一定の速度で進んで行って、その後ろを雨宮と倉橋がついていく。
雨宮は苦渋を浮かべて、隣の倉橋へと目を向ける。
「倉橋くんなら知ってるんじゃないの?若草さんの入院している場所」
「いやー、それがさっぱりや」
倉橋は悪びれもせずに答える。
「でも連絡はいってるはずでしょ」
「たぶんな。けど、そういうメンドイ事務仕事は灯に全部任してんねん」
「…………」
「ええやんええやん。それぞれ一個ずつ仕事もっとけば。俺は荷物係、ってことで」
倉橋が右手に持った買い物袋を掲げてみせる。
――じゃあ僕って、もしかしてお財布係?
これ以上何を言っても無駄だと判断して、雨宮は黙って高峰のあとをついていくことにした。
高峰はエレベーターまで行くと、上へ昇るためのボタンを押す。雨宮が周囲を見ると、受付には結構人の姿がある割りに、エレベーター付近にはそれほど人の姿が目立たない。
田んぼや畑が並ぶ場所に、不自然に聳え立つ総合病院、ここはそんな場所だ。お年寄りの数は比較的多く、病院に通う年配の人たちはかなりいるのだが、入院までする人はあまりいないらしい。誰もが通院程度で済ませて、あとは家でのんびりと過ごす、この病院の意義はそのくらいのものだ。
エレベーターが来ると、そこには空っぽの空間が広がっている。高峰に続いて、倉橋、雨宮の順で中に入る。
三人は十階で下りると、高峰は病室の並ぶ廊下を突っ切って、一番奥の扉の前に立つ。
『関係者以外立ち入り禁止』
落ち着いた印象のある院内には不自然な、仰々しい文字。立ち入り禁止と書かれた扉を、高峰は完全に無視して開けてしまう。後の二人も、高峰に続いて扉を潜る。
どうやらそこは非常階段だったらしい。風に曝されてすっかり変色した鉄の板が上下に並んで、細い手摺から見ても不安定そうで、好き好んでこんなところに来るものはいないだろう。
「……」
高峰が階段を下るので、倉橋も雨宮もその後に従う。この下は九階、エレベーターのボタンにはなかった階だ。他にも、ボタンの存在しない階があることを、雨宮は先程確認している。一般の人が立ち入らないようにしているのだろうが、果たして一般病棟にそんな場所があるのだろうか。
九階に着くと、そこは意外にも他の階と何ら変わらない、病室がずらりと並んでいる。廊下には扉だけが見えていて、中の様子は外からはわからないようになっている。
高峰は十部屋ある病室の、入ってすぐの扉の前で立ち止まる。ネームプレートには名前がなく、それは普通誰もいないことを意味するが、それでも高峰は迷わずその扉をノックした。
「高峰です」
高峰が小さく言うと、後ろで倉橋が陽気な声を上げる。
「倉橋っす」
「あ、雨宮です」
最後に雨宮が気恥ずかしそうに言うと、部屋の中から返事があった。
「入って結構です」
高峰がノブを捻って、三人は中へと入る。
扉を開けてすぐに、一条の姿が目に入った。
「……!」
三人は驚いて、踏み出しかけた足をその場で止めた。
一条は扉の前、一メートルの位置にいて、いつもなら出迎えなどしてくれないのに、今この場に限って、一条は三人の目の前に立っている。
だが、どうも出迎えてくれている、という雰囲気ではない。どちらかというと、検査されていると言ったほうが正しい。三人の顔を一通り確認して、その上で持っているものを一人一人眺めてチェックを入れる。
「それは?」
一条の視線が倉橋の右手を捉える。
「あ、と。これは」
「おみあげでーす」
雨宮が言いかけるより先に、倉橋が明るい調子で答える。無理矢理な明るい声に、作ったような笑顔が痛々しい。
「…………」
一条は冷めた瞳で倉橋を一瞥して、それから袋を奪い取って中身を確認しようとする。
「一条くん」
背後から声をかけられて、一条は慌てた様子で振り返った。
ベッドの上で、若草が親しみ深い笑みを浮かべている。病室で、しかもベッドに入っていながら、若草はいつも通りに帽子を被っている。
「いつまでも廊下に立たせているのは悪いから、早く中に入れてあげなさい」
「…………はい」
僅かに間を置いて答えると、一条は三人を病室へと通した。
室内にはベッドが四つ、しかし若草が使用している窓際のベッド以外は全て空だった。三人は一条に従って中に入った。
若草の入っているベッドの隣に並んで、まず倉橋が口を開いた。
「お見舞いに来ましたー」
若草は帽子の下からでもわかる穏やかな笑みを浮かべている。
「わざわざすまないね。おみあげまで持って来てもらって」
そのおみあげは、今は一条の手によって検査されている。一通り確認できたのか、一条は向かいのベッドの脇に置いてある小さな冷蔵庫の中に袋ごと入れた。
「あとでいただくとするよ」
「大丈夫なんですか?若草さん」
雨宮が不安そうに訊ねる。
ああ、と言って若草は頷く。
「体には目立った外傷はなく、特に異常はないらしい。ちょっとした過労のようなものだ。休んでいれば、すぐに良くなる」
「よかったぁ」
「海斗は心配しすぎや」
「…………」
三人はそれぞれの反応を示し、一応に安心したようだ。
その様子を見て、向かいのベッドの脇に立つ一条が薄くこちらを睨んでいる。
「…………」
三人は若草のほうにばかり集中して、一条の様子は視界に入っていないようだが、若草は一条の素振りを見て微妙な表情を作る。
若草の変化に気付いた様子もなく、倉橋が口を開いた。
「でもどないしたんですか、若草はん。話があるっちゅーて呼んだ先が病院て。軽く驚きますよ」
「ああ、そのことなんだけど」
若草は一条から視線を外して、三人のほうへと顔を向ける。
「車谷くんやクロくんにはもう話したんだけど、君たちにも伝えておこうと思ってね。こんな状態じゃ、報告書も書けないから」
その言葉を聞いて、三人の表情が一気に強張る。さっきまでの和やかな空気が凍り付いて、緊張した雰囲気が室内に満ちていく。
若草は居住まいを直して、三人のほうに体を向ける。
「単刀直入に言おう。榊原樹の存在を確認した」
「……!」
驚愕が、一気に雨宮、倉橋、高峰の中に広がっていく。雨宮、倉橋はわかりやすいが、無表情な高峰もそれなりに動揺している。
「榊原樹がこの地域にいることは、間違いないようだ。それと、雨宮くんならわかるだろうけど、榊原樹の仲間と思しき存在も見つかった」
沈黙が降りた。
三人は、どう反応していいのかわからなかった。そもそも、事の重大さに頭の理解が追いついていない。
ようやく、雨宮がまとまっていない頭で、なんとか口を開いた。
「……えっと。名前は忘れてしまったんですけど、あの人と同じですか?」
「あの人?」
倉橋が驚いたように雨宮の顔を覗き込む。
倉橋が感じ取ったこと、雨宮の言葉に含まれる意味。
若草は頷いた。
「そう。フラストやトレストとは違って、どちらかというと君たちMASKSに近い。心を解放できる、人間だ」
その言葉は、大きな意味を持っている。
フラストやトレストとは異なる、MASKSとは別の存在。
自分たち以外にも、心の領域を解放できる存在がいる。
それが、敵となる。
「榊原はそれを『フルセルフ』と呼んでいるらしい。雨宮くんとクロくんが倒したフルセルフは現在組織のほうで拘束しているから、榊原の下には少なくとも一人以上のフルセルフがいることになる」
緊張をはらんで、三人は黙って若草の話に聞き入る。混乱が頭の中を渦巻いて、何も言葉が浮かんでこない。
「そのフルセルフについては、一条くんからの報告を受けてくれ。一人だからと言って、侮ってはいけないよ。彼らの能力はまだまだ未知だし、かなり強力なものだ」
三人の中で、雨宮だけが頷いた。
ほんの一週間くらい前のことだ。雨宮と、クロが遭遇した――若草が言うところの――フルセルフ。
彼は、人間だった。フラストやトレストとは違って、純粋な心だけの化物ではなく、雨宮たちと同じ人間、そして雨宮と同じ心の使い手。
雨宮と、MASKSでは上級の実力を持つホリックであるクロの二人、二人がかりでようやく一人のフルセルフを倒すことができた。
一人では、全然相手にならないだろう。雨宮や倉橋、高峰のような一兵のMASKS二人、いや三人がかりでも敵うかどうかなんて、わからない。そもそも雨宮たち三人では、トレスト相手でも歯が立たないのだ。
「榊原樹と遭遇する可能性は、極めて高い」
凍りついたような病室で、若草の声だけが明瞭に聞こえる。
「フラストやトレストだけでなく、彼の仲間であるフルセルフといつ戦闘になっても、おかしくない」
一週間前にだって、雨宮はフルセルフと衝突している。新たに判明したフルセルフだって、確認されたのはつい最近のことだろう。若草は一人以上と言ったが、このペースではまだ他に榊原の仲間、フルセルフの存在があってもおかしくはない。
「これからは、今まで以上にチームで行動してもらいたい。一人で榊原樹やフルセルフと遭遇してしまった場合、残念だけれど、今の君たちでは勝負にすらならないと思う。――それが現状だ」
一人では、勝ち目のない現状。何もできない、現実。
MASKSの中で、単なる一兵に過ぎない雨宮、倉橋、高峰には、そこまでが限界。それが現状。
理解は、少なからずしていたつもりだったが、ここまで明らかに示されると、三人とも何も言えなくなる。
不意に、一条が割ってはいる。
「若草総指揮官」
向かいのベッドの位置から、一条は若草へと声をかける。
「お話はお済みになりましたか?」
若草からの返答はすぐにはない。
一条は三人立っている辺りを一瞥して、若草へと向き直る。
「よろしければ、彼らに新しく判明したフルセルフについての話がありますので、別室に移りたいのですが」
「ああ、そうだね」
若草は納得して、頷く。
「お願いするよ」
「わかりました」
一条は承諾して、すぐに扉へと向かう。扉を開けながら、振り返って三人のほうへ視線を送る。三人とも、その場に固まって動かない。
「付いてきなさい」
小さく命じて、一条は先に扉の外へと出て行く。
その声にようやく反応して、三人は一条の後へとついていく。先に高峰が扉の脇に立って、若草に一礼してから部屋を出る。倉橋も、それに倣って軽く頭を下げてから部屋を出る。雨宮だけは、挨拶してから退室する。
「失礼しました」
部屋を出る直前、雨宮の見た若草の姿は、実にいつも通りだった。
いつも通りの笑顔、怒りも非難もない、透き通るほどの優しい笑み。そして、そこに浮かぶ、僅かな苦悩。
閉めた扉からは、とても乾いた音がした。
月のない夜だった。星すら見えない漆黒の夜、申し訳程度に並ぶ街頭が、薄く闇夜を飾っている。
広い公園だった。敷地の大半を緑が占めて、子ども向けの遊具は何もなくて、広さの割にはベンチの数も極端に少ない、ただただ広大な公園だ。
町の中にぽっかりと空いた閑散とした空間、深夜ともなると普段とは顔ぶれの異なる人々が敷地内にいるはずなのに、しかし今夜は誰もいない。まるで世間から忘れられたように、浮浪者の姿も、カップルの姿も、不良グループも、公園にはその存在がない。
歩いているのは、たった一つの影。
「ここみたいですね」
闇の中に同化するように、榊原が舗装された道の真ん中を歩く。
足先まで伸びるマントも、物語の中でしか登場しないような奇抜な帽子は身に付けておらず、体にフィットするスーツのみというシンプルな格好をしている。仮面だけは外さないようで、黒いスーツを着ているせいで、顔を覆う白い仮面が闇の中で異様に光る。
「広末くん」
誰もいない広大な公園、そこに立って榊原は一人口を開く。
「君は、ここを選んだのですね」
そこにいるはずの誰かに言うように、榊原は言葉を続ける。
「最後の最後まで、君はこの世界を壊そうとしていたのか。私は君に会ったとき、私に似ていると思ったけれど、根本的なところで、君と私は全く別の存在だった。…………私は、解放を望んでいる」
榊原は空を見上げた。月の出ていない夜空からは深い闇が覗いていて、漆黒の中で榊原の被った仮面が街頭を反射してぼんやりと浮かび上がる。
「君の意見も、悪くはない。悪いわけじゃないんだ。考え方の相違、というやつかな。ダメなものは失くしてしまえ、いらないものは壊してしまえばいい、そうしてから最初から作り直せば、そのほうが早いんじゃないか。でもそれじゃあ…………」
言いかけて、しかし榊原の言葉は別の声によって遮られた。
「樹さーん!」
榊原が振り返ると、一人の少女が駆け寄ってくる。
白百合だ。暗がりの中でもわかる、白百合独特の雰囲気、朗らかとした、快活な少女。先日の若草と一条の戦闘の際に重度の大怪我を負ったが、もうその傷跡はどこにも見られない。どこにでもいそうな、普通の女の子となんら変わらない。
榊原は仮面の下で微笑む。
「やあ、白百合くん」
榊原の真横に立って、白百合は膨れ面を見せる。
「もう、樹さん。遅いですよ。あんまり遅いから迎えに来ちゃいましたよ」
「いやぁ、すみません」
立腹する白百合に、榊原は軽い調子で返す。
「それに」
白百合は右の人差し指を立てて榊原に向ける。
「探し回ったんですよ。いつものコースにいないから」
「あはは、すみません」
ぺこりと頭を下げる榊原に、白百合は嘆息する。
白百合はキョロキョロと辺りを見渡して、不思議そうな表情で榊原へと問いかける。
「ここ、どこですか?」
「ん?ああ、ここは……」
榊原はすぐには答えず、言葉を選ぶようにして言葉を紡ぎ出す。
「広末くんの、お気に入りの場所です」
「あっ」
白百合は気付いたように榊原を見上げて、そうしてからしょげたように俯いた。
「ごめんなさい」
「いいんですよ」
言って、榊原は白百合の頭を右手で撫でる。
「君は優しい子です」
「…………樹さんは」
顔を上げて言いかけたが、その後がうまく続かない。再び俯いて、白百合は真剣に言葉を探しているようだった。
「広末くんは、どうしてるのかなぁ?」
白百合の言葉に、榊原の手が止まる。
「ひどいこと、されてるのかな?」
俯いて漏らす白百合の言葉に、榊原は返す言葉が浮かばなくて思案する。
「わかりません」
榊原は屈んで、白百合と目線を合わせる。
「心配ですか?広末くんのこと」
白百合はこくんと頷く。
「広末くんは、仲間、ですよね?」
白百合が、真っ直ぐ榊原を見る。
子どものような、軽薄な質問、しかし、だからこそ、そこに含まれている言葉の意味は重大で、重い。
榊原は白百合の言葉を真っ直ぐに受け止める。
白百合はなおも訊ねる。
「大事な大事な、仲間ですよね」
榊原は仮面の奥で微笑む。
「もちろんです」
榊原は立ち上がって、白百合に答える。
「私も広末くんを助けてあげたい。彼には、役目がありますから」
「役目?」
白百合は当惑した表情で榊原を見上げる。
榊原は言葉を続ける。
「人は生まれたときから、何らかの役目を背負っている。広末くんには広末くんの役目があり、彼はまだその役目を果たしてはいない。もちろん、君にも、私にも」
仮面の奥で微笑んで、榊原は空を仰ぐ。
「私は自分の役目を知り、彼は私のために尽くしてくれると約束してくれた。だから私も彼を助けてはあげたい。けれど、私の前にはそれを阻む壁がある」
「組織のことですか?」
白百合が訊ねる。
「この前の、あの組織の人たちのことですか?」
「……そうですね。彼もまた、壁になりました」
榊原は憂うように空を仰ぐ。
「宗助だけは、私の味方でいてくれると思っていたのに」
「宗助って人は、樹さんの知り合いなんですか?」
榊原は笑い声を漏らす。
「長い付き合いです。MASKSの頃から宗助のことは知っていましたが、宗助と話をするようになったのは、研究者として、組織内で活動するようになってからです」
それから榊原は若草との思い出を語り始める。組織の中での生活、二人で議論して、よく話が脱線したこと、若草と榊原がまだMASKSの一員としてフラストと戦っていた頃の話もでてきた。
「組織を動かすトップたちの引退の時期になって、私はCOSTUME総指揮官に、若草はMASKS総指揮官に任じられた。その瞬間、私は大いに喜んだものだよ。これから私が組織を動かしていけると思うと、胸が躍った」
でも、と言って、直前までの楽しそうな口調は鳴りを潜めて、雰囲気までもが沈んでいくように落ち込んでいく。
「トップになって、組織の内情を知って、私は愕然として、失望した。ここは、ダメだ、とね」
「だから、組織を辞めた?」
榊原は頷く。
「私の役目は、組織にいては果たせない。私の役目は、組織にいることではない。私は、私の役目を実行するために、私が組織にいる間に得た研究成果を世間に向けて発信する」
「人々を解放する、ですか?」
榊原は頷いて、しかし声は悲しげな音色を含んでいる。
「宗助だけは、わかってくれると思っていたのに。どんなに反対しても、最後には頷いてくれると思っていたのに、ちょっとがっかりだ」
「樹さん」
白百合の真剣な声が響く。
榊原は視線を白百合のほうへと落とす。
「その宗助って人は、今のMASKSの一番偉い人なんですよね」
不意をつかれて、榊原の口は素直に答える。
「ああ、そうだよ」
白百合の言葉の意図が読めなかったが、思案している時間はなかった。白百合は続けざまに質問を投げかける。
「その人が、今のMASKSを動かしているんですよね」
「そういうことになるね」
「じゃあ……」
白百合の目が無邪気に光る。子どもが素晴らしい思い付きをしたときに見せる、あの勝ち誇ったような表情。その無邪気さ故に、子どもは時として残酷な言葉を、大人以上に平気で口にする。
「その人さえ倒しちゃえば、樹さんの壁はなくなるんですか?」
白百合の言葉の意図を知って、榊原は押し黙ってしまう。榊原の様子に気付かないように、白百合はさらに言葉を続ける。
「宗助さえ動けなくさせちゃえば、樹さんを邪魔する組織の人たちも動けなくなる。そういうことになりますか?」
榊原は、一瞬返答に迷った。
何か適切な答えを出さなければと思うのだが、すぐにそんな都合のいいは言葉が浮かんでこない。
出てきた言葉は、だからその場凌ぎに過ぎない。
「安直な考え方だけど、そういうことになるかな」
発した言葉、それとは別のところで、榊原は思考を巡らせていた。
白百合の言うことはわかる。簡単に理解できる。純粋で、純朴な、安易で、簡単な、理屈と呼ぶには幼い理論。
「だったら――」
白百合の無邪気な口元から言葉が綴られる。
「宗助をやっつけちゃいましょうよ」
「白百合くんそれは……」
「だってそうでしょう」
白百合は顔をぐいっと突き出して、右の人差し指を榊原に向けて立てる。
「組織の中で、実際に外に出て動けるのはMASKSだけ。そのMASKSが一番邪魔なんだから、それさえ潰しちゃえば私たちは自由に動ける、ってことじゃないですか。で、MASKSを潰しちゃう一番簡単な方法が、MASKSのトップである宗助、って人を倒しちゃえば、MASKSを動かせる人はだーれもいなくなる。樹さんの目的は簡単に実行できるし、組織も簡単に倒せちゃう、一石二鳥ぉ!」
白百合の、明るい笑顔が榊原の目に映り込む。
榊原はすぐに答えることができなかった。
白百合の言っていることもわかる。それも一つの方法だ。実際に組織の戦力はMASKSくらいなもの、他に武器を作るところも存在するが、最終的にそれを使うのはMASKS。
そのMASKSのトップである若草の動きを完全に封じてしまえば、MASKSの連絡系統は大きな被害を受ける。総指揮官補佐だと言っていた一条という少女がいるが、彼女の役目がそれほど大きいとは、榊原は思っていない。智の独占、そのために組織は権力を一つに集中させてきた。補佐というのも、所詮名前だけくらいの意味しかない。
ならば、MASKS総指揮官若草宗助が傷を負っている今こそ、滅多にないチャンスではある。
――しかし。
返答のない榊原に、白百合は勝ち誇ったような笑みを向ける。
「どうしたんですか、樹さん。何か言ってくださいよ。いい考えでしょ」
自信満々に胸を張る白百合に、榊原はしばらく返答に迷った。
「白百合くん」
白百合は目を輝かせて榊原を見上げる。目の前にご褒美を差し出された仔犬のように、無邪気な笑顔。
しかし白百合の期待していたものは、榊原の口からは出てこなかった。
「その意見は、却下です」
「ええええぇぇ――――――――――――っ!」
白百合が大声を上げる。
近くに人がいれば、誰もが振り返るような音量だったが、幸いなことに今の公園には榊原と白百合しかいない。
「な、なんでですかぁ?」
心底わからない様子の白百合に、榊原は僅かに嘆息する。
「残念だけど、宗助を殺しても、あまり意味はありません」
榊原は諭すように答える。
「意味はないんだ。トップなんて、所詮飾りに過ぎないのだから。居ても居なくても、それは同等の意味でしかない。上がいなくても下は動き、上が何もしなくても下は全部をやってくれる。それがキルイルク、組織だ。組織を構成するその一つ一つが、狂気に満ちた兵器だ。それに気付いていないからこそ、組織はもう手遅れなんだけど」
榊原は苦笑した。
それを聞いて、白百合は考え込むように顔を俯かせて、それから顔を上げる。
「じゃあ、どうするんですか?」
不安の色を滲ませて、白百合は訊ねる。
「宗助って人は、この前の戦いで負傷して、病院で入院しているんですよ。絶好のチャンスなのに、ここで攻めなかったら、一体どうするんですか?」
白百合の真剣な言葉を聞いて、しかし榊原は引っかかるものを感じた。
「白百合くん」
榊原は白百合の質問には答えず、訊き返す。
「宗助が入院していることを、どうやって知ったんですか?」
白百合はドキリとして目を丸くする。
驚いたように榊原を見上げていたが、すぐに表情を曇らせて顔を逸らす。俯き気味のその表情からは困惑の色が窺える。何か言いにくいような、言いたくないような、何かを隠しているときの反応だ。
榊原は膝を折って、優しく白百合に問いかける。
「教えてくれませんか」
白百合は、すぐには答えない。
二十秒近い間をおいてから、ようやく白百合は口を開く。
「昭伍くんから」
その言葉に、榊原は驚いたように聞き返す。
「昭伍くん?」
白百合は僅かに頷く。
「昭伍くん、あの日、近くにいたみたいなんです。外を歩いていたらトレストの鳴き声が聞こえて、行ってみたら樹さんと私と、それから組織の人たちを見つけたらしいんです。それから、樹さんと宗助の戦いが終わった後で、逃げていく宗助の後を追っていったら、その先の病院を見つけたんです」
「なるほど」
榊原は頷いた。
「そうか。落合くんも、あそこにいたんですか。落合くんは素直なときと、そうでないときとで波が激しいから、ちょっと気付けませんでした」
なるほど、ともう一度頷いてから榊原は再度白百合に訊いた。
「では宗助の居場所を知っているのは、君以外に落合くん、の二人だけでいいのかな?」
「……はい」
「他に知っている人は?笹竹くんは」
白百合は首を横に振る。
「…………知らないです。と、思います」
「なるほど」
榊原は一度立ち上がって、それから口を開く。
「組織を倒す、それは必要なことだけれど、私の役目はそれじゃない」
榊原の言葉には迷いがなく、それを信じて疑わない。
「私には、もっとやるべき、役目がある」
「……人々を、解放する」
榊原は頷く。
「心の迷い、壁、偽りの仮面。そんなものが人の心にある限り、人は解放されない。だからまず、そんな呪縛から皆を解いてあげなきゃいけない」
榊原の姿を、白百合は見上げる。もう見上げることしかできない。
――役目がある。
人は、誰しもが役目を持っていると、榊原は言う。
榊原には役目があり、その役目がどんなものなのか、榊原についた者は全員が知っている。白百合も、広末も。
榊原の考えに賛同して、榊原についていくことを約束した者にも、等しく役目がある。そう、榊原は言う。
白百合は広末と何度か顔を合わせたことがある。片手で数えられるくらいの、とても少ない間だけだが、それでも広末の人となりはなんとなく理解している。
周りのものに興味がない。自分以外のどんな事柄にも、決して関心を示さない、こちらから話しかけても、ちっとも答えようとしない。
笑っても、笑ってくれない。
怒っても、怒ってくれない。
泣いても、泣いてくれない。
近づいても、近づいてくれない。
話しかけても、黙っている。
何を考えているのか、わからない。
白百合の苦手なタイプで、正直なところ、恐いとさえ感じていた。
――広末くんの望みは、何なんだろう。
それでも、広末は白百合の仲間。それは、広末が榊原のために行動を起こす、仲間だから。
広末の役目。それは白百合にはわからないけれど、広末には存在する意味があったんだろうし、存在しているからこその望みがあったのだろう。
――それじゃあ……。
白百合は思う。
――私の役目は?
白百合の望みは?
白百合は、ただひたすらに榊原を見上げている。
榊原が見上げる先、それは遥か天空で、誰の目にも映らない。
「それが、僕の役目」




