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第二楽章 死神と天使のワルツ

 咲希(さき)がカーテンを開けると、窓の向こうには白い月が輝いていた。満月から少し欠けた月、八月も下旬に入ったことがわかる。

「もう夏休みも終わりか」

 咲希はカーテンを閉めて、部屋の明かりを()ける。漂白されたような光が部屋の中を明るく照らす。

 咲希は反射的に目を細めて、箪笥(たんす)の中から薄いカーディガンを取り出して羽織(はお)った。八月の後半に入ったとは言え、最近では九月になっても残暑が厳しく、今でも夜は寝苦しさを覚える。パジャマでも寒くはなかったが、そのままの恰好(かっこう)で歩き回るわけにもいかない。

 二、三回、目を強く閉じると、ようやく電気の明るさに慣れてきた。咲希は柱にかけられた時計に目を向ける。もう次の日になってから一時間くらいが経過している。

 ――眠れないなあ…………。

 咲希は机の棚から一冊の本を取り出して、自分のベッドの上に腰掛ける。

 学校で出された宿題がまだ終わっていないから、勉強をしてもいいのだが、そこまで頭は()えていない。それに勉強をして疲れたから寝る、という図式(パターン)は、まだ咲希の中では確立されていない。

 それにそこまで急ぐこともない。咲希の通う松風(まつかぜ)高校が始まるのがあと一週間と少し、それだけあれば充分やり切れる。

 ――そうだ。

 開きかけた本を閉じて、ベッドの上に置くと、咲希は立ち上がって部屋から出た。

 電気の点いていない廊下(ろうか)、部屋の扉を閉めると、そこは完全な(やみ)に包まれる。咲希はそのまま歩き出した。部屋を出てすぐのところに明かりを点けるスイッチがあるが、咲希はそこに触れなかった。

 ――ギイイィ。

 床が(きし)む。

 暗闇の中、その音が異様に、異質に、よく響いた。

 ――ギイイィ。

 床が軋む。

 静かな、静かな、夜。眠りに落ちた、時間。同じ階では両親もいるはずだが、流石(さすが)にこの時間では夢の中だろう。

 ――ギイイィ。

 床が軋む。

 できる限りゆっくりと、できる限り静かに歩こうとする咲希だったが、静寂(せいじゃく)の中では小さな物音でも耳にこびり付く。

 ――ギイイィ。

 床が軋む。

 足音を立てないように、そうやって神経質に歩くのは、折角眠りについて両親を起こさないようにという気配りではなくて、今この時間に自分が起きていることを気付かれたくないという、小さな(おび)えから(しょう)じている。

 ――ギイイィ。

 咲希は足を止めた。

 暗澹(あんたん)とした廊下、少しだけ視線をずらすと、そこに下へと続く階段が見える。暗闇に目が慣れてきて、暗い景色の中に階段の輪郭(りんかく)だけが、ぼんやりと浮かんで見える。下へ下へと続く、(もろ)く、か細い欠片(かけら)

 ――ギイィ。

 板が鳴る。

 咲希は一段目に足を下ろす。

 ――ギイィ。

 板が鳴る。

 二段目。

 ――ギイィ。

 板が鳴る。

 三段目、と。

 ――ギイィ。

 板が鳴る。

 足を下ろしていく。

 ――ギイィ。

 板が鳴る。

 ――ギイィ。

 暗闇の中を。

 ――ギイィ。

 モノの輪郭すらぼやける暗黒の世界で。

 ――ギイィ。

 (うつ)ろに。

 ――ギイィ。

 (むな)しく。

 ――ギイィ。

 虚空(こくう)に。

 ――ギイィ。

 空虚(くうきょ)に。

 ――ギイィ。

 音だけが。

 ――ギイィ。

 足音だけが。

 ――ギイィ。

 板の軋む音だけが。

 ――ギイィ。

 階段を。

 ――ギイィ。

 空気を。

 ――ギイィ。

 空間を。

 ――ギイィ。

 揺らす。

 ――ギイィ。

 揺さぶる。

 ――ギイィ。

 咲希は一階に辿(たど)り着いた。

 咲希は少し歩いて、そして止まる。周囲に空間が広がるのがわかる。咲希は黙って辺りを見渡す。

 窓から外の明かりが差し込んでいる。部屋の中が薄っすらと青白く輝いている。中央に配置されたテーブルの上にかけられたクロスが、光を反射して弱く光る。

 テーブルやテレビ、戸棚が置かれているせいでとても狭々(せまぜま)しく感じる。階段を置いたすぐ目の前にダイニングルームがあり、台所との仕切りがないので生活感が必要以上に(にじ)み出た場所。

「……」

 咲希は台所に向かって歩き出す。この部屋の床は、神経を(つか)わなくても音は出ない。咲希は近くにあったスリッパを無視して、素足のままで歩いていく。

 戸棚の前で止まり、中から透明なコップを取り出して、水道の蛇口(じゃぐち)(ひね)る。暗闇の中で、色のない水がコップの中に(そそ)がれる。コップの中で生まれる泡が、台所の小窓から入ってくる光に照らされてキラキラと光っては、シャボン玉のように消えていく。

 ――キュっ。

 蛇口を捻る、音。

 水が注がれる音も、消える。

「…………」

 水を一口、口にする。唇が冷たく()れる。

 まだコップの半分くらい水が残っている。そのコップを持ったまま、咲希は階段を上って、自分の部屋へと戻っていく。両親を起こさないように、誰にも気付かれないように、静かに、自分の許された場所へと帰って行く。

「…………」

 静かに開いた扉を、音がしないように閉める。最初は部屋の明かりのせいで目を(つむ)っていたが、しばらくするとその明るさにも慣れてくる。飲みかけのコップを机の上に置いて、咲希は自分のベッドに腰を下ろす。

「さて、と」

 咲希はベッドに置いたままにしておいた本に手を伸ばす。

(たま)には読書でもしよう」

 咲希は(しおり)に指をかけて、本を開く。

 塾に行くまでの電車の中にいる時間や塾が始まるまでの(わず)かな時間、その時間を()めるために、試しに買った本。

 普段からそんなに本を読むほうではないので、どんな本がいいのか、最近はどういう本が流行(はや)っているのかさっぱり知らない咲希だったが、駅の中の本屋でとりあえず自分で選んで買ってみたのが、この本だ。

 作者がどれだけ有名で、この本がどれだけ著名なのか全く知らなくて、どういう内容(ストーリー)なのかも当然咲希は知らない。ただ、裏の要約を読んだ感じでは、恋愛小説。

 舞台は高校で、主人公はそこに通う女子高校生。同じクラスの一人の男子に恋心を抱くのだが、その思いを上手く伝えられないでいる。

 よくある種類(タイプ)物語り(はなし)だけれど、咲希はこの手の話を別段嫌いだとは思わない。むしろ、少しだけ(うらや)ましいとさえ思う。

 好きな相手がいる、ということに。

「…………」

 しばらく字を追っていた咲希は、読みかけのページに指を挟んで、最初のページから少しずつ目を通していく。

 ――この人、誰だっけ?

 しばらく読んでいなかったせいで、大分内容を忘れている。

 十ページくらい飛ばし読みして、ようやく話の流れを思い出してきた。指で止めておいたページを開いて、読みかけだったところから読み直す。と言っても、今まで読んだページ数は六〇と少し、まだ半分も読んではいない。物語の急展開は、もう少し先のようだ。

「うーん…………」

 咲希は一人で(うな)る。

 ――なんでそうなっちゃうかなー…………。

 話には事件(イベント)がつきもの、そして事件に翻弄(ほんろう)される登場人物(キャラクター)たち。

 自分ならこうするだろう、自分ならこうしていただろう、自分ならこんなことはしないだろう、自分ならこんなことにはならなかっただろう。

 自分なら、自分なら………………。

 ――私、なら…………。

 咲希はふっと笑う。

「なーんてね」

 本当にそうだろうか。

 自分はそんなに上手く動けるだろうか。自分はそんなに上手に立ち回れるだろうか。自分はそこまで完璧にやれるだろうか。

 ――どうせ、お話なのに。

 他人のことなら、いくらでも好きなことが言える。自分以外のことなら、いくらでも無責任なことがいえる。

 当事者(とうじしゃ)でないのだから。関係者ではないのだから。

 傍観者(ぼうかんしゃ)にすぎない。観客(かんきゃく)にすぎない。

 ――でも。

 でも、考えてしまう。思ってしまう。願ってしまう。(いの)ってしまう。

 その思いが、願いが、祈りが、通じるかはわからないけれど。無責任な自分が言えることではないのかもしれないけれど。他人の振りをしている自分が偉そうに言えることではないのかもしれないけれど。

「…………」

 咲希は小説に目を向けて、数行読んだところでページをめくる。さっきまでのページと比べて、会話の量が多い。

 思いが伝わる場所。気持ちが(あふ)れる場面。

 咲希は文章の部分を読み飛ばしながら、会話の中を真剣に読んでいく。

「ハッピーエンドが、いいよね」



「素晴らしい……」

 榊原(さかきばら)感嘆(かんたん)の声を上げる。

 榊原の視線の先には一条(いちじょう)の姿があった。一条の身長を(はる)かに超える大振りの(かま)、それを一条は右手一本で(にぎ)っている。月光に照らされて、巨大な鎌はその鋭利(えいり)な刃を輝かせている。

 一条の顔には、髑髏(どくろ)()したような仮面が張り付いている。下顎(したあご)にあたる部分が欠けていて、左目の真下からは(きば)のように、仮面の一部が伸びている。

 仮面は顔の形に合うように()められているのではなく、正面から見て反時計回りに九十度だけずれている。そのため、仮面の左目は一条の左の(ほお)の位置にあり、右の眼窩(がんか)からは一条の左目が(のぞ)いている。

 一条の冷たい(ひとみ)が榊原を見返す。その全てを敵視(てきし)するような(するど)い視線に射抜(いぬ)かれながらも、榊原は無視するように言葉を()らす。

「全く、なんて…………」

 榊原は空を見上げて、月を(あお)ぐ。言葉を探すように間をあけたが、適切な表現が浮かばなかったのか、榊原はまた繰り返す。

「最高に、素晴らしい」

「あなたと話をするつもりはありません」

 一条ははっきりとした口調で返す。

「榊原(いつき)。組織に害()謀反者(むほんしゃ)。あなたを――」

 巨大な鎌を、一条は(かま)える。

「殺します」

 言い切ると同時に、一条は()た。

 二人の距離は十メートル以上、その距離がすぐになくなり、一条は榊原に向けて鎌を振り上げる。

 ――ギンッ!

 衝撃音。

 一条の振り下ろした巨大な鎌を、榊原は左手一本で受け止めている。しかも、切っ先を(てのひら)で静止させている。

「……」

 一条は驚かない。

 一秒くらい刃を押し付けて、素早く鎌を引くと、そのまま()ぎ払う。

 榊原はさっと虚空に飛んで、隣のビルに飛び移る。一条も後を追って、加速をつけて向かいのビルへと跳んだ。フェンスを超えて、隣のビルの屋上に着地する。

 そのまま足場を()って、一条は榊原との距離を縮める。両手で鎌を握り()めて、榊原に切りかかる。

 榊原は再度左手を差し出す。黒い手袋が刃の延長線上に立ち(ふさ)がる。

 ――ヒュン!

 刃が一閃(いっせん)した。

 榊原の体に斜めの線が入る。

「……!」

 驚いたのは、一条のほうだった。

 榊原の体は紙のようにペラペラと()らめいて、闇に溶け込むように消えてしまった。

 ――手応えが、ない?

 一条は(いぶか)しんで辺りに目を向ける。そのときには、このビルの上にはどこにも人影などない。

「素晴らしい」

 声が、した。

 ハッとして、一条は顔を上げる。

 ――ビルの屋上一面に、榊原樹の姿があった。

 どこから現れたのか、いつからそこにいたのか、直前まで誰もいなかったのに、何もなかったのに、榊原はそこにいる。まさに屋上一面。比喩でもなんでもなく、そこに人だかりができている。そのどれもが榊原樹。

 マントと仮面と帽子まで(かぶ)っているので、全てが同一人物だと断言することはできないが、だとしても、一瞬でこれだけの数の人間が一度に現れることは、容易に想像できない。

「なるほど、いい『殺意(さつい)』だ。純粋(じゅんすい)な殺意」

 一条の周囲から声が木霊(こだま)する。低く押し殺したような笑い声が響いて、一条の周りで反響(はんきょう)する。

 ――分身、幻覚…………。どちらにせよ、本体は……。

 一条の髑髏を模した仮面の、左の眼窩がカーディナルレッドに染まる。薄い膜が右目の前に張られる。

 ――いない。もっと遠くに…………。

 一条の周りで、榊原が愉快(ゆかい)そうに笑う。

「どうかしたかい?さあ、僕に注いでくれ。君の殺意を」

 榊原の姿をした(いく)つもの人影が、両手を広げて一条を見る。とても楽しそうに、とても愉快そうに、榊原の笑い声が幾重(いくえ)にも重なって、周囲に木霊する。

 ――いた。

 一条のカーディナルレッドのレーダーに、白く光る点が浮かぶ。

 一条は左斜め前方に目を向けて、さっと走り出す。速度は一気に上昇していき、無数の人の間を通り抜けていく。

 榊原の笑い声が周囲を埋め尽くす。

「おやおや」

「どうしたね?」

「どこへ行くんだい?」

「僕に注いでくれよ」

「私に」

「僕に」

「私に」

「僕に」

 同じ声が、共鳴(きょうめい)する。

「君の『殺意』を」

 一条は鎌を振り上げる。その目標、たった一つの、標的に向かって。

 榊原が左手を差し出したのと、一条が刃を振り下ろしたのは、ほぼ同時だった。ひゅん、という風の音が鳴って、声の波はぴたりと止んだ。

 ――ピシッ。

 榊原の体に斜めの亀裂(きれつ)が入る。上半身がゆっくりと傾いていき、ずるずると落ちていく。周囲の仮面の影は次第に色を薄くして、消滅していく。

 ――ゴボ。

 裂け目から、榊原の体が(ふく)らむ。

「……!」

 驚いた一条は、咄嗟に距離を置く。刹那。

 榊原の体が破裂して、赤黒い液体が一条に向かって勢いよく降りかかる。

「っ!」

 一条は反射的に鎌を回転させて、距離をあける。

「『拒絶(きょぜつ)』殺し」

 声が聞こえて、一条は顔を上げる。ビルの中心、ポールの上に榊原の姿がある。足場がほとんどないにもかかわらず、榊原の体は安定している。まるで体重を感じさせない。

「他人を『拒絶』する心。それさえも壊してしまう、純粋な『殺意』。素晴らしい。『拒絶』殺しと呼ぶに相応しい」

 榊原は一旦(いったん)口調を(やわ)らげる。

「それとも、『拒絶』よりも『(かべ)』と言ったほうがわかりやすいですか?」

「いえ」

 一条はきっぱりとした声で(おう)じる。

「『拒絶』で構いません。概念(がいねん)のほうが大事ですから」

 一条が、初めて榊原にまともな応答をみせる。

 ――言葉に意味はない。意味は事実にしかない。

 榊原が仮面の裏で笑い声を漏らす。

「なるほど」

 榊原はすっと右手を上げる。パチン、と指をならして、闇夜の中に無数の影が浮かび上がる。どれもマントを羽織って、仮面を被っている、どれも同じ姿の影。

「では君は、榊原樹の概念を理解できるかな?」

 笑い声が木霊する。

 一条は身構える。冷気を含んだ瞳がカーディナルレッドの眼窩を睨みつける。薄いレーダーには白い点が幾つも浮かんでいる。

 ――身代わり(ダミー)を作れるなら、本体を見つけるのは難しい。

 レーダーはさらに広範囲を映し出し、白い点の数もぽつぽつと増えていく。

「……」

 榊原の嘲笑(ちょうしょう)の声が辺りを埋め尽くす。

「さあ早く」

「向かって来てくれ」

「君の殺意を」

躊躇(ちゅうちょ)なく」

「真っ直ぐに」

「純粋に」

「情けなく」

容赦(ようしゃ)なく」

(あわ)れみもなく」

「怒りもなく」

「ただただ純粋な」

 全ての声が、一つの言葉を(つむ)ぎだす。

「殺意を」

 笑い声がビルの上で反響して、その音が一条の耳を不快に揺さぶる。

 ――忌々(いまいま)しい。

 一条の瞳の温度が急激に落ちていく。

 同時に、髑髏を模した仮面の、左の眼窩の色が深みを帯びていく。カーディナルレッドから真紅へ、色を変えていく。

 ――殺す。

 直後。

 榊原の背後に影が立つ。音はない、気配はない。ビルの上にいる数多くの榊原の真後ろに、何人かの後ろに、闇と同じ色をした影が現れる。

 それはローブを(まと)っている、闇と同色の薄いローブ。屋上から一メートルほど(ちゅう)に浮いて、ローブに隠れて体が見えない。僅かに見えるのが、頭部、肉のない、鋼色(はがねいろ)頭蓋(ずがい)、二つの真紅の目。それと、ローブの(すそ)から伸びる鋼色をした腕の骨と、その両手に抱えられた大振りの鎌。

 榊原の背後から、死神が音もなく鎌を振るう。

 ――ギャアアアアァァアアアァァァァァァアアアア――――――ッ!

 悲鳴が闇を埋め尽くす。

 榊原の体が闇に消えていく。

 いくつもの榊原の体が死神の鎌によって両断されて、幾重の悲鳴が重なり合い混じり合い、裂かれたものも、死神の攻撃を受けなかったものも、等しく悲鳴を上げて、苦しみの声を上げて、闇に溶けていく。

「素晴らしい」

 一条の聴覚(ちょうかく)が一つの音を拾う。

「!」

 一条は反射的に前に跳んで、体を捻って後方を鎌で薙いだ。鎌は闇夜を切っただけで、何の手応えもない。

 距離を置いて一条が見ると、そこには仮面が一つあるだけ、榊原がしていたのと全く同じ形の仮面が空中に浮かんでいるだけだった。全身を包むロングコートもなければ、つばの大きい帽子も被っていない。それどころか、榊原本人の体も見当たらない。

「君は、殺意を具現化できるのですね」

 直後、仮面の下からどろりとマントが伸びて、コンクリートの足元に届いて闇の中からすーっと黒い帽子が現れて、仮面の上に乗っかった。

 ――パチパチパチパチ…………。

 マントから両手を出して、榊原は一条に拍手を送る。

「実に、素晴らしい」

 喝采(かっさい)の言葉を受けて、しかし一条の目はいっそう鋭くなる。

 ――化物。

「殺す」

 カチャ、と鎌を握り直して、一条は地面を蹴る。一瞬で榊原との間合いを()めて、入ったときにはその巨大な鎌を横に振る。

 ヒュンッ、と空気を薙ぐ音。

 刃が当たる直前、榊原は空に舞って、隣のビルへと戻る。若草(わかくさ)のいるビルへと。

 一条は榊原の後を追って、勢いをつけて向かいのビルへと跳躍する。ビルの上に着地して、一条は榊原を睨みつける。榊原は一条のほうへと顔を向けている。榊原は、ちょうど若草と一条に挟まれるような位置にいる。三者の位置は、互いに十メートルずつ離れている。

「…………」

「…………」

 一条は、鋭利な視線で榊原を睨みつける。まさに、殺すほどの殺意を向けて。

 榊原は、静かに一条を見返している。仮面に隠れて表情はわからないが、そこに恐怖は感じられず、仮面の笑みが場違いなほどこの場に()えている。

 ――カチャ。

 一条が切っ先を榊原へと向ける。いつでも踏み込める体勢。巨大な鎌が僅かに下がる。駆け出す前兆(ぜんちょう)

 一条が踏み出そうとした、その瞬間。

「見ぃーっけ」

 声がした。

 ビルの上にいた三人は、皆声のしたほうを見た。

 ビルの上、闇夜の中、そこに一つの影があった。ビルの上からでも十メートル以上の高さ、地上からでは一体どれほどの高さになるだろうか。

 月の光に照らされて、その人影は三人のいるビルの上に降り立った。



 それは少女の姿をしていた。暗くて、顔まではっきりとは見えない。しかし声の感じや独特の雰囲気が、その影を少女だと思わせる。

 榊原は近づいてくる影を見た。

「やあ、白百合(しらゆり)くん」

 影は、榊原のすぐ隣で立ち止まる。月明かりに照らされて、少女の姿が少しだけ見える。榊原と比べるととても小さく見えてしまうが、一条より十センチメートル低いくらいだ。

 白百合と呼ばれた少女は両手の(こぶし)(こし)に当てる。

「もう、樹さん。遅いですよ。あんまり遅いから迎えに来ちゃいましたよ」

 (むく)れてみせる白百合。その様子は、見るものに幼い印象を与える。

 榊原は仮面の上から自分の頬を()く。

「いやぁ、すみません。すぐに帰るつもりだったんですけど、久し振りに旧友と再会したものだから、つい長話をしてしまいました」

 榊原の視線の先を、白百合も見る。

 そこで初めて一条や若草を知ったように、目を丸くして、()いでぽかんと口を開ける。叫びそうになった口を何とか閉じて、白百合はきっと榊原を睨む。

「もう、樹さんは!」

 大声で、怒鳴(どな)った。

 (くちびる)(とが)らせて、激烈(げきれつ)に睨みつける白百合。さも偉そうに人差し指を立てる仕草は、(かえ)って緊迫感(きんぱくかん)が薄れる。

「だから言ったじゃないですか!毎日毎日散歩するのは危ない、って。敵に見つかったらどうするんですか!」

 白百合はもう一度、一条たちのいるほうに目を向ける。怒気を含んでいた瞳が、さーっと色を失って、また榊原を睨む。

「って、見つかっちゃったじゃないですかーっ!」

 慌てたように、頭を抱える。

 困ったようにその場で足踏みをして、そのせいで同じ場所でくるくると回りだす。白百合は、とても感情の起伏(きふく)が激しいらしい。

「お取り込み中失礼しますが」

 冷めた口調で一条が言葉を(はっ)する。

 全てを無視するような、全てを拒絶するような、絶対零度(ぜったいれいど)の瞳、顔つき、その雰囲気。一条は鋭利な視線を、露骨(ろこつ)に目の前の二人へと向ける。

「それはあなたの仲間ですか?」

 一条は榊原に()いた。

 視線を受けて、榊原は仮面の奥でにっこりと微笑む。

「はい、そうです」

「どーもーっ!」

 静かに答えたのは榊原のほうで、白百合のほうは対照的に溌剌(はつらつ)として応じる。

 (せわ)しない足踏みを止めて、回っていた体を一条たちに向けて、それから右手を額斜め右上がりに当てると、勢いよく空に突き上げる。

 明るく、(ほが)らかで、幼い動作。緊張感が薄れてしまいそうな雰囲気を、白百合は持っている。

「そう」

 一条は短く、小さく応じる。

 直後、髑髏の左の眼窩の色がさらに深みを帯びる。

「え?」

 呟いたのは白百合。

 白百合の体は榊原に押されて三歩退がる。

 榊原はそのまま振り返って、それを見た。黒衣を纏った骸骨(がいこつ)、死神の化身(けしん)。それが手にした巨大な鎌を振り下ろす。

 ――ギンッ!

 鋭い衝撃音。

「樹さん!」

 白百合の叫び声。

 彼女の視線の先にいる榊原は、死神の鎌を右手一本で受け止めている。切っ先を、掌で押さえている。

「心配ありませんよ」

 榊原は空いた左手で指を鳴らす。パチンという小気味(こぎみ)いい音が響いて、直後、死神が青い炎に包まれる。

「くっ……!」

 髑髏の仮面の左の眼窩から色が引いて、元のカーディナルレッドに戻る。同時に、炎に包まれていた死神の姿が闇に消える。

 白百合が声を上げる。

「なななななな、なん、なに、なんなんですかぁーっ!」

 子どもっぽい悲鳴。

 榊原が彼女に(こた)える。

「彼女の能力です」

 榊原が淡々(たんたん)と答える。

「『殺意を具現化する』能力。なかなか素晴らしい能力です」

 楽しそうな笑い声が仮面の下から漏れる。

 白百合は(いびつ)な表情に、丸く乗っかった二つの目を榊原と炎と死神の消えた空を同時に見て、次に遠くにいる一条へと顔を向ける。

 右手に死神が手にするような巨大な鎌を握り、髑髏の下顎だけ失ったような形をした仮面が、一条の顔右半分を覆っている。右の頬から顎を通って、左頬の下まで伸びた牙のような仮面の一部、そして一条の右目の前には、仮面の左の眼窩に張られたカーディナルレッドの膜が怪しい光を放つ。

 一条の目が、自分の目と合ったように、白百合は感じた。

「……!」

 白百合はビクッ、と肩を震わせて、飛び上がるように後退(あとずさ)る。反射的に上げた両手を胸の前にピタリとつけて離さない。歯と歯を、口元に(しわ)がよるほど固く()んで、目には恐怖がよぎって(おび)えている。

 声は出なかった。

 悲鳴を上げなかったのは必死に(こら)えたからではなく、恐怖に体が強張って、声を上げることすら白百合にはできなかったのだ。

「……」

 一条は軽蔑(けいべつ)するように薄く白百合を一瞥(いちべつ)すると、すぐに正面の榊原へとその鋭利な視線を向ける。

 仮面を被り、相変わらず表情が読めない榊原。その仮面はずっと笑ったままだった。白くて、薄っぺらな笑み。

 両者の間に、別の人間の声が割って入ってきた。

「榊原」

「ん?」

 榊原は離れたところにいる若草へと目を向ける。

広末広平(ひろすえこうへい)という名の少年を知っているか?」

 若草は言葉を続ける。

「この地域に住んでいる高校生で、君に会ったことがあると言っていた」

「ああ、知ってる」

 榊原が答える。

「彼が、どうかしたかい?」

「こちらで拘束(こうそく)している」

 若草が平生(へいぜい)の口調で答える。

「へぇ」

 榊原が曖昧(あいまい)(うなず)く。

 若草はもう一度質問する。

「広末は君の仲間、ということでいいのかな?」

「仲間、ねえ」

 榊原は考え深げに答える。

「僕はそういう風に答えたいのだが、彼はきっと協力者、と答えるだろうね。協力しているだけ、と。僕の実験の手伝いを依頼して、彼はそれに応じた。ただ、基本的に好きなようにやらせているから、久しく会ってはいなかったけど」

 一条の声が割って入る。

「それは(エックス)ナンバーと同じ存在ですか?」

 それ、とは白百合のことを指す。

 榊原は首を(かし)げる。

「Xナンバー?」

「広末広平のことだ」

 若草がそれに答える。

「拘束したのはいいが、まだまだわからないことだらけだから、とりあえずそういう風に呼んでいる」

「現在、組織のほうで確認していることは――」

 一条が口を開く。

「我々MASKS(マスクス)と同様に自己(じこ)の心の領域を解放できること。しかしその発現(はつげん)には仮面を外す必要がないこと。この二点。MASKSの要素を持ちながら、MASKSとは異なる存在であると判断、現在解析中」

 事務的に答える一条。

 その言葉を聞いて、榊原が突然身を(かが)める。両手で自分の体を抱きしめて、時折(ときおり)低く押し殺したような笑い声が漏れて聞こえる。

 榊原ががばっと身を起こす。

「あははははははははは――――――っ!」

 笑った。

 大声で。

「Xナンバー?Xナンバー!」

 繰り返して、榊原は叫ぶ。

 自らの腹部(ふくぶ)を押さえて、小刻(こきざ)みに震える体を何とか床にとどめようとする。

「…………」

 一条の目がさらに鋭利に細くなる。

 榊原は肩で息をしながら、ようやく体勢を安定させる。

「なるほど、Xナンバー、か」

 存分(ぞんぶん)に笑って、これ以上笑うこともないだろうに、榊原はまだ片手を腹から離さない。仮面の表情がいっそう強く感じられる。

「君たちにはセンスがないのかい?名前を付けるセンス、ってやつは」

 揶揄(やゆ)するように、軽蔑するように。

 榊原は嘲笑する。

「僕は彼らのことを『フルセルフ』と呼んでいる」

「フルセルフ?」

 若草が訊くと、榊原は頷く。

「『満たされた自己(フルセルフ)』だ。『完全なる自身(じしん)』。自身が思ったこと、感じたこと、認識したこと、意識したこと。その全てに純粋で、その全てに正直で、その全てに従い、その全てにのみ行動する。自身に完成していて、完成した自己を持つ。それが彼らだ」

 榊原は答える。

「MASKSなんかと一緒にしないでくれよ。MASKSは所詮(しょせん)、自己を(いつわ)らなければならない。自分に対して、(うそ)()く。真実と虚偽(きょぎ)の二つを持つことで、スイッチにしている。そのオンオフで力を解放しているわけだ。それはすなわち――」

 榊原は右手を左から右へと水平に動かす。

「その時点ですでに、自分に限界を設けていることになる」

 (こう)を上に向けていた右手を、くるりと反転させる。

「自分の心を圧迫(あっぱく)することで心を維持している。だから成長しないし、限界を超えられない。でもフルセルフは違う。自分の意思に素直で、自分の心に従って心を使う。最初から解放状態なんだから、何の束縛(そくばく)もない。宗助(そうすけ)が嫌がっていた、不幸な子どもたちをさらに傷つけることもない。フラストも、MASKSも超えた存在さ」

 榊原は思い出したように笑い声を漏らす。

「それにしても、Xナンバーか。実にセンスのないネーミングだ。キルイルクは、名前を付けることに関してはなかなかに長けているはずだろ」

 ああそうそう、と榊原は手を打つ。

「仮面の名前もなかなかだけど、僕は組織が自身を呼ぶ呼称ほど傑作(けっさく)なものはないと思うね。君はキルイルクの意味を知っているかい?」

 榊原は一条に訊いた。

 一条は鋭い視線を向けるばかりで答える素振りを見せないが、榊原も最初から答えを期待していなかったのか、すぐに口を開く。

「『仲間殺し(キルイルク)』、つまり『友喰(ともぐ)い』。フラストという(ばけもの)を殺すために、MASKSという(へいき)を使う。殺し合う二つの存在は、根源的には心という共通のものを持っている。互いに傷を()め合うなんて、悲しくて(みじ)めで、見ていられない。なあ、宗助」

「…………」

 若草は何も言わない。複雑な表情を浮かべて、榊原を見返すだけだ。

「くだらない」

 代わりに口を開いたのは一条だった。

「意味のない考えです。フラストは秩序(ちつじょ)を乱す、だから殺す。秩序を乱す存在は消すべき、それ以外に必要なものなどありません」

「……へぇ」

 拍手が聞こえる。榊原が感心したように手を打っている。

「素晴らしい意見だ。優等生の意見だね。悪いことはいけないこと、悪いものはこの世から()くしたほうがいい、って考え方(タイプ)だ」

「何か、間違っていますか?」

 詰問(きつもん)する一条。その瞳は(こご)えるほど()んでいて、一条の口から発せられた言葉には底冷えするような威圧(いあつ)が含まれている。

「いや、どこも間違ってなどいない」

 榊原は、しかし、軽い口調で答える。

「むしろ正しいとさへ思える。君のような純粋な考え方を、僕は好きだよ」

 一条の瞳が、いっそうに鋭さを増す。周囲の空気さえも凍りつくような、鋭利な殺意が一条の周りに満ちていく。

「私はあなたが嫌いです」

 一条は両手で巨大な鎌を握り締める。カーディナルレッドの瞳が榊原を睨みつける。

 ――白百合が立っていた。

 榊原の前に立ち塞がるように、白百合が立つ。両手を広げて唇を強く結んだ白百合が一条を睨み返す。

「ダメ……」

 口から吐き出された声は小さくて、一条の耳には届かない。

 白百合は顔を上げて、もう一度口を開く。

「ダメ……!」

 その言葉が聞こえたのか、一条はすっと構えを()く。

「そこを退()きなさい」

 見下ろすように、一条が(めい)じる。

「いや……」

 首を小さく振って、白百合は(つぶや)くように言う。

「退きなさい」

「いやっ!」

 叫んで、ぶんぶんと首を横に振る。その素振りは、駄々(だだ)をこねる子どもとなんらかわらない。

「ダメなんだからっ」

 白百合は頬を紅潮(こうちょう)させて、一条を睨みつける。

「樹さんは、私たちの大事な人なんだから。ソシキの人たちは、これ以上来たら絶対にダメ」

 白百合は、改めて両手を左右に伸ばす。びんと張られた腕が榊原の前を守り、今にも泣き出しそうな瞳が真剣な色をもって一条を睨む。

「どうしても、退きませんか?」

「退かない!」

 一条の冷たい言葉に、白百合は少しも(ゆず)らない。冷めた瞳が障害となる相手を眺めて、それに対して白百合は真っ向から返す。両者の間を、沈黙が埋める。

「そうですか……」

 一条は一瞬目を()せて、直後、氷のように鋭利な視線を白百合へと向ける。寒気を感じさせる、殺意の瞳。

「仕方ありません」

 すっと、一条は鎌を上げる。

 鎌の切っ先を立ち塞がる白百合へと向けて、両手でしっかりと握り締めて構える。鋭利な刃が月明かりに照らされて冷たく輝く。

 白百合の表情がさらに強張る。口元は硬く結ばれて、熱を帯びた頬は()れたように赤い。踏みしめる足元や伸ばされた腕が、緊張のためか、小刻みに震えているのがわかる。

 背後で立っていた榊原が、白百合の肩に手を乗せる。

「白百合くん」

 声をかけられて、白百合は驚いたように榊原へと振り返る。

「ここは、君に任せてもいいですか?」

 白百合は目を丸くする。

 始めは純粋に驚いて言葉の意味すら理解できていなかったが、次第に榊原の言っていることが頭の中に浸透(しんとう)してくるとぱっと顔を明るくして勢いよく頷いた。

「はいっ!」

 一条へと向き直る白百合。そこには、直前までの硬い色はなく、代わりに気持ちのいいくらい晴れやかな表情が広がっている。

「私、あなたを倒す」

 はっきりした声で言う。

「倒してみせるんだから」

 その声に、怯えや恐怖はなく、むしろ挑発的な雰囲気さえ含んでいる。

 一条の目が、すっと影を帯びる。敵視、というよりは軽蔑、不満といった色のほうが強い、冷気を放つ冷たい瞳。

随分(ずいぶん)、低く見られたものです」

 一条の瞳に、殺意がこもる。眼力だけで人を殺せるほどの、空気すら凍ってしまいそうな鋭利な瞳で、一条は白百合を睨む。手にした巨大な鎌を両手で握り締めて、目の前に構える。

 緊迫した空気が広がる中で、榊原が不意に笑い声を漏らす。

「さあ、存分に戦ってくれ、少女たち」

 榊原はその場で跳躍して、隣のビルへと飛び移る。月明かりと、ビルの上のネオンに照らし出されて、榊原のシルエットが闇の中に浮かび上がる。

「同じ心を持つもの同士、激しく傷付け合ってくれ」



 最初に動いたのは、一条だった。

 ――ヒュン。

 一条と白百合、二人の間に空いていた空間が急速になくなり、一条は両手で握った鎌を振るう。

 ――ギンッ!

 金属と金属がぶつかるような衝撃音。白百合の体が五メートルほど後退する。

「……」

 コンクリートの床を両足で踏みしめて、一条は床を蹴った。

 飛ばされた白百合は足場に着地すると、一条の動きを見て前へと跳んだ。

 ――ギィギンッ!

 衝突した。両者は拮抗(きっこう)している。

 一条が振り下ろした鎌を、白百合の髪が受け止めている。あるいは、白百合の髪を、一条は自身の鎌で防いでいる。

 ――私の攻撃を受けきっている…………?

 両者はさらに力を込める。

 ――ギンッ!

 両者が、弾け飛んだ。

 白百合は反動に負けないように、必死に体勢を低くしてビルの上にしがみつく。それでも弾き飛ばされた反動で、ずるずると後退させられる。

 一方、一条のほうは、弾かれた反動を逆に利用して何回か後ろへ跳躍して、エネルギーを分散させる。

 ――ありえません。

 立ち上がりは、一条のほうが早かった。

 踏みしめた足に力を込めて、前へと体を押し出す。その勢いで、一条は三秒とかからず白百合の間合いに入る。

 ――ヒュン!

 鎌を、一閃。

 白百合が気付いたときには、一条は手にした巨大な鎌を両手で振り下ろしていた。

 ――ギィギンッ!

 髪が、一条の鎌を受け止めている。

 ツインテールに()わえられた髪が二本の鎌のように、白百合への攻撃を防いでいる。一条が圧力を増しても、白百合の髪はそれに()えている。

 ――この子……。

 一条はさらに両手に力を込める。

 ――ギンッ!

 白百合の体が左の方向に払われる。一気に十メートル近い距離まで飛ばされる。

 このままいけば、ビルから転落する恐れがある。落差は(ゆう)に一〇〇メートルは超える。如何(いか)にMASKS、それと同等に渡り合えるフルセルフでも、落ちたらそう簡単に復帰(ふっき)はできない。それでいて無事なほうが考え(がた)い。

 白百合のツインテールが月夜を浴びて輝く。

 ――ザクッ!

 一条の鎌と同等の強度をもつ髪が、ビルに突き刺さる。

 ――ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ………………ッ!

 吹き飛ばされそうになる体を、ツインテールが押さえようとする。ビルに突き刺さった部分が断続的に()がれていき、コンクリートが無残(むざん)に散っていく。

 ――僅かに。

 一条は鎌を構え直して、白百合のほうを注視(ちゅうし)する。

 ――受けるときのタイミングを片方ずつずらしている。あれで衝撃が緩和(かんわ)されている。

 一条が振り下ろした鎌を白百合が受けるとき、ツインテールのうち片方がその最初の一撃を受け、押されそうになると同時くらいのタイミングでもう片方の髪が一条の鎌を押し返す。

 そうやって、攻撃の受け手を交互に変えることで、衝撃を少しずつ殺して、一条からの攻撃を白百合は受けきっている。

 ――思ったよりできる相手なのか、それとも体のほうが勝手に反応しているのか。

 一条の口元が、一瞬(ゆる)む。

 ビルに髪を突き刺してから、それでもなお、白百合の体はさらに十メートル以上は飛ばされている。タイル状に整備されたコンクリートは無残に(えぐ)られて、日に当たらず湿った石ころが髪の刺さった軌跡(きせき)沿()って散乱する。

 衝撃は次第に収まって、何とか白百合の体はビルからの落下を(まぬが)れた。しかしツインテールは深々とビルの屋上に突き刺さりすぐには抜き出せないし、白百合も咄嗟(とっさ)には動けない。

 ――どちらにせよ。

「殺す」

 一条が付けている髑髏を模した仮面の、左の眼窩がカーディナルレッドから真紅へと色を変える。

 白百合の背後に、影が立つ。

 音はない。

 闇色のローブを身に纏い、体は足元から僅かに浮いている。ローブの下は屋上には触れておらず、そこには空っぽの空間が広がっている。

 ローブの隙間からは肉のない鋼色の腕骨が伸びて、胸前には大振りの鎌が月夜に浮かぶ。頭に被せられたフードの下からは、真紅に輝く二つの瞳が覗いて、瞳を収める頭部は、腕同様、肉を失った、鋼の頭蓋骨だけ。

 死神が白百合の背後に立つ。

「……!」

 気配を察したのか、白百合は素早く振り返って、死神を見る。

「……」

 一条は冷酷(れいこく)な瞳で白百合を見る。

 白百合はその場から動かなかった。動けなかったのかもしれない。ビルに刺さった髪を抜く素振りも見せない。そんな時間も、もうない。どう見ても、白百合は死神の攻撃を防げない。

「…………どうして?」

 無意識に、言葉が漏れる。

 冷徹(れいてつ)な顔の上に、さっと驚愕(きょうがく)の表情が浮かぶ。

「………………そんな……はずは」

 一条は構えることも忘れて、ただ自分の視線の先を凝視(ぎょうし)している。

 見つめる先、ビルの屋上の(はし)に白百合の姿がある。白百合のツインテールは足元に深々と刺さったままで、動かない。動けない白百合は、一条ではなく、背後へと振り向いている。

 白百合の視線の先には、ローブを纏った死神の姿がある。ちょうど鎌を振り上げて、これから振り下ろそうか、というところで静止している。

「へっへ~ん、だ」

 白百合は振り返って、一条へと顔を向ける。

「一回出す瞬間がわかっちゃえば、次からはすぐにわかるんだから」

 無邪気な顔だった。子ども独特の、勝ち誇ったような表情が、一条を見た。白百合の声は、勝負で負けないことを確信した、挑発的な音色を含んでいる。

「……」

 一条の瞳に、殺意の色が広がる。

 ――殺す。

 直後、白百合の側面にもう一体の死神が闇から現れる。姿を見せたときには、すでに手にした鎌を白百合に向けて振り下ろしている。

「無駄だってばぁ」

 白百合が、その死神を見る。

 ――ヒュ……!

 死神の動きが止まる。

 攻撃が(はば)まれているのではない。完全に、動きが止められている。動くという命令を消去されたように、停止する。

「ほ~らねぇ」

 白百合はコンクリートに突き刺さった髪を引き抜いて、汚れを払うように頭を左右に振った。少し頭を振っただけだったが、白百合の髪は恐ろしい勢いで振り回されて、石のように動きを止めた二体の死神をバラバラに引き裂いた。

「くっ……!」

 一瞬苦痛に表情を(ゆが)めたが、一条はすぐに瞳に殺意を滾らせる。

 一条は駆けた。白百合との距離をぐんぐんと縮めていく。

 一条の動きを見ていた白百合は、しかし動かなかった。髪を足場から抜き出して、もう自由に動くことができるのに、けれど白百合は動こうとはしなかった。それは決して、一条に対して恐怖しているからではないと、白百合の顔を見ればわかった。まだ幼さの残る白百合の顔は楽しげで、自分に駆け寄ってくる一条を嬉々(きき)とした表情で迎える。

 あと少しで間合いに入る、ところで一条は足元を強く蹴って白百合のすぐ目の前まで踏み入る。その勢いのままに、鎌を薙いだ。

 ――ヒュン!

 風の音が空気を切る。

「!」

 そこに白百合の姿はない。

 大振りの刃が自身の体を切り裂く直前、白百合は空中へと跳んで、それを(のが)れた。宙を舞いながら身体(からだ)(よじ)って、着地と同時に床を蹴って一条に向かって突進する。ツインテールは真っ直ぐ一条へ向かい、闘牛(とうぎゅう)の角のように一条に襲い掛かる。

「っ!」

 一条は反射的に跳んで白百合の攻撃を(かわ)し、さらに跳躍して白百合との距離を広げる。

 退()がりながら、一条の表情がみるみる屈辱(くつじょく)の色に歪んでいく。

 ――あんな子の攻撃に距離を置くなんて……!

 一条は咄嗟の自分の反応に激しく後悔する。

 普段ならば、避けると同時に反撃の一手を放っているなずだ。仮に避けるばかりだとしても、それは相手の(すき)を常に狙った状態があってこそだ。そもそも攻撃ではなく、逃げの一手に(あま)んじた自分が許せない。

 予期していなかった攻撃だったのか、相手を(かろ)んずる余りに油断していたのか、白百合の思わぬ反撃に一時でも恐怖を感じてしまったのか、理由が何であったにしても、自分が逃げることを考えてしまったこと、咄嗟でも逃げの行動にでてしまったことに、一条の頭の中は屈辱と自責の念で満たされる。

 退がる一条の姿を見て、白百合の口元がにやりと笑う。

「まだまだッ!」

 (やり)のように尖ったツインテールを素早く解いて突きの威力を消滅させる、直後、白百合は床を蹴って一条へ急接近する。

 鎌のように鋭利な髪が一条に襲い掛かる。

「くっ……」

 手にした鎌で何とか攻撃を防いでいるが、防御のたびに体が後退して、守りに(てっ)せざるを得ない。

「そうぅれェェェェっ!」

 左右からの髪の攻撃を同時に受けて、一条の体は一気にビルの端まで飛ばされる。衝撃はまだ身体(からだ)の中に残っていて、このままではビルの屋上から落ちてしまう。

 ――たんッ!

 一条は落下防止の柵に左手をついて、そのまま宙へと舞った。

 一条の体は綺麗な放物線を描いて、隣のビルに向かって落ちていく。隣接するビルは数階分だけ背が低いため、一条は地面への直撃を防いだ。

 隣のビルに立って向かいのビルのほうを見上げると、白百合がこちらを見下ろしている。

「えへへ、どうしたの?逃げる一方?」

 無邪気な笑み、純朴(じゅんぼく)な挑発。余裕をもって挑発する白百合の笑顔が、そこにある。

 一条は鎌を構え直す。

 ――冷静になりなさい。

 爆発しそうになる感情を、一条は何とか堪える。

 相手の言動に乗ってはいけない。あんなもの、安い挑発だ。感情は、不要だ。一時の情動(じょうどう)は心を乱す。集中力を()いて、折角(せっかく)の好機を台無しにする。冷静になって、心を落ち着かせて、感情を根絶(ねだ)やしにして、ただ一つのことに集中すればいい。

 ただ一つだけの感性を。

「殺す」

 一条は小声で呟く。

 その声が聞こえなかった白百合は、動かない一条を見て不敵に笑う。

「来ないんなら、こっちから行っくよぉぉぉぉッ!」

 ビルから飛び降りた。

 重力に任せて、白百合の体が一条へと近づいてくる。小さかった白百合の姿が、徐々に近づいてきて大きくなる。

「……」

 一条は腰だめに鎌を構えたまま動かない。

 まだ動くときではない。白百合が接近するのを、その瞬間を待つ。白百合が両手を広げて降りてくる。髪は風に(あお)がれてパタパタと(なび)く。

 二人の距離が十メートルを切ったとき、白百合の髪に変化が生じる。バラバラに揺れていた髪が左右で一つの形に統一されて、鋭利な鎌のように一条へ向けられる。

 ――今。

 一条は冷静に白百合を見る。

「ぶつかるよおおぉぉぉぉッ!」

 叫び声を上げながら、白百合は硬化させた髪を一条へと振り下ろす。

 瞬間に、一条は床を蹴って三メートルほど後退し、着地したと同時にさらに床を蹴って白百合に肉薄する。

 白百合がさっきまで一条のいた場所をツインテールで貫いたときには、一条が自分のすぐ左にいる。

「え?」

 気付いたときには、一条の鎌が白百合の首筋を狙っている。

 ――ギィギンッ!

 近くの髪が総毛立って、一条の鎌を受ける。

「わああ!」

 白百合が驚きの声を上げる。

「……」

 一条は嫌悪の眼差(まなざ)しで盾となった髪を見やると、さらに足を踏み込んだ。

 両者の力が拮抗する、ようなことはなく、一条は白百合を守る髪に沿うように(やいば)()わせる。硬化した髪は途中で切れることなく、その上を鎌が進んでいく。

 そのまま、一条は白百合の背後に回り、髪の内側へと入った。

 ――ここだ!

 白百合の背中を、一条は鎌の()で強打する。

「がは……ッ!」

 攻撃が直撃した白百合の体は、そのまま一条の前方へと飛ばされて、ビル内から屋上へと繋がる階段のある壁に激突する。

 一条は崩壊(ほうかい)したコンクリートの塊を注視する。夜闇の暗さと、砂埃に隠れて、白百合の様子がはっきりとしない。

「……けほっ、けほっ」

 一条の耳に、白百合の声が届く。砂埃(すなぼこり)()せ返っているようだ。

「この程度では、やはり()りませんか」

 一条の攻撃は、完全に決まった。側面からの攻撃しか確認できていない白百合は、まさか背後から攻撃されるとは思っておらず、防御もできなかった。それに、白百合の武器である髪も、その内側に入られては対応ができなかったようだ。

 それでも白百合の受けたダメージがそれほど大きくないのは、鎌の刃で攻撃されたのではなく、柄の部分からの攻撃だったからだ。確実に仕留(しと)めるには、やはり直接鎌の刃で切りつけるしかないらしい。

 ――試してみますか。

 一条は構えの体勢に入り、小声で、それでいて充分に含みを込めた声で、呟く。

「殺す」

 一条の付けた仮面の左の眼窩を覆う膜の色がじわりと深みを帯びる。

「……けほっ、けほっ。もう~」

 白百合は周囲の瓦礫(がれき)や埃を払い除けて立ち上がる。

「いったいなぁ。まったくぅー」

 服に付いた埃を払いながら、白百合は不機嫌そうに顔を(ふく)らませる。

 軽く頭を振ると、乱れた髪が自然と整って、戦闘の最中だということを感じさせない、(つや)のある髪に整った。

 と。

 ――ぞわっ。

 周囲で気配を感じた。

 もう見なくてもわかる、この感覚。空間に異質なものが()り込められる感触、空間から異形の存在が生まれる気配。

「だから、無駄だってばぁ」

 白百合は首を左右に振って、それを見た。

 巨大な鎌を手にした死神が二体、右と左からそれぞれ一体ずつ白百合に向かってくる。鎌を振り上げて接近してくる死神、しかし白百合と目が合った瞬間、二体の死神はどちらも硬直するようにピタリと停止する。

 それで終わりではない。

 白百合の背後、ビルの屋上から二十メートルくらいの高さから、もう一体の死神が白百合に接近している。白百合の後ろ、しかも今までよりも遥か上空から音もなく現れたので、普通は気付けない。

「もう一匹ぃ!」

 白百合は空を仰いだ。そして、最後の三体目をその目で見た。

 隙を狙って近づいたはずの最後の死神も、不可視の力によって動きを封じられる。

「へっへ~ん」

 顔を正面に戻しながら、白百合は言葉を言いかける。

 ――一条が目の前にいる。

 一条が手にした鎌を薙いだ。

「!」

 白百合は反射的に目を瞑って、両手を胸前で合わせる。

 ――ギンッ!

 白百合の髪が、鋭利な刃を受け止める。

 しかし、受け切れなかったのか、白百合の体は鎌の力に押されて飛ばされる。その一撃で、ビルの端まで飛んでいく。このままでは、髪で耐えようとしても、ビルの上から落ちてしまう。

 白百合のツインテールが風に煽られたように広がった。しかし、風のせいというにはあまりにも不自然な伸び方をしている。

 髪は手のように広がると、ビルの足場を押して、その反動で白百合の体は高々と宙を舞った。このままの勢いなら、余裕で隣のビルに飛び移れる。

「しぶとい」

 構えを解いて、一条は白百合の向かう先へと目を向ける。白百合が向かっていくのは、さっきまで二人がいたビル、若草がいる場所だ。

「…………『(いましめ)』を使えるようです」

 心から解き放たれた化物、フラストは個々によってその特性が異なるが、大雑把(おおざっぱ)にわけると、「壁」、「(きり)」、そして「縛」に分類される。

 相手からの攻撃を防ぐ「壁」、フラスト自身の存在を霧散(むさん)させて物理的攻撃を回避する「霧」と並んで、「縛」という特性を使うものも存在する。

 縛は、組織の中では支配とも呼ばれ、敵の動きを封じるタイプの特性だ。

 壁や霧と比べて圧倒的に目撃件数の低い、極めて稀有(けう)で、それでいて使用されると非常に厄介(やっかい)な特性だ。一度、縛にやられたら自力で解くしかないのだが、解けなかった場合、その時点で敗北を意味する。縛を解く方法は、フラストがかけた心の鎖よりも大きな意志で引き千切るしかない。

「しかし、発動タイミングが未だにわかりません」

 壁も霧もそうだが、フラストが何らかの特性を発動する場合、少なからず心のエネルギーに波が生まれる。ホリックくらいの上級MASKSならば、その微妙は変化を機敏(きびん)に感じ取れるものなのだが、しかし今回の白百合にはその変化が皆無(かいむ)だ。少なくとも一条は、白百合が縛を使う瞬間の心の波を感じ取れてはいない。

「でも、構わない」

 一条は駆けて、隣のビルへと飛び移る。

 ――今のところ、あの子の縛は、私の具現化した殺意(しにがみ)にしか()いていない。

 タイミングはわからないが、白百合の縛が効果を発揮するには、白百合に見られていることが条件、それを一条は理解している。

 有効範囲は二十メートル以上、しかしそれならば一条もその効果を受けていてるはずだが、一条の体には何の影響も出ていない。

 かけられた縛を解く方法は、相手の力以上のエネルギーで打ち消すしかないのだが、つまり相手の縛のエネルギーよりも大きい力を持っているものは、最初から縛にかかることはない。かけられたとしても、一瞬動きを封じられるくらいですぐに解けてしまう。

 ――つまり、私には効かない。

 元いたビルに舞い戻り、一条は白百合を見据(みす)える。

「もう、やってくれたなー」

 白百合が膨れ面を見せる。

「殺す」

 一条は白百合の言葉を無視して、一気に白百合へと駆け寄る。

「おっと」

 鎌が振り下ろされるギリギリのところで、白百合はそれを跳んで躱して、空中にいる体勢でツインテールを槍の形にして一条へと伸ばす。

 一条は回転の勢いを利用して、そのまま背後に鎌を振るう。鎌と髪がぶつかって、独特の摩擦音を響かせる。

 白百合は衝突の体勢のまま、さらに後退する。逃げようとする白百合に、一条は距離を詰めようと駆けたが、白百合のほうは着地と同時に一条へと急接近する。

 ――これなら、どうですか。

「殺す」

 白百合の周りに死神の姿が現れる。一体や二体ではない。ビルの屋上、その三分の一近くを埋め尽くす、膨大な数の死神。

「むぅだーッ!」

 白百合は空中で身を捩って、くるくると回転する。三百六十度、一面に浮かんだ死神たちの、全ての動きが停止する。

 ――莫迦(ばか)な……!

 一条の顔に動揺(どうよう)の色が浮かぶ。

 ――これだけの数を、一瞬で。

 空中で回りながら、白百合が勝気の声を上げる。

「むぅだむぅだ、むぅぅぅぅぅっだぁぁぁぁ――――――っ!」

 一条の表情が険しくなり、鎌を握る手に力を込める。

 ――でも、隙ができた。

 一条は白百合に肉薄する。

 白百合には、見えていなかったのかもしれない。白百合の髪さえも反応できない、ツインテールの内側の領域。

 一閃した刃は白百合の左の肩から右の腰骨までを裂いて、体はビルの端の落下防止の柵に激突した。

「はぁ、はぁ…………」

 手応えはあった。白百合の体から血飛沫(ちしぶき)が上がるのも、この目で見た。

 呼吸を整えながら、一条は煙の上がる先を見る。砕けたコンクリートが瓦礫となって崩れて、その中の様子は暗さのせいもあって良く見えない。

 ――がら……。

 動く気配がして、一条は素早く構えの体勢に入る。

 途端に、ガクンと自分の膝が折れた。

「!」

 体に力が入らない。自分の意志とは関わらず、ごっそりとエネルギーが抜けてしまったような、脱力感。

 ――心を、解放しすぎた……!

 咄嗟に一条は周囲の死神に視線を向ける。どれも硬直したまま、一向に動く気配がない。

 ――戻せ、ない?これも、あの子の縛の影響か。

 視界の端で何かが動いた。煙が消えた先を見ると、白百合が瓦礫の中から姿を現す。体を縦に裂いて、そこから血が流れているが、倒すまでには至っていない。服は裂けて、そこに血が染み込んでいるのに、白百合はそこに立っていた。

 ――力が、入らない。

 白百合が一条に向かって駆け寄ってくる。

 ――殺意を、戻せれば。

「ラストおおおおォォオオオオオオッ!」

 白百合が跳び上がる。硬化されたツインテールが月明かりに輝く。



 ――パリッ。

 空気が光った。

 直後に、膨大な量の光が夜闇を照らし出し、暗黒だった景色を白一色に染め上げる。昼夜が反転したかと思うほどの、強烈な光。

 同時に、轟音(ごうおん)が鳴った。

 ――バリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリ――――――――ッ!

 雷鳴に似た音だった。

 光が、音が、闇夜を照らして、空間を一杯にする。

 ――バチッ!

 最後の閃光(せんこう)を放って、光は闇の中に消失する。代わりに現れたのは、黒い(かたまり)だった。人の形をしたそれは、しかし全身が黒く()け焦げで、原形がはっきりとしない。

 プスプスと灼ける音が鼓膜(こまく)を震わして、肉が炭化(たんか)する強烈な異臭が鼻腔(びこう)につく。白煙(はくえん)を上げながら、それでもなお体が僅かに動いている。

 黒焦げの塊に、近寄る影があった。

「白百合くん!」

 向かいのビルから、榊原が跳んでくる。

「大丈夫かい、白百合くん」

 慌てた様子で、電気ショックを受けた白百合に駆け寄る。

 電気ショックなどという生易(なまやさ)しいものではない、殺傷能力を有する雷と同等ほどの威力。全身が黒焦げで、顔すら判別できない。

「……」

 一条は、しばし感覚のない目でその光景を眺めていた。

 一条の頭の中には、しばらく白い閃光が輝いていて、目の前で榊原が必死の様子で白百合の名前を呼んでいるのに、それを理解することができなかった。

 十秒くらい()って、ようやく状況を理解した一条は、鎌を握り締めて榊原に近寄ろうとした。瞬間、それに気付いてピタリと静止する。

 仮面が浮かんでいる。

「……!」

 大小様々な仮面、形も色も、それぞれに異なっていて、同じ仮面はどこにもない。幾つもの仮面が宙に浮かんで、榊原と白百合の周囲を取り囲むように回っている。

「お願いだ。気がついてくれ」

 榊原は右手を白百合の顔の前に(かざ)す。黒く灼かれて、表情すらわからない顔の上に。

 そして、一条は見た。榊原の右手、右腕から掌くらいの大きさの仮面が()き出すのを。

「!」

 腕から生まれる仮面は、まるで気泡(きほう)のように宙に浮かんで、次第に大きくなって、周囲に浮かぶ他の仮面と同じくらいになると、周りの仮面と同様に、榊原の周囲を浮遊(ふゆう)する。

 ――ポオォ……。

 榊原の右手から、光が瞬く。

 光は徐々に大きくなって、榊原の右手を包み込むくらいの大きさまで成長して、白百合の顔の前で輝き出す。

 ――あれは……。

 思考が止まりそうな頭で、一条はその光景を注視する。

 榊原は光を放つ右手を白百合の前に翳したままゆっくりと動かす。顔に付いた汚れを払うように動かすと、白百合の顔から黒く焦げた皮膚(ひふ)が消えていき、すでに再生を始めた新しい皮膚が現れる。

 とても長い間、そうしていたように思われる。

 黒ずんだ部分が大分取れて、白百合の顔がはっきりと見えるくらいになって、白百合の口元が(かす)かに動いた。

「……………………ぅ…………ぁぁ……」

 榊原はガバっと体を前に突き出す。

「白百合くん!」

 右手を入念に白百合の前に翳して、榊原は白百合の顔を凝視する。

「…………ぁ……ぃ、樹さん…………」

「私がわかるかい、白百合くん」

 白百合がゆっくりと、微かに頷く。

「……うん。樹さん、樹さん…………」

「ああ、そうだ。私だよ」

 激しく頷いて、榊原は右手を顔以外の部分にも当てる。光に触れた部分から焦げた色が消滅していって、再生された皮膚や()り切れた衣服が(あら)わになる。

「樹さん、樹さん…………」

「わかる。わかるよ。だから少し(しゃべ)るのを()めて。すぐよくなるから」

「…………ごめん、なさい」

 白百合の言葉に、榊原は絶句した。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。私…………」

「……もう、いいから。少しだけ、休んでいなさい」

 榊原は右手を白百合の目の前に翳す。しばらくしてから手を退けると、白百合は目を閉じて、穏やかな寝息を立てている。

 白百合をその場に寝かせて、榊原はすっと立ち上がる。

「宗助」

 呼ばれた若草は、しかし何の反応も見せない。

 榊原は俯いていた顔を上げて、奥のほうに立っている若草へと視線を向ける。

「何故それを使った?」

 若草の右手には拳銃(けんじゅう)が握られている。小型拳銃にしては異常に銃口が大きな不恰好な銃。そして白百合の周囲には、いまだ細い白煙を上げる四つの球体が散らばっている。

「トレストの動きを一時的に封じるための放電式スタンガン。彼女がフルセルフでなければ、死んでいたよ」

「彼女がフルセルフだからこそ、使った」

「宗助……!」

 穏やかな返答に、しかし榊原の感情は一気に沸点(ふってん)を超えた。

「何故君はそんなものを使った?そんな無粋(ぶすい)な、野獣に無理矢理首輪を嵌めるような、そんな強引な手口を。彼女たちは真剣に戦っていたんだよ、自分たちの心を()けて。少女たちは自身の思いを()して戦ったというのに、君は、そんな野蛮(やばん)な道具で、彼女たちの心を踏みにじったんだ!」

 叫んで、若草を睨んだ。仮面の下に隠れて、表情まではわからないが、その語気から、雰囲気から、榊原からは激しい怒りの感情が溢れ出している。

 非難を受けて、しかし若草は穏やかな表情を崩さない。

「そうしてでも、僕は君を止めなくちゃならない」

 若草の返事に、榊原は愕然とする。

「なんだって」

「君のやろうとしていることは、危険だ」

 手にしていた銃を(ふところ)にしまって、若草は言葉を続ける。

「君が完成された、フルセルフ。その実物をこの目で見て、僕は思った。これは、危険だ、とね。早いうちに対処しなければ、と。(さいわ)い、僕は総指揮官の地位にいるから、いろいろと準備をしてきている。今のスタンガン以外にも、まだまだ武器はある。君をこのまま、連行してもいいのだけれど」

 若草の右腕は、まだ自分の上着の中にある。

 一条は、若草の態度に違和感を覚える。

 ――何を言っているのですか?若草総指揮官。

 若草の考えは、当初榊原を説得して組織へ連れ帰すことだった。なるべく手荒(てあら)な真似は避けて、だからこそ、若草はこの地域に来てから毎晩散歩をしていた。榊原は散歩が好きだった、その記憶に頼って、榊原との偶然の再会を望んでいた。

 それなのに。

「…………くっくっくっくっ」

 笑い声が聞こえた。低く押し殺した、含みのある笑い。

 榊原は俯いて、左手で顔の前につけた仮面を押さえている。

「連行するだって」

 榊原はさっと顔を上げる。

「やれるものなら、やってみればいいさ!」

 直後、一条は異変を感じた。

 ――ゾワッ!

 周囲に浮かんでいた仮面たちの動きが止まる。仮面の形が徐々に変わっていき、そこから体が生えてくる。獣とも人ともとれない、異形の怪物。同時に、闇の中から榊原の姿が現れる。一人、二人なんていう数ではない。

「さあ、出してみろよ。君の武器を」

 榊原が挑発する。

「白百合くんを殺して、私を殺すっていう、その武器をさ」

 榊原は余裕をもって若草を見ている。

「…………」

 若草は静かに上着から右腕を抜き出した。

 ――あれは……!

 それを目にして、一条の背筋に冷たい感触が走る。

 それは掌大の円筒形の物体だった。長さは十センチメートルくらいで、半径一センチメートルと少し、さっきの拳銃と比べると武器という印象はなく、それほど危機的な感じがない。

 ――いけない。それは。

 立ち上がろうとしたが、今の一条にはそれすらできなかった。体から力が抜けて、腕で支えることもできない。

 若草はキャップを外して、ポケットに仕舞(しま)う。自分の首筋、頚動脈(けいどうみゃく)の辺りにその先端を当てて、腕を止める。

「……?」

 榊原が不思議そうにその様子を見ている。

「………………」

 僅かの間、一瞬の逡巡(しゅんじゅん)があったのか、しかし若草はそれを自分の首筋に強く押し付ける。

 ――プス。

 空気が抜けるような音が若草の鼓膜を微かに震わす。

 ――ドクン。

 若草の体が痙攣(けいれん)して跳ね上がる。

「……!」

 榊原は驚いてその様子を凝視する。

「ぐっ……!」

 若草はその場に片膝を折った。

「………………」

「………………」

 世界が止まってしまったような静寂。

 榊原も、一条も、何も言えず、ただただその場に立ち尽くす。

 ――カリッ。

 恐ろしく長い沈黙を終えて、若草の体が動き始める。右手に握り締められた筒が足場のコンクリートを引っ掻いて音を鳴らす。

 若草は、ゆっくりと立ち上がる。

 ――カランカラン…………。

 起き上がったと同時に、若草の手から円筒形の容器が(こぼ)れ落ちる。静かな空間に、その音が異様に響く。

「………………」

 誰も、何も言わない。

 静寂が、空間に満ちる。

 ――ブオっ。

 突風が吹いた。

 若草の帽子が、風に飛ばされる。若草の伏せていた顔が、そこで露わになる。そこにあるのは。

 ――榊原の目の前に、煉瓦の腕が現れる。

「!」

 衝撃。

 榊原の体が、突如出現した岩の腕に押されて吹き飛ばされる。

 一条は飛ばされていく榊原の姿を見て、次いで若草のほうへと目を向ける。立ち上がった若草、その顔はいつもの若草には似つかわしくない、苦笑ばかりを浮かべる若草からは想像できないほど。

 目元は険しく、表情はひたすら硬く、口元は硬く結ばれて、そのまま永遠に開きそうにない。表情はなく、感情を一切(はい)したような、強烈な無を帯びている。その若草らしさ、人間らしさを徹底的なまでに排した雰囲気は、この世の全てを拒絶しているようにも見える。

「わ…………」

 一条が口を開きかけた、その瞬間。

「ははははははははは――――――――――っ!」

 高笑いが聞こえて、一条は口を閉じて声のしたほうに視線を向ける。

 巨大な岩の腕に殴り飛ばされた榊原が、夜空に浮かんでいる。

「いいねいいねいいねいいねェ!まだ君も仮面を使えたなんてね。トップに立って、すっかり引退したと思っていたけど、まだまだ現役というわけだ」

 高らかと両腕を掲げる榊原の両脇に、岩の腕が闇から姿を現す。掌を(さら)した二本の腕、掌の大きさだけで榊原の背丈を超えている。

 ――ゴォン!

 両手がぴたりと閉じる。余波で空気が震える。

 ――ヒュンヒュンヒュンヒュン。

 周囲に浮かんでいた榊原の仮面や分身が、その形を変えていく。それは槍のように鋭利で、そのどれもが先端を若草へと向けている。

 ――ヒュン!

 幾つもの槍が、若草に向けて放たれる。

「………………」

 若草は、しかし危機的状況に立っても表情を変えない。

 ――ギンギンギンギン…………ッ!

 若草の周囲に、壁が(そび)え立つ。城壁のような壁が、若草の周囲、頭上を(おお)い、いや、ビルの屋上全体を覆って、槍を全て受けきった。

「最高だ」

 攻撃の音が止んで、周囲の城壁がすっと闇に消える。見えた夜空の中に、榊原の姿が浮かんでいる。

「お前だ。本当に昔のお前だ」

 高揚したように口を開く榊原に、対して若草は険しい表情のまま、無言で見上げる。

「全てのものから身を守り、全てのものを破壊し尽くす。まさに、まさに、『守護神(しゅごしん)』の名に相応(ふさわ)しい」

 喝采を上げる榊原の周囲、闇の中から、二本の腕が生まれる。岩の手が、榊原の身体(からだ)を握り(つぶ)す。

 ――グチャグチャ、グチュグチュ……。

 リアルな音を立てて、岩の手は人のように器用に動きながら、中に埋まったものを握り潰していく。

 ――つぅー……。

 指の隙間から、赤黒い液体が滲み出る。

 しかし。

 ――つぅー、つぅー……。

 赤黒い液体は岩の手の指を濡らして、手の甲に滲んで、先のない手首まで覆い尽くす。

 ――ずちゅ、ずちゅ……。

 岩の手に纏わり付いた液体が、音を立てて盛り上がった。固く結ばれた指の上で、一つの形を形成する。

 赤黒い液体は合わさりあって、すうーっと伸びていって、高さが決まると、それでもなお液体は上昇を続けて、膨れ上がった上部が丸くくびれて、その真下から左右に伸びて、それが頭となり、腕となった。軟体動物(なんたいどうぶつ)のように不安定だった胴体が次第に強固(きょうこ)なものとなり、指の間から溢れた液体は徐々に固まって、その境界がはっきりすると、それは足となってその場に立った。

 ――榊原樹が、そこに現れた。

 身に付けていたマントと、あの目立つ帽子はなく、シンプルな姿で、榊原は岩の手の上に立っている。

「お前が『守護神』でくるなら、俺も『詐欺師(さぎし)』の名で相手をしようじゃないか。神様の前に、一体どこまで俺の詐欺(ペテン)が通じるかな」

 榊原は右腕をすっと伸ばして、指をパチンと鳴らす。

 ――ぞわ。

 夜空に仮面が満ちる。

 色も形も様々な、奇怪な仮面、それが無数に宙に浮かんでいる。

「………………」

 若草は無言のまま、険のある目で仮面を見上げる。

 榊原の押し殺したような笑い声が、不快に空気を揺さぶる。

「さあ、踊ろうじゃないか、若草。今宵の最後(フィナーレ)を飾る、素晴らしいダンスを」


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