第一楽章 神の悪戯
真っ暗な部屋の中で、一つの明かりが見える。暖かみのある橙黄色に照らされて、部屋全体の輪郭が薄暗く照らし出される。
部屋の奥に、一人の男の姿がある。
「…………」
男は飾り気のない簡素な木製の椅子に腰掛けて、ひたすら机の上の書類に目を通している。
机を覆う、膨大な量のA4紙、机だけでは納まりきらず、隣のベッドにまで、ファイリングされた紙の束が散乱している。
――コン、コン。
部屋の扉がノックされる。
「…………」
しかし男は気付かない。
――コン、コン。
もう一度、二回続けて扉がノックされた。
「…………」
これにも気付かない。じっと書類に目を通したまま、意識がそこから離れない。
――コン、コン。
「若草総指揮官?」
扉の向こうから、女性のものと思われる声がした。成熟した大人の、よく澄んだ声で、鋭い音色を含んでいる。
若草はハッとして顔を上げた。振り返って、扉のほうを見ると、扉はまだ開いていない。
「………………」
若草は室内でも被ったままの、丸いつばのついたよれよれの帽子を目深に押し下げて、半身を扉側へと向ける。
「……どうぞ」
――ガチャ。
見計らっていたように、扉が開く。
「失礼します」
一礼してから、少女は部屋の中へと入ってくる。
ショートカットの下から細長い眼鏡が覗き、レンズの奥にある瞳はどことなく理知的で、クールというよりは、それ以上に冷え冷えとした印象を与える。整った顔立ちに、瑞々しい口元、欠けた要素はないが、その完璧さが反って、少女に近づきがたい印象を与えてしまっている。
一条は両手で一抱えあるくらいの紙の束を抱えて、男の前へと歩み寄る。
「…………すまない」
若草は帽子越しに頭を掻きながら、弁解の言葉を述べる。
「ちょっと報告書を見るのに集中していて」
「報告書の追加です」
立ち止まって、一条は若草が言い終わる前に口を開いた。言い方は非常に断定的で、簡潔であるがために、温かみも損失している。
「…………またか」
若草は頻りに頭を掻いている。
「こちらにおいておきます」
一条は限りなく無駄のない動作で、彼女が抱えていた書類の束をベッドの上に置く。ベッドに積まれた書類は、既にベッド面積の八割を占領して、空いている空間と言えば、枕と足先部分くらいしかない。
「当分かかるな」
自嘲気味に、若草は笑う。
書類は全て、『組織』からの報告書だ。主な内容は、各地区で活動しているMASKSからの報告で、大体はフラスト・トレスト『壊散』及び壊散体の特性報告、残りは被害報告に分類される。
『壊散』とは、フラスト・トレストを倒したときの組織独自の言い方で、心の世界の存在であるフラストやトレストが、その形を維持できなくなるまでバラバラに破壊することを示す。
心の世界の住人は、我々体を持つものと違って、心というエネルギーの塊でしかない。故に、多少の傷ならばすぐに再生してしまう。
心のエネルギーが集まって、化物の形を作れなくなるまで破壊して、ようやくフラスト・トレストを倒せたと言える。
フラスト――トレストも含まれるが――を倒したら、MASKSは組織までその事実を報告しなければならない。フラストの発生場所、フラスト保有者、フラストの形状、特性、その他備考欄に気になった点を詳細に記すのだが、ほとんどは被害報告を扱っている。
本来、心の中で処理されるフラストレーションが、当人の体から溢れ出してフラストという化物を生み出してしまった場合、外界である体の世界、つまり一般社会に、少なからず影響が出てくる。
普通、心の存在は体の世界の者たちには認識されにくい。夢と同じように、仮にその瞬間目にしたとしても、時間とともに記憶が褪せて、最終的にはフラストを目撃した事実を忘れてしまうことがほとんどだ。
規模が小さいものならば戦闘の痕跡そのものが現実世界に残らないのだが、フラストの強さや特性によっては、世間の人間に気付かれる可能性がある。
フラストが世間にバレないために、組織ではその戦闘、または被害の事後処理を行なうグループが存在していて、MASKSから報告を受けて処理班が動く、という構図になっている。
若草が行っていることは、直接的な事後処理ではなく、MASKSの人事異動に関することが主である。
報告書から、MASKSの担当地域を変更したり、実績を上げるものがいれば、平戦闘員からホリックへの昇格も検討する。逆に、フラストとの戦闘で不備を起こすものや、戦闘そのものに支障を来すMASKSには、それなりの処理を決断しなければならない。
普通は、MASKS全体を管理する立場にある若草が報告書の処理を全部行なって、それほど時間もかからないのだが、最近ではその処理が間に合わなくなっている。
「御手伝いしましょうか?」
一条の言葉に、若草は疲労の滲んだ笑みを浮かべて答える。
「ありがとう、気持ちだけ受け取っておくよ。でも、これは僕の仕事だからね。最後まで、僕がやるよ」
「私の仕事でもあります」
若草の言葉を遮るように、一条が返す。
「私の立場を、もしやお忘れではないでしょうね?」
冷気を含んだ声を、若草に向ける。若草は、黙って一条の言葉を聞いた。
「総指揮官補佐。それが私の役職です」
それだけ言って、一条は言葉を止める。若草も、すぐには答えず一条を見返す。居心地の悪い沈黙が部屋の中に広がっていく。
若草は苦笑する。
「……そうだったね」
若草はベッドの上に積まれた書類の塊に視線を向ける。
「じゃあ、特に目立った報告があれば、教えてくれないか」
静かに一条は動き出して、手際よく書類の山から数枚の書類を抜き出した。一条が手にした書類には目印として付箋が貼ってあった。
一条は書類に目を通しながら、淡々と報告を始める。
「追加報告は計二七。内、二五がMASKSからの報告」
付箋の色に合わせるように、一条は書類の順番を並べ替える。整理が終わって、一条が口を開く。
「――内、八件が被害報告です」
若草は肩と落とす。
「……またか」
若草の素振りを無視するように、一条は報告を続ける。
「一五から一九ブロックに被害が集中、また重傷が二件あります」
一条はピンク色の付箋が貼られた二枚の報告書を取り出して、それを若草に差し出した。書類を受け取って、若草はその二枚に注意深く目を通す。
「ホリックが一人やられたか…………」
ホリック、MASKSの中でも高い実力を持つものを特にそう呼ぶ。MASKSはフラスト撃退のため各地区に配属されているが、ホリックはその担当範囲が通常のMASKSより広く、フラストの中でも上位の力を持つトレスト壊散を義務としている。他にも、ホリックは各地区を管理する役割も担っており、組織から周囲にいる他のMASKSの状況も知らされており、MASKSの中でも特権的な立場に位置する。
「これで何人になるかな。重傷の人数は」
「全部で一五人。内、ホリックは四名です」
一条が即答する。
「…………多いな」
若草は項垂れる。
一条は書類をめくり、一枚を取り出した。
「あと一件、臨時検討局からの報告があります」
若草は顔を上げた。
「先日捕獲した榊原樹の協力者と思われる人物、Xナンバーに関する報告です」
一条は赤い付箋が貼られた書類を若草に差し出した。
「……広末、広平くん、だったかな?」
若草の問いに、一条は何も見ずにすらすらと答える。
「Xナンバー、広末広平。クロ、雨宮海斗ペアが発見、捕獲。広末広平の発言より、彼が榊原樹と近しい関係にあることが判明。捕獲し、組織へ送達後、臨時検討局を発足、Xナンバーとして調査しています。Xナンバーとした理由は…………」
「彼が、広末広平くんが、普通のフラストやトレストとは異なるから、だったね」
一条は頷く。
「フラストは宿主の心から分離した異端の心。それが体の世界に漏れ出したモノ、それがフラストという存在。しかし広末広平の場合、体と心が一致しています」
フラストは人が隠そうとする、他人には見せたくない心の部分から独立した感情。その人にとっては、化物にも等しい異形の心。
そのため、フラストの意識と、宿主である人間の心の意識は、概ね異なる。ほとんど交わらない、と言ったほうが正しい。
自分が隠そうとしている、自分が否定している、自分が消そうとしている、そんな感情。自分でありながら自分とは独立した化物を、人が受け入れることは異例だ。
「その点では、広末広平はMASKSに非常に近い存在だと判断できます」
MASKSは、少なくとも二つの心を持っている。
一つは社会生活を送るための表向きの顔、もう一つはフラストと戦うときのために普段は隠している裏の顔。
この二つの心を、MASKSは巧みに使い分けることで、心のエネルギーを自らの意思で解放している。
普通の人間はこの心の切り替えがスムーズに行なわれないために、フラストを生み出してしまう。
「あるいは…………」
言いかけた若草。
しかし。
「……いや」
すぐに口を閉じる。
「臨時検討局からの報告です」
一条が書類に視線を落とす。
「Xナンバー、広末広平の証言より、彼が榊原樹と接触していたことが判明しました」
「クロくんの報告にも、すでに広末くんが榊原と接触していた、とあったね」
一条は頷く。
「臨時検討局も確認しようとしましたが、当初は記憶も曖昧で、会話すら成り立っていない状況だった、と。これはクロ・雨宮ペアとの戦闘の際に、心に相当な損失を受けたものと考えられます。――しかし」
一条は続ける。
「今回の報告では、Xナンバーは、榊原樹と接触したと、証言しています」
また、と言って一条は一枚の報告書を若草に差し出す。
「その場所も、今回の証言から得られました」
「二十ブロック……!」
一条の指差す項目を目にして、若草は驚きを隠せない。
しばらく報告書に目を通して、若草は椅子に深く腰掛ける。
「私の予想は、正しかった、ということか」
「そのようです」
落ち着いた様子の若草に対して、一条は冷めた言葉で返した。
「この地域にいる。わざわざ組織から来て、無駄足にならずに済みそうだ」
「いかがいたしますか?」
一条はひどく事務的に訊く。
「戦力をこのブロックに集中させますか?」
「いや」
若草はすぐに口を開く。
「配置は崩さない。どちらかというと、被害のあったところの埋め合わせをしなくちゃならない」
「榊原樹がここにいるのに?」
「それは確率の問題だ。確かに榊原がいる可能性は高いが、確実じゃない。それよりも、これ以上被害を出さないことを考えるほうがよっぽど現実的だ」
「逃げられますよ」
一条は、見下ろすように言う。若草は椅子に座って、一条は立っているので、身長差から言えば目線はほとんど同じなのだが、一条の言葉には人間らしい温かみを一切排除したような響きがあった。
「そんなことでは、また逃げられます」
一条の冷えた視線を浴びながら、しかし若草は苦笑を浮かべるだけだった。
「…・・・かもね」
「甘いです」
一条の冷たい言葉が断言する。
「あなたは甘いです」
「……手厳しいな」
若草は笑い損なったような表情を作る。
しばらく黙って一条の言葉を待っているつもりだったのだが、一条のほうが何も言わないので、若草は帽子を被り直しながら言葉を探す。
「…………犠牲者を」
ようやく若草が口を開く。
「犠牲者を、出したくないんだ。得るためにはそれなりの犠牲を払えという考え方もあるし、私もその考えを否定する気はない。――けどね」
若草は帽子に乗せていた手を離した。
「私は、私には無理だね、そういう考え方は。人は、駒じゃないんだ。人には、意思がある。今まで生きた生き方も人によって違うし、考え方だってそれぞれ違う。それは貴重なものだ。簡単に切り捨てられるようなものじゃない。個人という存在は平等であって、そこに優劣はない。何かを為すために犠牲が必要だからって、簡単に人を使い捨てのように使うのは、私は納得できない」
「『組織』にいる人間が――」
静かに若草の話を聞いていた一条が、滑らかに口を開く。
「総指揮官という地位にいる人間が、言う言葉ではありません」
「確かに」
若草は自嘲気味に笑う。
「組織の方針からは、下手をすれば対立するような意見だろうね」
秘密主義。
組織の活動は、心から溢れ出したエネルギー、組織ではフラストと呼んでいる化物を破壊し、且つ、フラストの存在、延いては組織の存在が明るみにならないための隠蔽工作。
MASKS、組織が生み出した対フラスト用兵器。人を化物と戦わせるための技術、それは組織だけが手にした技術だ。
組織が組織としてあるために、MASKSという兵器は組織の中にのみあらねばならない。決して他のものに知られてはならない。
故に、組織はMASKSには何も知らせないし、世間にその存在を広めかねない出来損ないの兵器は簡単に切り捨てる。
それが組織の方針、考え方、理念なのだ。
「でもね」
若草は口を開く。
「変わる必要があると思うんだ、今の組織は。フラストを社会からなくすために、MASKSという犠牲を払う。でも本来、フラストは人の心から生まれる。人が悩み、苦しんで、けどそれを誰にも打ち明けられない、だからフラストが生まれる。これは私個人の考え方だけど、フラストを創っているのは、社会全体なんじゃないかと思うんだ。もちろん、何も悩まずに苦しまずに生きていく方法は理想的だけど、でもその苦しみをわかってあげることは、少なくともできるんじゃないかと、私は思う」
そこで、言葉を区切る。
若草は何も言わずに一条を見て、一条もまた黙って若草を見返す。二人の間に、僅かな沈黙が生まれる。
「……すまない」
最初に沈黙を破ったのは、若草だった。
「話が逸れたね」
タイミングを見計らったように、一条が口を開く。
「この後のご予定は?」
若草は一瞬考えてから口を開く。
「とりあえず、各ブロックの被害状況を把握しておきたいから、しばらくまた報告書に目を通しておくよ。まあ、今日中に終わるかどうかもわからないから、三十分くらいできりをつける。そしたら……」
若草は微笑む。
「その後で、散歩に行こうか」
一条が呆れたような口調で返す。
「またですか?」
「うん。悪いけど、今晩も付き合ってくれないか?」
「甘いです」
一条は即答する。
「あなたは甘いです」
若草は困ったような、複雑な表情を作る。それを見下ろす一条の瞳は、眼鏡越しでも伝わるくらい、冷ややかで鋭利なものがあった。
遠くでネオンの音が聴こえる。高層ビル群が犇めき合い、コンクリート製の箱に取り付けられた幾つもの長方形の窓ガラスからは、金糸雀色の弱々しい光が浮き上がり、漆黒たる夜闇を薄っすらと光沢する。
それよりももっと下、下界の地上では、車や店、街灯の明かりが騒がしく、道路を闊歩する車の音はただただ眩しい。
人は夜になって眠りにつくが、町は夜になっても眠ることはない。
町の明かりが夜の世界を照らし出す。暗黒の空間に光が差して、人を、町と言う存在を、この地に刻む。
「滑稽だね」
一際大きなビルの屋上に、人の姿があった。
体をすっぽりと覆い隠すように、爪先まで隠せるくらいのロングコートを身に付けて、胸前で開かないように固定はされているが、風のせいでパタパタと揺らめいている。色は闇夜に溶け込むような漆黒色で、中の衣装も一目を避けるように黒一色で統一されている。
頭の半分近くを覆うように帽子を深々と被っているが、その帽子がなんとも奇抜で、お伽話の魔女がつけるようなつばの大きな真っ黒い色をしている。その帽子の下からは、周囲の色とは対照的に真っ白な仮面を被っていて、額から顎の先まで完璧に覆っているので、性別すら定かではない。
目を丸く、口を笹の葉状に切り取った輪郭の仮面は、陽気な印象も感じられるが、夜闇に浮かぶ白い仮面は、どこか不気味な雰囲気さえ漂っている。
「闇を恐れて、光を焚く。光に隠れて、闇を隠す。光の眩さを見るあまりに、闇が育まれていることに気付きもしない」
仮面の人物が空を仰いだ。
「月はいいね」
夜空にぽっかりと月が浮かぶ。雲の少ない空だったが、星々は町の明かりに照らされて、闇の中に姿を消している。月だけが朧気に空を彩っている。満月から何日か過ぎて、少し欠けた月が、真っ白な光を放っている。
「月はいい。いろんな顔を見せてくれる。いくつもの表情を見せてくれる。毎日違う姿、夜毎違う色を見せてくれる。でも――」
仮面の人物が感極まったように、両手を空に突き出す。両の手には皮膚に密着する黒い手袋が嵌められている。
「まだ足りない。まだ、全てを見せてはくれない。光り輝く美しい顔は見せてくれるのに、その奥に隠れたもう一つの表情は決して見せてはくれない」
とても長い間そうしていたように見えた。月の浮かぶ空を眺めて、仮面の人物は緩やかに視線を下のほうへと向ける。ビルの頂上にいても、地上を走る車や下界を彩るネオンの音色が聞こえてくる。
「人は――」
仮面の人間が呟く。
「人は、人を知らない。理解ろうとしない」
仮面の人間は歩き始める。
「そんなに難しいことではないのに。とても簡単なことなのに。ただ、自分を知ればいいだけなんだ。自分を知って、そこから相手を想像すればいいのに。自分の痛みがわかれば、他人の苦しみも理解できるのに」
悲哀を含んだ声が、闇夜の中に薄れていく。町を覆うネオンに照らされて、意味を失ったように掻き消されていく。
「それって、つまり――」
歩く向きを変えて、ビルの中央へと歩き始める。歩調も、少しだけゆっくりになった気がする。
「人は案外、人を知らない、ってことだろ」
仮面の人間の口調が、僅かだが変化したような気がする。弾んだ調子の、軽い声。先ほどとは対照的と言ってもいい、明るい声。しかしそこには、少しばかりの侮蔑が含まれているような気がする。
「簡単なことなのに、わかっていない。単純なことなのに、理解ろうとしない。人を傷つけるようなことはしてはいけません、なんて、どこかで一回は教わったはずなのに。きっと子どもだって、一度は耳にしたことがあるはすだ。でも、誰かを傷つけることをしてしまう、ってことは、それを理解していない、ってことになる」
屋上の入り口付近を、ぐるぐると回りだす。
「誰だって感傷することがあるはずだ。苦悩なんて、人生と同義なんだから。痛みや寂しさを伴わない生き方なんて、神様でもなければできやしないんだ」
だから、と言って仮面は続ける。
「人は、誰だって気付くことができるはずなんだ。他人の痛みをね。だってそうだろ、自分が痛いってわかれば、他人だって傷ついているなんてことは、すぐにでも想像できることだろ。簡単なことだよ、とてもね。でも、それに気付かないで、誰かを傷つけてしまうのは、見ようとしないからだろ」
人間は立ち止まる。
「でも――」
静寂を置いて、仮面は口を開く。
「人は心を覗けない」
再び、声が陰りを帯びる。
直前までの弾んだ調子から一変して、物憂げな音色に落ち込む。嘆いているような、諦めているような、重くて、優しい音色。
「わかろうとしても、やっぱり他人は他人でしかない。そこには壁がある。自分の心と、相手の心。そこはどうしても超えられないし、どうやっても超えられない。人の心の内を完璧に知ることができる人間なんて、この世にいるわけがないんだ。人は――」
仮面は天を仰ぐ。
白い月は弱々しく輝いて、その光が夜空を彩る。人の間を埋め尽くす町の明かりの中へと、月は平等にその微かな光を注いでくれる。
「自分の想像でしか、人を量れない」
静かな声が、ビルの上に拡散していく。町の中には、車と人と光が溢れて、仮面の声は聞こえない。
仮面は項垂れた。その姿は、闇の中でとても儚げに映る。
「……………………」
沈黙を帯び始めた夜の闇に、突然笑い声が起きた。
押し殺したような、なんとか笑いを堪えようとする、そんな声。
「じゃあ…………」
笑い声を抑えながら、仮面が口を開く。
「俺がその壁をぶち壊してやろうか?」
仮面が言った。
挑発的で、自信に満ちた声だった。
他に人の姿はない。仮面が一つ、ビルの屋上、人の世界より離れた場所で、押さえきれない笑い声を上げている。
「――――――」
仮面が再び声を上げる。しかしその声は風の中に消えてしまう。
夜空の中を、突風が駆けていった。まだ夏の残りを含んだ、温かみのある風だ。仮面の人間のコートが、風に煽られて揺れている。
突風はすぐに消えて、辺りはまた静かになった。
「……………………」
仮面は、ただそこに立っている。
直前まで言いかけた言葉を、忘れてしまったように、口を閉じている。笑い声さえも消えて、夜空はまた静かになる。
「…………帰りましょうか」
穏やかな声で呟くと、仮面はビルの外側へと向かって歩き始める。
端までくると、落下防止用の金網が設置されている。金網越しに、下界のネオンが眩しく輝いている様子が見える。
仮面の人間は、自分の背丈よりも高いフェンスを軽く飛越えて、そのまま三十メートル以上は離れている隣のビルへと飛び移る。
「…………」
着地してから、仮面は空を仰いだ。
夜空にぽっかりと月が浮かぶ。雲の少ない空だったが、星々は町の明かりに照らされて、闇の中に姿を消している。月だけが朧気に空を彩っている。満月から何日か過ぎて、少し欠けた月が、真っ白な光を放っている。
「月はいいね」
仮面が堪能するように月を眺めている。
別の声が聞こえたのは、ちょうどそのときだった。
「ずいぶんと余裕ですね」
「ん?」
仮面の人間は辺りに視線を向ける。
仮面の人間が降り立ったビルは、周囲のビルの中でも一際大きかった。先程のビルと違ってフェンスもなく、屋上部分もとても広くて、何もない。中心部にだけ、アンテナのような塔が空に向かって伸びている。
その塔の上に、仮面は人の姿を見つけた。
月明かりが透明な窓ガラスから差し込んでくる。白い光に照らされて、そこだけ仄青く輝いている。
「…………」
高峰は窓に近づいて外の景色を眺める。満月から少し欠けた月が、高峰の大きな瞳に写し出される。
窓の外には、他にも建物の形が見える。しかし、そのどれも月を妨げることはない。欠けた月は夜空の中で、一つだけその存在を輝かせている。
「…………」
高峰は窓から離れて、部屋の奥へと戻っていく。カーテンの付いていない窓ガラスは、鍵を閉めたまま、そのままの状態で放置される。
六畳くらいの小さな部屋、部屋の隅には金属製の棚が天井付近まで伸びている。棚はまだ高峰の胸の高さくらいにある一段しか使われていなくて、プラスチックのフォルダーが並べられているだけだ。その半分近くは、まだ中身すら入っていないように薄い。
部屋の中央にはガラスでできた小さな円筒型のテーブルがあって、その上には書類らしき紙の束が無造作に置かれている。
「…………」
高峰はテーブルの前に座って、テーブルの周りの床の上にあったパンチを取って、テーブルの上の紙に孔を開けていく。
――カシュ、カシュ、カシュ、カシュ…………。
明かりの点いていない部屋の中で、パンチで孔を開けるときの無機質な音だけが響く。高峰は一枚一枚丁寧に孔を開けていく。
全て孔が開け終わると、紙の束を揃えて、棚の中からフォルダーを一冊取り出して、その中に仕舞う。
フォルダーを棚の中に戻すと、高峰はパンチの中に溜まった紙屑をゴミ箱の中へと捨てた。こまめに捨てているのか、パンチの中にも、ゴミ箱の中にも、ゴミの量は少ない。
パンチを床の上に置いてから、高峰はゴミ箱のほうへと視線を向ける。
「…………」
じっと、ゴミ箱へ目を向ける。
プラスチック製の、小さめのゴミ箱で、二リットルのペットボトルより一回り大きいくらいしかない。その中に、取っ手のついていない、透明なビニール袋が口を広げて納まっている。中に入っているゴミは、先程捨てた紙屑以外に入っていない。まだ捨てるには早すぎる。
「…………」
高峰はゴミ箱からビニール袋を取り出して、口を閉じてしまった。
部屋の中に置かれたプロタイプハンガーから黒いジャンパーを取り出して、それを着ると高峰は左手にゴミ袋を持って、右手でベッドの頭のほうについている棚のような場所に置かれた、花の柄が入った扇子を取って、ジャンパーのポケットにしまうと、そのまま部屋を出た。
玄関までの通路には洗濯機や冷蔵庫、電子レンジなど生活必需品が置かれて窮屈そうだが、掃除が行き届いているのか、廊下の上は比較的綺麗で、何も落ちていない。
高峰は素足のまま革靴に足を入れて、無用心にも鍵を閉めずに外へ出て行った。上にはジャンパーを着ているが、高峰の着ているのは寝巻き、下からは女の子らしい薄いピンクの生地に柄の入った寝巻きが覗いている。
高峰が住んでいるのは、三階建てのマンション、その三階の角から三番目の部屋、階段から少し近い位置にある。
階段を下りていくと、まだ明かりの点いている部屋が幾つかあったが、本来あまり人の起きている時間ではない。
二階を過ぎて、一階へと向かう階段の途中で、二人の男が階段を上ってくる。一人がもう一人の肩に腕を回して、そのもう一人は顔を伏せた男を落とさないように支えている。肩を組み合っている光景も珍しいが、支えられているほうの男は見てわかるくらいにふらついている。支えられていなければ、真っ直ぐ歩くことも困難そうだ。
「……」
高峰は彼らの脇を通り過ぎる。途端に、独特の臭気が鼻をつく。噎せ返りそうな、衣服に染み付きそうな、嫌な空気。
飲み会、その後の、酔い潰れた友人を自宅まで送り届けに来た、その途中というわけだ。経験のない高峰にも、そのくらいはわかる。このアパートに越してきてからは、見慣れた光景になっている。
このアパートはどうやら学生専用らしく、高峰を除けば、住んでいる人間全員が大学生のようだ。空き部屋もあるにはあるが、一階につき六人を収容できる三階建てのアパート、その三分の二くらいは埋まっているだろう。外から見ると、カーテンの有無でそこらへんのところは判断できる。
夜の九時ごろから次の日の三時ごろにかけて、時折喚くような、騒ぐような、喧しい声が、高峰の部屋の中にまで聞こえてくる。外から聞こえるときは、だいたい飲み会の帰りだと予想される。帰りといっても、酔っ払いを家に届ける場合が多いので、静かな状況は少ない。
割とあるケースが、自宅での飲み会。二次会か一次会かは判別できないが、相当に騒がしい。同じ階で行なわれても、夜寝付くのに苦労するが、一階で飲み会をされても迷惑極まりない。隣の部屋で飲み会が行われたことはないが、いつ行なわれてもおかしくない。
飲み会が行われたことはないが、隣からベースギターの音が聞こえてくることはよくある。大学で音楽サークルでもあるのか、夜な夜な音楽をかけながらギターを弾いているらしい。一度演奏が始まると、午前零時を過ぎるのが常だ。
時々サークルの仲間を誘うのか、大勢の話し声が隣から聞こえるときがある。そんな日は午前四時ごろにギターの音で目を覚ますことも珍しくはない。
高峰がこのアパートに引っ越してきてから三ヶ月が経ち、そんなことがもう日常になってしまった。
「…………」
階段を下りて、高峰は一階に着いた。一階はすぐに道路へと続いていて、目の前は車一台くらいが余裕で通れそうな割と広い道になっている。
高峰はその道を登り始めた。結構急な坂道で、あまり好んで歩きたくはない。歩くことを一瞬躊躇させるような、そんな坂道。
「…………」
高峰は特に気にした様子もなく、その坂道を登った。
坂を上って、途中に坂から逸れる道があって、その道に高峰は入っていく。さっきまでの坂とは違って、平坦で、一瞬安堵を覚えるような道だが、暗くて、街頭もあるにはあるが灯りは弱く、数も少ない。薄暗くて、寂しい道、夜遅い時間のせいか、人気はまるでない。
「…………」
二十メートルくらい暗い道を歩くと、その先に今までより一回り明るい街灯が、一本見えた。その先の道を見ると、車が走っている様子が見える。
大通り、とまではいかないが、左右に車が走って、真ん中には車線も引かれている。車も割りと通るためか、さっきまでの道よりも明るい街灯が等間隔で立っている。
「…………」
高峰は車の通る道に入ると、歩行者専用の道に沿って、また登り始めた。最初の坂よりも傾斜は緩やかだが、坂道であることに変わりはない。その道を、高峰はひたすら登り続ける。
五メートル程歩いたところで、高峰は一人の男性と擦れ違う。
「…………」
高峰は男性のほうには一瞥もしないで、道路よりの道を通っていく。
男性は、一見して二十歳前後、おそらく大学生だろう、この近所には大学生が多く住んでいる。最初は横目でちらちらと高峰のほうに目を向けていたが、通り過ぎて高峰の視界から完全に自分の姿が消えると、驚いたように振り返って高峰を凝視した。
改めて確認しておくと、高峰の恰好は上にジャンパーを着ているが、下は寝巻きのまま。ジャンパーの下からは、寝巻き特有の薄っぺらい、女の子特有の薄ピンク色の柄をあしらったボトムが街灯の下に曝されている。
「…………」
高峰は特に気にした様子もなく、そのまま坂道を登り続ける。男のほうも、数秒ほど驚いたように高峰を見上げはしたが、それ以上何かするでもなく、そのまま下のコンビニへと向かって歩いていった。
「…………」
二十メートルくらい登ったところで、信号機が設置されたT字路が見える。夜中なので、点滅式になっている。
高峰の進行方向と並行する、坂道が黄色の点滅信号、その道に垂直に入ってくる道が赤の点滅信号。
「…………」
高峰は信号機の真下で足を止めて、坂の上のほうを見る。車は来ない。
「…………」
下のほうを見る。二つの白色光が迫ってくる。
「…………」
高峰は静止したまま、近づいてくる車を眺める。
車はスピードを上げて坂道を駆け上がる。一応、制限速度は時速四十キロメートルとなっているが、あまり意味はない。車はあっという間に高峰の前を通り過ぎて、そのまま坂の上を目指して走り去る。
「…………」
高峰はしばらく走り去って行った車の後姿を凝視していたが、興味が失せたように視線を正面に戻して、そのまま首を捻って坂の下へと向ける。車は来ない。
「…………」
車が来ないのを確認して、高峰は横断歩道を渡る。
向かいの道に渡ると、高峰は坂を下る方向に歩き始める。こちらの道はさっきまでとは違って、白線で歩道と車道を分けただけの簡素なものだった。そもそも歩行者に許された空間が三十センチメートル程度しかないから、道と呼べるのかも危うい。
そこまで細いと、歩道と車道の区別をする人はあまりいないだろうが、高峰は律儀にも白線の外側、歩道の空間だけを歩いていく。隣にはガードレールもあってとても窮屈そうだが、高峰の表情からは特に気にするような様子は見られない。
「…………」
十メートルほど下りたところで、ガードレールが不意に途切れる。見ると、幅二メートルくらいの空き地のような空間が空いている。そこに、一抱えくらいの袋が二つほど散乱している。どうやらゴミ捨て場のようだ。
「…………」
高峰は持っていたビニール袋をその中へと放った。ほとんど中身の入っていないその袋は、周囲のものよりも浮いて見える。
「…………」
高峰はもと来た道を戻って、信号を渡って向こう側へと移動する。夜も遅くて、車の行き来も少ないのだから、直接車道を突っ切ってもいいのだけれど、高峰は律儀と言うか、意固地と言うか、最早決して青にはならない横断歩道を通るルートを選んだ。
自分のアパートへ帰る途中で、高峰の脇を一台のタクシーが通り過ぎて行った。後部座席に二人ほどの人影が見えた。タクシーは、どうやら高峰のアパートの方向へ向かって行ったらしい。
この時間だ、酔いつぶれたアパートの住人が帰宅してきた可能性が高い。アパートの前がまた騒がしくなっていることが、安易に予想される。
実際に、アパートに戻るとその前の道で二人の男性の姿があった。タクシーはもう行ってしまって、そこにはいなかったが、一人がもう一人に肩で支えられるような恰好をしていて、その支えられている側が声高らかに何事かを叫んでいるから、きっと飲み会の帰りなのだろうことは想像するまでもない。
「…………」
高峰が二人の横を通り抜けようとしたとき、明らかに酔い潰れているほうの男が高峰に襲い掛かるように手を伸ばしてきた。支えているほうの男が何とかそれを止めたが、高峰は特に気にする様子もなく、スタスタとアパートの中へと入っていく。
一階から三階まで、階段を昇る途中でさえ、どこかから人の声が聞こえた。あちこちで部屋の明かりが点いているから、中の住人がまだ起きているのだろう。だが、こんな夜更けに声を上げるのは迷惑でしかない。
「…………」
高峰は限りなく平静で、どこまでも無感動なまま、階段を昇り続ける。
自分の部屋の前に立って、高峰は扉を引いた。鍵を閉めていなかったので、簡単に開いた。中に入って扉を閉めると、靴を脱いで、鍵を閉めずにそのまま部屋の中へと入っていく。
自室を開けて、中へ入る。
「…………」
部屋を出たときと変わらない、いつもの部屋。
高峰はジャンパーから扇子を取り出して、ベッドについている棚の上に置くと、脱いだジャンパーをプロタイプハンガーにかける。
「…………」
一人暮らしをしている高峰、モノの少ない部屋、それに逆行するようにプロタイプハンガーにはたくさんの衣装が吊るされている。
黒のジャンパーに白いワンピース、シャツもざっと見ただけで十枚以上はありそうだ。ズボンやスカートなどもハンガーにかかっている。
プロタイプハンガーも一つだけではなく、隣にもう一つと、扉の脇にも一つ、どれも服で一杯になっている。
一人暮らしで、しかも高校生という身分を考えれば、多過ぎるような気もする。部屋の中にあるハンガーに制服はないから、それは収納しているらしい。
高峰はゴミ箱に近づいて、中からビニール袋を取り出した。ゴミ箱の中には小さな透明の袋が結構入っていて、その上に取り出した袋を広げて置いた。
部屋の中に時計はないが、大分遅い時間であることは確かだ。高峰は棚の下に置かれた携帯電話に手を伸ばす。
開いて見ると、あと数分ほどで日付が変わる。
「…………」
高峰は携帯画面の下に浮かぶ文字に気付く。留守電が一件、入っている。
「…………」
携帯を弄って、再生ボタンを押す。最初に雑音が聴こえて、その後に男の声がした。
『もしもし、灯?お父さんだ』
声は、そう言った。
『まだ、学校ですか?また、学校を変えたそうですね。前の学校は、…………馴染めませんでしたか?』
つっかえつっかえに、声は言う。その合い間を埋めるように周囲の雑音がスピーカーから発せられる。
『今度の学校は、慣れそうですか?少しでも、周りの人と仲良くなってください。…………お父さんは、とても心配しています』
声だけで、年齢まではわからないが、どこか疲れたような響きを含んでいる。
『一人は、大変ですか?いや、一人のほうが、灯のためだったな。お医者さんもそう言ってたし。灯もそのほうがいいんだよな?』
少しだけ早口で、そう言う。確認するような問い。そうであってほしいという、希望的な願い。
でも、と言って声は続ける。
『偶には、帰ってきてほしいです。灯も、一人は大変だろ。灯の元気な姿を、お父さんも見たいです。そして、また、昔のように灯の話をたくさん聞かせてください。……………………少しは、話せるようになりましたか?』
高峰は、無言でそれを聴いている。
何も言わず、顔色も変えず、さっきまでと同様の無関心な瞳で、いつもと同じの無感動な顔で。
『偶には、連絡ください。お父さんに、灯の元気な声を、少しでも聴かせてください。いつでも、こっちに来ていいですから。――もし』
そこまで言って、声は一旦途切れる。
何か迷うような、何かを躊躇うような、沈黙。重い吐息がスピーカーから漏れる。それを掻き消すように、向こうの雑音が重なる。人の声が混じっている。車の音が聴こえないから、どこか建物の中だろうか。
永遠のように長い間、しかし実際には十秒くらいだっただろう。声が、口を開く。
『…………もし、お母さんに会いたかったら、会いに行ってもいいんだぞ。別にお父さんは、止めるつもりはないから。もう、止めたりしないから』
先を言いかけて、声の近くで他の声が聴こえた。声がそちらに応対してから、再びこちら側に話しかける。
『じゃあ、お父さんはまだ仕事があるから。また、連絡します』
そこで、ぷつと声が切れる。
ツー、ツー、ツー、ツー、という電子音がして、留守電が録音された時間が流れる。時間は、午後七時五三分、普通に考えれば学校は終わっているし、高峰もその頃は家にいたはずだ。あるいは、近くの店で買い物をしていたのかもしれない。
どちらにせよ、高峰が今まで留守電の存在に気付いていなかったことは確かだ。
あるいは。
――わざと電話に出なかったのか。
「…………」
高峰は録音メッセージを消去してから、携帯電話を元のように棚の下に放置した。充電器を挿したままにしているので、携帯を閉じた瞬間に、充電のランプが明るく光ったが、高峰は携帯を伏せて、光を隠してしまった。
塔の上から、人影が飛び降りてくる。落差二十メートル近い、その高さを飛び降りて、影はなんともないように仮面の前に立った。
お互いの距離は五十メートルくらい離れている。明かりがないため、人影の様子はよく見えないが、どうやら二人いるようだ。比較的背の低いほうは最初、顔の前に手を当てているようだったが、すぐにその手を退けた。
「どちら様でしょう?」
仮面は落ち着いた声で訊いた。
「僕だ、榊原」
男の声が、言った。
仮面は、その声に反応を示した。暗闇の中を、真剣に覗き見るが、暗がりの中では相手の顔までは判別できない。
背の高いほうが、仮面の人間に向かって歩き始める。
「…………」
近づいてくる男を、仮面はじっと見つめて目を逸らさない。やがて月明かりに照らされて、男の姿がはっきりと見えた。
丸いつばのついた使い古しの帽子を被っていて、スーツを着崩したような恰好をしている。帽子を目深まで被っていて目元は隠れてしまっているが、顎の周りには薄っすらと髭が生えている。
仮面がじっと見つめているだけなので、男は再び口を開いた。
「まだ、思い出せないかい。君とは長い付き合いをしていたつもりだったんだけど」
「宗助……!」
仮面の言葉に、若草は嬉しそうに微笑む。
「久し振りだね、榊原」
驚いたように若草を見ていたが、仮面の男、榊原は、急に愉快そうに笑い声を上げる。
「宗助は相変わらずだね。榊原なんて、他人行儀で。もう大分長い付き合いなんだから、名前で呼んだっていいのに」
「親しき仲にも礼儀あり。そういう考えなんでね」
ふーん、と榊原は軽く返す。
「ところで、何をしているんだい。こんなところで」
「散歩」
若草の問いに、榊原は即答する。
それを聞いて、若草は軽く笑う。
「相変わらず、散歩が好きだね」
「そりゃそうさ」
榊原は一度深呼吸をする。
「ずっと部屋の中にいたら息が詰まりそうだ。息苦しい。窒息する。いつまでも同じで、どこまでも淀んでいる、そんな濁りきったところにいるよりも、外に出て刺激を取り入れないと、人は腐ってしまう。本来、生物は外気に触れて生活しているのだから、人も彼らに倣うべきだろう。君は、宗助――」
榊原は若草に目を向ける。
「人間は最高の種族だと、そう信じるか?」
「またその問答かい」
若草は苦笑を浮かべる。
若草の言葉を無視して、榊原は続ける。
「人間のどこが完璧だというのだろうか。言葉を持っているから?社会を築き上げたから?まるで意味のない妄言だよ。そう思わないか」
「私に意見を求められても、ねえ」
榊原は構わず続ける。
「他の生き物だって等しく言葉を持っている。それは人間が理解していないだけで、彼らはちゃんとコミュニケーションの術を有するんだ。コミュニケーションできるが故に、他の種族もまた社会を持つ。社会を持っていることに、優劣は存在しない」
「それは、極論と言うんだよ」
「そうやって、誤魔化す気かい」
榊原は腕を広げる。
「人間の、人類の劣等を。文明を築いた者が強者か。科学を発展させた者が王者か。はっ!くだらない、実にくだらないね。見たまえよ!」
榊原は左手を町に向けて突き出した。
「光に隠れて、闇に怯えて、表面だけの世界で満足している。いや、満足させている、自分自身を。裏側を、心の内を隠して、それで満足している。そうやって…………」
榊原は声を荒げる。
「嘘を吐いている。みんな、みんな嘘吐きだ。あるいは無責任。あるいは偽善者だ。文明の進歩?はっ!人の心はこんなにも荒んでいるのに。心は脆く、壊れそうになっているのに。それを知っていながら、わかっていながら、目を逸らして、見ない振りをして、人の心を壊していく、壊れていくのを黙って見過ごす、そうやって壊していくんだ。何で気付いてあげられなかったのか、って?お前らは気付こうとしたのか!少しでも見ようとしたのかっ」
そこまで言って、榊原は黙った。一瞬硬直したかと思うと、すぐに腕と肩を落とす。背中を丸めて、上半身を屈めて、顔を伏せる。
「………………」
それまで黙って榊原の話を聞いていた若草は、榊原が顔を伏せて静かになってからも変わらず、黙っていた。少し疲れたような若草の目には、苛立ちも嫌悪もなく、どちらかと言えば、やや哀愁を帯びている。
それから充分十秒が経過して、ようやく榊原は上半身を起こした。
「組織を出て初めて気付いたけど…………」
榊原は再び口を開く。仮面を被ったままなので、表情も、口の動きすらも見えないが。
「心を見ようとする意識は、外の人間よりも組織のほうがよっぽどあるようだけど。組織から出て初めて、組織がマシに見えてきたよ」
「だったら…………」
やっと若草が口を開く。
「戻ってきたらどうだ?」
榊原は黙った。仮面の向こう側で、その様子が感じ取れる。
若草はさらに続ける。
「組織がいいと思えるなら、戻ってきたっていいだろう?組織と対立するのは、やはり無理だ」
「ふふふふっ………………」
笑い声が漏れた。
押し殺したような、押さえようとして、けれど堪えきれない、そんな種類の笑い声。笑い声が、ビルの上に拡散する。
ビルの下では、今でも車が行き来して、小さな声では掻き消されてしまいそうだが、若草にはその笑い声が感じ取れていた。
「くっ、ふふふ…………」
榊原が、身を屈めて笑っている。腹部を押さえて、必死に堪えようとしているが、体全体が小刻みに震えている様子が見える。
――ああぁぁ――――――――はっはっはっはっ…………!
笑い声がビルの上で木霊する。
単純で、純粋な笑い声がビルの間を通って、ビルに当たって反射する。反響した声が、ビルの周囲で重なり合って、うねったように歪む。
「おいおい、宗助」
ひとしきり笑って、それでも榊原はまだ笑いを抑えきれない。
「そんな理由で、僕が考えを改めるなんて、本気で思っているわけじゃないだろ?」
「………………思ってはいなかったけど、一応説得はしておかないと。立場もあるし」
「立場、ね」
まあいいさ、と言って榊原はようやく落ち着いたようだ。
「僕は組織には帰らない」
きっぱりと、そう言った。
若草は黙る。
「帰らないね、あそこには。いる意味がない。いなくても支障はないし、いたら駄目になってしまいそうだ。あんな狭いところに閉じこもってたら、考え方まで狭くなる」
「じゃあ、君は」
若草は真剣な目で榊原を見る。
「何故組織を抜けたんだい?研究室も、あんな酷いことをして」
「やりたいことがあるのさ」
榊原は即答する。
若草は懐疑そうに榊原を見つめる。
「組織を抜ける必要があるのか?それをするには」
「あるね。あそこは変化を嫌うから、きっと僕のやることも否定される。研究も必要なくなったし、成果のほうも外に出て確認がとれたから、そろそろ実行に移す」
仮面の奥で、榊原が不敵に笑う。
「私が世界を在るべき姿へと返そう」
宣言した、榊原。
迷いも、躊躇もない、凛とした声。揺るがない決意が、彼を動かしている。その姿には、威圧的なものさえ感じられる。
「…………榊原、君は」
若草は躊躇するように、それでも何とか言葉を紡ぎ出す。
「一体、何をする気なんだ」
苦悩、その単語が今の若草の様子を表すのに最も適切だろう。
――戻ってきたらどうだ。
若草の思い、願い。
一度は組織と縁を切って、今では組織から敵として追われている榊原樹。その榊原本人を前にして、若草の放った言葉は敵対するものへの憎悪ではなく、仲間であった彼と再び道を同じにすること。
組織からの決別。それは秘密主義、独占主義の組織にとって、忌むべきこと、許されざる存在。
榊原樹の抹殺指令。それは組織の決めたこと、組織の絶対決定事項。もう変えられない。組織のトップの一人、独立監査委員の若草なら、その決定を変えることができるかもしれないが、しかし若草だからこそ、その決定を簡単に変更してはいけない。
トップが組織の方針に異議を唱える。それは組織の権威を危うくする。組織は各部隊のトップである独立監査委員によって動かされる。トップの意思が、組織の意思を示す。逆を言うと、トップは組織の意思に与せねばならない。
トップの一人である若草が組織の考えを否定するような発言をすれば、あまり快いことにはならない。今回の、組織を裏切った榊原のように、組織からの排斥処分という決定が下ることも、ありえない話ではない。
「はぁ……」
榊原が溜め息を吐く。
「宗助からそんな言葉が出てくるなんて、思ってもみなかったなあぁ」
榊原は空を見上げて、呟いた。
夜空には欠けた月が見える。完璧ではない光、輝きが少しだけ闇に呑まれる。空には雲もあったが、雲は月を隠さず、ただ浮かんでいるだけ。町の明かりに照らされて、雲のあるところだけ黒ずんで見える。
榊原の言葉は、独白のように、独り言のように、誰かに向かって言っているようで、誰にも言っていないようで。
懐かしむようで。
落胆するようで。
軽く言った感じの声が、反ってその言葉の意味を重くする。期待していたものが、信じていたものが、崩れてしまったような、乾いた響きが、若草の耳にも届いた。
「…………」
空を仰いでいた榊原は、急に顔を正面へと向ける。若草を睨むように、仮面に隠れて表情はわからないが、しかしそれだけの威圧を感じさせる、トーン一つ落ちた声で若草に向けて吐いた。
「お前なら、少しは理解していたと思ってたんだが」
先ほどまでの軽い調子とは違う。
威圧的で、怒気の感情が滲んだ、露骨に敵対心を表した、感じの悪い声。言葉、態度も、今までとは明らかに違う。
別の声が聞こえたのは、その直後だった。
「そろそろ宜しいでしょうか?」
榊原と若草は声のしたほうへと視線を向ける。
塔の近く、ビルの屋上の出入り口付近にその影はいた。二人のいるほうへと近づいていき、月明かりに照らされてようやくその人影の姿がはっきりとした。
少女は学生服のような恰好をしている。よく整った顔立ちに、切れ長の眼鏡をかけていて、そのせいかとても近寄りがたい雰囲気を放っている。
「無意味な長話は時間の無駄です」
少女は、簡潔にそれだけ言う。明瞭な声は棘を含んでいるよぅで、少し拒絶的にも感じられる。あまり友好的な印象を受けない。
少女は若草のすぐ隣に立って、それだけ言った。
榊原は興味を持ったように少女を眺める。
「誰だい、彼女は?」
直前までの様子からは想像できないほど柔らかい態度で、榊原は若草に訊いた。
「一条玲くん。私の補佐をやってもらっている」
「補佐ぁ?」
榊原は驚いたように訊き返す。
若草は頷く。
「そう、補佐。MASKS総指揮官補佐、それがこの一条くんだ」
「ふーん、補佐、ねぇ」
榊原は検分するように一条を凝視する。
頭から足先まで、隅々まで見回して、その視線を受けながらも、一条は際立って不快そうではなく、あまりよくない雰囲気のままそこに立っている。
榊原は呆れたように口を開く。
「補佐なんて、聞いたことがない。よく補佐なんてものが認められたね。独立監査委員たちに」
「…………まあね」
「だってそうだろ。組織の考え方は、基本的に秘密主義。『知識は漏らすな。情報は我らが独占せよ』、そんな石頭連中ばかりじゃないか」
「否定は、しないよ」
「だから全ての情報は独立監査委員にしか知らされない。中には、各部隊で秘密にしていることだって山ほどある。そんな閉鎖的環境だったじゃないか。――それなのに君は」
榊原は一条を指差す。
「補佐だって。よく認められたものだ。『情報が漏れる可能性があるから、補佐なんて不要だ。むしろ邪魔だ』とか、言う奴はいそうなのに。誰も反対しなかったわけじゃないだろ?」
「まあ、その通りのことも言われたけど」
「だろ」
「でも、私には必要だったからね。私はそれほど要領がよくないし、MASKSの全体状況把握は一人では手に余る、というような理由で、特例中の特例でお許しが出たよ」
――それだけじゃないけどね。
若草は心の中で付け足す。
ふーん、と榊原は興味を失くしたように返す。
その僅かな静寂を、一条は許さなかった。
「榊原樹。貴方には組織からの抹消命令が出ています」
一条は、すっと右手を顔の前に翳す。指の間から、一条の冷気を含んだ視線が榊原に向けて突き刺さる。
「この場で、貴方を殺します」
「まあ待ちたまえよ」
射抜かれるような冷たい視線を受けながら、しかし榊原はそれを無視するように、あるいは感じていないように、軽く遮る。
「久し振りに、若草とこうやって対面できたんだ。再開を祝して、もう少し楽しもうじゃないか」
「そんな暇は……」
「そうだ!」
一条の言葉を無視して、榊原は一人言葉を続ける。
「舞踏会などどうだろうか。うん、それがいい。けど、少しばかり役不足だね。今回ばかりは観客も、ダンスに興じようじゃないか」
榊原は手を叩く。
――パン。パン…………。
数秒の静寂、直後。
――ォォォォォォ…………。
大気が唸る。
空気がざわめいて、音がビルの間で反響する。
「……」
若草は辺りを窺うように視線を周囲に向ける。一条は右手を下ろして、変わらぬ瞳で榊原を睨みつける。
咆哮が聞こえた。耳を劈くような、破壊的な高周波。聴覚を狂わせる、痛ましい音。
直後に、榊原の周囲にたくさんの影が生まれた。大小さまざま、形もそれぞれに異なる、幾つもの影。闇の中で、影は不気味に蠢く。
仮面の裏側で、榊原は楽しそうな笑みを浮かべる。
「夜はまだまだ、長いのだから」
闇夜の中に、闇色の影が並ぶ。大小さまざまな影は、どれも人とは呼べない。獣ですらない、異形の怪物たち。月明かりに照らされて、ビルの屋上に奇形の影たちがずらりと並ぶ。
「おやおや」
怪物たちの奇妙な鳴き声が聞こえる中で、榊原は周囲に集った怪物を見回す。
「私の呼びかけに、こんなに応えてくれるとは」
大きいものでは身の丈五メートルを超え、小さいものではバスケットボールくらいの怪物たち。その数は、見えるだけで五体はいる。
「人の不満の多いこと。こんな小さな町でも、ここまで育つほどの我慢をみなしてきたというわけだ。そして、それを発散させたいという、願いも」
新たに生まれた五つの影。その怪物たちを見つめながら、しかし若草の表情に驚きはない。むしろぞっとするくらい、いつも通りの顔をしている。
「流石に多いね」
若草は静かに呟く。
一条が一歩、前へと歩みでる。榊原の、怪物たちが並ぶほうへ向かって歩を進める。
「大丈夫かい、一条くん」
「問題ありません」
一条は即答する。
「私も少し手伝ったほうが……」
「足手まといです」
若草の言葉を遮って、一条が答える。
「…………」
若草は黙った。もう、これ以上は何も言うべきではない。若草は一条にあとのことを任せる。これから、始まることを。
一条は榊原の前で止まった。化物たちからは、二十メートルくらいの距離を開けてある。
「……」
一条は右手を顔の前に翳して、静止する。全てが止まったような静けさに、化物の唸り声と、風の音だけが聞こえる。
一条はすっと眼鏡のブリッジに親指と人差し指を添える。
――ゴボ。
一条の眼鏡の周囲から、乳白色の液体が溢れ出す。
一条が素早く眼鏡を外すと、両目の部分だけ丸く穴が開いている。ジェルに近い液体は地面に落ちることなく、一条の顔全体に広がっていく。
一条は左手の中指と人差し指を、一条にとって右目にあたるジェルの空洞に引っ掛けて、円を描くように下へと引いた。ジェル全体が引っ張られた方向に傾いて、口元を通り過ぎたところで指を離す。右目の下の部分だけが引っ張られた影響で細長く伸びて、ジェル状だった乳白色の物質も完全に固まったように、一条の顔に張り付いた。
顔にくっ付いているせいか、それは仮面のように見える。下顎のない、髑髏の仮面。右目の下だけ牙のように伸びた頭蓋骨。それが一条の視点では四分の一だけ時計回り、つまり榊原や化物たちには反時計回りにズレたような恰好になっている。
一条が外した眼鏡、それが一瞬炎に包まれる。闇に酷似した、蒼い炎。
炎を目の前に差し出すと、火炎が一直線に伸びる。炎は次第に勢いを失って、闇と同化するように消えていく。そして、中から黒く輝く長い棒が見えてきて、片方の先端から刃渡り一メートルを超える巨大な刃が伸びる。
――死神。
髑髏の仮面に、一メートル以上もある大振りの鎌。一条の構えた姿は、神話に語られる死神の姿に酷似している。
榊原は仮面の裏側で薄く笑う。
「それでは、ダンスを始めようか」
榊原が手を叩く。
それを合図にして、一つの影が一条に向かって猛進する。
――アアアアアアァァァァアアアアアアアアッ!
身の丈三メートル近い獣、まさに獣と呼ぶにふさわしい体躯。人のように二本の足で駆けてくるが、その姿は下半身がウサギの後ろ足、尻尾はなく、腕は人のような形をしているが、両肩がかなり発達しているため腕全体が太く、五指には長さ二十センチメートル、厚さ十センチメートルほどの鋭利な爪が伸びている。毛並みは鋼色、頭は豹で、側頭からは羊の角が生えている。
獣の部分を持ちながらも、世界中で生存する獣とは明らかに異質な獣。それは、化物と呼ぶにふさわしい。
化物は一条に向かって、その強固な腕を振るった。鋭利な五指が一条に襲い掛かる。
――ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!
聞こえたのは、悲鳴だった。
化物の右腕が、肩の部分から先が消失して、先ほどまでそこにあった腕は宙を舞って、夜闇に消える。
――ギャアアアアアアアア――――ッ!
化物は苦しみの声を上げる。
「……」
一条は冷めた瞳で悲鳴を上げる化物を睨む。
――一撃で壊散しない。トレストか。
化物を一瞥してから、一条は他の影に目を向ける。最初見たときには五つの影を確認していて、今その内の一体が襲ってきたので、単純に考えれば向こうには四体の化物がいるはずだが、見える影は三つしかない。
――エネルギーの波動から考えて、こいつが一番雑魚。トレストは心が外部に漏れる量が極端に少ないから、他の四体の能力は未知数。
獣の姿をした化物が振り向く。片腕を失って、苦痛の声を上げながらも、一条に向かって突進する。
――トレスト相手で、一対五。
トレストはフラストよりも強く、トレストを倒せるのはMASKSの中でも最上位の実力を持つホリックだけとされている。ホリックでも、トレスト一体を倒すことが簡単というわけではない。二体相手にすることでもかなり珍しく、二体ともに倒すのは困難だ。
それが、五体。
――オオォォォォオオオオッ!
化物は左腕を振り上げて、一条に襲い掛かる。
「……」
化物の目には、おそらく何も見えていなかった。
体が傾ぐ。重力に従って、上半身が落ちていく。後数センチメートルのところで、爪先は一条に届かない。体が傾きながら、化物の目には一条の姿が映り、次いで自分の下半身が見えた。腹部から綺麗に両断されて、ウサギの後ろ足が意思を失ったようにその場に突っ立っている。
一条の目はすでに切り伏せた化物を見てはいない。目の前に並ぶ怪物たちを睨みつけて、巨大な鎌を構える。
――問題ない。
最期の悲鳴を残して、獣型のトレストは塵のように消えていく。
空に黒い影が浮かんでいる。岩のような体を持ち、その姿は人とも獣とも言い難い。足はなく、下半身はチェスの駒のように平らで、対になっている腕も指はなく平らになっている。口もなく、ただ二つの赤い目だけが小さく光っている。
岩の塊のような化物、それが一条の頭上二十メートルの高さに浮かんでいる。
化物は重力加速度を超える速度で落下する。一条は正面を睨んだままで、気付いているのかわからない。
――ドオォン!
落下の衝撃で、ビル全体が震動する。空気がビリビリと、痛いほど軋んでいる。
直前まで一条がいた場所に、岩の化物が変わりに姿を見せる。一条の姿はなくなって、どこにも見えない。
――ピシ。
左腕に亀裂が入る。傷口が次第に膨らんで、一気に破裂する。口のない化物は悲鳴を上げなかったが、左腕は衝撃で粉々になって、闇の中に見えなくなった。
化物の背後に、一条の姿があった。先ほどまでいた場所から三歩後ろで屈んで、両手で鎌を握っている。
一条は鎌を握り直して、上段に構える。
――イイイイイイ――――――ッ!
振り下ろす直前、一条は左に飛んだ。そこに六方向から黄蘗色の光が一直線に降り注ぐ。高熱を含んだ光がビルの表面を灼いた。
一条は躱しながら、その六つのレーザーの光源を確認する。バスケットボールより一回り大きな球体の物体、色は金茶色で、中央には銀色の瞳が覗いている。
六つの巨大な目玉は、三秒ほどで闇と同化して消えてしまった。
――遠距離攻撃。
一条の背後で影が動いた。岩のトレストが一条に向けて右腕を振り下ろす。
一条は足場を蹴って、回避ではなく、むしろトレストのほうへ接近する。トレストの懐に入って、腕が振り下ろされる前に化物の背後へと抜ける。その際、鎌の刃先がトレストの両目に刺さって、頭の半分以上を抉って切り裂いた。
――こいつの能力?
一条は鎌を構え直す。
――いや。
一条の周囲に黄蘗色の目玉が浮かび上がる。さっきよりも明らかに数が多い。
――違う。エネルギーの質が違う。別のトレスト。
銀色の瞳から、レーザー光線が同時に放出される。その全てが一条に集中している。一条は素早く回避行動に移ったが、数が多すぎて躱しきるのは難しい。
一条は右手で鎌を一閃、すると周囲のレーザー光線が途中で湾曲して、一条を避けるように折れ曲がる。
――これはダミー。本体は…………。
一条の髑髏を模した仮面の、左の眼窩がカーディナルレッドに染まる。薄い膜が右目の前に張られて、そこに三つの点が光る。
――いた。
一条は一直線に駆け出した。その先に、金茶色の目玉が一つだけ見える。今まで現れたものと何ら変わらない、全く同一の形状、一見しただけでは違いもわからない。
目玉のトレストの周囲に、同じ形、色の目玉が幾つも現れる。数はさらに増えて、十は軽く超えている。
無数の目玉が、闇夜の中で動き回る。互いの位置が変わり、形や色に区別がないため、どれが本体なのか見た目では判別できない。
一条は右手に鎌を構える。迷いなく、多数の目玉が浮かぶ塊に突っ込んでいく。
銀の虹彩が光を帯びる。レーザーが発射される前兆。
「死ね」
刃が、一つの目玉に突き刺さる。
レーザー光線が放たれる直前、全ての目玉は闇の中に溶け込むように消えていく。ただ一つ、一条の鎌に貫かれたトレストだけは、破裂し、中身を周囲に散らしながら、最後には跡形もなく闇に消える。
「あとは……」
一条が言いかけた、そのとき。
一条の周りを霧が取り囲む。
霧は急速に実態をなして、一秒もかからずにその姿を具現化させる。トレストが、一条を呑み込んだ。
――ヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ――――――ッ!
甲高い笑い声がビルの間で木霊する。
霧から姿を形成したトレストは、直径二メートルの球体で、全体的に紫紺色、表面はウィルスを顕微鏡で拡大したように凹凸が多く、ぶよぶよと波打って、毛のような鋭く短い針がところどころから伸びている。
皮膚の上には無数の目玉が不規則に付着して、奇怪な笑い声も含めて気持ち悪いほどグロテスクだ。
――ザクッ。
トレストの内側から、刃が生える。紫紺の皮膚を貫いて、黒光りする鋭利な鎌が空気に触れる。
「――――!」
笑い声が止んだ。
同時に、トレストが膨れていく。刃が貫いた部分から、傷口が化膿するように肥大化していって、感染するように皮膚の色が紫紺から紅に染まっていく。
――キャアアアアアアアアアアアアァァァァァァッ!
悲鳴。
絶叫を放ちながら、グロテスクな容姿の球体型のトレストが破裂する。トマトを握り潰したような、鈍い音。体液を辺りに散乱させて、トレストの体はバラバラに散っていく。
「手間が省ける」
ビルの壁に張り付いた紅色の体液は、徐々に空気に溶け込んで、その存在証拠が全てなくなると、そこに一条の毅然とした姿があった。
――ゴンッ、ゴンッ、ゴンッ、ゴンッ!
一条の背後から、急速に接近する影があった。
左腕と、両目を失った岩のようなトレスト。僅かだが、すでに再生が始まっている。片目が辛うじて修復されて、トレストは右腕を振り上げて一条に猛進する。
「死ね」
トレストの攻撃が届く、直前、一条はその場に円を描くように回転する。振り回された巨大な鎌は、易々と岩のようなトレストの体を切り裂く。両断されたトレストは、落下と同時に砕け散って、砂のように夜空に消える。
「残るは…………」
一条は最後の一体を正視する。
宙に浮いたそれには足がなく、細長い円錐形が地面へと伸びて、円錐の底面には楕円形の石版のようなものが乗っている。手もなく、頭もなく、体は闇色をした楕円のそれだけで、上部側面から翼を模した飾りが付いているだけだ。
「攻めて来ないの?」
トレストは屋上から十センチメートルの地点に浮いたまま、一向に動く気配がない。攻撃する気も、逃げる気も、敵視も、防御もない。何をするでもなく、そこにいるだけ。
一条は鎌を握り直す。
「では――、殺す」
駆け出す。
トレストは動かないので、互いの距離はあっという間に詰まる。一条は右手に持っていた巨大な鎌を振り上げ、トレストの中心に向けて刃をたてる。
一閃した刃は、しかしトレストを切り裂くことはなく、触れることすらしていない。ビリビリ、という音がして、三十センチメートルほど手前で刃が止まっている。それはまるで、何かに阻まれているように。目には見えない、壁のように。
――『壁』?違う。これは……。
一瞬刃が入ったかと思うと、夜闇を照らすような閃光が迸り、直後に一条の体は吹き飛ばされるように十メートル近く後退する。
「……」
一条は素早く体勢を整えて、宙に浮かぶトレストを見る。
トレストは、宙に浮いたまま特に変った様子がない。一瞬だけ、トレストの周りで何かが煌めいた。それは研磨されたクリスタルのように、トレストを包み込んでいる。
しかし見えたのはほんの一瞬で、すぐにそれは闇と同化して見えなくなる。
――反射鏡。
『壁』は相手の攻撃から自身を守るための、フラストの防御特性。
このトレストのものは、それを遥かに上回り、相手からの攻撃をそのまま相手にはね返す特性。
跳ね返される瞬間に、一条は刃に力を込めてある程度の反動は抑えたが、それでも体を吹き飛ばすくらいの効果を持つ。下手に攻撃すれば、反ってこちらのほうがダメージを受ける。
「殺す」
一条は両手で巨大な鎌を構える。
「あなたみたいな卑怯者は、殺す」
走り出す、トレストに向かって。
静かに、音もなく、トレストの周囲を見えない壁が月の光を受けて煌めく。
――ザッ!
一条が跳躍する。上段に構えた鎌を振り下ろす。
「…………」
音はなかった。
先ほどとは違って、刃が何かに当たる音も、跳ね返される衝撃もない。一条はビルの上に着地して、トレストも宙に浮かんで静止している。
――ピシッ。
トレストの体に、線が走る。天辺から下の円錐の頂点まで一直線に、一本の線が入る。
――ゴボ!
線から墨のように真っ黒な液体が溢れて、トレストの体を二つに裂いた。迸る液体は周囲に散乱して、液体の中にトレストの裂けた体が呑み込まれていって、ビルの屋上に付着する。トレストの姿はもうなくなって、代わりに真っ黒なゼリー状の物体が辺りで蠢いている。それは非常にゆっくりとした速度で縮んでいって、今までとは違ってすぐには消えない。
――ピッ。
一条は鎌の先を榊原に向ける。月明かりに照らされて、刃は妖しい光を放つ。
「余興は終わりです」
一条の冷めた視線が榊原を射抜く。髑髏の仮面をかけて、仮面の左の眼窩が被った右目は、カーディナルレッドの膜が張っているために異様に映る。
「次はあなたを殺します」




