淡く溶ける
ぼくの枝の腕では彼女を抱きしめられないのがどんなに悔しいことか人間の皆さんにはおわかりいただけないでしょう。けれども、彼女に触れたくとも触れられず、気まぐれに降る雪が彼女と僕の間をつなぐときどれだけぼくが嬉しかったか、好きなときに愛する相手と触れ合うことのできる全ての生き物に知って欲しいのです。そして、ぼくが君らと同じように彼女を愛していたということを……
僕が作られたのは冬の初め。、初めての大雪の日の翌日のことだった。作ったのは近所の家の少年達。何かで知ったのか洋風に作られた僕は他の多くの雪だるまと違って三段重ね、鼻として一番上の雪玉の真ん中にはニンジンが無理矢理ねじ込まれていた。
何度か太陽に溶かされかけたものの一年の半分近くが雪で閉ざされる土地柄か冬の中盤になっても僕は作られた当初よりかは不格好ではあったものの無事、この雪原に存在していた。
ある日、一人の女の子が僕の隣に一つの雪の塊を置いていった。女の子の「一人じゃ寂しかったでしょ。」という言葉は僕のどこにあるのかわからない耳を右から左へ通り抜けていった。僕はその雪の塊に一目惚れしてしまったのだ。
「こんにちは。」
話しかけられて僕の胸に灯った火はそれこそ僕を内側から溶かし尽くそうとするかのように燃え上がった。返事をする声が震える。急に僕のこの形の崩れた姿が嫌になった。ただでさえ、子どもに作られただけあって不格好だった姿は日光に溶かされ、また雪が上から積もったことによって更に不細工になっていたのだ。
「君の目、きれいだ……。」
心の中でだけ思ったはずなのに気がつけば口に出ていた。初対面でまだ挨拶しかしていないのに!僕はなんてことを言ってしまったんだろう。でも、本当にきれいだったんだ。美しい赤い、南天の目。にしても、もう溶けてしまいたかった。太陽よ!どうか僕をあなたの身元へお連れください!
「ありがとう。あなたのその高いお鼻も筋が通っていて……。」
くすくすと笑うこの子の声を聞けば太陽の手によらずとも天に昇ってしまいそうだった。このときばかりは洋風かぶれの子どもの趣味に感謝した。
「私は雪兎なの。あなたはなあに?」
「ぼ、ぼくはね、スノーマンなんだっ。」
もうこのうわずる声がどうしようもなく嫌だった。いっそ、声が出なければと思うけど、この子と話せなくなると思うと先ほど胸の奥から溶けかけた体が一瞬にして氷のように冷たくなった。
「あら、雪だるまじゃなくてスノーマンなのね。」
「そ、そうなんだ。ぼ、ぼくを作った子どもがね、僕をそう呼んだからね。」
「スノーマンだからお鼻も高いしお背も高いのね。」
「でも、お目々はみかんだわ。オレンジではないのね。」
さも不思議そうに言う彼女にそれはもう僕は慌てた。ほら、だってオレンジなんて子どもじゃあそうそう手に入らないし、みかんの方がおいしいでしょうっ。こうしてぼくに埋めておけば好きなときに食べられるしっ。
彼女の声は甘く、彼女の笑い声はまるであまいソーダのようにぼくの心をしゅわしゅわさせる。どれほど甘くとも彼女の声はぼくの胸をうっ、と胸焼けさせなかったけれども、その代わりにぼくの心臓を今にも止めそうだった。
彼女の南天の目はぼくの胸を焦がす炎のように赤く、彼女の青々とした耳はいつだってぼくのどんな小さな声だって聞き漏らさなかったし、ぼくがどんなにどもろうともちゃんとぼくの言いたいことを聞き分けてくれた。
ぼくらはいつだって一緒だった。ずっと、ずっと。
彼女はどんなにぼくが不格好になろうとも馬鹿にしなかった。彼女がぼくの姿を笑うことがあっても、それはぼくが嫌いということではなく好き、という笑いだった。ぼくが日中の暑さに溶けかかったら彼女はとても心配してくれた。吹雪でぼくの体に雪が積もって三段重ねのくびれがなくなってもむしろ、その積もった雪がぼくと彼女の間をつないでくれることを喜んでくれた。ぼくは彼女が日差しに負けないよう一生懸命、彼女の影になろうとした。どんなに頑張ってもぼくの体は動かないのだけれど……。
いつしか冬も終わりに近づいてきた。日に日に太陽はその勢いを増し、雪はちらほらとしか降らなくなっていた。夜は太陽の勢いに負け、段々とその時間を短くし、夜の冷たさだけが救いだったぼくらには辛い晩年となった。
もう、だいぶ溶けてしまった。ぼくの影に隠れている彼女の姿もだいぶ崩れてはいたがそれでも彼女は美しかった。ぼくの片腕はもげ、気取って被っていたバケツはどこに落ちたのだろうか。ぼくの視界にはもう入らなかった。けれどもそんなことはどうでもよかった。もう、ぼくは長くないだろう。そしてぼくより小さな彼女は……。彼女に置いて行かれるのは堪らなく辛かった。
「ねえ、スノーマンさん。私たちきっとお天道様の御許でもきっと一緒よ。だって、こんなにも私、あなたのこと想っているもの。だからね、どうか許してちょうだい。私、もう溶けちゃうの。」
そんな、彼女の言葉がぼくを微笑ませた。熱いしずくがぼくの顔を流れる。溶けていくんだ、ぼくらは。そして、溶けた水は一緒に天に昇るのだろう。君はぼくより先に行ってしまうかもしれないけど、すぐにぼくも追いつく。きっと一緒だ。ずっと一緒だ。そしてきっと次の冬にはまた二人で美しい銀世界を見よう。君と一緒だからこそ美しく見えるんだよ、ただ、ひたすら地平線まで真っ白い風景と葉の落ちて寒々とした木がまばらに生えているだけの風景さえ。そう、君と見ればそこは僕らの桃源郷。
太陽の熱に溶かされた雪がぐしゃりと落ちた。そして、その日の昼過ぎにはそこには大きな一つの水たまりがあるだけだった。きっともうしばらくしたらその水たまりも消えてしまうに違いない。それは、うららかな春の昼過ぎのことであった。