表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

1980年~1981年

 すうりいる』16号の締め切りが迫っている。ストーリーが浮かばない。この年齢の女の子なら、恋愛ストーリーのある事ない事、経験に基づいて浮かぶのだろうが、花菜はその手の経験が乏しい。

 6月最後の土曜日、梅雨の中休みで蒸し暑く、部屋の中に籠っていられなくなった。ふと思い立って原宿に向かった。原宿には去年のペニーレーンの夜以来だ。あの日内田と歩いた道を辿り、程無く目的の店まで辿り着いた。店員の顔は覚えている。

「いらっしゃいませ。」

自分の顔を覚えてくれているとは思わなかった。

「去年はお世話になりました。」

「はい?」

「あの、去年の10月、洋服を買った時、お化粧していただいて。」

「・・・内田君の後輩の人?」

「内田君、そう内田さんの後輩の掛井といいます。」

「掛井さん。お久しぶりです。覚えてますよ。」

「内田さん、ご存知なんですか。」

「内田君、高校の同級生なの。」

やっぱり。ウッチーの演出だった。それで納得がいく。

「黙ってるように言われてたんだけど、いいわよね、もう。掛井さんには迷惑だったかしら。」

「いいえ。迷惑どころか。あの時あたし落ち込んでいたので、励ましてもらいました。」

「内田君ね、高校の時からああいうドッキリが好きだったのよ。クリスマスや卒業式とかに、みんな巻き込んで驚かすの。でもとっても楽しいドッキリで、みんなハッピーになれるような事ばっかり。」

「分かります。」

「掛井さんもハッピーになれたのかな?」

「あの夜は最高にハッピーでした。」

「メイク上手になりましたね。あの日とは見違えるくらい。」

「そんな事無いです。」

「ううん。あの時内田君から言われてたのよ。女の子連れて来るから、メイクのし甲斐があるような子だと思ったらしてやってくれって。メイクのし方知らない子だからって。ごめんなさい、内田君が言ってたのよ。内田君結構シビアで、気に入らない子にはそんな事絶対しないから、掛井さんの事はきっと気に入ってたのね。」

「そうなんですか。あたしはからかわれてるなと思って。」

「内田君は人を見る目があるの。そういうところ、高校の時からすごいと思ってたわ。だからあの日女の子を連れて来るって聞いて、私も楽しみにしてたのね。期待通りだった。」

「はあ。」

「きっと彼は人を扱う仕事で大成すると思う。」



 週2日とはいえ1ヶ月もすると要領は大分覚えてきた。オーダー忘れはほぼ無くなり、コーヒーをサーブする時に手先も震えなくなった。ただパウワウの硬い石床に長時間立っていると足が異常に疲れ、部屋に帰ってから消炎剤を貼るようになった。

 一緒にバイトに入る事が多い稲垣がかなり恰好いい男で、並んでいると見た目の差を感じて仕方ない。それはいいけど客の中では稲垣目当ての女性もいる気がして、嫉妬の目で見られているような殺気を感じる。だから彼には50cm未満まで近づかないようにした。

 今日バイトに入った時にはもう客席に漫研のメンバーが来ていた。2年生以上は中山と山本だけで、あとは1年生。新入生も既に漫研に溶け込んでいる。漫研の、特に同期のみんなは、バイトしている花菜の立場を絶妙なバランスで扱ってくれる。アルバイトの線をはっきり引く訳でなく、かといって店の手前馴れ馴れしい友達の態度でも接しない。花菜が会話に入れない寂しさを感じさせないような気遣いをしてくれる。

 午後8時を過ぎ、漫研の一団がそろそろ帰る気配を見せてきた。そんな中1年の女の子が1人、花菜に近づいて来た。

「掛井先輩、あの、聞いてもいいですか。」

予てから花菜は『先輩』はやめて欲しいと言おうと思っていたが、いつもタイミングを逸していた。前島麻子。華奢でくりっとした吊り目が可愛い子、という印象だ。

「いいよ、なに?」

「あの、掛井先輩は、倉本さんとお付き合いされてるんですか。」

50cm離れた場所で、稲垣が反応した。

「ど、ど、どうして。」

「そう見えます。」

川西の言っていた事が当たっていた。

「付き合ってない。誓って。」

前島に誓うつもりじゃなく、もう一度川西と松田に誓った。

「そうですか。ありがとうございます。すみません、失礼な事言いました。」

そう言って前島は帰って行った。

「ハナちゃん、じゃ、今フリーなの?」

稲垣が聞いてきた。そういう事言わないで欲しい。客の誰が聞いているか分からない。花菜に興味が無いのは分かっているけど、また嫉妬の目を気にしなくてはいけない。花菜も稲垣はタイプじゃない。



 夏合宿に今年は松田も川西も岸田も、もちろん花菜も参加する。長野県白馬の、アップルスタジオという名のペンション。音楽スタジオが地下1階にあるために、そういう名前になったらしい。

 1980年8月2日から3泊4日の日程で、総勢30人を超える参加メンバーとなったこの年は、例年に増して賑やかな合宿になりそうな気配だった。

 合宿地にはグループで集まって向かったり、個人で車を運転してドライブがてら参加したり、三々五々集まってくるが、集合時間は決められている。花菜は初めての合宿で、着替えと一通りの漫画道具をバッグに詰め、川西、松田と一緒に電車で向かった。

同期の岸田は塚原と一緒に到着した。1年少し前に遡り、岸田が漫研に入部してすぐ、岸田と塚原は付き合うようになった。

 全員が到着後、すぐに食堂で簡単なミーティングが開催され、注意事項と部屋割が言い渡された。

 昼食後、早速スケジュールの第一弾、分科会が行われる。

 分科会とは、幹部以上の3・4年生が講師となり、漫画の研修を行うのだが、漫画に関する幾つもの研修テーマがあるためにそう呼ばれている。部員はどのテーマの研修に参加してもいい。この合宿中分科会は何度か行われるが、初日昼食後の第1回目分科会に限って、最終日にもう一度同じ講師同じメンバーで最終分科会が開かれる。第1回目分科会で漫画のテーマが出され、合宿中に短編漫画を完成させ、最終分科会で発表し、講評会が開かれるためだ。

 花菜は4年の萩原が講師を務める分科会に参加した。萩原が描く漫画はギャグ漫画だ。いわゆる不条理漫画と言われるもので、はっきりしたフリやオチが無い。何か可笑しい、どこか可笑しいのだ。その発想は花菜には到底思い付かず、萩原のセンスだと感じている。

 会場となる部屋に行ってみると、女性は花菜1人だった。他には4年の海原、塚原、3年の久保、2年の加藤、伊澤、1年の根木、徳島、北川と男性ばかり。他の分科会に変えようかどうしようか迷っていた時、講師の萩原が来ていきなり、

「お、じゃハナちゃん書記やって。」

と指名されたため、動けなくなってしまった。

「テーマ決めなきゃいけないんだけど、適当でいいよな。ギャグ漫画自体適当だから。」

と初めから萩原らしいコメントだ。

「こっちから今一番興味あること、気になってる単語、1個ずつ言ってみて。」

「え、いきなり?何でもいいの?」

指名された海原が焦る。

「何でもいいよ。言ってみて。」

「えーとね、じゃあ就職。」

「いきなり暗くなるじゃん。じゃ、ルービックキューブ。」

「任天堂ゲームアンドウォッチ。」

「松田聖子。」

花菜はいちいちメモを取るのにペンが追い付かない。

「ハナちゃんの番。」

「あ、すみません。じゃ、『私はピアノ』。」

自分で言った言葉を自分でメモした。

 サザンオールスターズのアルバム、『タイニィ・バブルス』の4曲目に収録されているこの歌を花菜は大好きだった。アルバム発売から4ヶ月後の先月末、高田みづえがカバーした。恋人を失う女心をめくるめく歌詞で綴ったこの歌の意味を、花菜はまだ理解出来ない。きっといつか、理解出来る時がやってくる。その時もう一度この歌を好きになる。そう予感していた。

「このへんでいいか。」

 6巡目を前に萩原がストップを掛けた。花菜のメモに50個の単語が並んでいる。

「ハナちゃん、出た単語読み上げてみて。みんなよく聞いといて。出た単語の中から好きなもの3つ選んでもらうから。」

「えーと、就職、ルービックキューブ、任天堂ゲームアンドウォッチ、・・・」

全部読み上げるのに一苦労だった。

「じゃ、もう一度3つ選んだ単語のところで手を上げて下さい。ハナちゃん、もう1度読んで。」

さっきよりいちいち挙手を確認する分時間が掛かる。都合5回読み上げる羽目になった。

 決まった単語は、『引退』『ボイコット』『テクノ』だった。引退は10月に武道館でファイナルコンサートを行う山口百恵から、ボイコットはソ連のアフガン侵攻による西側諸国のモスクワオリンピックボイコットから、テクノはイエローマジックオーケストラを始めとするテクノポップブームから、それぞれピックアップされたものだ。

「この3つの単語を盛り込んでギャグ漫画を描く事。ストーリーものでも4コマ漫画でもパロディでも描き方は自由。ただしページ数は4ページ以上。それじゃ、これで終了。解散。」

そういえば萩原は至って淡白だった。この第1回目の分科会は2時間半の予定が組まれていたが、萩原は1時間足らずで終了した。あと1時間半もある。

「ギャグ漫画なんて、みんなで机付きあわせていいアイデアが生まれるものじゃない。」

というのが萩原の持論だ。


 分科会が早々に終了したので、花菜は何気なしにペンションの外に出た。庭に出てふと建物を見上げると、白いペンキ1色で塗られたバルコニーがあった。外から上れる階段が見当たらない。外部からの昇り口は無いという事が分かった。一旦建物の中に入り、2階のホールにあるテラスドアを見つけ、ようやく辿り着いた。

 バルコニーの躯体と同色の、白いウッドテーブル脇のチェアに腰掛け、目を閉じてみた。最高に気持ちいい。この空気を感じられただけでも来てよかった。眠ってしまった事にも気付かなかった。

 ざわざわと音がする。さっきまで視界にあった木々のざわめきだと思っていた。頬に触れる羽の感覚がくすぐったくて振り払った。

「いてっ!!」「いたっ!!」

「ハナちゃんは乱暴だなあ。」

山本の手を思い切り叩いていた。

「気持ち良さそうだったねぇ。」

「起こすのかわいそうだったから。」

増井と有村、他に山本と柴田、勝沢の顔が見える。みんなの前のテーブルにカップが置いてある。他の分科会も終わったようだ。寝顔を見られた照れ隠しに質問した。

「何か飲んでるの?」

「うん。頼めば持って来てくれるよ。」

山本が床に落ちたティッシュを拾い上げた。さっき頬に触れた蝶々の羽だと思ったのはティッシュだったのか。

パウワウでバイトをするようになってから、レギュラーコーヒーを飲むようになった。花菜は酸味の強いコーヒーは好きではない。苦味の中にほのかに甘味を感じるブラジルを一番好きになった。

「ハナちゃん、今日の夜何か予定あるの。」

コーヒーを持って席に戻ると山本が聞いてきた。初日の夜はフリータイムとなっており、予定など立てていない。

「特に無いけど。」

「じゃ、俺たちと銃撃戦ごっこしない?」

「じゅうげきせん。何?それ。」

「あそこのゲレンデ使ってするんだよ。」

山本が指さした方角に樹木の生えていない山があった。冬の間スキー場になるこのエリアの、ゲレンデのひとつだ。

「2チームで対戦するんだ。もちろん銃なんて持ってないから、撃つ時は銃を構えた姿勢で、大声でダダダダッとか言うんだけど。それで相手チーム全員を倒したら勝ち。結構盛り上がるんだよ。」

子供の頃近所の男の子たちが銀玉鉄砲でやっていた遊びを思い出した。それを大学生がやるのか。

「面白い?」

「面白い、面白い。やんない?」

「んー、考えとくね。」


 夕飯は合宿の定番、カレーだった。とは言っても家庭で作れるような代物ではなく、柔らかな牛肉の塊がしっかり煮込まれ、生クリームが掛けられた、レストランで出されるような欧風カレーだ。それにシーザーサラダ、オニオンスープが付いた。カレーはお代わりができ、中山や柴田は3杯目まで手を伸ばした。

 食堂の一角にドリンクバーがあり、ビールや日本酒、ソフトドリンクまで常備されている。収納されている冷蔵庫には鍵が掛かってなく、自由に出して飲むことが出来る。それらは残数を確認して最終日に清算される。

「ハナちゃん、行くよ。」

食事を終え、食堂で川西たちとおしゃべりをしていると山本に声を掛けられた。

「え?」

「7時半に玄関前に集合だ。」

「ひょっとして、じゅうげきせんの事?」

「当たり前だよ。もうメンバーに入ってるから。」

「えー、考えとくって言っただけなのに。」

「だめだよ。ハナちゃんが入ってちょうど男女割りも人数もぴったりなんだから。」

「なになに?じゅうげきせんって。」

「銀球鉄砲ごっこみたいなのなんだって。麗ちゃんも行かない?」

「行かないよー。ハナちゃん行ってきなよ。」

「じゃ、由紀ちゃん。」

「私だって行かないよ。動けないもん。」

「何ごちゃごちゃ言ってんだ。もう時間がないぞ。支度、支度。」

山本の口調が軍人っぽくなった。

 玄関前に行ってみると、思ったより大勢の人が銃撃戦ごっこに参加するようで、意外だった。男が10人、女が花菜を含めて4人いる。幹事の山本はと見ると、全身着替えを済ませ、やる気満々だ。

「ずるいよ山本君、完全装備じゃない。」

「いいじゃないか。俺はこの合宿、漫画よりこれに賭けてんだから。」

迷彩服に加え、ヘルメット、ブーツ、モデルガンまで抱えている。

「じゃ、全員揃ったところで、移動!」

やっぱり口調が軍隊式になっている。これじゃ参加しない訳にいかない。山本だけじゃなく、永田からも何か言われそうだ。女性参加者は、その永田と花菜、1年の前島と増田の4人だった。

 5分ほど歩いてゲレンデの麓に着いた。山本が自分の周りに参加者を集め、ルールの説明をし始めた。

「んじゃ、もう一度ポイントだけ説明します。撃つ方は必ず肩で銃を構えて『ダダダダ』とか『ドキュン』とか口で銃声の表現をする事。どちらか先に銃声を発した方が勝ち。やられた方は今いるここの位置まで戻ってきて待機。撃ち合う時のお互いの距離ですけど、目測で10m以内が目安です。いいですか。」

全員神妙な顔で聞いている。

「じゃ、チーム分けをしましょう。男は男で、女性は女性でABの2チームに分けて下さい。」

永田の音頭で女子だけでグーパージャンケンをした。結果、花菜と前島のAチーム、永田と増田のBチームに分かれた。Aチームの男子メンバーは4年萩原、3年福山、久保、2年山本、1年佐藤。花菜たちを加えて7人だ。

「みんな上の方を見て下さい。」

山本の指示した方を見ると、そこには黒いシルエットとなった大きなおにぎりのような塊が、眩い星空をバックにそびえていた。

「真ん中のゲレンデで木の無いところを境に、向かって右側をAチーム、左側をBチームの陣地とします。8時戦闘スタート。それまでに各チーム陣取って下さい。一応9時まで。1回目が早めに終わったら2回戦に突入します。開始の合図はこれで。」

山本が取り出したのはロケット花火。こんなところまで用意周到だ。

「それじゃ、戦闘準備開始!」

その合図で一斉に全員左右に散らばった。

「作戦とかどうしよう。」

計画性のある福山らしい発言だ。

「いいんじゃねえの、個人戦で。」

これも萩原らしい発言だった。

「みんな怪我だけは無いようにお願いしますね。」

「何でお前、後着いて来んだよ。花火の合図したら俺らの居場所バレちゃうじゃねえかよ。」

山本が萩原に指摘され、すいません、と言って麓の方へ戻って行った。間も無く空に向かって一筋の花火が上がった。

「よしっ。じゃオレ、もっと上の方から攻めますから。」

最初に移動したのは久保だった。

 花菜は1年の前半は久保とあまり交流がなかった。久保が副会長になってから、あれこれと面倒見のいい彼と会話をするようになった。プロを目指している彼は普段プロレス漫画を描いており、花菜とはジャンルの接点は無いが、強面の外見と違い、人の良さと真面目さに信頼を置くようになった。

「ハナ先輩、どきどきしませんか?」

右後方から声がして、振り向くとぼんやり前島の顔が浮かんだ。前から言いたかった事を思い出した。

「そうだ、前島さん、1年の人ってあたしの事だけみんな先輩って呼ぶのよ。どうにかならないのかな。」

「先輩って呼び方、嫌ですか。」

「うん。何か一人だけ偉そうにしてるみたいで。」

「じゃ、ハナさん、でいいですか。」

ハナとかハナちゃんがいいけど、下級生からみたら呼びにくいだろう。『掛井さん』はもっとよそよそしいし。ハナという呼び方には、少し思い入れがある。


 子供の頃は自分の名前がどうだろうと構わなかった。気になりだしたのは思春期を迎える前あたりからだった。小学校4年生の時同級生が言った、おばあちゃんみたいな名前、という一言が原因だった。家に帰って母に散々文句を言った。いつも明るい、おしゃべりの母が困った顔をし、ごめんね、と言った。その言葉がとても寂しく聞こえ、なおさら意固地になった。数日間母とろくに口をきかず、仕事が忙しかった父とは顔を合わせる事も無く、部屋に閉じ篭った。

 父の交通事故はそんな状況の時に起こった。花菜は意固地になっていた自分を責めた。父とは会話らしい会話をしないまま、終わってしまった。大きな後悔が花菜を襲った。後悔と自責の日々を送り、いつしか名前の不満も忘れてしまった頃、母が話をしてくれた。

「花菜、菜の花が咲く時期っていつ頃か知ってる?」

「確か3月とか、その位?」

「そう。冬の終わりから春に掛けて、花を咲かせるの。お父さんはその菜の花が好きだったの。」

「・・・」

「中学校を北へ少し行った所に廃工場があるでしょう。あそこは昔、お父さんが小さかった頃、一面のきれいな菜の花畑だったんだって。お父さんは、お父さんだけじゃなく友達も上級生も下級生も、子供も大人も、そこに花が咲く頃、町内の人みんな見に行ったらしいの。そこはとても不思議な所だった。喧嘩してた友達も、普段意地の悪い上級生も、頑固なお爺さんも、そこで出会うとみんな優しくなってしまう場所だったって。子供だったお父さんは菜の花にそんな力が宿ってるんだって信じてた。今はもう跡形も無い、お父さんにとっては、ううん、そこに行った事がある人にとっては、思い入れのある大切な場所だった。

 その菜の花畑の光景を、お父さんは花菜が生まれた時何故か思い出したんだって。花菜には誰にでも優しい子になって欲しくて、花菜と出会う人はみんな優しい気持ちになってくれるような、そんな子になって欲しくて、花菜って名前にしたの。

 ハナって読み方にしたのはね、あなたが応えてくれたからなのよ。お母さんは正直、ハナじゃ可愛そうかなって思ったんだけど。お父さんが生まれたばかりのあなたに、ハナって呼びかけると、あなたは満面の笑みで応えてくれたの。何度カナって呼んでもしらんぷりだったのに。あなたが微笑んだ時、お母さんの目の前にも菜の花畑が見えたわ。その菜の花畑を、お母さんは一度も見た事が無かったのよ。でもはっきりと思い浮かんだの。あなたの微笑みは、お母さんの心も、お父さんの心も、一瞬で優しい気持ちにしてくれた。だからあなたはカナじゃなくてハナなの。」


 ダダダダっとどこかで声がした。どちらかのチームの誰かがやられた。遊びなのにどきどきする。さっき同じ事を言っていた前島は、と見ると10m程下方の草むらの影に身を潜めている。月明りでシルエットが見える。その時前面に広がるゲレンデの中央付近で、小さな物音がした。花菜は林の中にいるので、その音の主に気付かれないように様子を伺える。黒い影が少しずつゲレンデを横断して来る。向かって来る先には前島が潜んでいる草むらがある。彼女に知らせなくては。声を出したら花菜の居場所まで知られてしまう。前島の場所まで下って知らせるしかない。じりじりと少しずつ音を立てずに移動する。こうなると敵の移動と花菜の移動のスピード勝負だ。花菜のいる林と前島のいる前方の草むらの間に、もうひとつ草むらがあった。花菜は林を離れ、その草むらに匍匐前進の要領で移動し始めた。なんでこんな事やってるんだろう、そんな疑問がさっきから何度も頭に浮かび、消えていく。何とか音を立てずに前島の手前の草むらに辿り着いた。その瞬間、

「ダダダダダダダダ!」

という声と同時に、前島のいる草むらの前で人影が立ち上がった。

「きゃああああっ!」

前島の静寂を切り裂く声が上がった。その声を聞いた花菜は反射的に飛び起き、立ち上がった人影に向かって見えない銃を構えていた。

「ダダダダダダダダダダッ!!」

「うあー!」

人影が叫んだ。肩で息をしながら恐る恐る近づいて行くと、その声の主は海老沼だった。

「全然ハナちゃん気が付かなかったよ。ちくしょー。」

「わ、私もやられちゃった。」

前島が仰向けに倒れたまま声を震わせている。

「仕方ない。戦利品と戦勝者の記念撮影でもするか。」

暗闇に慣れた目に閃光が走り、一瞬何も見えなくなった。

「あっ、海老沼さん、眩しい。」

海老沼はカメラが好きで、漫画を描くより写真を撮っている時間の方が断然長い。漫研のイベントはもちろん、普段から部員の写真を撮ってくれる。

「あ、海老沼さん、今のフラッシュでここの位置知られちゃうじゃないですか。」

「あ、そうだ。」

「んもう。あたし行きます。前島さん、それじゃ、後でね。」

「ハナさーん。頑張って下さい。絶対勝って。」

ハナ先輩からハナさんに呼び方が変わっていた。その声を背にもっと上を目指した。ここから先は、またいつ敵と遭遇するか分からない。下るより登る方が断然良かった。遥か下の方でまた声が上がった。どっちのチームが優勢なのだろう。時計を持って来なかったから、あと何分残っているのか分からない。花菜の足はまだ元気だ。


 名前の由来について、母の話を聞いたのは中学に入ってからだった。その頃はもう花菜は目立たないように、波風立てないように、と中学生活を送っていた。自分の名前にそんな願いが込められていたなんて、知らなければよかったと思った。知ってしまったら荷が重くなった。父と母の願いに自分は応えられない。いつか自分が大人になるまでの間に、その願いに応えられるほど成長出来るだろうか。拗ねて悩んでいたあの頃の自分を思い出した。


 突然目の前が開けた。林を抜けてしまったようだ。勾配は緩く、所々平坦な場所も見える。頂上に出てしまったのかとも一瞬思ったが、山側を見ると、もう少し先に行った辺りからまた上に延びる斜面が見えたので、ここはまだ中腹だということが判った。それでもその斜面を除けば視界を遮るものは見当たらず、昼間だったらさぞ見晴らしがいい場所なんだろうと想像出来た。

その想像は間違っていた。ここは夜の見晴らしが最高だ。見上げた先に満天の星が瞬いている。ペンションでも、ゲレンデの途中でも、この星空は見られない。多分この場所でしか見られない。

「うわぁ。何て・・・」

その先は言葉にならなかった。

 暫く、飽きる事無くその星空の隅々まで見渡した。いつの間にか仰向けに寝転がっていた。数え切れないその星のひとつひとつに見守られているような、温かい気持ちがした。花菜に関わってきた人たち、これから花菜が出会うだろう人たち、みんなに自分は見られている。真っ直ぐ生きているか、自分に嘘をついてないか、大切な人を裏切っていないか、厳しい事も試されている。

 

 大丈夫。あたしは大丈夫。

「そう、強く、そして優しくなったね、花菜。」

「お父さんがそう言ってくれるなら、間違いないね。」

「もしかして、お父さんの好きな菜の花畑も、ここと似たような

 場所だったのかな。」

「きっとそうだよね。」

「お母さんはお父さんの菜の花畑を見てみたかったんだよ。」

「じゃ、お母さんとあたしがまたここに来ればいいね。」

「そしたら3人で、また話そうよ。」

「あたしがおしゃべりだった頃みたいに。」


 10年経っていた。父と会話しないまま別れて、10年の月日が流れていた。とても小さなことに拘って、大きな後悔を抱えてしまった花菜は、その後悔をやっと、この夜父と2人でこの場所に葬った。


「迷子になったらしいね。」

「違うの。自分でも驚いたんだけど、眠っちゃったの。山の上で。」

「そっちの方がおかしいよ。ハナちゃんらしいけど。」

 花菜が行方不明になって、昨日の銃撃戦はちょっとした騒動になった。対戦は結局うやむやになり、両チーム全員で花菜を捜索した。自分を呼ぶ声に起こされ、慌てて山を降り、全員から叱られた。今朝も川西と松田に散々からかわれていたところだ。

 朝食は7時半から。食堂の思い思いの席に座って自分で給仕する。パンかご飯を選べて、パンの方はハムエッグとサラダとポタージュ、ご飯の方は鯵の干物、卵焼きと味噌汁が付く。コーヒー、紅茶、リンゴジュース、牛乳はどれも飲み放題だ。パンを選ぶ女子が多い中、増井と松田と花菜はご飯を選んだ。ここのペンションのコーヒーは美味しい。酸味が無いので花菜の口に合うのだ。


 午前中の分科会は、4年生の河合の主催する『メカニックの描き方』という研修を選んだ。町並みや部屋の中、工場などの背景はある程度描けるが、車やバイクなどのメカが苦手だった。曲線を伴う金属系の描写が下手だなと思っていた。


 午後は3時半までレクリェーションタイムになっていた。花菜は川西や松田と一緒に、ハイキングに参加した。他にテニス組、ドライブに行く人たち、残って課題をやる人たちがいた。ハイキングには15人が参加した。

 木漏れ日の中を、鳥のさえずりを聞きながら散歩するのは気持ちいい。ハイキングは最初から福山が引率するような格好になった。

「ハナちゃん、課題進んでる?」

「全然。ああ、思い出させないで。」

「よかった。ハナちゃんのことだから、パッパッと描いて終わっちゃいそうだもん。」

「由紀ちゃんの方が漫画描き慣れてるんだよ。今まで何作も描いてるじゃん。」

「あたしはどうなるのよ。由紀ちゃんに誘われて増井さんの分科会に入って大失敗。厳しいの。もう、合宿来なけりゃよかった。」

そう言いながら川西も、この空気に充分満足している顔つきだ。

「休憩しようか。」

福山の提案で少し広まった場所に全員立ち止まった。

「萩原さん、どうしてあんなギャグ思いつくんですか。」

何気無しに近くにいた萩原に花菜は話し掛けた。

「仕方ないじゃん。思い付くんだもん。」

「それだけ。」

「じゃ、しょーがねーな。教えてやるよ。」

萩原がポケットから小型のノートを取り出した。花菜の目の前でペラペラと捲った中身には、文字や絵がびっしりと書き込まれていた。。

「これが俺のネタ帳。面白い場面を目撃した時とか、ふと面白い言葉が浮かんだ時とか、いちいちメモしておくんだよ。」

「それを漫画のネタにするんですね。」

「ハナちゃん、絵コンテとかネームとか書くだろ。このネタ帳は、そのもっと前段階のもの。ネタに始まって、原案を考えて、プロットを立てて、キャラクターを設定して、絵コンテとかネームはその後なんだよ。」

「そんなに工程が必要なんですか。」

「人によるけどね。俺の場合、このネタ帳がなきゃ始まんない。あと、このネタ帳の癖をつけると、観察力も付いてくるんだよな。これも大事だぜ。」

「ああ、分かります。」

「他にも簡単な方法があるけど。」

「えー、それも教えて下さい。」

「例えば夏。夏の反対って何だ。」

「冬です。」

「そう。じゃ地面の反対は。」

「空。」

「そう。でもブラジルっていう答えもある。地球の反対側。少しギャグっぽいだろ。そうやって、ひとつのモノに対して真逆にあるものを考えてみるんだよ。」

「はあ・・」

「ピンときてねえだろ。じゃ、松田。松田のイメージに絶対会わない事って何だと思う?」

「・・・うーん、泥棒?」

「イメージ暗いなぁ。もっと他には?」

「ハードロックとかへヴィメタルとか。」

「そう。松田が髪振り乱して、ロックとか全力で歌ってるとこ想像したら面白くないか?」

「面白い!」

隣でのんびり川西と談笑している松田の横顔を見て、思わず吹き出しそうなった。

「そんな感じなんだよ。組み合わせのギャグ。正反対のものを組み合わせてギャグを生むってやり方。」

「何か、分かった。」

「よし。じゃ、例題。ヤクザは何と組み合わせれば面白い?」

「・・・保母さん。」

「いいんじゃないの。ヤクザが保育園児相手にしたら、ギャグ漫画描けそうだろ。」

「ありがとうございます。ほんと、参考になった。」

「そろそろ行きまーす。」

時刻は午後2時半。来た道を帰れば丁度いい時間になる。

 花菜は往路より帰り道の方が足取りは軽かった。たださっきから急に気になり始めた事を確かめたくて、うずうずして仕方がない。

「ねえねえ、由紀ちゃん。由紀ちゃんって髪振り乱してロック歌う事ってあるの?」

「あるわけないじゃん。そんなの。」


 2日目の夜もフリーだった。この辺りで少なくとも課題の下描き程度は終了させないと、極めてまずい状況になる。川西も松田も岸田も同じ考えのようだ。

松田は下描きに取り掛かった。自分のせいで捗らないのに、抜け駆けされたような気分になる。行き詰まって、また外の空気でも吸いに行こうかと思い始めた時、ドアがノックされた。

「福山君たちが演奏するらしいから、見に行かない?」

そういえばこのペンションの名前はアップルスタジオだった。永田が誘いに来てくれた。気分転換にはぴったりだ。

「行く?麗ちゃん。」

「行ってみよ。」

「私は原稿取り掛かっちゃったから、後で。」

「私も。」

松田と岸田は部屋に残る事になった。

 地下の殆どのスペースを使って、音楽スタジオが設けられていた。重々しいベージュ色の防音扉を開くと、けたたましい音が漏れてきた。その音の波を押し分けるように部屋の中に入ってみると、想像もしていなかったロッカーがいた。

「何で中山くんがヴォーカルなの?」

川西に聞いても仕方ない事を叫んでいた。叫ばないと聞こえない。

「他にいなかったんじゃない?」

ギターが福山、ドラムが倉本。ベースの山本も昨日の迷彩服とは別人だ。演奏している曲は『ハイウェイスター』。似ても似つかない風貌はともかく、中山の声量は半端ない。

「マイクいらないでしょ。」

川西の言う通りだ。上質の金管楽器を思わせるイアン・ギランの声質と比べるのは可愛そうだが、それでもなかなか聞き応えのある歌声に思えてきた。曲が終了し、中山が拍手を求めてきた。

「何様だ。」

と海原の野次が飛ぶ。見渡すと、かなりの部員が見に来ている。スタジオ内の半分以上が人で埋まっている。 次の曲が始まるようだ。中山の拍手が手拍子に変わっている。2拍床を踏む。1拍手拍子。1拍休み。ドンドンチャッ、ドンドンチャッ。メンバー四人が同じリズムを刻む。『We will rock you』。男臭いという共通点はあっても、フレディ・マーキュリーとも似てない。倉本と福山はともかく、中山と山本の意外な一面を見られた。漫研にいながら、こういう事に興味を持って楽しんでいるって素敵だと思う。見た目は別として。

 こういう事。見た目と行動のギャップ。色んなところに漫画のヒントが転がっている。まだ明確な答えを見つけた訳ではなかったが、1歩だけ先に進めたと思った。机に向かって顔突き合せているだけじゃ、何も生まれない。


 3日目。朝から目がギラついているのが自分でも分かる。昨日の夜から殆ど眠っていないからだ。あれこれ考えた。考えていたら楽しくなって眠れなくなった。漫画には花菜、松田、川西の3人娘を登場させる事にした。三人娘の芸能界引退劇。キャラクター勝負と言っていい。何とかなりそうな気持になってきた。

「おはよう。もう起きてるの。」

「寝られなかったんだけど。」

「そんな顔してる。」

「じゃ、おやすみなさーい。」

何とかなりそうな気持になったら、猛烈な眠気が襲ってきた。

「あらあら。朝ご飯は食べないの?」

「うん。いらない。お昼ご飯前に起こして。」

松田に頼んでおいたら安心して眠れる。そう思っているうちから眠りに落ちた。

 お腹が空いて目が覚めた。松田に起こしてもらうまでもなかった。時計を見るとまだ11時前だ。昼食には少し時間がある。それまでお腹がもつか自信が無かった。

 辺りは静かだ。人気が感じられない。部屋を出てペンション内を歩いてみても、誰とも出くわさない。最後に食堂に辿り着いたところで、ペンションのお姉さんがいた。

「あの、誰もいないんでしょうか。」

「朝食後に皆さん外に出掛けられましたよ。近くのグラウンドでソフトボールやられるそうで。」

「あっ、そうですか。」

「皆さん芸達者でいらっしゃいますね。漫画研究会とお聞きしていたのですが、バンドも組まれていて、演奏も上手で。」

「それは一部の人ですけど、あたしも昨日はびっくりしました。」

しゃべり終わった時に花菜のお腹が大きな音を立てた。

「あ。」

ペンションのお姉さんがくすっと微笑んだ。

「朝、食べられなかったんでしたね。ケーキならありますけど、いかがですか。」

ケーキという単語が恥ずかしさを吹き飛ばしてくれた。

「ぜひ。いただきます。お願いします。」

「イチゴショートとアップルタルト、どちらにします?」

「両方で。」

どちらも抜群に美味しかった

「こちらのコーヒー、美味しいなってずっと思ってました。」

初日から思っていた事をペンションのお姉さんに伝えたかった。

「ありがとうございます。主人の好みなんですよ。ブラジルっていう豆が主体なんですけど、あと少し他の豆もブレンドしてます。」

やっぱり。花菜の一番好きな豆だ。

「え、ご主人?」

「はい。ここ、私たち夫婦で営んでいます。」

お姉さんじゃなかった。奥さんだった。

「そうだったんですか。そうは見えなかったので、失礼しました。」

「主人とは15歳離れてます。元々主人と私は先生と生徒だったので、歳が離れていて当然なんですよ。」

「先生と生徒っ?」

「と言っても私が大学生の時、主人が講師をしていましたので。私も大人の判断が出来る年齢でした。」

「それでも、あたし位の時には出会っていらっしゃったんですね。」

「誰にでもそういう出会いはあると思います。私の場合は、それが少し早かっただけ。」

「でもペンション経営って・・・」

「東京で、私が身体を壊してしまって。空気のいいところに移ろうと言ってくれました。生活は何とかなるから、身体の方が大事だって、大学を辞めて。」

「素敵なご主人です。ちょっと感激しちゃいました。」

「でもね、主人の友達に後から聞いたんですけど。大学で教授とそりが合わなかったみたい。元々アウトドアが大好きだったので、私の療養を口実に、本人が脱サラしたかったのかも。」

悪戯っぽく言った言い訳は、多分嘘だと思う。きっと花菜のことを思って。療養とか退職とか、そういった言葉の持つ重さに軽口を被せることで、花菜に背負わせないように配慮してくれた。

「あの、あたし、ハナといいます。菜の花っていう字を逆に書いて、花菜です。変でしょう。普通、カナって読みますよね。」

初対面の相手にでも優しい配慮が出来る、この人の名前を知りたかった。自分の名前を言えば教えてくれると思った。

「いいえ。素敵なお名前ね。きっとご両親が深く深くお考えになって、願いを込められたお名前だという事が伝わってきますよ。私は弥生。3月生まれだから。単純でしょ。」

外がやかましくなってきた。ソフトボールに出掛けていたメンバーが帰ってきたようだ。

「ごめんなさい。私の話ばかりしちゃって。めったにお客様とこんな話はしないのにね。どうしてでしょうね。ハナさんに聞いてもらって、楽しかったわ。」


 松田と岸田は課題を完成させてしまった。

「麗ちゃん、まだ1ページも描いてないけど、大丈夫?」

「だって1ページ描いたら終わりだもん。その1ページが描けないんだけどね。」

「えぇ?課題難しいって言ってなかった?」

「難しいよ。『理想のプロポーズ』って内容で描かなきゃいけないの。最低1コマ。だから1ページでもいいんだよ。」

やっぱりそっちにすればよかった。1ページだったら明日の午前中だけでも描ける。

「プロポーズなんて適当に考えればいいんだけど、シチュエーション設定が重要でしょう。背景が描けないのよね。ハナちゃん、描いてくれる?そうだ!描いて!」

「えー、無理だよ。時間ないよー。」

「あら、いいの、そんな事言って。ハナちゃんの漫画、あたしと由紀ちゃんが出てくるんでしょう。あたしは了解した覚えは無いんだけどねー。肖像権ってやつ?」

「うぇぇぇ、ずるいよ。そんな脅し。」

「うそうそ。ね、助けて、お願い。」

「どんな背景考えてるの?」

「夜景なんだけど。公園でも、レストランでも、何でもいいの。綺麗な夜景の見える所でプロポーズされるの。」

「へえ、それが麗ちゃんの理想なんだ。」

「ちっ違うわよ。適当だってば。」

夜景なら簡単だ。真っ黒に塗って後でホワイトを入れればいい。

「その位ならいいよ。やります。やらせていただきます。」

「ありがとー。そう言ってくれると思ったんだ。」

「その代わり、あたしの漫画の中で麗ちゃんがどんな事しても文句言わないでね。」

 花菜は絵コンテを終え、ネームを作り、原稿に取り掛かった。泉のところでアシスタントをした経験が役に立つ。無駄を無くし、効率的に原稿を進める方法を学んだ。

「そろそろ夕食だから食堂に集まってって。呼んでるよ。」

松田が呼びに来た。

「あれ、まだ30分以上あるよ。」

「今日、合宿の打ち上げだから。30分繰り上げて、何かあるみたい。スケジュール表に書いてあったよ。」

打ち上げを想定していなかった。計算が狂った。

 食堂に入ると幹部が前列に並び、これまでの食事とは雰囲気が変わっていた。福山が、人が来る度に声を掛けている。

「今日の夕食は各自名前の書いてある席に座って下さい。」

自分の席を探して見つけると、同年の女子3人とは離れてしまった。花菜のテーブルにいる顔ぶれは、4年の山形と2年の加藤、1年の福島直美、佐藤宏幸の4名だ。

「えーと、今日は夕食後ゲームを行います。今座っているテーブルがチーム分けになっています。全部で4チーム。優勝チームには豪華賞品が待っていますのでお楽しみに。」

えー、とか、へー、とか各所で声が上がった。花菜は、何時まで掛かるんだろうと、賞品よりもそっちの方が気になった。

 五分もすると、ほぼ全員が食堂に集まった。花菜のチームは4年の海老沼、三年の久保、一年の北川と徳島が加わり、9名となった。

「福島さん、分科会の課題終わった?」

花菜は黙々と夕食を食べている1年の福島直美に声を掛けてみた。

「私、最初の日に描き終わりました。それからする事が無くて。合宿って退屈ですね。」

福島は独特の絵を描く。花菜はトランプの世界みたい、と最初見た時に思った。中世、近世のヨーロッパ、サーカス、ジプシー、そういった情景を思い出させる絵だ。当の本人は人形のように可愛い。久保田早紀を少し幼くしたような感じだ。ただ話をしてみると、可愛さと過激さのギャップに驚く。

「6時半からゲーム開始します。そろそろ机を片付けて下さーい。」

「おい、加藤、片付けちゃうぞ。」

「ちょ、ちょっと待って。」

極端に食べるのが早い山本が極端に遅い加藤を急かしている。

「一応便宜上各チームに名前を付けたいと思います。こちらから、うさぎさん、リスさん、象さん、キリンさんチーム。自分のチーム名を覚えていて下さいね。」

福山の司会は手馴れたもので、てきぱきと大勢を裁いていく。花菜のチームは象さんチームになった。チームリーダーは久保だ。

「それじゃ最初のゲームを早速始めたいと思います。最初のゲームは、チーム対抗クイズ合戦!」

幹部が率先して、すぐに全員の拍手で会場が包まれた。

「各チーム代表を二名選んで、代表者は前の机に座って下さい。」

それぞれ代表は、海原、萩原、永田、河合、山本、柴田。花菜のチームは山形と海老沼の二人。代表が席に着き、手際よく点数表が壁に貼られた。

「あ、言い忘れましたが最下位チームには罰ゲームがありますので、頑張って下さいね。」

野次が飛んだが、福山は意に介さない。

「それじゃ、準備いいですか。答えが解ったら出題の途中でも構いませんので、手を上げて下さい。正解に付き点数は五点です。それでは第一問。」

福山の司会、増井のアシスタントで、最終夜のイベントが始まった。

 クイズ対抗、イントロ当てクイズ、伝言ゲーム、ジェスチャーゲームと白熱の対戦が続き、トップは倉本が率いるうさぎさんチームだった。得点は250点。2位は中島がリーダーのキリンさんチーム、210点。3位がリスさんチームで190点。リーダー久保、花菜がメンバーの象さんチームが最下位の160点。このままでは罰ゲームが回ってきてしまう。賞品はいらないから罰ゲームは避けたい、とメンバー全員が焦っていた。花菜も課題の原稿がこの後残っている事を忘れ、ゲームに熱中していた。

「それではいよいよ最後のゲームになりました。最終ゲームはH大学漫画研究会ならではの競技。題して、『この似顔絵だーれだ』。」

正面の壁の前にコンパネが置かれ、その上から模造紙が貼られた。

「各チーム代表者にこちらで出題する人物の似顔絵を描いてもらいます。ただし描くのは顔のみ。ヒントになる服装や小道具、背景も描かない事。制限時間は10分。得点は満点が600点。1秒に付き1点ずつ減っていきます。描き初めて5分、つまり300秒で正解が出たら600点マイナス300で300点の得点が入ります。最下位のチームでも充分逆転が可能なので、頑張って下さい。それじゃ、各チーム代表者を決めて下さい。」

ものすごく嫌な予感がした。象さんチームの中では、花菜以外に誰も似顔絵のバイト経験がない。案の定。

「ハナさん、期待してますよ。」

「ハナちゃん、罰ゲームがハナちゃんの双肩に架かってると思って、頑張って!」

北川も山形も、相談をする前からそんな事を言ってくる。

「あたし、全然自信なんかありません。」

「ハナちゃんが自信無いんだったら、俺たちじゃもっと無理。」

「あたし、あがり症だから。」

「もったいつけてないで、ハナ先輩しかいないのみんな分かってるんだから。やっちゃえばいいじゃん。」

こういう事を言われても、福島だから許せてしまう。微妙なバランスを計算出来る頭のいい子で、自分のキャラクターと超えてはいけない線をしっかり把握している。

「じゃ、じゃあ。やりますよ。その代わりしっかり当てて下さいね。」

渋々前に出て行ったら、そこでも女子は花菜一人だった。塚原、倉本、河合。敵は最強メンバーだ。

「ハナちゃん、頑張ってー。」

敵のチームだけど川西から応援の声が上がった。笑顔で返したけど、唇の端が滅茶苦茶ヒクヒクしている。

「先攻はジャンケンで。負けた順番で描いてもらいます。」

一番最後は嫌だ。他の人が上手く描けて比較されるのが恥ずかしい。絶対負けますように、と願ってもこんな時神様は味方してくれない。最初のジャンケンで、花菜一人チョキを出し、他の三人は全員パーを出した。一番手は河合。現在2位のキリンさんチームだ。

「河合さん、じゃこの中から好きな課題を選んで下さい。」

河合が白い箱の中から一枚の紙を取り出し、それに描かれていた課題を見た途端、顔が歪んだ。

「えー、こんな奴描けねえよ。」

そんなに難しいのか。河合のこんな困った顔は珍しい。

「よーいスタート!」

ただ河合は描き始めたら迷いが無い。

「誰?」

「男だよな。」

キリンさんチームから声上がる。瞬間、河合の手が止まった。迷っている。眉から下を描き終え、髪を描いていない。

「藤田まこと?」

「芥川龍之介。」

「違いますね。」

髪を描き始めた。ちょんまげだ。歴史上の人物か。目窪が落ちている、白髪の侍に見える。

「分かった。仲代達也。」

「正解!!」

正解を出したのは伊澤だった。

「7分33秒。」

増井が時間を読み上げた。

「はい。見事10分以内に正解が出ました。マイナス点は453点ですので、得点は167点という事になります。」

キリンさんチームから歓声が上がった。

「ただし!」

福山が続けた。キリンさんチームの歓声が止まる。

「河合さん、小道具を描いてしまいましたね。」

ちょんまげに加えて大名風の豪華な着物も描かれている。この年公開された黒澤明の『影武者』を連想させる。

「ルール違反ということになります。」

「え、このくらい描かないと解んねーだろ。」

「いえ、H大漫研の似顔絵ですからプライドを持って、ここは厳しく行きます。ルール違反という事で得点なし!」

キリンさんチームからブーイングが起こった。それ以上に他のチームから歓声が上がった。花菜は、厳しいジャッジに戸惑った。

 二番手は現在第3位、リスチームの塚原だった。引き当てた人物はジャッキー・チェン。次から次へ解答が上がったが、外国人だと理解されなかったようで、解答は全て日本人の名前だった。結果制限時間の10分が終了し、正解が出なかった。

 次は倉本のうさぎさんチーム。倉本はここで幸運を掴む。描き始めて3分も掛らず、正解が出た。

「松田聖子。」

同時に三人から正解の声が掛った。この年の前半からテレビへの露出が半端ないこの新人歌手を、知らない人はいなかった。

「くじ運も実力のうちですからね。」

これでうさぎさんチームが断トツだ。得点は625点になった。優勝は揺るぎない。

「じゃ、最後の代表者、象さんチームのハナちゃん、前へ。」

会場が冷やかしを含んだ歓声で包まれた。

「じゃ、課題を選んで。」

 その紙に書かれていた人物の名前を見たとき、花菜はほっと一安心した。先月、その女優の出演している映画をリバイバル館で観たばかりだった。ゼミの課題のため見始めた映画の、その人物に釘付けになった。花菜は1年前の似顔絵の初経験以来、気に留めた人の似顔絵を、時間を見つけては描く練習を続けている。この女優も何度も練習した。その手応えが残っている。

 3位のリスさんチームとの差は30点。逆転し最下位を免れるためには、9分29秒までに正解が出なくてはならない。その数字をもう一度確認し、福山のスタートの合図を待った。

「用意、始め。」

 似顔絵を描く時、顔のどの部分から描くか、人によってまちまちだ。花菜は輪郭から描く。この時もそうした。この女性は輪郭に特徴がある。少しエラの張った顎のライン。意思の強さを表し、同時に少女の愛らしさも損なっていない。映画の中では少女売春という屈折した役柄を演じていたが、その演技は堂々たるものだった。きれいな金髪、頭の良さを証す狭い額、心の奥まで見通すようなブルートパーズ色の瞳、理知的な口元。

「え、誰?外人?」

「若い女の人。」

チームのメンバーが呟いた。同時に、他のチームから声が上がった。

「あ、分かった。」

「上手え。」

花菜は2分も掛からず描き上げた。後は少し修正して仕上げるだけ。

「早く当ててあげて。」

「これだけ似ててわかんねーの?。」

そう言っているのは増井と中島だ。他の全員、誰?という顔をしている。これ以上手を加えると本人から遠ざかっていく。そっくりに描けたという自信があった。それでも正解が出ないのは、誰もこの女優を知らないという可能性がある。

「本当に分かんない?滅茶苦茶似てるよ、これ。」

福山がフォローしてくれた。時間は8分を経過していた。あと1分半で最下位が決定する。

「解答出ませんか。」

9分を回った。最下位を、そして罰ゲームを覚悟した。罰ゲームより自信を持って描いたこの似顔絵を、解ってもらえない事が悔しい。

「ジョディ・フォスター。」

「やっと出た!正解!」

「9分27秒。」

会場全体に張りつめていた緊張が解けた。正解を出したのは女性の声。象さんチームに女性は福島しかいない。当の福島を見るとキョトンとした顔をしている。チームの半数が部屋の後ろの方を探している。花菜もそれに気付き、同じようにその方向を見てみると、ペンションの奥さんが花菜に向かって手を振っていた。

「弥生さん!」

花菜は思わず弥生の所に駆け寄った。

「『タクシードライバー』ね。私もあの映画観た時ジョディ・フォスターが大好きになったの。ハナさんが描き始めて、すぐピンときたわ。上手ね。やっぱり芸達者。」

「ありがとうございます。答えてくれて、嬉しかった。」

「でも私が答えたら、ルール違反でしょう。」

あっと思って福山の方を振り返った。キリンさんチームからもクレームが付いているようだ。福山も増井も、ジャッジに悩んでいる。

「ちょ、ちょっと待って下さい。審議します。」

「いいんじゃないの、正解で。ペンションの方が臨時メンバーに入ってくれたという事にして。」

無理矢理な理屈で花菜の味方をしてくれたのは倉本だった。

「これだけ上手くて正解が出ないなんて、ハナが可愛そうだよ。」

中島のフォロー。

「正解にしてあげて。」

川西の声を機に、花菜への声援が続く。

「じゃあ、多数決を取ります。象さんチーム以外の人たちで。今の解答が有効か無効か。有効だと思う人、手を挙げて下さい。」

キリンさんチーム、象さんチーム以外の全員が手を挙げた。キリンさんチームの中で、川西だけ手を挙げている。

「じゃ、決まりですね。象さんチームに33点入ります。」

もう一度弥生と向き合って、微笑んだ。

「ごめん。麗ちゃん。味方してくれて。麗ちゃんが罰ゲームになっちゃったね。」

「いいのいいの。だってハナちゃんが罰ゲームになって、あたしの課題仕上げられなくなったら、その方が嫌だもん。」

本当は本心から花菜の味方をしてくれた。川西はそういう性格なのだという事を、花菜は分かっていた。

 さっきまでゲーム会場だった食堂は、合宿最後の夜の打ち上げ会場に変わっていた。

「あたし、課題の切りのいいところまで描いてからまた来る。」

「うん。頑張ってあたしの分まで。」

 花菜は部屋に戻り、残っていた下描きを全て仕上げた。後は明日の午前中に完成させよう。時計を見たら午後十時になるところだった。明日は6時には起きて課題を仕上げようと思っていた。


 打ち上げ会場に戻ると、あちこちに宴会の輪が出来上がっていた。。川西が手を振って呼んでいる。

「結構早かったね。来ないと思った。」

川西と松田は二人でビールを飲んでいた。真面目な話をしていたのか、あまり盛り上がっていない。

「ハナちゃんもビール飲む?」

松田が珍しく花菜にお酒を勧めてきた。

「今日くらいいいでしょう。あと寝るだけなんだから。」

「うん。じゃちょっとだけ。」

缶ビールを松田から受け取って、ちょっとだけ口につけた。その後の会話が続かない。

「なんか暗いね。みんな疲れちゃったの?」

「別に。ハナちゃん、合宿楽しかった?」

川西の声も沈みがちだった。

「そこそこかな。分科会も終わってみれば勉強になったし、課題もなんとかなりそうだし。」

松田とはさっきかから視線が合っていない。遠くを見ている横顔を花菜にずっと向けている。

「いやー、アツアツだよ。ハナちゃん、ヤキモチ焼かないの?」

中山が山本と缶ビールを片手に花菜たちの席までやって来た。

「なに?ヤキモチって。」

「倉本さんのところに行ったらさ、会話に入れてくれないんだよ。」

倉本がどこに居るのか、花菜にはわからなかった。

「あそこ、あそこ。見てみな。」

入り口から一番奥の腰窓の下に、壁に寄りかかって前島と2人、会話が弾んでいる様子の倉本がいた。花菜はそれを見て、この場の雰囲気を理解した。

「俺たちが行っても、相手にしてくれないんだよ。前島さんが露骨にジャマだって目で俺たち睨んで。いいの?ハナちゃん。あの二人あのままにしておいて」

(それ、あたしじゃないよ。中山君。)

「あたしは別に、関係ないよ。」

「合宿来る前に、前島さんから倉本さんに告白したんだってよ。付き合って欲しいって。ハナちゃんモタモタしてるから、先越されちゃったんじゃないの。」

(だから、あたしじゃないよ!山本君!)

「あたし、関係ないって!」

言葉尻が思わず強くなった。中山と山本が一瞬怯んだ程だ。酔って出た言葉だとしても許せなかった。花菜に対してじゃない。花菜は自分がそう言われても傷つかない。

「・・ごめん。言いすぎた?」

山本の声がしおらしい。

「いや、ハナちゃん、冗談だって。」

「もういいじゃない。その話は。あの二人の勝手でしょ。」

川西が言い放った。

「う、うん。ほんと、ごめん。」

中山と山本はいたたまれなくなって、その場を去って行った。

 そういう事だったのか。松田の気持ち、川西の気持ち。人を好きになる事、秘める事、伝える事、諦める事、花菜にはまだ手の届かない気持ち。でも親友の気持ちが今どこにあるのか、それは痛いほど分かる。

「麗ちゃん、由紀ちゃん。外行かない?」

「今から?どこに?」

「見て欲しいものがあるの。」

「どうする、由紀ちゃん。」

「・・ん。いいよ。行こう。」

 風は全く無かった。会話も無かった。話せば、今の三人の、辛うじて保っている心のバランスが崩れてしまう事が感覚で分かった。

 裏のゲレンデを登り始めても、二人は黙ってついて来る。花菜は懐中電灯を持って来て良かったと思った。自分は大丈夫だから、二人の足元を照らしてあげられる。一昨日は林の中を息を潜めて登ったが、今日はゲレンデの真ん中を登った。

 長い沈黙が続き、息も切れてきた。花菜以外は何が待っているのか知らない。それでも花菜の後をついて来てくれる。花菜はありがとうと心の中で言い続けながら登った。

 左右の林が途切れた。斜面が緩やかになった。着いた。花菜が立ち止り、それに続いて川西も、松田も登るのを止めた。花菜は笑顔を作り、振り向いた。

「見て。」

2人同時に、花菜の指先、空を見てため息をついた。瞬間、2人の心が真っ白になるのが分かった。

「こうすると、もっとよく見えるよ。」

花菜が地面に寝転び、仰向けになった。つられて川西も、松田も仰向けになった。松田を真ん中に、右に花菜、左に川西。変わらず、3人は何も話さない。でもさっきまでの沈黙とは違う。花菜は一昨日この場所にいた時と同じ、穏やかな気持ちに変わった。

「ありがとう。ハナちゃん。麗ちゃんも。」

松田が不意に話し掛けてきた。花菜も川西も返事はしなかった。その代わり松田の右手を握った。松田が握り返してくれた。きっと川西も花菜と同じ事をしている。花菜は心の中で松田に話し掛けた。この場所でなら、きっと松田の心に届く。

 「困難は由紀ちゃんの力で乗り越えるんだよ。

  あたしはあたしがどれだけの事が出来るか分からない。

  でもあたしが由紀ちゃんにしてあげたい事をする。

  例え微力でも。

  由紀ちゃんが壁を乗り越えたら、思いっきり祝福する。

  それまで、ずっと由紀ちゃんに寄り添っているよ。

  ずっとこうして手をつないでいるよ。」

この恋に松田は何度ため息をついたのだろう。花菜の心に『私はピアノ』のフレーズが浮かんだ。聴き慣れた原由子の歌声が、松田と重なった。松田が歌っているのは、悲しい失恋の歌だった。

「由紀ちゃんの声、原坊と似てる。」

「えー、なに?突然。似てないよ、私。」

今は歌ってとは言えない。いつか、花菜のためにこの歌を歌って。花菜がこの歌の本当の意味が分かった時。きっとまた、その時にこの歌が大好きになる。

(お父さん、あたしは今日また、少しは大人になったかな。)


 合宿の最終日、花菜が提出した分科会のギャグ漫画が萩原の賞賛を得た。松田、川西、花菜の3人娘がアイドルグループで、巻き起こすドタバタコメディだった。デフォルメされた3人のキャラクターが特に評価が高かった。ハイキングの時の萩原のアドバイスをヒントに、三人の性格をそっくり入れ替えたことも笑いを誘った。花菜は思ったことをズバズバ言う攻撃的な性格。川西はおっとりした天然系の女性。松田は慌てもののドジばかりする女の子。合宿の分科会用に仕上げた漫画だったが、このキャラクターで次回『すうりいる』の原稿を描いてみたら、と萩原から薦められた。



 夏休みの後半、3人娘のギャグ漫画を実家でゆっくり描いた。平松から電話があり、約束していた食事に出掛けた。

 中学校、高校と、花菜と平松はそんなに仲がいいという関係ではなかった。もっと前から友達になっておけばよかったと後悔した。

「やっぱり東京で暮らしている人はきれいになっちゃうね。」

「あたしの事?それ。ありがと。ってそんな事ないよ。良美ちゃんは昔から可愛かった。」

平松に憧れていた。可愛くて活発で頭が良くて。目の前にいる彼女は今も可愛く、何事にも前向きで、強い。

「ううん。やっぱりね、どこか違うのよ。こっちは田舎だから、車が無くちゃ話にならないの。だから歩く事が無いのね。さっきハナちゃん、車から降りてこのテーブルまで歩いて来た時、後ろからずっとついて来て、かっこいいなって思ったの。颯爽というか動きに無駄が無いっていうか、洗練されてるっていうか。」

新入生の時、道を歩く度に追い越されていた自分を思い出した。ラッシュアワーに電車に乗っても、今は目的の駅で造作も無く降りる事が出来る。いつの間にかそのペースで生活していた。

「時間の密度が違うような気がするの。都会と田舎じゃ。ハナちゃんは私の何割増しかの時間を毎日経験してるのね。きれいって言ったのはもちろん外見もあるけど、春に会った時よりも大人になってるって意味。それだけの時間、それだけの経験を積んでいるのだわ。」

「あたしは同級生よりも何歩も何歩も、遅れて歩いていたから。やっと良美ちゃんに追いついて来ただけだと思う。みんながあたしの手を引っ張ってくれたから。」



 夏休みが終わると、花菜は授業の方が忙しくなった。ゼミでも課題が立て続けに出て、ゼミ友と映画を週2日のペースで観て回った。パウワウのバイトも週3日入って欲しいと頼まれ、月火水と入るようになったため、漫研には顔を出せずにいた。

 学祭が近づき、大学全体がそわそわし始めた。勝沢が、今年のコンサートは石川ひとみだ、とか言って騒いでいる。

今年の1年生も似顔絵を描ける描けないの選別が行われた。トップの実力を示したのは前島だった。花菜とは違い、少女漫画らしい可愛く優しいタッチが客受けしそうだ。


 11月24日。1980年H祭最終日。秋雨前線の中休みだった昨日の暖かさとは打って変わって、雨含みの今日はまた寒さが襲ってきた。その上寝不足だ。昨日の夜ウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』を読み、結局夜中の2時過ぎまで本と首っ引きになった。今朝はご飯を食べようとも思わなかった。似顔絵用の道具をバッグに詰め、少しふらつきながら部屋を出た。

 似顔絵会場に着いた時、テーブルに空いている席はひとつしかなかった。一番通路側の席。花菜が到着した9時半には、3年生以上は一人もいなくて、全て2年生と1年生だった。

「おはようございまーす。寒いね。」

「おはようございます。ハナさんの隣じゃ、僕描きにくいですよ。場所変わって下さいよ。」

「いいよいいよ。午前中はお客さんあまり来ないでしょ。」

花菜は1年の佐藤の隣の空いている席に座った。山形出身の彼も、伊澤と同じようにたまに方言が出る。

「じゃ、ハナさん描きながら僕に似顔絵教えて下さいよ。」

「えー、個人授業は高いわよ。佐藤くん。コーヒー1杯ね。」

「お安い御用です。」

冗談で言ったつもりだったが、佐藤は猛スピードで立ち上がり、外の出店に買いに行ってしまった。

 そのコーヒーを最後まで飲む暇がなかった。10時前から一気に似顔絵会場が混んできてしまったからだ。

 昼12時半を過ぎ、交代の澤田がやって来た。一年の澤田忠は花菜と同じ歳だ。一浪している社会学部生。彼の描き方は少し変わっていて、目から描き始める。

「澤田くん、お願い。」

「分かりました。ハナさん、しっかり食べてきて。」

今日は外の出店ではなく、二食に行こうと思った。二食の『カツクリーム』をどうしても食べたくなった。カツクリームはクリームコロッケとチキンカツがメインのワンディッシュランチで、サラダとご飯も一緒の皿に乗っている。山本の大好物で、彼は大学ではこのメニューしか食べない。その様子を花菜はたまに見て、無性に食べたくなってしまう。

「ハナさん。」

後ろから声を掛けられて思わずプレートを落としそうになった。危うく350円を無駄にするところだった。

「前島さん。一人?」

「はい。ハナさんがお昼に行ったって聞いたので、後追いかけて来ました。あたしもお昼一緒にしていいですか。」

「いいわよ。一緒に食べよう。」

先に席を取って前島を待った。彼女が選んだメニューはきつねうどんだった。自分も温かいものにすればよかったと少し後悔した。

「ハナさんの似顔絵が私好きで、あ、似顔絵だけじゃないですけど。ハナさんの絵が好きで、一度ゆっくりお話出来ればって思って。迷惑かもしれませんけど。いいですか。」

話し方がしどろもどろだ。自分と話をする相手の方が緊張しているなんて。そういう立ち位置に自分がいるのが不思議な気がした。

「ありがとう。絵の事そう言ってくれるのは、嬉しいな。あたしは他に取り柄が無いから。でも前島さんの絵もね、上手だなって思う。あたしにはあんなふうに描けないから。羨ましいなって思う。」

「そ、そんなこと無いですよ。あたしなんか全然、ハナさんの足元にも及ばなくて。」

「お互いに褒め合ってるって、何か恥ずかしいね。」

「でもハナさんがギャグ漫画描くとは思いませんでした。」

「あれは崖っぷちで捻りだしたの。今度のすうりいるでしょ。ゼミの方が忙しくなっちゃって、夏合宿の課題の延長で描けたから。ちょっとズルしちゃった。」

「一度ハナさんのアシスタントやらせてもらえないですか?」

「え?あたしはそんなアシスタントやってもらえるような漫画描いてないから。一人でチマチマ描いてるだけなの。」

「いえ、本当言うと、描いているところを見せて欲しいんです。漫画の描き方を教えて欲しい。」

「だから、そんな教えるなんていう程上手くないよ。一緒に漫画描こうっていう程度で良ければ。それでいい?」

「はい。ありがとうございます。」

この子は自分の好奇心に正直だ。真っ直ぐ向かってくる。少し前の自分を見ているよう。花菜の場合は手探りで、自信の無い事を何とか克服したい一心で前に進んで行った。前島の好奇心には迷いが無い。そこが花菜と違う。自分にも他人にも嘘をつかず、真っ直ぐに行動する前島は間違っていない。

 カップルで1枚の紙に描いて欲しいという客がたまにいる。学祭での似顔絵代は1枚100円だが、二人で1枚の紙に描いた場合200円貰う。客のとっては割高感があるが、描く方は一人1枚よりも大変なのだ。顔が小さくなれば描きにくくなるし、構図の煩わしさ、例えばテニスをやっている場面で、とかの注文も多くなる。それにカップル相手だと花菜は気を使ってしまう。

 H大の体育会系の集団がやって来て、横一列に並び、騒ぎながら盛り上げてくれた。花菜は花菜の前に座った客を思い切りデフォルメして、この位は許してくれるだろうとゴリラそっくりに描いてみた。結果は大受けで、他の客も巻き込んで笑いの輪が出来た。客と会場との間で、たまにこういった一体感が生まれる時がある。花菜はそういった場面に出くわすと、充実感と幸福感で胸が一杯になる。

 次の客はまたカップルだった。2人一緒に1枚の紙に描く。女性も男性もプレッピー風のファッションで、デートの途中で寄ってみたという感じだ。多分外の出店で飲んで来たのだろう、注文は細かく、恰好よく描いてとか可愛く描いてとか言ってくる。それでも今日一番出来栄えになった。後ろで見ていた柴田も吹き出す位だった。あまりにそっくりに描き過ぎた。花菜はいつも通りの笑顔で完成した似顔絵を渡した。

「何これ、全然似てない!」

目の前の女性の表情が一変し、すがるような目を男性に向けた。

「本当だ。似てねえ!エミちゃんもっと可愛いよね。」

その二人の声の大きさが周りの注意を引き付けた。花菜を包む空気が、一気にまた凍る。カップルが持っていた似顔絵を床に投げ捨てた。周りの視線も気にせず、男性は攻撃の矛先を花菜に定めた。

「よくこんな腕で金取れるな。どこ見て描いてんだ。ヘタクソ。」

ショックと相手の剣幕に押され、一言もしゃべることが出来ない。

「ひどいよ、ケンちゃん、こんなふうに描かれて、立ち直れない。」

「どうすんだ。彼女傷ついちゃったじゃねぇか。どうしてくれんだ。」

漫研のメンバーは、一人残らず似顔絵の手を止め、成り行きを見守っている。他の客も同様にこのトラブルに注目している。

「黙ってないで何とか言えよ!謝るつもりもねえのかよ!」

「そうよ!謝ってよ!」

酔いも手伝って、2人は益々声高になり興奮している。それに反比例するように、会場は静まりかえっていく。

「お前、何年だ。1年生か?こういう時の謝り方も知らねえのか。」

「・・・すみません・・」

蚊の泣くような声だった。それがさらに相手をヒートアップさせた。

「なにぃ!聞こえねえよ!もっと大きな声で、聞こえるように言ってみろよ!」

事態を重く見て会長の福山が駆けつけようとした時、思わぬところから声が上がった。

「そっくりじゃねー?」

「ほんとだ、そっくりじゃん。何言ってんだ、こいつら。」

隣の席の客の手に捨てられた似顔絵が握られていた。体育会系集団の中の2人だった。エミちゃんと呼ばれていた女性が、そちらを向いた。

「おお、正面から見てもそっくりだよ。なあ、みんな!これむちゃくちゃ上手く描けてるよなぁ!」

体育会系が立ち上がり、拾った似顔絵を掲げた。

「似てるじゃん!」

「似てる!」

「そっくり。」

体育会系以外の客からも声が上がる。

「似顔絵、こっちに回して。」

「私にも見せて。」

「後ろ向けよ。顔見せろよ。」

「お前ら、もっとみんなに見えるように、立って後ろ向けよ。お前らが文句言ってるのが正しいか、漫研の女の子の腕が確かなのか、みんなに判断してもらおうか。」

今度はカップルが凍り付く番だった。下を向いたまま微動だにしない。花菜1人を相手に喧嘩を売っていたつもりが、あっという間に会場全体を敵にしてしまった。

「俺ら毎年この漫研の似顔絵描いてもらうのが楽しみなんだよ。お前らがイチャモン付けてるのは最初から分かってんだよ。大概にしとけよ。せっかくの雰囲気壊しやがって。お前らが謝れよ。彼女に。漫研の人たちに。他のお客さんに。」

「そうだ。この子が可愛そうじゃねーか。」

「ちゃんと謝れよ。」

「謝りなさいよ。」

謝れ、謝れ、と次第にその声が輪ように広がり、カップルの2人を、そして会場を覆った。エミちゃんと呼ばれた女性は泣き始めた。ケンちゃんと呼ばれた男性は顔面蒼白となり、すっかり酔いが醒めていた。収拾がつかなくなってしまった。

「申し訳ありませんでした!!」

その大声で会場は一瞬にして静まった。叫んだ花菜も戸惑った。

「あ、あたしのせいで、お客様みなさんにご迷惑をお掛けしました。ごめんなさい!」

花菜はそう叫ばずにいられなかった。会場全体が注目している中で続けた。

「お客様にも、あたしが未熟なせいで、不快な思いをさせて申し訳ありません。どうか許して下さい。」

カップルに詫びた。立ち上がり、額がテーブルに付くくらい頭を下げた。その場を取り繕うために出た言葉ではなかった。似顔絵を勉強し始めた時、倉本から言われた言葉を思い出していた。美人じゃなければ、実物より少しだけ可愛く描いてやればいい。それが客に喜んでもらえるコツだったのだ。そっくりに描く事よりも喜んでもらえる事を優先するべきだった。

「もちろん、似顔絵代はいただけません。もしよろしければ、もう一度もっと上手に描けるように頑張ります。本当に申し訳ございません。どうさせて頂いたらよろしいでしょうか。」

花菜はカップルに収拾するきっかけを与えたつもりだった。

「いいよ、もう。エミちゃん、行こう。」

2人は他の客にぶつかる事も意に介さず、出口に向かって行った。花菜はもう一度会場に向き直り謝罪した。

「みなさん、楽しんで頂いていたところを嫌な雰囲気にしてしまい、申し訳ありませんでした。あたしの味方をしていただいた方々には、あたしが謝った事で立場をなくさせてしまったかも知れません。その事も深くお詫び致します。それから、あの、あたしの描いた似顔絵を応援して下さって、ありがとうございました。本当に本当に、嬉しかったです。どうもありがとうございました。」

再びテーブルに額を付けて花菜は頭を下げた。1人、2人、やがて会場全体を暖かく包むような拍手が沸き起こった。拍手が鳴り止むまで、花菜は顔を上げられなかった。

「どうも皆さん、ご迷惑をお掛け致しました。H大漫研の会長をしております福山と申します。暖かい拍手をありがとうございます。どうかこの後も引き続き似顔絵を楽しんでいって下さい。もう一度お詫びとお礼を申し上げます。ありがとうございました。」

福山の挨拶で拍手は次第に止んでいった。やっと花菜は顔を上げる事が出来た。目線の先に一番味方をしてくれた体育会系がいた。

「あ、あの、せっかく応援していただいたのに、あたしが謝っちゃって、ほんとにすみませんでした。許して下さい。」

「いいよいいよ。ああ言ったものの、俺も引っ込みがつかなくて、どうしたらいいか分かんなかったからさ。見事な火消しだったよ。俺が助けてもらったようなもんだ。」

にっこり笑った笑顔が強面の割に可愛く見え、人の良さを滲ませた。花菜はもう一度頭を下げ、次の客の似顔絵に掛かる用意をした。

「すみません。出来れば僕ら二人も1枚の紙に描いて欲しいんですけど。嫌ですよね。」

一瞬怯んだが、優しそうな眼差しの男性。女性の方は美人というより可愛いタイプのおとなしそうな顔。これならそっくりに描いても充分可愛くなる。

「いえいえ、そんな事ありません。大丈夫です。どうぞ。」

「頑張りましたね。見ていて僕らもハラハラしましたけど、立派だった。感心しました。あそこまできれいに謝れる人、社会人でもそうそういませんよ。」

「ありがとうございます。ご迷惑掛けてしまいました。」

「何年生なんですか?」

想像通り大人しく、可愛い声の女性だ。

「今、2年生です。」

「いいな。私たち4年生で来年卒業なんですよ。もうすぐ大学生活も終わっちゃう。」

「大学生活はどうでしたか。」

「楽しかったぁ。もうこんな楽しい時間は一生味わえないだろうなって思うくらい。彼とも知り合えたし。なんて。」

「羨ましいです。」

「そんな事無い。あなたもとても充実した今を送っているように見えますよ。私はさっきみたいな対応の仕方は、2年生の時にはとても出来なかったわ。」

「そうだよ。あれだけ嫌なこと言われて、それでもその相手のことを思いやってあげていたでしょう。それだけじゃなくて周りの人全員が嫌な思いをしないように配慮していた。僕は感動しましたよ。」

「いえ。あたしが調子に乗ってしまったせいですから・・」

マーカーを握ろうとしてうまく掴めない。目の前が滲んでいる。

「あれ・・?」

大粒の涙が花菜の目から零れ落ちた。花菜には泣いているという感覚が無いのに。

「あっ、大丈夫?」

「はい、大丈夫です。・・あれ?」

涙声にもなっていない。でも涙は次から次へと溢れてくる。

「私たちはいいから、ちょっと休んで。ね。」

「・・いえ、すみません。・・こんな・・」

このカップルの優しさに触れたからだろうか、さっき似顔絵を捨てられた悔しさだろうか、泣いている理由が分からなかった。一向に止まらない涙は、どこから湧いてくるのだろう。こんな泣き方がある事を初めて知った。

「ちょ、ちょっとすみません。ハナ、いいから、もう交代しよう。」

福山が見かねて花菜の傍らに立った。

「えっ?そんな。大丈夫です。」

「だめだよ。お客様に迷惑を掛けてしまう。」

「私たちはいいんですよ。でも、本当、休んで。」

似顔絵は色塗りの前まで終わっていた。このまま居座っても周りに迷惑を掛けるだけだと分かっている。でも途中で諦める自分が許せなかった。悔しかった。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい。」

椅子を立った途端にまた涙が溢れた。今溢れた涙の理由は痛いほど分かっていた。



 1980年の暮れ、花菜は田舎に帰らなかった。年が明けた1月15日の成人式に合わせ、帰ろうと思ったからだ。大晦日の夜、1人下宿で年越しそばを作っていたら、帰ればよかったと後悔した。人生で初めて1人で年を越す。そんな大袈裟なものではないと考え直したが、やっぱり寂しくなって母に電話をした。

 花菜の下宿は電話を大家さんが取り次いでくれていた。でもその度に恐縮してしまい、電話を買おうと1年前に決心した。電話の権利が7万円を越すと聞いて、なかなか踏み切れなかったが、この夏一年先輩の有村が権利を5万円で譲ると言ってくれた。それと権利はまた売却できるという事をこの時知った。だったら、という事で夏休み明けから部屋に電話を引いたのだった。


 成人式に花菜は晴着を着た。母が若い頃仕立てたものだ。

「ハナちゃん、女の子らしい。きれい。」

成人式会場で平松はすぐ花菜を見つけてくれた。

「変な髪形でしょう。こんなの初めて結ったから。」

「そんな事無いよ。男子が放っておかないよ、これじゃ。」

「良美ちゃんこそ大人っぽーい。」

平松は細身のスーツで決めている。普段とメイクの仕方も違う。

「こんちは。平松。今日は大人っぽいじゃん。それと、あれ?・・・」

「ハナちゃんだよ。掛井花菜ちゃん。失礼だよ、真一くん。」

「えーっ!そうなの?そう言われれば、そんな気がするけど。」

平松に話し掛けてきたは中学まで同じ学校だった赤石真一だ。花菜の中学校は、男子は基本坊主頭だったので、中学卒業以来会っていない男子の記憶はイガグリ頭のままだ。赤石の田原俊彦風のヘアスタイルに違和感があって仕方がない。

 この日、夕方から中学校の同窓会が開かれる予定だった。会場となる料亭は花菜の家から徒歩で行ける。そういう狭い町なのだ。晴着から洋服に着替え、花菜は家を出た。

 同窓会場はもう既に殆どの参加者が集まっていた。大勢が揃っている所に後から入っていくのは恥ずかしい。まして花菜は中学校の時は目立たない存在だったのだ。誰も相手にしてくれなかったらどうしよう、という不安が段々大きくなってくる。宴会場の襖に手を掛けた時、その不安がピークに達した。

 不安は杞憂だった。開けた襖から顔を覗かせた瞬間、会場から、おーっ!という野太い声が上がった。

「掛井さん、こっち空いてる。」

「ハナちゃん、だめよ、そっち行っちゃ。この席取っておいたから。」

赤石の誘いを制し、平松が手を振っている。平松の回りには懐かしい女子が数人座っている。

「掛井さん、久しぶり。あたし、覚えてる?」

「覚えてるよ。横山さん。卒業してからまだ5年しか経ってないよ。」

「ねえねえ、掛井さん。掛井さんって渋谷に住んでるんでしょう、羨ましいわ。」

確かに笹塚は渋谷区だが、話し掛けてきた横山早季子と松下静子が想像しているスクランブル交差点とどこが違うのか、どう説明しようかと思案した。高校を卒業して地元を離れた同級生は3割位しかいない。東京在住の女子大生がこの宴席では珍しいのだ。

 同窓会はいつの間にか花菜と平松の周りに輪が出来始めていた。平松の話術が人を惹きつけるのだが、傍らで花菜が的を外れた会話を放り込む事も笑いを誘い、場を和ませている。

「掛井さんてもっと大人しかったよね。」

「うん。っていうか、暗かったかも。」

その程度の揶揄は気にならない。

「思い出した。掛井さんって小学校の中頃まで、すごくおしゃべりだったんだよ。」

「え、ほんと?」

「うん。幼稚園の時なんて、いつも掛井さんが先頭に立って遊んでた。みんな掛井さんの後追って遊んでたんだよ。」

「俺小学校の入学式で掛井さんに泣かされた記憶あるもん。」

「うそ。そんな事しないよー。」

近所だった沢木由香と鈴木慎吾がそんな事を言い始めた。中学から同じ学校になった同級生たちは花菜のそんな姿を知らない。

「小学校卒業する前から、ごめんね、なんか性格変わっちゃったみたいで。心配したんだ。実は。でも言えなかったんだよ。お父さんの事があったからだと思って。」

「こっちこそ、ごめんね。」

「でも、あの頃の掛井さんに戻ったみたいで。なんか嬉しい。あ、そうだ。幼稚園の頃みたいに『ハナちゃん』って呼んでもいい?みんなそう呼んでたよね、あの頃。」

「いいよいいよ。ハナで。」

「私は今も昔も『ハナちゃん』だよ。」

平松が自慢げにフォローしてくれた。

「ハナちゃんって女の子らしい名前だよね。」

既におじさん体型に変わりつつある下川義則が割って入ってきた。

「でも下川君、四年生の時、あたしの名前おばあさんみたいって言ったじゃない。」

「えっ!そんな事言ったかなあ。」

父と会話出来ないまま死別したのは、花菜が自分の名前に悩んで拗ねていた時だった。その悩みのきっかけは下川が言った言葉からだった。下川の言葉に対しては、今は全く拘泥していない。

「ハナちゃん、東京に連絡したい時ってどうしたらいいの?」

「部屋に電話あるから、電話くれる?」

「いいな。自分専用の電話があるって。」

花菜は電話番号を書いた手帳を破って沢木に渡した。

「ハナちゃん。俺今千葉に住んでんだよ。よかったら東京で会わない?俺にも番号教えてくれないかな。」

下川がとんでもない事を言い出した。周りの女子も絶句している。

「いいよ。はい、これ電話番号。」

と言って割り箸の袋に番号をメモして渡した。もう一度周りの女子が絶句した。

「ありがとう。絶対電話するよ。」

まるで1等が当たった宝くじのように、下川は花菜のメモを大事そうに握りしめ、他の席に移って行った。

「いいの?あんな奴に電話番号教えちゃって。ハナちゃん!」

周りみんなで心配してくれている。

「いいよ。繋がるのは新宿西口のYカメラだから。」

 下川が4年生の時言った言葉には、誓ってもうこだわってはいない。ただ下川と2人で会おうという気持は微塵も無い。それとこれとは話が別なのだ。











1981年  幹部


 3年の新学期を迎える前から、花菜はBOXに何度も足を運ばなければならなかった。編集長として『すうりいる』18号の編集作業をしていたからだ。


 1980年12月、第1土曜日。五十五号館の教室を借り、新幹部選挙は進行していった。会長と編集長は前会長と前編集長の指名制のようなものだった。福山が会長として挙げたのは中山、倉本は編集長に花菜を推した。対立候補も無く承認された。本当にあっさりと、H大学漫研史上初の女編集長が誕生した。

 編集補佐には前島を指名した。どう考えても一年生の中では彼女が一番優秀だった。

 花菜はそれまでの編集方針を少しだけ変えてみようと思った。表紙を少し派手にする事と、『すうりいる』のロゴを変えた。

 表紙を描く人材はその時の編集長が指名する。花菜は前号、『すうりいる』17号の表紙を既に描いている。今号の表紙は倉本に描いてもらう事にした。表紙の描き手として指名されるのは、部員にとって名誉な事だ。従って指名する側も慎重になる。花菜は倉本にはどういった設定でどのようなイラストを描いて欲しいか明確に指示をした。ニューヨークのダウンタウンの設定だった。倉本は花菜の期待に応えてくれた。

 『すうりいる』は表紙、裏表紙、背表紙が2色カラーで、それ以外は全て黒1色。4色カラーを使用出来ないのは予算の関係からだ。花菜は表紙に使う2色を最大限に多色に見せるため、それぞれ100%、70%、40%の濃度差を付けた。これによって多色使いのように少し見せることが出来る。それから紙質をエンボス紙からコート紙に変えた。出来上がった『すうりいる』18号は、それまでの号と外観はまるで違った雑誌になった。



 4月、『すうりいる』18号の原稿を神田の共伸印刷へ持ち込んだ日と前後して、会長の中山の元へ大きな企画が舞い込んだ。大手出版社のK社が主催する、六大学漫画研究会共同のパロディ展の企画だ。会場は新宿副都心、Sビルの一階展示会場を借り切る。期間は5月25日から31日まで。TV中継も予定される。

「ハナちゃん、1作品描いてね。」

「中山くんも描くんでしょうね。」

「もちろん、他の大学に負けてらんないよ。」

中山の意気込みは大変なものだった。


 ゼミを含め、この時期、多忙を極めた花菜がパネル展、『すうりいる』講評会を経て、パロディ展の作品に取り掛かれたのは締め切りの5日前だった。中山からはB2のパネルに仕上げるように依頼されていた。新宿のイズミヤでパネルを買い、京王線に乗って下宿に着くまでが一苦労だった。風が吹けば煽られてしまう。まるでパネルが歩いているようだった。

「私はパロディなんて思いつかないけど、ハナちゃん、H大漫研代表して頑張って!」

「期待してるから。頑張って!」

松田と会ってヒントを貰おうとしても、川西に電話して話し相手になって貰おうとしても、こういう話題の時には2人とも本当にそっけない。松田は副会長に、川西は会計に就任しているのに。幹部同士協力してよ、と思ってしまう。結局明日が締め切りという夜になっても、パネルは白紙のままだった。搬入のリミットが明日の昼12時にBOX。部屋を11時に出てぎりぎりだ。あと13時間しかない。何でもいいから描き始めようと腹をくくった。

 取りあえず、目の前の音楽雑誌をめくってみた。花菜が普段描かないジャンルの顔がそこにあった。3人組の男性グループの、一番描き易そうな高橋ユキヒロから手を付けた。3人の顔だけ描いて、パロディは後で考えようと思ったのだ。パロディの拙さを責められる方が、未完成を責められるよりましだ。思いの外高橋ユキヒロが似ていた。気を良くして坂本龍一、細野晴臣を描き上げた。納得できたのは高橋ユキヒロだけで、後の2人は三遊亭円楽と三遊亭小円遊に見えて仕方なかった。

 花菜はYMOを農協の団体旅行に見立てた。YMOをYMP、イエローマジックオーケストラをイエローマジックパッセンジャーとした。代表曲『TOKIO』を『NOKIO』に置き換え、レコードジャケット風に仕上げた。キャッチコピーは『彼らが世界を席捲する。』。これで何とかパロディのカテゴリーに入れてもらえるだろう。朝8時過ぎ、何とか出来上がった。これなら少し眠れる。目覚まし時計を10時にセットし、倒れるように眠りに落ちた。

「何で部屋にいるんだよ!」

電話の音で目が覚めた。中山の声に起こされ、段々と意識がはっきりとしていくにつれて血の気が引いてきた。恐る恐る目覚ましを見ると、時計の針は無情にも午後1時5分前を指している。

「ひぇっ、す、すみません!ど、どうしたら、いいかな?」

「そのまま新宿まで持って来て。西口から出てSビル1階。多分もう搬入始まってると思うから、分かると思う。」

「分かりました!」

 取るものも取りあえず部屋を飛び出した。化粧する暇がなかった。B2パネルを頭の上に掲げて駅までダッシュした。

 新宿西口地下広場に出て、手当り次第に人に訊ねた。大学受験の時の自分が蘇ってきた。もう2年以上も前の事だ。駅員に道を尋ねる事すら恥ずかしかった。不安で不安でたまらなかった自分。小心で、それでも一所懸命殻を破ろうとしていた自分を、花菜は愛おしく思い出した。

 視線の先に中山がいた。

「すみませーん。遅くなって!」

「アラレちゃんみたい。」

ノーメイクを誤魔化すため、そういえば伊達メガネを掛けて来たんだった。その上、部屋着のトレーナーにオーバーオールを着て来た。

「ハナちゃん、描いてきたの見せてよ。」

「いやよ。あたし1人先に見せるの恥ずかしいわ。」

「どうせすぐ展示されるんだよ。そんな事言わないの。」

別に見られて嫌な訳じゃなかった。中山の言う事に何故か反発したくなる。反発された時の中山のリアクションが面白い。

「へぇ、これすごいな。またタッチが変わった?」

「うん。あたしじゃないみたいでしょ。」

「中山君、H大は作品搬入終わった?」

 花菜と中山が立ち話をしている処に業界人風の男性がやって来た。

「あ、はい。これが最後です。」

「おー、すごいじゃない。こういうのいいよ。上手いね、H大は。中山君が描いたの?」

「いえ、これはここにいる、うちの則巻アラレが描きました。」

「えっ?女の子が描いたの?これ。そりゃすごいよ。メインに飾っちゃおう。いい?アラレちゃん。」

「あ。北島さん、紹介します。うちの編集長やってます、掛井です。ハナちゃん、K社の北島さん。」

中山の前に回り、思い切り睨んでやったのだ。

「H大漫画研究会3年、掛井花菜と申します。宜しくお願いします。」

「どうも。K社の今回の企画担当してます北島です。宜しく。女性編集長なんて大したものだね、掛井さん。」

「いえ、まだ経験不足です。みんなの足引っ張ってます。」

「H大の漫研は実力あるから大変だね。あ、そうそう中山君、3時になったら西玄関の前に代表者だけ集まって。伝える事あるから。」

北島は颯爽と歩いて行ってしまった。30歳そこそこに見えたのに、こういうイベントを仕切っているなんてすごい、と感心した。


 翌朝は5時に起きられた。6時10分にSビルに着くと、そこはもう予想以上の人で混雑していた。数台のテレビカメラも見える。その他の、実物は初めて見る中継機材も配備されている。

「ハナさん、おはようございまーす。」

 2年生が数名、手持無沙汰にしていた。

「おはようございます。北川くん。早いのね。」

「だって中山さん、6時に来いって言ってたんですよ。だからみんな、僕の部屋に泊まって遅れないように来たら、中山さんまだ来てないんだもん。」

「あら、本当ね。」

 北川は愛知県出身の経営学部生だ。父親が会社を経営しており、北川は卒業したらその会社の跡を継ぐための経営学を学んでいる。信濃町にマンションを所有していて、もちろん父親の名義だが、よく同級生で集まる事もあるらしい。2浪しているため花菜より1歳年上で、最初は花菜もどのように接していいか分からなかったが、今では北川の人柄で先輩後輩の関係が支障なく築けている。

「ハナさんのパネル、一番のメインに展示されてますね。」

「え、本当?あたしまだ見てないの。」

「ハナさんがああいう漫画描くとは思わなかったな。」

「昨日中山くんからも言われたわ。パロディなんて初めてだから。」

言っていたそばから中山が現れた。

「ごめん、ごめん。遅くなっちゃって。」

「中山くん、後輩に指示しておいて、遅れちゃだめ。」

「それって昨日の仕返しだろ、ハナちゃん。みんな、悪かった。」

「中山、遅いじゃねーか。代わりに打ち合わせしておいたぞ。」

勝沢がテレビクルーのいる方角から、大声で話し掛けてきた。しっかり副会長の役割を果たしている。

「7時15分頃に中継が入るから7時15分前までに東玄関の看板前に集合してくれって。キャスターは生島ヒロシだって。」

 TBSの朝の情報番組の『テレビ列島7時』が生中継をするそうだ。花菜の実家の方でも系列局の静岡放送で放送される。母に電話を掛けようかと迷ったが、止めておいた。掛井の娘は大学で勉強もせずに漫画にうつつを抜かしている、と噂されかねない土地柄だ。

 他大学の人たちも大勢集合している。H大は3年生と2年生中心で、この日10人ほど参加していた。この日も女子は花菜1人だった。

「大石くん、目立つからインタビューされちゃうかもね。」

大石俊彦は身長が185cmあるので、花菜と並ぶと大人と子供だった。漫画家になると公言しているだけあって画力は素晴らしく、彼の描いた漫画はうりーぷか18号では巻末を飾っている。

「六大学漫研のみなさん、そろそろ集合してください。」

 アシスタントディレクターらしい若いテレビクルーが走りながら叫んでいる。H大も勝沢を先頭に東玄関前に移動した。全大学集合したところで50人位の集団になった。

「おはようございます。」

 いかにもやり手という感じのテレビマンが中央に立っていた。

「今日はみなさん、朝早くからご苦労さまです。今日の中継を担当しますディレクターの伊達です。よろしく。」

花菜は最近初対面の人の顔を、どう似顔絵に描いたらいいか無意識に考えてしまう。伊達ディレクターは顔のパーツには特徴が無く、サングラスが目立っていただけなので似顔絵は描きにくかった。

「7時16分から4分ほどの中継がされますので、その間はそこの位置で動かないでいて下さい。レポートはキャスターの生島ヒロシさんがします。インタビューも入りますので落ち着いて受け答えして下さいね。」

対面しているカメラマンの指示で、全員の位置が調整された。

「中継が入るタイミングで合図をしますので、思いっきり盛り上がって下さい。若者らしく元気良くね。一度リハやってみましょうか。」

50人全員が伊達ディレクターの合図を待った。

「はい、中継入った!」

その声で一斉に歓声が上がった。花菜も真剣に声を出した。

「みんな元気無いよ、それじゃ。全然届かない。あと動きが無いから見た目も盛り上がってない。もう1回やってみよう。」

計3回のリハーサルの結果、伊達ディレクターのOKは出なかった。

「もう時間が無いからリハは終わるけど、本番は今の倍以上盛り上がってね。今のままじゃアピール全然足りないよ。」

7時10分を過ぎていた。どうすればいいのだろう。花菜は自分の責任のように考え込んた。

「大石くん、お願いがあるの。」

「何すか。ハナさん。」

後ろに立っていた大石に話し掛けた。

「中継が始まったら、あたしお辞儀するから、あたしのお尻蹴ってくれる?」

「えっ?どうして?」

「そうしたらあたしカメラに向かって転がって行くから。」

「で、出来ないっすよ、そんな事。」

「いいの。やってね。思いっきり。北川くんも一緒にやって。」

「マジっすか。いいんですか本当に。」

「やってくれる?じゃ、宜しくね。」

伊達ディレクターの合図があった。リハじゃない。本番だ。歓声が響いた。花菜はカメラに向かって深々とお辞儀をした。生で初めて見る生島ヒロシがすぐ近くまで寄ってきた。大石が蹴らない。北川も蹴ってくれない。お辞儀が不自然に見えてくる。

「蹴ってよ!」

後ろに向かって小声で叫んだ。まだ蹴らない。

「蹴りなさい!」

2つの靴底が花菜のお尻に触れた。ヤワな感触だった。もっと思い切り蹴ればいいのに。花菜は中継カメラに向かって突進した。2回3回4回、ぐるぐると勢いよく前転をしながらフロアを転がった。Gパンで来てよかった。スカートだったら出来なかった。カメラのフレームから充分外れただろうと思った場所で花菜は前転を止め、振り向いた。漫研のメンバーが驚いて花菜を見つめていた。

「良かったよ。サンキュ。」

左肩を叩かれ、花菜がその声の方向を向いた先に、サングラスを掛けた特徴の無い顔があった。近くでよく見ると、伊達ディレクターはつぶらな瞳に特徴があった事を発見した。


「ハナちゃん、映ってなかったよ。」

 夜、平松から電話が掛かってきた。花菜は平松にもパロディ展の事は伝えていなかったが、出勤前にテレビで六大学漫画研究会の中継を見てピンと来たそうだ。中継開始早々フロアを転がってフレームアウトしたのが自分だったとは言わないでおこうと決めた。

「うん。あたしはあの中継の中にはいなかったから。はは。」

「YMOの似顔絵描いたのハナちゃんじゃない?」

「どうして知ってるの?」

「やっぱり。テレビで大映しされてたよ。私はハナちゃんの漫画のファンだもん、分かるよ。すごいね、いっぱい作品がある中でピックアップされるって。」

花菜はその中継の事は知らなかった。


 パロディ展の反響は顕著に現れた。多方面からアルバイトの依頼が舞い込んだ。似顔絵だけでなく、イラストやカットの依頼も多くなり、それらを割り振る作業に幹部は神経を使った。依頼の電話は学生会館の管理室に掛かってきて取り次いでくれる。殆どを会長の中山が応対する。中山はこの時期BOXに入り浸っていた。


 梅雨に入り、鬱陶しい日が続いたと思ったら、今日は4月のような肌寒さが戻ってきた。今年も冷夏かと不安になる朝だった。

 6月第3土曜日の定例会の主要なテーマは、このところ増えてきたアルバイトの斡旋と夏合宿の案内だった。この日も司会を勝沢が担当し、滞りなく議題は進行していった。

 アルバイトの依頼はどうしても対応出来る担当が偏ってしまい、部員の中で斡旋数の差が出てしまう。花菜は幹部となった時点から割のいいアルバイトはなるべく他の人に回して、難しい内容や対価が低いバイト、誰もやりたがらない依頼だけ引き受けるようにした。

 次のテーマ、夏合宿については、幹部の男性中心に候補地の絞り込みが既に行われていた。

 新学期が始まると間もなく、旅行代理店や観光地、個々のペンションや民宿などから合宿案内が届く。H大漫研は常に取引している代理店が無いため、毎年ゼロスタートで合宿を企画する。多く寄せられたパンフレットを見て、価格、ロケーション、施設を比べて候補を絞る。絞ったところに先行部隊が出向いて実物を確認する。この時料理や飲み物、時には宿泊も相手持ちで提供されるので、一旦下見に行けばほぼそこで決まりという既定路線が組まれている。

 ただこの年は中島、中山、北川で行って来た下見先に決まらなかった。昨年合宿を行ったアップルスタジオが候補地として浮上した。というより中山が決定事項として今日の定例会で通達した。

「質問があるんですけど。」

2年生の大石が手を挙げた。

「また去年みたいにバンドやるんですか。」

「そこまで具体的に計画立てていないけど、時間が割ければやりたいと思ってる。」

中山が答えた。

「漫研なのにどうして合宿で音楽やらなくちゃいけないんですか。」

これには中山が答えに詰まった。即答が出来ないでいる。

「レクリェーションのひとつだからいいんじゃないの、そんな固く考えなくても。参加だって見るのだって強制じゃないし。フリータイムにやりたい人だけやってる訳だから。」

山本が代わりに発言をした。山本は幹部の中で渉外を担当している。

「幹部が率先して合宿でやってしまえば、単なるレクリェーションじゃ終わらないでしょう。もっと他にやる事ある筈だと思います。」

「例えば、どんな事。」

「1年生の中で似顔絵をやりたくても出来ない人がいたら教えてあげるとか、漫画のテクニックを教えてあげるとか、夜でもそういう分科会を増やしたらいいじゃないですか。」

花菜は大石の発言を冷静に聞いていた。動揺を見せているのは中山と勝沢だ。その様子は正反対だった。勝沢は今にも掴み掛かろうかという表情で、中山は何とか穏便に済ませたいという顔付きだ。

「別に合宿に限った事じゃないですけどね。」

大石の意見を引き取って、中根が発言した。

「普段だってBOXでしゃべってても喫茶店行っても漫画と関係ない事ばっかりで、ほんとに漫画のこと真剣に考えて活動してくれるのかなって思っちゃいますよ。」

大石の意見に比べ、中根の発言には挑発的な含みが感じられた。

「ガキみたいな事言ってんじゃねーよ。」

勝沢が副会長らしくない口調で言い放った。副会長らしくないが勝沢らしい口調だった。

「似顔絵描きたきゃ教えてくれって言ってくりゃいいじゃねえか。俺は描けないけど。漫画の描き方だって同じだろ。本人がその気にならなきゃ身に付かねえよ。」

相変わらず興奮すると益々早口になるので、今回も花菜には半分位しか聞き取れなかったが、勝沢の言いたい事は分かった。

「大体中根、お前漫画描かねえじゃん。すうりいるにもパネル展にも一度も漫画出してないだろ。それでBOXでしゃべくってるだけだったら、言ってる事とやってる事と矛盾してんじゃねえの?」

勝沢と中根が対峙する格好になった。

「他の2年の意見はどうなの。北川どう思う?」

山本がそれ以上の衝突を避けた。

「僕は中根と同じように漫画描けないですけど。だから似顔絵やイラストのアルバイトも諦めてます。ただ漫画どんどん描いていきたい人にとっては、今の漫研の活動が物足りないって思うのかも知れません。正直その辺はよく分からないですけど。」

「1年生の意見も聞いてみようか。佐々木さん、どう思う?」

勝沢と中山に代わって山本が進行する形になった。

「あ、え、私まだ入部したばかりなので、意見なんて、無いです。あ、でも似顔絵の描き方教えてもらいました。すごく楽しかったです。漫研に入ってよかったなって思いました。」

「そうなの。誰に教えてもらった?」

「あの。ハナさんに。」

「教えたの?ハナちゃん。」

「教えました。っていうか一緒に似顔絵遊びしたの。だめなの?」

「だめじゃないよ。似顔絵遊びって何?」

「去年の合宿でやったでしょ。何も見ないで芸能人とか似顔絵に描くゲーム。あれの事。佐々木さんの他にも1年生いたよ。」

「話が逸れちゃってきたみたいなんで、もう一度確認したいんだけど、夏合宿でもっと研修したいって事?それとも普段の漫研の活動を広げたいって希望?大石どっちなの。」

中山が議論に戻ってきた。

「僕個人としては両方です。他の人の意見も聞いてみて下さい。」

「分かった。平川はどう?」

「え、俺は個人的にはもっと漫画上手くなれればいいなって思いますけど、確かに大石が言う通り色々教えて貰えると有難いですね。」

引退した高校球児のような風貌の平川は、意外と可愛い漫画を描く。

「澤田は?」

「特に不満とか、意見はありません。今のままでいいと思います。」

「あと、川村。」

「僕は大石や中根と殆ど同じです。漫画研究会という割には漫画に対して甘いと思いますよ。喫茶店で世間話するだけの幹部ってどうかと思います。BOXになんでギターがあるのかも分からない。」

BOXには花菜が入部する以前から、誰のものか分からないギターが1本置いてあった。そのギターまで矢面に立つとは思わなかった。

「福山さん、どうですか。2年の意見聞いてみて。」

「ま、色々意見があるって事が分かったけど、それはしょうがないんじゃないの。漫研は部活動じゃないんだから。何がなんでも漫画描けとか上達しろとかの活動は出来ない。かといって上手くなりたい人をそのままにもしておけない。要するにどのレベルに合わせて活動を進めていくかだと思うんだけど、そこは毎年の幹部がコントロールしていくべきところなんだろうと思うよ。」

 その後全員が意見を述べるように中山は促したが、いずれも消極的な発言に留まり、議論はどこに向かって進んでいくべきか曖昧になってしまった。

「みんなの意見は大体わかった。」

花菜が手を挙げようとしたのと同時に、中山が声を発した。花菜に気付いた中山がちょっと待ってという仕草で言葉を続けた。

「時間もかなりオーバーしてるので、今日のところはこの位にしておきたい。で、答えになるかどうか分からないけど、俺が日頃思っている事を最後に言っておきたいと思います。

 俺は先輩たちが創ってくれたこの漫研の雰囲気を転換させる気はありません。漫画が好きな連中が集まって、色々な事に興味を持って、楽しい事に挑戦していく体質を。興味の対象は人によって違う。だからその対象を同じくする人が集まってグループを作ればいいと思う。そういうグループが幾つもあって、その集合体がH大漫研のパワーになっているんだと思う。俺たち幹部の仕事は、1年生から4年生まで風通しを良くしておく気配り役です。そのためにBOXで話をする。パウワウに誘う。定例会では発言しにくいけど、パウワウでコーヒーを飲みながら、こんな事しようよ、あんな事やろうよって言ってくれるのを待ってる。その興味の優先順位に一年生も四年生も差は無い。俺たち幹部は全ての興味に協力していくつもりだよ。せっかく積極的な意見を言ってくれた大石の意見も、もちろんそのままにはしておかないから。幹部でも相談して、どんどん具体的にしていこうと思う。今日のところはこの辺でいいか。大石。」

「はい。OKです。」

「あと、ハナちゃん、悪い、先しゃべっちゃって。どうぞ、言って。」

「いえ、中山くんの話聞いてたら、何言うのか忘れちゃいました。」

中山が花菜の言いたい事を全て言ってくれた。それから、中山がBOXに入り浸っていた理由も今日初めて知った。中山が会長として努力していることが分かって、それ以上この席で発言を重ねる必要が無いと判断した。勝沢も山本も納得した顔をしている。この会長の下、それぞれの役割を担う幹部たちを、とても頼もしく思った。



 7月をあと2日程残したところで、『すうりいる』19号の原稿を締め切った。みんな夏休みでそろそろ実家に帰ったり、のんびりプライベートを楽しむ中、人気の無いBOXで編集作業を延々と続けるのは、花菜にとっても少々苦痛だ。編集補佐の前島に対しても、申し訳ない気持ちが先に立つ。

BOXで1人作業を始めていると、程なくして前島が顔を出した。

「おはようございまーす。」

「おはよう。朝早くからごめんね。」

「いえいえ。早く仕上げないと合宿に間に合いませんから。」

「ありがと。」

 前島は花菜より覚えがよっぽど早い。補佐経験2回目にして指示を出さなくてもどんどん作業を進めていく。

 雑誌は基本、4ページワンセットで印刷される。表面の右ページと左ページ、裏面の右ページと左ページで合計4ページとなる。従って雑誌の合計ページ数は4の倍数で構成されている。部員から提出された原稿や目次、広告など必要なページを加えた結果、どうしても1ページから3ページの原稿の不足が生じる時がある。そういう時は部員の誰かに依頼するか、編集長自ら原稿を描いて埋める。

「おはようございます。」

北川が突然現れた。

「あら、びっくりした。どうしたの?」

「どうしたって、ひどいっすよ。手伝いに来たんじゃないですか。」

「えー、またびっくり。ありがとうー。」

「僕1人じゃないですよ。後から平川と佐藤が来ます。」

「え、助かるわ。ありがたいな。」

花菜は前島と2人で2日間掛けて編集を終える予定を立てていた。この分なら今日早いうちに終わってしまう。程なく平川と佐藤が眠そうな目をしてやって来た。

「みんなありがとう。助かるわ。」

「いえ、ハナさんのためなら、朝早くたってなんのこれしき。」

「ってことはひょっとして、あたしに会いたかったんじゃない?」

「んな事無いですけど。どちらかっていうと前島さんのためなんですけど。ほんとは。」

「いいね、2年生。仲良くて。」

自分に対しても軽口を叩いてくれる後輩を嬉しく思った。彼らにとっての花菜は、花菜にとっての内田であり永田であり増井なのだ。自分が先輩からもらった大切な事を、彼らにもして上げたいと思う。そうして感謝は繋がっていくのだ。

「ハナさん、大変。」

 前島が前島にしては大声を花菜に向けた。

「どうしたの。」

「3ページ、足りないです。というか1ページ多い。」

「えっ、そんなはず無い。昨日も確認したのよ。」

「多分、これだと思います。興津くんの漫画。」

花菜はページ割と自分の編集ノート、そして1年生の興津の漫画を比べ合わせてみた。そして間違いを見つけた。事前に興津から申告を受けていた原稿ページ数は12ページ。だが興津から昨日最終ギリギリに持ち込まれた原稿は13ページあった。受け取った時、花菜は興津からページ数変更の申告は受けていない。

「ごめん。あたしのミスだわ。これは。」

変更申告が無かったとしても、原稿を受け取った時確認しなかった花菜に責任がある。その事は花菜自身が反省するとして、問題は対処法だ。方法は2つ。3ページ新たな原稿を作るか、1ページ削るか。それは今ここに居る花菜以外の部員も当然理解している。

「3ページ作ろう。」

「そう言うと思ってました。」

平川の返事にみんな苦笑を浮かべた。たとえ1ページでも、せっかくみんなが描いてくれた原稿は落とせない。

「おはようございまーす。あれ、そんなに早くなかったか。」

 巨体を揺らして大石がドアを開けて入って来た。

「な、なに?みんなで睨んで。」

「どうしたんだよ。忘れ物?」

「ひどいよ北川。編集の手伝いに来たんだよ。」

「お前も?」

もう1人強力な戦力がやって来た。

「大石くん、ありがとう。今ちょうど困っちゃってて。3ページ原稿が足りないの。」

「はぁ?」

前島から簡単に説明を受け、大石が怒った。

「興津の野郎。いい加減な奴だな。ちゃんとページ数守れよな。」

「ううん。確認しなかったあたしのせい。ごめんね。」

「ハナさん、どうしましょう。誰が描きますか?」

前島に言われなくても、誰が穴埋め原稿を描くか決めなくては前に進まない。花菜1人で描いてしまえば簡単だが、全てを自分だけで対処してしまいたくなかった。

「みんなで描こう。」

花菜以外の全員が顔を見合わせた。

「みんな、自分の得意なキャラクターをひとつずつ描いて。北川くんは描けなければ自分の似顔絵でいいわ。ストーリーはこう。」

咄嗟に思いついた花菜のアイデアは、全員で3ページのギャグ漫画を描くというものだった。前島が描くキャラクターのヒロインに他の男子が描くキャラクター全員がプロポーズをする。それぞれ特技を披露して誰を選んでもらうかヒロインに迫る。1人に絞れないヒロインは花菜に相談する。花菜は全員自分の好みでない事を理由に振ってしまう。

「こんな感じで大石くん絵コンテ書いて。」

「面白そうですね。」

大石は花菜の意図を読み取った。ストーリー自体は大した事無いが、色々なタッチのキャラクターが登場する事が面白い。

「さすがね。いいね、このコマ割で。」

大石は花菜の思い描いた通りのコマで収めてくれた。

「佐藤くん、道具出して。」

「はい。」

ケント紙3枚は花菜のポートフォーリオから出した。BOXには漫画製作の道具一式が常備されている。

「じゃ、3枚別々に描きましょう。ネームは各自で考えてね。」

 3時間以上掛けて、下書き、ペン入れ、ベタ、ホワイト、スクリーントーンと全員でワイワイやりながら完成まで漕ぎ着けた。

「タイトルとペンネーム、どうしましょうか。」

北川が最後に大事な事を確認した。

「それは、考えてなかったわ。」

「私に任せてもらっていいですか。」

悪戯っぽい目をして前島が言った。

「うん、じゃ、任せた。タイトルページと目次に入れておいて。他の人は編集作業に戻ろう。でもその前に休憩しよう。っていうかお昼にしよう。」

気がついたらもうとっくに12時を回っていた。


 下宿の電話が鳴ったのは、夜11時にもうすぐなろうかという時間だった。この時間。心臓がどきんとする。

共伸印刷へすうりいる19号の原稿を持ち込み、簡単な打ち上げを2年生と、その後BOXにやって来た中山、勝沢と飯田橋の『さなぎ』で行い、少し酔って部屋に戻ってきたところだった。

「もしもし。」

花菜は自分の名前を、相手が誰か分かるまで電話口で言わない。一度いたずら電話が掛かって来て、うっかり名前を言ってしまい、暫く悩まされた。春先の事だ。

「ハナちゃん?遅くにごめんなさい。隣の井上だけど、わかる?」

「あ、はい。おばさん、こんばんは。」

「ずっと留守だったみたいで、こんな時間になっちゃったの。」

「すみません。用事があって外出してたので。あの、何か。」

この時間に実家の隣の家から電話があるなんて、不安が募った。

「今日お母さんからハナちゃんの家の鍵を預かったの。お母さん暫く家を留守にするらしくて。ハナちゃん夏休みでしょう?帰って来た時に家に入れなかったら大変だもの。」

「お母さん、どこかへ出掛けたんですか?」

「お母さんから言わないでって言われてたけど。名古屋の病院。」

「え!?おばさん、母は、母は病気なのでしょうか!」

「ううん。お母さんの話ではね、検査入院だって事だけど。普通は掛川病院か、遠くても浜松あたりでしょう。検査にしても名古屋って滅多に無いと思ったから。」

「はい。」

「都合付いたら、出来るだけ早く帰って来てあげて。祥子さん、我慢強い人だから、口に出して言わないけど、病気だとしたら不安だと思うの。ハナちゃんが居てくれたらきっと心強いから。」

「はい。はい。ありがとうございます。明日、帰ります。」

「ああ、帰るんじゃなくて、名古屋よ。名古屋市立大学病院。外科病棟だって。」

「外科?」

「そう。だから心配なの。」

 母は風邪をひいても熱があっても医者に掛からない人だった。入院、しかも外科と聞くと尚更不安が募る。明日朝一番で名古屋に行く事を決めた。もうひとつ気になるのは夏合宿だ。5日後に始まる。幹部として参加を取り止めることは出来ない。とにかく明日病院に行って詳しい様子を確認してからだ。花菜は新幹線の始発時間を時刻表で確認し、目覚まし時計を入念にセットした。


 名古屋に1人で降り立った事は無い。名古屋市立病院の場所に行く方法など皆目分からなかった。調べている時間が勿体無い。花菜は瑞穂区の名古屋市立大学病院まで、タクシーを使った。

 大病院に1人で足を踏み入れた経験も無い。しかし母がこの複雑な建造物の何処に居るのか、探し出さなくては何も始まらない。まずは総合受付で入院患者の足取りを追いかけようと考えた。

「昨日この病院に入院した母の病室を教えて欲しいのですが。」

「何科に入院されたかお分かりですか。」

「外科と聞いています。」

 それからが大変だった。外科病棟、総合受付、ナースセンター、あちこちを案内され、また戻り、身分証を確認された。そうして最終的に辿り着いたのが乳腺科。既に1時間近く経過していた。

「こちらに入院しております掛井祥子の娘で、掛井花菜といいます。母の病室を教えて欲しいのですが。」

「掛井さん?少しお待ち下さい。」

じりじりとした心の渇きを感じていた。看護婦さんが裏室へ入ってからの1秒1秒が異常に長く感じられた。程無くさっきの人と違う、少し年配の看護婦が現れた。

「掛井さん、お母様は今手術中でいらっしゃいます。」

「手術!?あの、母は何の手術をしているのでしょう。」

「お聞きになっていらっしゃらない?」

「はい。あ、あたし学生で、母とは一緒に住んでいないものですから。何も聞いてなくて。」

「そう。ちょっと待って下さい。」

顔を少し曇らせてその看護婦はまた奥へ消えていった。乳腺科と手術。その単語から連想した病名は乳癌。母は癌に侵されていたのか。

「掛井さん、お母様の手術はあと3時間ほど掛かると思います。このままお待ちいただいて、手術が終わったら先生に短時間ですけどお話を聞いてみて下さい。手術室へはご案内しますので。ご心配には及びませんよ、手術自体は難しいものではありませんから。」

パニックで自分を見失いそうな花菜を、彼女の落ち着いた口調と微笑みが何とか押さえてくれている。

「そう、今大学生?」

「はい。3年です。」

「うちの子より2歳お姉さんね。1人暮らしをされてるのね。」

「はい。大学が東京なので。」

「ここに来られたのは、どなたからかお聞きになって?」

「はい。実家の隣の家の人から、昨日の夜電話をもらって。」

「お母様が手術の事おっしゃらなかった訳も分かりますよ。私も娘を持つ親として。娘には自分の事で心配を掛けたくないもの。」

「でも、こんな大事な事、言って欲しいです。」

「母親はね、強いのよ。子供の事を想えば何も怖いものは無いの。まして掛井さん、お母さん1人であなたを育てられているんでしょう。立派な方ね。昨日少しお話させてもらっちゃった。」

「母は、元気だったんでしょうか。」

「元気よ。多分普段と変わりないわ。とても面白い方。看護してるこちらの方が元気をもらっちゃうくらい。」

「そうですか。」

「ここで待てる?」

廊下の片側に置かれている長椅子の前で立ち止まった。

「はい。」

「あまり深刻に考え込まないでね。」

「はい。」

花菜は真っ直ぐ、看護婦の目を見つめた。

「じゃ、頑張って。」

「あの!沢村さん。」

一度背中を向けたその看護婦は少し驚いた表情で振り向いた。

「ここまで一緒に、ありがとうございました。」

花菜は深々とお辞儀をした。

「いいのよ。この手術室分かり難いから。」

「いえ、ずっと話し掛けて下さって、ありがとうございました。」

「え・・」

「お陰であたし、少し冷静になれました。」

「うん。あなたも立派ね。お母さんに似て。」

花菜は歩きながら彼女の名札を確認していた。沢村は花菜の二の腕を優しく掴んだ。分かっていたのね、とその目は語りかけていた。


 かれこれ10年前の事を思い出した。父が運ばれた病院に駆けつけた記憶は、もう殆ど消えかかっている。ただそういう事があったという事実の記憶にすり替わっている。あの時とは違うんだと花菜は自分に言い聞かせていた。今日、母は生きるためにこの病院に居る。花菜は母が生きて戻って来るのをこの廊下で待っている。

 それでも、と花菜は考えた。母は今日まで幸せだったのだろうか。改めて母の年齢を思った。今年3月で46歳になった。父を失った時は36歳だった。この10年間再婚をせず、仕事一筋で生きてきた。花菜が重荷になった事は無かっただろうか。母1人で心細くなかったのだろうか。1人で病気と向き合い、1人で入院して、1人で手術室に入っていく事が、どうして怖くないと言えるのだろう。

「もうそろそろ終わる頃ですよ。」

 沢村が隣に腰を下ろした。腕時計を見ると、昼12時を回っている。知らない間に3時間近く経過していた。

「私、勤務が明けたから、手術終わるまでここに居ますね。先生をご紹介します。」

手術が終わって疲れているだろう医師に、花菜1人では声を掛け辛かった。沢村の気遣いが嬉しかった。

「ありがとうございます。助かります。でも、お疲れじゃ・・」

「大丈夫。あなたを見ていたら自分の娘のような気がして。ごめんなさい、勝手に。」

「すみません。」

「大学では何を専攻してるの?」

「英米文学です。」

 沢田との会話は30分近く続いた。漫研の事に話が及ぶと、沢田がかなりの興味を示し、時に笑いが漏れた。再び緊張が走ったのは手術室の扉が開く音を聞いた時だった。

「終わったみたいね。ちょっと待ってて。」

沢村が立ち上がり、手術室の前に向かった。医師が意外な程早く出てきた。沢村が話し掛ける様子を花菜はじっと見つめた。医師が花菜の方に歩み寄って来る。それを見て花菜は医師に駆け寄った。

「掛井さんの娘さん?」

「はい。掛井花菜といいます。」

「担当の島崎です。手術は問題無く終わりました。極めて初期の乳癌でした。完全に除去しましたのでご心配なく。」

「癌。やっぱり、癌だったのですか。」

「お母さんは運が良かった。乳癌は症状が出にくいので、放置して手遅れになるケースもまだ少なくないんです。これだけ初期の段階で発見出来たら優秀です。お母さんは完治する癌でした。」

「あ、ありがとうございます。」

「癌患者の場合、心のケアも重要になるんですが、あなたのお母さんは大丈夫。強い人だ。後は少しゆっくり療養して、身体を休ませてあげて下さい。」

「良かったですね。安心してね。」

沢村も声を掛けてくれた。

「付き添っていただいていいのですが、今日は会話も負担になるかも知れません。麻酔が醒めたら痛みも残るかも知れませんので、気遣ってあげて下さい。」

「ありがとうございました。本当にありがとうございました。」

「お母さん、出て来ますよ。」

 可動式のベッドの上に、仰向けに横たわった母はいつもより小柄に見えた。元々花菜と殆ど同じ体型だったが、シーツを掛けられ、目を瞑った青白い顔から受ける印象が母を痛々しく見せていた。目が覚めた時、自分の元気を母に分けてあげられるようにしっかりしなくちゃ、と思い始めた。


 東病棟505号室。病室に落ち着き、荷物を片付けた後花菜はロビーに向かった。電話を掛けるためだ。

 最初に隣家の井上にお礼の電話を入れた。乳癌の件は伏せ、母の会社の都合で名古屋の病院を選んだという事にした。

 次に中山の家に掛けた。土曜日の午後2時。この時間に本人が出るか分からなかったが、果たして、中山は自宅に居た。

「中山くん、花菜です。」

「おう、どうしたの、今日も呑みに行こうか。」

そういえば編集の打ち上げを飯田橋でしてから、まだ24時間経っていなかった。随分前の事のような気がする。

「今あたし名古屋にいるの。」

「えー?どした。家出でもした?」

「母が入院したの。その病院から電話してます。」

中山には申し訳ないが、中山の冗談に付き合える状態ではない。

「あ、そうなんだ。ごめん。」

「電話したのは合宿の件。多分行けないと思うの。ごめんなさい。」

「そんな事いいよ。こっちは大丈夫。長くなりそう?」

「ううん。1週間か、長くても10日位だって。」

「わかった。元気出して。」

合宿に行けない事もそうだが、理由が理由だけに余計に心配を掛けてしまう事も申し訳ない。特に心配掛けてしまいそうな人には直接伝えたい。中山への電話を切り、続けて川西の番号をプッシュした。

「ハナちゃん?どうした?お誘い?」

川西の張りのある声が懐かしい。

「ううん。今日は無理。名古屋にいるから。」

「ええ?昨日編集でBOXに居たんじゃないの。」

「うん。編集は昨日終わったよ。今日から母に付き添っているの。母が手術したから。」

「・・・知らなかった。ごめんね。」

「ううん。あたしも今日ここに来るまで知らなかったの。お母さん、あたしに黙って手術しようとしてた。あたしに心配させないように。乳癌だって。」

「ハナちゃん!大丈夫?しっかりして!」

「ありがとう。手術はね、成功したの。癌も初期だって。完治するからってお医者さんから言われたから、病気の方は大丈夫。けど・・・」

「けど?」

「・・・」

「心細い?」

「うん。」

「そうだね。」

「・・・」

「ハナちゃん、泣いていいよ。」

「え?」

「本当はそばに行ってあげたいけど。ハナちゃん、今泣きたいんでしょう。泣いていいよ。聞いててあげるから。それが今あたしに出来る精一杯。」

「うん・・・。」

昨日の夜からずっと寝ていない。何も情報が無く、名古屋まで来た。手探りで母を探した。緊張や不安を繰り返し、やっとここまで辿り着いた。医師の診断や沢村に励まされ、元気も出てきた。だけどやっぱり心細い。これから先の事も考えると誰かに支えて欲しくなる。川西はそんな花菜の心を受け止めてくれる。

 何10秒という短い時間、花菜は声を殺して泣いた。川西は何も言わず待ってくれた。

「・・・ありがとう。麗ちゃん。」

「もういい?」

「うん。もう大丈夫。」

「じゃ、ハナちゃん、もう絶対泣いちゃだめ。」

「うん。」

「頑張れ!」

「うん。」

「もっともっと、強くなれ!」

「うん。」

「また会う時を楽しみにしてるよ。」

「あたしも。」

「お母さんに宜しくね。」

「ありがとう。あ、合宿のこと・・」

「分かってる。任せて。お母さんについていてあげなきゃ。」

 松田にも同じように伝えたかった。しかし連絡のつく実家の三島には戻っていなかった。松田はアパートに電話を引いていないので、これ以上連絡の取りようが無い。川西に託すしかなかった。


 母が眠るベッドの脇の椅子に座り、母の顔を眺めた。こんな事は久しぶりだ。いつから母の顔を見つめる事が無くなったのだろう。きっと幼い頃、嬉しい時、寂しい時、怒った時、泣いた時、その度に母の顔を探し、その度に安心していた筈だ。大学1年生の夏休み、母の顔で似顔絵の練習をした時、どうしても上手く描けなかった。母の表面だけを見て似せようと思っていたからだ。花菜にとっての母は、どんな時も心の中にいる。自分の心の中にある母の顔を描けば、きっと誰よりも上手に描く事が出来る。幼い頃に探した母の顔は、花菜の心に焼き付いていた。

「花菜、どうしてここにいるの。」

「目が覚めたの、お母さん。井上さんから聞いたよ。」

「ばれたか。」

「ばれたかじゃないよ。もう。言ってくれないから、余計に心配したよ。」

「だって先生から大した病気じゃないって言われたから。」

「でも癌だよ。不安じゃなかったの。」

「全然って事は無かったけど、でもあんたに心配掛ける方が不安だった。あんたはお母さんより心配性だから。」

「そりゃそうだけど。寂しいよ。」

「うん。・・・そうだね。お母さんが悪かった。ごめんね。ありがとう、名古屋まで来てくれて。花菜の顔を見ると安心するよ。」

母の変わらない声を聞いて気分が一気に晴れやかになった。やっぱり花菜が元気を貰う方だった。

「今、何時?」

「もう8時になるね。」

「花菜、テレビ点けてよ。新八先生が始まっちゃう。」

 その夜、花菜は病院近くのビジネスホテルに泊まった。初体験のビジネスホテルは快適だった。朝7時まで、8時間一度も目が覚めず、ぐっすり眠った。

 翌日から花菜は毎日病院を見舞った。母は日に日に元気を取り戻していった。

 母は見舞う度に4人部屋の中心にいた。他の3人の入院患者の迷惑にならないか、花菜ははらはらした。

「お母さんには感謝するわ。笑うってね、病気と闘うにはとってもいい事なの。お母さんにつられて他の患者さんも明るくなってきた。それと同室の3人の性格に合わせて、それぞれに気配りをしているの判る?頭もいい方なのね。」

沢村が花菜の耳元で囁いた。


「花菜、本当は今合宿中のはずでしょう。いいの、幹部なのに。」

 昨日から合宿がアップルスタジオで始まっているはずだ。

「いいよ。同級生に電話してあるから。」

「お母さんの方はもういいよ。体力も大分戻ったし。あなたここに居ても退屈でしょう。途中からでも行ってみれば。」

「そんな事出来ないよ。お母さん1人になっちゃうよ。」

「ここに花菜が居て、やれることは何もないでしょう。お母さんの看護は病院がやってくれる。合宿に行ったらあなたのやる事はあるでしょう。幹部として、編集長としてね。あなたがここに居る意味は、ただ心の問題だけね。だからお母さんは、あなたは合宿に行くべきだと思う。どう?」

「うん。言ってる意味は分かるよ。でも・・・」

「あなたはまだまだ成長過程。こういうふうに考えなさい。何かを学ぼうと思った時、色んな選択肢があったら、より困難な方を選ぶ事。同時に何人からも助けを求められたら、あなたを一番必要としてる人を助ける事。登る山が険しければ険しいほど、あなたが得るものは大きいわ。お母さんもそう思って生きて来た。これからもそうするつもり。何かの映画で言ってたけど、人は強くならなければ優しくなれないのよ。男も女も関係無い。」

「分かったよ。お母さん。どうせまた合宿終わったら家に帰るから。行ってくる。合宿。」

「うん。そうしなさい。」

「あとね、映画は『カサブランカ』。ハンフリー・ボガードのセリフは『タフじゃなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。』ね。」

「お母さん、そう言わなかった?」


 名古屋から白馬まで、病院のロビーにあった国鉄の時刻表で調べると、長野県の松本まで中央本線で、松本から白馬駅まで大糸線を使って行ける事が分かった。明日朝8時発の特急『しなの』に乗る事に決めた。そして手帳を繰り、公衆電話に手を掛けた。

「お電話ありがとうございます。アップルスタジオでございます。」

懐かしい声が受話器から聞こえてきた。


 2時間余りを掛けて『しなの』は松本駅に到着した。大糸線『あずさ』発車時刻まで20分ほどある。構内の公衆電話を探して花菜はアップルスタジオに到着時刻の連絡を入れた。

「ハナさーん!」

「弥生さん。ありがとうございます。お昼前で忙しい時に。」

 白馬駅前の停車場に三菱の四駆が停まっていた。傍らに満面の笑みを湛えた弥生が立っていた。

「準備は終わって出てきたから大丈夫。ハナさんもお昼食べてないでしょう。用意しておいたわ。」

「ありがとうございます。」

花菜は昼食の世話になるのも申し訳ないと思って松本駅の売店であんぱんを買っておいた。

「あの、弥生さん。」

「なあに。」

「ハナって呼び捨てでいいです。そう呼んでもらった方が嬉しい。」

「そう。じゃ、ハナちゃんって呼ばせてもらうわね。ハナちゃんは見るからにハナちゃんって感じだもの。あれ、何言ってるか分からないわね、これじゃ。」

ペンションに着いた時、丁度昼食が始まるところだった。

「ハナちゃーん。良かった、間に合って。」

「大丈夫だった?お母さん。」

「遅かったじゃん、編集長。」

アップルスタジオのロビーに立った途端、大勢に囲まれた。

「ごめんなさい。初めから参加出来なくて。幹部失格ね。」

「そんな事ないよ。途中からでも来れただけ偉いよ。」

松田が花菜の手を取って食堂まで引っ張って行った。川西から松田だけには母の病名は伝わっているのだろう。花菜はそうしてもらえる事を望んでいた。

 テーブルに、昼食には贅沢なビーフシチューが並んでいる。

「ちょっと早いけど、お母様の退院祝いをお昼のメニューで用意しておいたから。大したものじゃないけど。」

弥生が車の中で言っていた意味が分かった。

「ハナさん、どっち食べます?僕が持ってきますよ。」

「どっちって、何?」

「モンブランかレアチーズ。どちらかデザート選んで下さいって。」

「デザートまで付くの。じゃ、モンブランの方で。」

北川が持って来てくれたモンブランを、相変わらず美味しいブラジルと一緒に口にする。

「北川くん、やけに親切ね。あたしがいなくて寂しかったんだね。」

「そんなこと無いですよ。嫌だなあ。」

「そっか。由紀ちゃんか麗ちゃんがいればいいのか。寂しいな。」

「そ、そんな事無いですよ。止めて下さい、もう。」

 午後からの予定は分科会になっていた。花菜は前島が講師をする似顔絵に決めた。


 合宿前、幹部が集まって会議をした。それ以前に部員全員に対して合宿で参加したい研修のアンケートを取った。去年の合宿より少し分科会の回数を増やし、要望の多い研修を出来るだけ開催出来るように配慮した。加えて例年3年4年が担当する講師の役を、2年生1年生にもやらせてみようという案が加藤から出され、その通りになった。花菜はその案に大賛成だった。


 似顔絵の分科会は当初花菜が講師を勤める予定だった。しかし花菜が不参加となったため、前島が代行するように切り替わった。昼食中、前島から変わって下さいと相談されたが断った。

「前島さん、この合宿中に似顔絵の分科会の準備をしたでしょう。あたしは何もしてない。前島さんの準備を無駄には出来ないから、前島さんがやるべき。」

 似顔絵の分科会は人気が高かった。1年生10人、2年生6人、3年4年合わせて5人、合計23人の大所帯となった。

「人数より、ハナさんの前で教える事にあがっちゃう。」

そう言っていたものの、前島の進行は堂々たるものだった。

「スケッチブックにまん丸、二重丸、それと私の名前をひらがなとアルファベットで書いてみて下さい。」

まず個々のレベル把握ね、と花菜は読んだ。

 似顔絵は似ていることが大前提だが、一方で売り物になる絵にしなくてはいけない。似ていても素人が描いたような絵では売り物にならない。出来れば1個のキャラクターのように描き上げるのが理想だ。下描きをしないで、最初からサインペンで描き始める。消しゴムが効かない一発勝負なのだ。売り物になる絵を描けるかどうか、丸印をひとつ書くだけである程度判断がつく。

 前島が全員のスケッチブックを覗き込んで回った。

「じゃ、今から言う順番で席を移って下さい。」

言われる通りに席を移ると、3つのグループに分けられているのが分かった。

「こっちからAグループ、Bグループ、Cグループです。Bグループの人はCグループの人とペアを組んで似顔絵を描いて下さい。Cグループの人はそれを添削して下さい。Aグループは私と一緒のことをしましょう。」

「先生、Bグループは10人いるのでCグループと人数合いません。」

「Bグループ同士でペアを組んで下さい。Cグループの人は10人の添削を手分けしてお願いしますね。」

勝沢の質問にも答えを用意していたような受け答えをした。上手なやり方だった。Cグループは花菜、中山、福山、中島の4人。前島は一気に講師を4人増やしたのだ。

「ハナさんの事、描いていいですか?」

目の前に佐々木彩が現れた。彼女はBグループだ。

「いいわよ。描いて下さい。」

自分が似顔絵を描いてもらう事は滅多になかった。客の立場で神妙にしていると、意外と照れ臭かった。これなら描いていた方が楽だ。

「どうでしょうか。」

「うん。似てる。・・と思う。」

一瞬似ていると思ったが、自分の顔の記憶に自信が無くなってきた。どうも可愛く描きすぎているように思う。

「ねぇ、中山くん、これどう。似てる?」

「似てる!誰が描いたの?」

「1年の佐々木さん。あたしってこんな顔してるの、最近。」

「うん。ハナちゃん結構前からこんな顔だよ。確かに1年生の時とはイメージ変わったね。」

「良かった。佐々木さん、このくらい描けたらもう似顔絵のバイト出来るよ。あとは接客のテクニックを磨こうね。」

佐々木の描いた似顔絵で唯一残念だったのは、花菜が笑ってなかったところだ。花菜が1年生の時散々悩んだ、客の表情を引き出す方法を教えてあげようと思った。

 笑い声が上がったり、真剣な表情の人がいたり、熱弁を振るっている人がいたり、こんな雰囲気がいいと思う。H大漫研ってすごいなって思う。中山が定例会で言っていた、先輩たちから引き継いだパワーってこの事だ。やっぱり合宿に来るべきだったのだ。

「じゃあまとめに入りまーす。」

前島の声に全員が注目した。

「全員で最後に同じモデルさんで清書をしましょう。本番のつもりで。カップルを描いてもらいます。1枚の用紙に2人描くという事ですね。モデルですけど、1人はハナさん、お願い出来ますか。」

「えっ。」

「もう1人は、どうしよう。ハナさん、指名して下さい。」

「それって、講師断った仕返しじゃないよね。」

前島が悪戯っぽい目で舌を出した。その顔を見て花菜は思いついた。

「そうだ。前島さん、みんな、3分待っててね。」

返事を待たず部屋を飛び出した。目指した先は食堂だ。

「お待たせ。モデルさんをお連れしました。」

「ハナちゃん、モデルなんて。恥ずかしいわ。」

「ご紹介します。ご主人の浩輔さんと奥さんの弥生さんです。」

予想外のモデルが登場し、その場にいた全員があっけにとられたが、間もなく部屋中に拍手が響いた。

「忙しい中来て頂いたので、みんな後でお掃除のお手伝いよ。」

「じゃ、ここに並んで座って下さい。」

前島の案内で中央正面の椅子に2人が腰掛けた。

「一応制限時間を設定します。今から30分。用意、スタート。」

「お2人の出会いを教えて下さーい。」

早速佐々木が教えた通りの接客トークを始めた。優秀な子だ。



 電話が掛かって来たのは、アップルスタジオの弥生から送られた記念写真を眺めていた時だった。合宿最終日に全員の集合写真を玄関前で撮り、わざわざ引き伸ばして送ってくれた。早速お礼の手紙を書こうと思っていた矢先にベルが鳴った。

「はい、掛井です。」

実家の電話に出た時は苗字を名乗る。そうしないと母に怒られる。

「こちら東京のSOスタジオと申します。掛井花菜様のご自宅でしょうか。」

男の声。しまったと思った。でも掛井と名乗ってしまっている以上、嘘を言う訳にもいかない。

「はい。そうですが。」

「突然恐れ入ります。私、SOスタジオの梶原と申します。花菜さんいらっしゃいますか。」

「はい、あたしです。」

「失礼しました。実は掛井さんに仕事のお願いをしたくてお電話させていただきました。」

「どんなお仕事でしょうか。」

「はい。基本的にイラストとかカットのお願いです。今すぐお願いしたいものもあるのですが、静岡にお帰りとお聞きしたので、夏休み明けにでも具体的にお話しさせていただければと考えています。」

 六大学漫研合同パロディ展で花菜の描いたパロディ画を見たと梶原は言っていた。企画したK社の北島とは友人だそうだ。怪しいルートからの依頼ではなくて一先ず安心した。東京に戻ったら連絡を入れる約束をして電話を切った。

母は名古屋市立大学病院を退院して家で療養している。ちょうどお盆休みに差し掛かったので、この際8月一杯は療養に当てるつもりだと言っていた。花菜も8月中は実家に居る予定でいたが、母の様子を見ながら東京に戻る日を少し早めてもいいかなと考え始めた。


 恵比寿駅の記憶は2年生の春まで遡る。渋谷でゼミ友と映画を観て、その後代官山の街中を散歩した。途中花菜の目にもおしゃれな店で休憩し、直前に観た『クレイマークレイマー』のメリル・ストリープの生き方について、会話が盛り上がった。

「『R』ですね、その店。」

 SOスタジオの梶原は即答で店名を言い当てた。花菜は店名まで覚えていない。グリーンを基調にしたその店のオリジナルコースターに強い印象が残り、それを梶原に伝えた。仕事の打ち合わせ場所を決めるため、梶原が指定した駅が恵比寿だった。

 場所の記憶は思った以上にあやふやだった。恵比寿駅に降りた途端間違いに気が付いた。ゼミ友とは渋谷から歩いて来て、恵比寿駅に抜けたのだ。残暑の日差しもまだまだ強く、記憶を掘り起こしながら歩いているため、普段より足取りはゆっくりになった。

「ランチ、もう済んだの?」

「はい?」

知らない2人組から声を掛けられた。

「僕たちこれからランチにしようと思ってるんだけど、よかったら一緒に食べない?」

「?」

「君、大学生?何か用事あるの?」

やっとナンパという事に気が付いた。途端に心臓がバクバクいい始めた。ナンパされるのは初めてだ。

「人と、待ち合わせしています。」

「ほんと?そんなふうには見えなかったけど。」

背の高い方が顔を近づけてきた。狐みたいな顔だ。もう1人はモテそうな顔をしている。金持ちの息子風。2人とも流行りのトラッド系の服を身に着けている。

「待ち合わせの店に行くところなので、ごめんなさい。」

「何ていう店?」

「『R』。」

言った後でしまったと思った。

「『R』なら方向違うじゃん。郵便局の近くでしょ。」

花菜は駒沢通りを中目黒の方向に向かっていた。代官山郵便局はもっと北だった。

「すみません、仕事の途中で忙しいので失礼します。」

言い切って花菜はその場でダッシュした。後を追い駆けられるか不安だったが、追い駆けてきたのは声だけだった。

「せっかく誘ってやったのに、スカしてんなブス!」

その言葉にムカっとしたが、戻って言い返してやろうとは思わない。50mほど走って立ち止まり、振り返った時には2人組の姿は見えなくなっていた。汗が白いブラウスを濡らしている。まだ心臓がどきどきしている。でも汗をかいた分『R』の場所の情報を得た。

「あそこに見える信号を左に曲がって、1個目の信号を右に100mくらい行くと代官山郵便局だよ。」

丁度通りかかった人の良さそうなサラリーマンのおじさんが、花菜にも分かりやすいように教えてくれた。代官山郵便局を通り過ぎた向かいに『R』があった。店内の温度は花菜の心臓を落ち着かせるのに充分な涼しさだった。

 時計はまだ約束の午後2時に達していなかった。突然花菜は自分の名前を呼ばれ、驚いた。

「お客様で、カケイハナ様はいらっしゃいますか。」

長身の女性店員が店内を見渡しながら探している。

「はい。あたしです。」

起立して右手を挙げた。他の客の殆どが花菜に注目した。

「どうぞ。」

その店員が男性客を案内してきた。

「お待たせして申し訳ありません。初めまして。梶原です。」

まだまだ暑いのに、黒いジャケットを着ている。それでも短めの髪の印象が、花菜の目にも、多分さっき花菜に注目した店内の客にも、涼しげに映っている。花菜は肩まで下ろした右手を、それ以上下ろす事を忘れたまま挨拶を返した。

「・・・お電話ではどうも。掛井花菜です。宜しくお願いします。」

「改めましてSOスタジオの梶原俊介です。・・・座りましょうか。」

「あ、はい。」

「すみません、お呼び出ししてしまって。店内で『nonno』持っている人が多かったので。」

「いえ、呼んでいただいた方が早かったですね。」

待ち合わせの目印に花菜は『nonno』、梶原は『広告批評』を持って来る約束をしていた。

「電話の声の印象と少し違いました。こんな可愛い方だとは思いませんでした。失礼ですが、もっとやり手の、きつい女性をイメージしていました。YMOの絵もそんな印象だったので。」

ドキっと1回大きく心臓が鳴った。そのまま早鐘のようになっていく。梶原に聞こえていないだろうか心配になる位に。頬の火照りは気付かれてしまう。隠そうとして花菜は慌てて口を開いた。

「それで、お仕事の内容を教えて下さい。」

「あ、はい。そうですね。」

 会社の説明から始まり、テレビ、雑誌、書籍、チラシなどの実績、主要顧客の提示を丁寧に、分かりやすくしてくれた上で具体的な依頼の話になった。

「今回お願いしたいのは、恐縮ですがテストも兼ねて、こちらのイラストなのですが。」

聞いたことのある居酒屋チェーン店のチラシ、そのゲラ刷りが目の前に広げられた。料理の写真、店内の写真などが添えられている。

「全部で10点ほどのイラストをお願いします。掲載する箇所、内容はこの通りメモを付けてありますので。」

一目で内容が把握できた。

「締め切りはいつまでですか。」

「1週間後。引き受けていただけますか。」

「はい。描かせていただきます。」

「イラスト料ですが、ワンカット750円でどうでしょうか。」

「はい。結構です。」

「ついでにお話しします。今回のようにカットごとのイラストは750円。B5版で1500円、B4版が3000円。それ以上のサイズをお願いする時はご相談させて下さい。カラーイラストはそれぞれ3倍額となります。ただし10%源泉徴収されますので、お渡し出来るのは全て定額の9割です。」

「はい。」

「すみません、充分な額をお支払い出来なくて。」

「いえ。そんな事ありません。充分です。」

実際今回のイラストは、多分4時間もあれば出来上がる。6750円貰えたとして時給1687円。20歳の女子大生の、まともなアルバイトとしたら破格だ。

「依頼や納品など、基本的にうちの会社に来て下さい。その際に掛かった交通費はその都度お支払いします。だからいつも認印を持っていて下さい。受領証に必要ですから。」

「分かりました。」

「何かご質問、ありますか。」

「いえ、大丈夫です。」

「それじゃ、この後のご都合がよろしければうちの会社にご案内しますが、いかがでしょう。近いですから。」

「は、はい。お願いします。」

梶原は自分が頼んだアイスコーヒーの伝票と、花菜の伝票を持って立ち上がった。

「あっ、あたしのレシートを・・」

「ああ、いいですよ。僕払いますから。」

花菜は1200円のランチセットを注文していた。

「そういう訳には・・・」

「女性に払わせる訳にはいきません。男として。」

冗談っぽく片目を瞑って梶原はレジに向かった。

「ありがとうございます。ごちそう様でした。あたし勝手に先にランチ食べちゃって、気が回りませんでした。すみません。」

「いえ。美味しかったでしょう。あそこのランチ。機会があったら、また一緒に食べましょう。夜の方が美味しいメニューありますから、ディナーでも。」

梶原は花菜に払う隙を与えなかった。

 代官山から恵比寿駅に戻る途中、駒沢通りから少し奥に入った場所にあるテナントビルがSOスタジオだった。5階建てビルの3階から上がオフィスとなっている。エレベーターで5階に昇り、ガラス扉を開けた先が執務エリアだった。

「茅野さん、ちょっといいですか?」

受付カウンターの手前から梶原が奥の席に向かって声を掛けると、40歳前後の品のいい女性が近くまで歩いてきた。

「この人、話しておいたイラストレーターの人。交通費を先に払って貰えますか。」

「あら、随分若い方ですね。」

「H大学の掛井と申します。」

「ごめんなさい。経理を担当しています茅野です。宜しくね。」

「今日は彼女ハンコ持ってないんだけど、いい?」

「次の時持って来ていただければOKですよ。おいくらですか。」

笹塚からここまでの電車賃を計算し、茅野に告げると、往復の金額を封筒に入れて手渡された。

「間違えました。代々木から恵比寿までの電車賃でよかったです。」

飯田橋までの定期券を持っているので全区間は貰いすぎだ。

「いいの。定期券は掛井さんが購入したものでしょう。自宅からうちの会社までの交通費をお支払いするのが正しいの。」

「はい。じゃ、ありがとうございます。」

「よかったら見学していきますか。僕、次のアポがあってもう行かなくちゃいけないけど、誰かつけますよ。」

5階のエリアは庶務関係が固まっているようだ。見渡すとみんな忙しそうに仕事をしている。

「いえ、ありがとうございます。場所覚えましたから、今日はこれで失礼します。」

「じゃ、駅まで一緒に行きましょう。僕も電車ですから。」

もう少し梶原と一緒にいられる事が嬉しかった。でもこういう気持ちに慣れていないので落ち着かない。

「掛井さんは礼儀正しい方ですね。『R』でも、うちの経理課でも、しっかりお金のけじめをつけるし、しっかりありがとうと言ってくれた。挨拶もちゃんとされるし。最初の電話の時は、僕疑われてたみたいですけど。」

「すみません。一度悪戯電話で嫌な目に会ったことがあって。」

「女性の1人暮らしは大変だと思います。怖い事もあるでしょう。」

「あたしは楽天的なのか、鈍感なのか、悪戯電話以外は怖いとあまり感じた事が無いんです。」

「でも用心して下さいね。都会は何があるか分からない。」

「はい。」

「それじゃ、僕は品川まで行くので。来週来る前に電話貰えれば会社にいるようにします。」

駅までの道はあっという間だった。

「これから宜しくお願いします。」

花菜の方から挨拶をした。

「こちらこそ、宜しくお願いします。」

梶原がさりげなく右手を差し出した。その仕草が自然だったので、花菜もすんなり握手を交わす事が出来た。


「どう考えても、それは恋ね。」

 夏合宿以来で、川西と松田と会う事になった。居酒屋チェーン店のカットを描いている最中に、居酒屋に行きたくなってしまった。相変わらずビールコップ1杯で真っ赤になるが、居酒屋のメニューがお気に入りになっていた。

 ダメもとで川西に電話したところ、川西はこの夏実家に帰っていなかったようで、部屋にいた。松田も8月の末には東京に居ることを聞いていたので、アパートまで出向き、3人合流となったのだ。

 池袋西口の、花菜の描いているカットの発注元とは違う居酒屋チェーン店で、夕飯を兼ねての飲み会となった。川西と松田は、花菜とは違いお酒に強い。程々の量で押さえているので酔っ払うという事は無いが、2人とも一定のペースで最初から最後まで飲み続ける。それでも少しずつ陽気になっていき、花菜を含めて段々と声高になるのがこの3人の常だ。

「で、どんな感じの人なの?」

「見た目はスポーツマンタイプだけど。中肉中背で、顔は普通。」

「特徴ないね。どこに惹かれたの?」

「あのね麗ちゃん、あたしは好きだとか恋しちゃったとか、そんな事一言も言ってないからね。感じのいい人だって言っただけなの。」

「でもハナちゃんよく聞いて。ハナちゃんが男の人の話題出してきたの初めてなんだよ。20歳の女の子にしたらびっくりする位男っ気無かったのに。」

「そうね。私も不思議に思ってたの。恋愛に興味無いのかなって。」

「そう言うけど、由紀ちゃんも麗ちゃんも彼氏いないんでしょう。あたしと変わらないじゃん。」

「あら、あたしは付き合った事あるけど。」

「私だってある。」

「えー、初耳。でも、ま、そりゃそうだよね。2人とも大人だもん。あたしと違って。」

「いじけないの。ハナちゃん。」

「いじけてないよ。付き合った男の数で女の価値は決まりません。」

「言うじゃないの。」

笑い声が店内に響く位に酔いがいい具合になってきた。恋心が花菜を高揚させた。今夜は松田のアパートで、多分恋話に花が咲く。


 SOスタジオの仕事はコンスタントに続いた。最初はカットばかりだったものが、次第にページものやカラー原稿も混ざるようになった。花菜はどんな用件に関わらず、頻繁にSOスタジオに電話した。梶原が応対に出ると気分が良くなり、留守だったら落ち込んだ。出向く際もなるべく梶原がいる日時を選んだ。遠回しに電話口で梶原のスケジュールを確認しようとするのだが、花菜の駆け引きより先に梶原が会える予定を言ってくれる。声を聞く度、顔を見る度に自分の心に変化が生まれるのが分かった。持て余したのは羨望と嫉妬心だった。梶原が同僚や部下の女性と会話する場面を目撃する。花菜の立場は『外注さん』だった。そこに明確な一線を感じていた。

そういった行きつ戻りつの心を持て余したまま、季節は秋の半ばを過ぎていた。花菜が編集長として作る最後の『すうりいる』20号の締め切りが迫っていた。


(1979年のライン(下)に続く)









評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ