第四話
第一章−その夜−
第四部 篠原香織(28)
渋谷の、とあるオフィス・ビルの一室。
4年前には考えられないような派手な格好をした篠原香織が、そこに居た。
赤いニーハイブーツ、ブラックのスキニーデニムをブーツイン。
アクセントでピンクのカットソーを使い、上からブラックのヘチマブルゾン。
赤いワンピース風のトレンチコートは、部屋の中が暑いので職場のコートラックに掛けてある。
ホットコーヒーを飲み、エア・イン・チョコを食べながら、デスクトップのパソコンのキーボードをカタカタと滑らかに叩く音が心地良い。
ここ2週間ほど、篠原香織は浮ついた気分が続いていた。
彼女は昼間に保母さんをしながら、夜はあまり人に言えないこのアルバイトをしている。
子供達の相手をした帰りに、週に2〜3日だけ来ては3時間ほどキーボードを叩いて帰宅する。
それだけでも月に7〜8万は稼げて、充分なお小遣いになるのだ。
そのお金は、彼女を美しく魅せてくれるファッションやお肌ケア関係へと消えていく。
しかし香織にとっての喜びは、その投資によって得られる「イイ男」にある。
この職場には、役者やミュージシャンやモデルを目指す若者達、あるいはそれだけでは生活できない人間達が集まってくるのだ。
いわば、イケメンの宝庫である。
保母さんという仕事柄、あまり異性との出会いの無かった自分が、実は「惚れっぽい女」だというのをはっきりと自覚したのも、ここで働き始めてからだろう。
やっぱ背が高くイケメン。
実際にこの場で知り合い、何度か深い関係になった男は少なくない。
香織は自分好みのタイプの男へ、その想いを伝える接し方と瞳の使い方を、この仕事を続けているうちに自然とマスターしたらしい。
悲しいのは、ほとんどがいつの間にか関係が無くなってしまうという事実。
つまりは遊ばれる女。
だが、最近この仕事を始めたばかりの年長の男と、バレンタイン・デーのデートに成功したのが浮き足立っている理由だ。
初めて見た時は40歳前くらいに思えたが、実際は32歳になったばかりだと聞いて驚いた。
その落ち着いた面持ちが、香織にとって心地良い理由かもしれない。
何処かで出会った事のあるような、不思議な気持ち。
端正な顔立ち、哀しみに満ちたような瞳。
何かに苦悩しているように、時に頭を掻き毟っては、小声で「クソッ」と言っている姿を何度か見た事がある。
なんとか助けてあげたい…そう思っている。
彼はおとなしく、若いアルバイト仲間とも距離を置いていたが、真面目で正直で誠実だった。
他に仕事をしている訳では無いらしい。
しかし香織は、そんな彼に対して、早くも結婚を期待していた。
「思い返せば、昔から結婚願望は強かったな。」
可愛い子猫を飼って子供を一人産んで…という、平凡で幸せな家庭を夢見ていた。
27歳までにその夢を叶えるつもりだったが、この夏28歳になった瞬間に「30歳までに」と切り替えた。
「10時半か…今日は来ないのかなぁ。」
メールでも入れてみようかな。
ケータイを出して、ついでにタバコを取り出す。
少し眼が疲れた。
マルボロライトメンソールに火を着け、最初の一息は少しだけ吸い込む。
香織の癖だった。
コーラルレッドのルージュが、煙草のフィルタ部分を妖しく染める。
それを見るのも、自分が女であることを実感できる嬉しい瞬間だ。
香織を子供扱いし続けていた友達は、不倫と煙草を同時にやめて、普通のサラリーマンと結婚した。
平凡な主婦になった瞬間に老けこんでしまったのを目の当たりにした。
今では連絡など取り合うこともない。
彼女のおかげで自分は「イイ女」になれたというのに。
「カオリちゃん、ちょっと!」
何度か一緒に朝を迎えた覚えがある、20歳前後の荒井信がと呼びかけた。
「どーしたの、ノブ君さぁ。」
「ほら、外!」
窓の外へと視線を移す。
なにかがキラキラと光って動いている。
「あ…凄い綺麗…珍しいね、2月なのに…。」
急激に彼に会いたいという衝動に駆られた。
夜空を見ながら、電話をかける。
こんな夜は同じ場所に居たい。
しかし「プルルル…プルルル」というコール音が続くだけだった。
電話を何度かけ直しただろうか、コールを何度鳴らせただろうか。
数分か数十分か1時間以上か解らないが、電話に出たのは全く知らない声だった。
その声の主は彼女に告げた。
こんな綺麗な夜に、ようやく大人の女になれたと思った私の、その平凡な夢でさえあっさりと散っていく。
手が震え、タバコが落ちる。
視線が定まらぬまま、フラフラと歩き出し、篠原香織は発狂した。
周囲のアルバイト達は唖然としたが、声などかけられるはずも無い。
篠原香織の大切な夢が、こんなにも美しい夜空の中に儚く消えてしまった事など、彼らには知る由も無かったからだ。