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第二話

 第一章−その夜−

   第二部 森哲平(27)


 彼は混乱して、ただ走り続けていた。

 いや、逃げていたのだ。

 甲州街道沿いを八王子方面へと、ただひたすら逃げていた。

 遅くまで営業しているお店の灯りが、歩道のあちらこちらに光を投げ掛け、夜の闇の中で尚更に暗くなった彼の表情を映し出してはすぐに消してしまう。

 歩道を歩くカップルや自転車で通行する若者が、「何事だ?」と振り返る。


 森哲平は思い出す。

 待ち合わせ場所は、環状七号線沿いのディスカウントショップの2階にある「漫画喫茶」だった。

 期待もせずにネットを見ながら待っていた時、声をかけて来たのは何故か男だった。

 いくらなんでも、そこまで馬鹿にされる理由はない。

 ぶん殴ってやろうと思ったが、その男が隣の席に座った瞬間、疲労の度合いが半端じゃないと解ったので、握りしめた拳をさりげなく緩めた。


 目の下の隈と不精髭、眉間の皺が大きな苦悩を物語っている。

 精彩を欠いた目は焦点すら合わせられないようで、森の眉毛辺りを見ているように感じた。


 「いったい何をしに来たのだろう?」

 そう思いながら睨んでいると、その男はコーヒーを一口飲むなり謝り始めた。

 こうなってしまった経緯を。


 それは、その男の人生を要約していた。

 幸せだった過去と、そして現在の堕ちぶれた生活、恋人の事、仕事の事。


 「こいつも可哀想な男だな。」

 森哲平は同情した。

 もしかしたら数少ない友達の一人になれるんじゃないか、とさえ思った。


 いや違うか…。

 そんなんじゃなく、こいつの不幸が俺にとって愉快なだけだ。

 俺の事を笑っているヤツらは、こんな気持ちで同情して憐れんで見下しているのだろうか。


 「新宿へ行きたいんだ、一緒に来てくれるかい?」

 唐突な問いかけに戸惑ったが、別に危険は無さそうだ。

 不思議と素直に信じられる自分に驚きつつも、「じゃあ笹塚駅からが安いし新宿まで一駅だから」と提案して会計を済ませ店を出た。


 甲州街道を駅側の歩道へと渡り、新宿方面へと歩きながらお互いの本名を教え合う。

 無論、俺の名前は知られているけどな。


 ちょうど右に曲がれば駅が見えるという所で、その男が何かを言った。

 はっきりと覚えていないが、たしか「そういえば、森君の夢はなんなの?」

 そんな感じだったろうか。

 「夢?何故、そんな事を俺に聞くんだ?」

 そう思った瞬間。

 デニムジーンズの後ろの右ポケットに忍ばせてあったナイフが、その男の黒いコートを見事に貫通して背中に突き刺さっていた。


 躊躇うとか、考えるとか、そんな事は無かった。

 殺そう、傷つけようなんて思ってもいなかった。

 ただ右手が勝手に動いたんだ。


 笹塚駅前の人気の小さな焼肉屋の、その前のベンチに並ぶ客達の悲鳴が鼓膜に響く。

 駅から出てくる人々、駅に向かう人々、騒ぎが騒ぎを呼び、現場がパニック状態になった。


 俺までやっちまったのかよ?

 「どうしよう、どうしよう」

 もう走るしかなかった、逃げるしかなかった。

 目の前の景色など見えるはずはない。

 頭の中で「俺はどうなってしまうんだろう?」という、真っ暗なだけの「人生」の中から何かを手探りで掴もうとする。

 掴んで手繰り寄せようとしていたのは、来るはずのない己の「明るい未来」か。


 甲州街道沿いの歩道を八王子方面へと、全速力で向かっていたのは、唯一安らげる自分の家だった。

 思考能力が無くなった森は、無意識に我が家を求めていたのか。

 環状七号線との交差点が近づいていた。

 交通量の多い交差点、目撃者多数。


 横断歩道を全速力で駆け抜けようとした時、不運にも歩行者用信号は赤だった。

 大型トラックが急ブレーキをかけたが、間に合うはずがない。

 「まさか飛び出してくるとは思わなかった。」

 その運転手は、己の運の悪さを嘆くしか無かった。


 「鬼のような形相でした、狂ったような顔して走ってた。」

 向かい側で信号待ちしていた20代の男性は、少し震えながらそう証言した。


 「マネキンかと思った。」

 フロントガラスに「男の死体」が直撃してほぼ真上に跳ね上がったのを目撃してしまった、対向車の運転手の証言だった。

 マネキンで無い証拠は、フロントガラスに飛び散った、生々しい血痕の数々である。

 

 一瞬にして、森哲平という男は絶命した。


 「ナイフはどうしたっけ?俺の指紋がついてんじゃねえか?」

 人生の最期に彼が思った事はそんなつまらない事で、彼らしいと言えば彼らしかったのかもしれない。


 2月の風が、死体を冷たくする。


 顔色は真っ青でも真っ白でもなく、灰色へと変色していた。

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