第一話
第一章−その夜−
第一部 小山健二(32)
笹塚から新宿への地下鉄電車の中、乗客達は横目でこちらを気にしていたようだが、誰も声をかける勇気を持ち合わせていなかったのは救いだった。
急がねばならないのだ、意識が途絶える前にもう一度だけ新宿の夜空を…。
京王線新宿駅西口改札を抜け、右手に見える自動券売機を横目に、外へと向かう階段を昇りはじめる。
「こんなに遠かったか?」
昇りなれたはずの短い階段が、今の小山健二にとってはエベレストにでも挑戦しているかのような気がする。
明滅を繰り返す視界、狭まり続ける視野。
まるで切れかけた電球のようで頼りないが、最低限の機能は果たしてくれそうだった。
「この目さえ生きてくれていればいい。」
周囲からのざわめき声、幻聴でもなんでもない。
騒ぎになっているのは確実のようだ。
黒いコートの背中が、じわりじわりと濃い赤色に染まり始めているのだろう。
二月中旬、時刻は午後十時を少し過ぎた頃。
体感温度を失ったその身体には、最早その寒さすら感じ取る事は出来ない。
意識が薄れ行くと共に、痛みも無くなってゆく。
背中の血の生暖かさだけが不思議と心地良く感じるのは、何故だろう。
そんな考えがよぎった自分に少しだけニヤリとした。
友紀の「ぬくもり」を思い出したいだけかもしれないが…。
あと少しで見える…、新宿の夜空が。
「もう一度この眼で確かめるよ、友紀」
健二は手を付き膝を付き、這いつくばって階段を昇る自身の姿に気付いてはいなかった。
一心不乱に出口を見上げ、友紀の顔を思い出しては、一段ずつ昇る。
周囲に人だかりが出来ているが、すぐに声を出せる者はいなかった。
小山の鬼気迫る表情に圧倒されていたのだろう。
前のめりに倒れ、うつ伏せになり意識を失いかける。
ついに外まで来たのか。
「友紀、友紀、俺はお前に、もう一度見せてあげたい…。」
そう、新宿の夜空を。
眼を閉じたまま、どうにか気力だけで身体を捻り仰向けになる。
もう一度だけチャンスをくれ。
瞼を開く。
そこにあったのは少し灰色がかったような、ただ真っ暗なだけの、いつもの新宿の夜空だった。
マイナス志向の感覚だけは麻痺してくれている。
眼を閉じ、肺に残ったありったけの息を出す。
「俺達の為に、一度くらい見せてくれよ。」
遠のく意識、どうやら身体だけは死んでいるようだ。
眼さえ生きていればいい。
全神経を最大限に張り詰めて、最後にもう一度だけ瞼を開く。
そこに見えたのは…。