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恐怖のレストラン

 15年前――世界に蔓延した『化物化ウイルス』によって、世界から〝男性〟は消えた。

 全ての男は化け物に変わり、人を襲い、喰らうようになり、人間の社会は在り方を大きく変えた。

 女だけの世界――繁殖の術の無い世界。何十年か後に、人類という種は絶滅する。

 未来の無い世界に、希望もまた無い。


 けれど、そんな事は――今を生きる私達に、何の意味も無い。

 明日、生きていたいから、今日を戦う。その日、その日の事だけを考える、刹那的な生き方の継続。

 私達はきっと、何時か死ぬ為に生きている。




 私は、暗い夢を見ていた。

 何度も何度も繰り返し見続けてきた夢――死んだ仲間達が、血を流しながら私を取り囲む夢。

 怖いと感じた事は無い。寧ろ、彼女達に会える夢を、時折は楽しみにして眠る事さえ有った。


 ただ――この夜だけは、何時もと違った。

 私を取り囲む彼女達が、口々に繰り返す言葉。何時もならば必ず、「お前が代わりに」と、私に求めてきた。

 だのに今、彼女達は何も言わない。

 血に濡れて、部品も崩れ、皮膚が変色した顔で、たった一つ正常な眼球が、私の顔を静かに見つめていた。


「……みんな、どうしたの?」


 夢の中の私は、妙にたどたどしく喋る。

 体も少し縮んでいる様な気が――いや、実際にそうなんだろう。夢の中ならおかしな事では無い。

 身に着けた衣服も、常に袖を通している戦闘服では無く、中学校に上がったばかりの頃、身に着けていた制服だった。


「役立たず」


 背後からの声が、私の胸を刺す。振り返ればそこには、少しだけ他の皆より、綺麗な顔で立っている人が居た。

 その人の顔を見た瞬間――私は彼女へと手を伸ばし、何故そんな事を言うのかと、問おうとした。

 彼女は後方へと引き下がる。壁も何も無い空間、何処までも離れて行きそうで、私は直ぐに走って追いかけた。


「役立たず」


 私の目から、血が流れ始めた。彼女の言葉が、私の体内を切り刻むようだった。

 違う、そうじゃないと。反論しようとした口からも、血が溢れ出し、喉を埋めてしまった。


「役立たず」


「……なん、で」


 押し出す様に、問う。

 彼女は、私が最初に配備された部隊の隊長だった。

 彼女は優しかった。戦闘服の身に着け方、武装を何処へどう吊るせばいいのか、本当に基本的で些細な事から教えてくれた。


「なんでそんなこと、言うの……!?」


 彼女は――私を可愛がってくれた、近所のお姉ちゃんだった。

 戦地に赴いて、戻って来た時の、疲れを見せない晴れやかな笑顔。飽きる事の無い土産話。そっと頬に落とされる唇。

 同じ道を進もうと決めて、本当に彼女の部隊に配属された時は――きっと私は、彼女の為に生きて死ぬのだと、思った。


「役立たず! たった一匹のオスも殺せない役立たず! だから私は、皆は――」


「ちがう、ちがう、ちがう! だって私は、あんなにたくさん……!」


 沢山、殺したじゃないか、と。何時しか私は、彼女の脚に縋り付いて訴えていた。

 記憶とまるで変わらぬ笑顔はそのまま――けれど、死に顔と同じに、彼女は己の血で口紅を差している。

 光の無い目で見下ろされるのが、怖くてならなかった。


「――役立たず。操は、本当に役立たずだ」


「うん……ごめんなさい、お姉ちゃん……ごめんなさい」


 きっと――彼女は、間違っていない。だって何時も、彼女は全てただしかった。

 学校のかえりにあそびに行って、本を読んでもらった時、かんじの読みかたはぜんぶ当たっていた。

 しゅくだいがむずかしい時も、おねえちゃんにきけば、かんたんにおわった。

 だから、おねえちゃんがおこるなら。たぶん、わたしがわるいんだと、思う。


「役立たずの貴女が……赦して欲しいなら。どうしたら良いか、分かっているね?」


「ごめんなさい、分かってるから、許して……」


 おねえちゃんが、わたしに、見なれたはものをさし出す。

 それを手にした瞬間、私の体は今の様に強くなり、そして心は冷えて凝り固まった。

 寒い。身震いが止まらない。だけど私は、たった一言を言ってもらいたくて――


「……許して。殺すから、オスを沢山……何十匹も、何百匹も、何千匹も――!」


 ――隊長は、何時かの様に笑ったまま。とうとう一度も、頷きはしなかった。






「……あー……やな夢見た」


 懲罰房の、固い床の上。薄っぺらな布団の上で、私は目を覚ました。

 枕が頭の下から消えていて、少し探すと、何故か足の下に引っ越している。

 我ながら、酷い寝相だとは思うが――寝苦しいのだから、仕方が無い。

 毛布を蹴り飛ばし、枕の上に座る。首が疲れたので、揉み解しながら、狭い部屋を見渡した。


 支部の建物に戻って、直ぐに懲罰房に放り込まれ――それから、殆ど記憶は無い。

 というのも、寝て起きたと思ったら妙に静かで、差し入れ口の夕食はスープが冷めていて、それを食べ終わってうつらうつらしていたら、治療の終わった紅花も放り込まれてきて――そんな有様なので、今の時間帯が良く分からない。

 けれど、泥の様に疲れていたから、紅花が何か声を掛けてきたのは聞こえていたのに、答える前にまた寝てしまっていた。

 目が覚めたはいいけど、今度は両脚の痛みが酷い。筋肉痛に加えて、無茶な挙動をしたのが祟ったのかも知れない。


 暗い懲罰房の中、漫画でも小説でも何でも良いから、意識を割けるものを探す。今日ばかりは、纏わりつく夢を振り払いたかった。

 窓も無いのだから、時間経過が分からない――が、扉の隙間から差し込む光量で、廊下の暗さを測るに、今は夜なのだとは思う。

 問題なのは、もう一日ここに押し込まれるのか、そろそろ外に出られるのかだ。


「ああ、そうだ。そーすりゃいいじゃん」


 独り言を聞き咎める人もいないので、はっきり声に出し呟きながら、放り込まれているもう一人を探した。

 寝ぼけ眼で、まだ視界も曇り気味だ。暗い部屋の中では、物もはっきりとは見えないが――


「居た、居た。おーい、紅花……?」


 部屋の隅の方に、黒っぽい塊が有った。

 そういえばあいつは黒い服を着ていたから、壁際で毛布を被っていると、本当に黒い団子になるらしい。

 丁度良い、こいつで良いや――私はその時、こんな風に考えた。

 会話に酷く手古摺る相手ではあるけれど、その徒労も、退屈な懲罰房をやり過ごすには良いだろう。


「……まだ寝てるし」


 と、思ったが。肝心の当人は、すうすうと寝息を立てていた。

 なんとなく顔を覗き込んでみる。目を縁取る朱は、誰がやったか拭い取られていたが――化粧を差し引いても、なんというか、この。

 ……目を閉じているので分かり辛いが、こいつきっと、私より大分目は大きいんじゃないだろうか。記憶では、黒目の割合も多い筈――本当に、黒猫みたいな奴だ。

 歳は私と同じらしいのに、背は結構違う。確か聞いてみた時は、9cmも違うとか……分けろこのやろう、と声に出してみても、まだ起きる気配が無い。

 おなじ東洋人だと言うのに、はなはだ不公平だ。良く良く見ればこの懲罰房の煎餅蒲団の上だというに、口元が柔らかく綻んでいる。

 なんとなく、不公平な気がして腹が立った。だから私は、こいつの布団を剥ぎ取ろうとして――


「っ! ……ん、操。 ……ん?」


 ――手が布団に触れた瞬間、紅花は布団を跳ね上げながら体を起こした。

 正直に言う、かなり驚いた。思いっきり仰け反って、後ろに引っ繰り返りかけた所だった。

 かろうじて踏み止まり、その恰好から首だけ起こした私に対し、


「あー……お祈り、です?」


「……中国の神様は何なの。海老なの?」


 寝ぼけた様子も一切無く、彼女はなんとも言えず、感性のずれた発言をくれた。

 私の渾身のジョークは、どうやら日本語の不自由な彼女には通じなかったか――単純に受けが悪かったか。何れにせよ受け流され――彼女は、何かを探す様に、視線を方々に漂わせていた。


 表情が、抜け落ちていくのが分かった。

 冷たい床、固い壁、分厚い鉄扉。薄っぺらな布団。この境遇を悲しんでいるのではないと、それは直感的に思ったが――

 何かを探して、見つけられなかった。その落胆を、ほんの一瞬だけ顔に滲ませて――直ぐに、無表情で塗りつぶした。

 きっといつもならば、そういう事も、もっと上手くやるのだろう。寝起きで、安全な壁の中で、意図せず零してしまったのだろう。


「……ごめん。起こしたね」


 謝ったのは、起こしたからじゃない。見せたくないだろうものを見てしまったからで――そう詫びる事は、私には出来ない。代わりに、常識人を装って自分から謝罪し、私はその場に腰を下ろした。


「私、起きた、私が。君、違うです」


 ままならぬ日本語で、いっちょまえに気を使う紅花。おかしくは有ったが、私の口からは、乾ききった笑いしか零れない。

 だって――良く考えれば初めてだったのだ。この奇妙な隣人が、例え夢が理由だとしても、私に笑顔を見せたのは。


「……良い夢だったの?」


「昔の、夢。もう覚える、無い事。……です」


 忘れたと、言いたいのだろうか。

 ああ、そういう事も有るだろう。所詮は夢、目を覚ませば消える。消えてしまう。

 けれど――ああも幸せそうに笑っていられる夢を、本当に忘れたと言い張るのなら。こいつの言葉に、どうして私は、距離を感じてしまうのだろう。


「……忘れたい?」


 何故だろう、私は――酷くおかしな、そして意地の悪い質問をした気がする。

 もしかすると、言葉を繋げていたいが為に、適当な言葉を選んで吐き出したに過ぎないのかも知れない。

 が、思いつきで開いた口は塞がらなかった。


「忘れたくない事って、忘れるよね。忘れたい事は何時までも覚えてるし……本当に、思うようにならないなぁ……。

 私なんか、嫌な夢を見たらさっさと忘れたいね。もー、もう一度直ぐにでも寝て上書き保存したいくらいに。CtrlプラスS」


「control……wh,what? Plus?」


「ユードンユーズイングリッシュ、トゥーミー。パソコンよパソコン、使った事無いの?」


「オー……パソコン、無いです」


 珍しいとも思ったが、中国という国なら、それも有り得るのかも知れない。

 隣国への少々失礼な見解を胸に抱きつつ、暫く私は、この珍妙な同僚と話を続けたいなんて思った。

 考えてみると、こうやって二人で会話する機会は有った筈なのに、何故か実現はしなかった。

 私がさっさと寝るか、こいつが何処かへ出かけていたからなのだが――


「使って見たら? 資料室に置いてあったよ、パソコン」


「……! 使う、使いたい……! 何処、資料室です、行けば? あ、方法、使う……あー……How to use!」


「使い方って……いや、そんな複雑でも無いと思うけど」


 たかだかパソコン一つで、これだけ目を輝かせる奴も珍しい。

 そうは思ったが、続く紅花の言葉で――少しだけ、こいつの事が分かった。


「無い、パソコン、何処にも、です。私は、使う、無い。一度も。

 ……テレビ、エアコン、掃除機、ステレオ……全部、知らない。皆、要らなかった、持たない、でした。

 ごはん、壁、屋根、水、ごはん。欲しい、これだけ。だけで、足りなく、かった……」


 たかが――じゃない。

 私達の最低限と、こいつの最低限は、全然違う所にあるんだ、と。


「……そうなんだ」


 だから、それしか言えなかった。他に言って良い事が、見つけられなかった。

 紅花が座る煎餅蒲団の上に、私もまた腰を下ろして、膝を抱える。


「忘れる、嫌です。全部、私の、です」


 私が捨ててしまいたい様なモノさえ、こいつは持つ事も出来なかったのかも知れない。

 痩せた黒猫が丸い目を輝かせるのを、私は少し眩しく感じていた――ように、思う。


「そうなんだ。……あ、ところで紅花はさ……」


 それから、夜が明けるまで――つまり、牢を開ける誰かが来るまで、私達はとりとめもない話をしていた。

 話した内容は、どうでも良すぎる事ばかりで、殆ど何も覚えていない。

 けれど――こいつの日本語の勉強に、少しくらいなら付き合ってやってもいいなと、そう思った。






「人類の希望の為、身を捧げた貴女達の同胞に――黙祷」


 先の戦闘で、同期の一人が死んだ。味方の射線に飛び込んで、ソードオフのショットガンで頭を吹き飛ばされた。私達が懲罰房から出されて漸く、隊葬が行われた。

 周りの殆どが泣いている。泣いていないのは、私と、隣に立つ紅花の二人だけだった。

 まずこいつにとっては、そもそも知り合いでさえ無いのだ。悲しむ事も出来ないだろうし――多分、知り合いだったとしても、泣かないんじゃないか。

 私は――まあ、数か月の付き合いだ。座学のノートを見せ合った事も有るし、組手の相手をした事もある。負けた事は一度も無いが。

 それが、仲間の誤射で死んだ。頭を潰れた西瓜みたいにして死んだという。棺は、顔の部分の窓が取り払われていて、中の惨状は見えない。

 誤射をしたのが誰かも、この場に居ない事で分かる。辞めたか、病院に入れられたか――もう、戻ってこないんだろうなと、思った。


 目を閉じ、そして思う。

 絶対に、そんな死に方はしたくない。

 何の役にも立たない、ゴミの様な死に方だ。オスを殺す事も無く、味方を一人役立たずにして死んで――こうして泣いている連中だって、いつかはどうせ、忘れるんだから。

 そりゃあ、自分が殺した訳じゃないし、自分の為に死んだ訳でもないし。私だって、死んだ同期がどんな笑い方をしていたか、もう思い出せなくなっている。


「――……以上の旨、忘れないでください。貴女達は皆、掛け替えのない未来。我々より先に死んではならないのであって――」


 気付くと、黙祷の時間はとっくに過ぎ去っていたので、目を開ける。支部長が私達の前で、何か演説めいた事を言っている。

 聞き流しながら考える――どうせ、何時もの説教と同じ内容だろうから。それよりも私は、死んだ同期の事を思い出そうとしていた。

 確か、そこそこ裕福な家の生まれだとは聞いた。普通の仕事を選べば、贅沢しなければ問題無く暮らしていけるような。

 それが何故、中学校の教育もそこそこに戦闘部隊へ志願したかと聞けば――人類の存続の為に、なんて言っていた筈だ。

 成程、良い親に育てられれば、高尚な理想が生まれるらしい。私はそんな事、一度も思い浮かばなかった。

 100年以内には滅びるだろう人間を、運良く何十年か生き延びさせる為に、自分の命を捧げようだなんて。


「……笑って、死ねた?」


 皆が啜り泣いているから、こんな呟きを、聞き咎められる事も無かった。


「誰も、無い。笑う、無いです、皆……終わるとき」


「そうかな……そうじゃなかった人、知ってるよ」


 知ってる。たった一人だけ。

 でも、私の同期が笑って死んだなんて思わない。死に顔は砕けて、そもそも顔として機能していなかっただろうけれど。

 オスに怯えて、隊列を崩して飛び出し、後ろから頭を撃たれて死ぬ。それは、誰の役に立ったんだろう。

 人類の存続を願った〝良い子〟が死んで、結局人類の滅びは、何億分の一か近づいた。


「……紅花。満足して死ぬって、どんな感じかな」


「私、死ぬ、まだ。分かるない、です」


 支部長の話も終わって、解散。これからやっと朝食だ。

 気分は重くとも胃袋は軽い。泣きべそかいて足元覚束ない連中を追い越し、私は食堂に向かった。






 さて、ここで食堂について、ちょっと先に言っておくべき事がある。

 この支部、規模がそんなに大きくない。新兵に、教官数名、雑多な事務をこなす事務官に支部長と、常駐する人員は、百人にも満たないだろう。だから食堂も、決して大きくは無い。

 そうなると厨房のおばちゃん達の顔だって、数週間もあれば覚えてしまう訳だ。


「おばちゃーん、今日の朝食は……って、あれ?」


「あん!? 今日は白米山盛りにスープ、それから鶏肉だよ! いつもと同じ!」


 ちなみに、今、私に向かって叫んでいるのは厨房長の中西さん。別に怒っている訳じゃなくて、火やら換気扇の音やらがうるさくて、叫ばないと聞こえないのだ。

 確かにメニューだけ聞けば、普段と同じ様な内容だが、スープの味付けやら具は何時も違うし、鶏肉もただ焼いてたり茹でてあったり、まあ、色々だ。

 で、今日のは――まあ何と言おうか、雑と言おうか。大量の豆がごろごろとスープに浮いているし、具の野菜の切り方も大雑把。鶏肉は、これまた野菜に包まれていて、臭いからすると茹でてある――というより、スープを使って茹でたんじゃないか、これ。

 わざわざ別皿に取り分けてあるのは見栄えの為かも知れないが、兎角今日の朝食は、白米以外は一つの鍋で作った様な風情であった。


「……いや、うん。同じなのは、まあ、分かったけど……新しい人?」


 が、私の興味のメインは、厨房の奥で鍋に具材をがんがん放り込んでいる、見慣れぬシルエットにあった。

 厨房のおばちゃん達は、なんというか、体格が良い。その中に一人、妙に小ぢんまりした影が有って、気になったのだ。

 じっと見ていると、その影もこちらの視線に気づいたのか、顔を向けて来て――ん?


「新しい……違う違う! ちょっと手伝いに入ってくれてんのさ! いいからおたべ、冷めるよ!」


 叫ぶ中西さんの横に、音も無くすっと立った、厨房の新顔さん。

 髪を完全に覆い隠す、ゴムひも付きの帽子に、ちょっと大きめのエプロン、顔の三分の二を隠すマスク。

 だが――私は、気付いてしまった。マスクで隠しきれない頬に刻まれたタトゥーと、消えない目の隈は――


「……楊教官……?」


「てめぇはさっさと席に付いて喰え。喰わねぇと背が伸びねぇし、今日の任に持たねぇぞ」


 世界最強『315部隊』の指導教官、楊菊蘭であった。

 この人がなんで厨房のスタッフに混ざっているんだとか、まだ滞在していたのかだとか、疑問は一気に湧き出す。

 湧き出すが、その中で最も私を麻痺させた事と言えば、割烹着姿が妙に似合っていた事だ。


「いいか、煮汁は全部飲ませろ。染み出した栄養素が勿体無い。いっそ器も変えて、毎食シチューでもいいんじゃねえか?」


「毎食? ……でもシチューは確かに悪くないねぇ……」


「飽きる様なら飯にぶっかけてオーブンで焼いて、ドリアだって事にしちまえ。

 乳製品に肉に野菜、米、全部食わせるんならこれだろう。洋食慣れした舌にも合うだろうしな」


 小さな体――私より2cm高いだけの小柄な体を縦横無尽に動かし、楊教官は厨房を闊歩する。

 既に調理器具や食材の在り処は把握したと見えて、むしろ厨房のおばちゃん達に、あれこれとメニュー改善の指示を出している。


「……あのー、楊教官。何をしているのでありましょうか……」


「あん? 飯は体造りの基本だろうが。だいたいてめーら、ヨーロッパやロシアの連中に比べて小さいんだよ。牛乳飲んでんのか?」

 あなただって小さいじゃないかと、言い返したくもなるが、そんな事を言えば拳でなく銃のグリップが飛んできそうな気がして、私は必死に口を閉じる。


『菊蘭、今日のスープは何時もより美味しい。けれど肉の量が少ない、倍の量を要求する』


『うるせぇ、まずは黙って食え。オスを殺せば金も飯も舞い込むのが今の時代だ、分かってんだろうが』


 何時の間にか席に座って食事を始めた紅花は、教官と中国語で何やら会話していて、私は疎外感に満ち溢れた。

 どうにも今朝は、心安らかな時間など無いらしい。溜息と共に座って、まずは白米を二口程喉へ落とし込み、それからスープ。


「……味が薄い」


 安物化学調味料に支えられた、我らが厨房のスープは死んだ。

 それでも腹は減るのが人の常。食事を終える頃には、私は少しだけ、表情の活気を失っていたと思う。

 教官、何故あんたは其処に居る。問いを投げても、答えてくれそうな気がしない。

 今日は訓練じゃなく、作戦行動だと言うのが、少しだけ気分を軽くしてくれて、私は足を引きずる様に食器を片づけ、調練場へと向かったのだった。

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