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小説

透明なキャンバスになら、描ける気がした




 絵を描く。心の叫びを、葛藤を、無心でただひたすら描き散らかす。白いキャンバスは、気づけばぐちゃぐちゃ。汚物の様なグンジョウ色と目が痛くなる蛍光色の交通事故。そんな悲惨な絵画が、気づけば目の前にある。


 この絵は……本当に俺が描いたのか?


 毎回そう疑問に思うほど、俺は無心で絵を描く。絵を描いているときの記憶など、一つも残っていない。


 この絵は……なんて、汚くておぞましい絵なのだろ……う…か…………


 そう思った瞬間、俺は疲労により意識を失う。なぁに、心配は要らない。いつものことだ。君が飯を食い、歯を磨くのと同じこと。いつもの日常さ。そして、いつも通り、俺は24時間寝続ける。そして、気が付いたころにはもう、俺が描いた絵はカネに変わっている。


 あんなに汚くて気持ちの悪い絵を誰が買うのだろうか?


 毎回疑問に思うのだが、世の不思議というものか、70億も人がいれば、俺の気持ちの悪い絵を欲しいという物好きもいるらしく、毎回怪盗に盗まれた様に絵は消え去っていく。あとに残るのは山済みのカネだけ。


 俺はそのカネを使って、遊んで、飲んで、吐いて、眠る。遊んで、飲んで、吐いて、眠る。吐いて、遊んで…………


 そんな無価値の衝動に体を任せる日々。ふと気が付くと、心が空っぽになっている。


 あぁ、俺は……何をやっているんだ?


 それは、強い怒りなのだろうか? 深い後悔なのだろうか? 儚い嘆きなのだろうか? どうしようもない悲しみなのだろうか? 体中を脈打ちなお、留まることことのできない生命の歓喜なのだろうか? 


 とにかく、言葉では説明できない感情……いや、おそらく”感情”という言葉も適当ではない。もはや百科事典でも広辞苑でも万葉集でも説明することのできない、言語では到達できない領域に存在する”何か”が、空っぽの胸を襲う。


 だから俺は、絵を描く。言葉なんかじゃ表現できないから。活字? 何それ? 言葉なんか、はじめっから死んでるんだよ。俺は既に存在している物をツギハギして、新しいものをつくりたいわけじゃないんだよ。俺の心にしか存在していないこの”何か”を、世にぶちまけたいんだ。世界に存在させてあげたいんだ……ただ、それだけなのに。


「あぁ…あああ……………あああああああああああ!!」


 気が付くと、もう、いつもの”衝動”が体を支配していた。口からは涎がとめどなく流れる。体は感電した様に小刻みに震えてとまらない。


「あ、あうう、あう……」


 いつもなら、この”衝動”に支配された俺の体は、すぐにアトリエへと向かい、白いキャンバスに絵を描き殴る。しかし、今日は何かが違った。後で知ったことだが、この日は満月だったという。それが関係あったのかどうかは定かではないが、この日は"いつもと違う日"だったことは、確かだ。


「白じゃダメだ…………白じゃ表現できない…描けない……もっと、もっと純度の高いキャンバスを……もっと…………そう、もっと………………透明な!」


 これは、ずっと前から俺の心に引っかかっていたこと。白のキャンバスに何度も何度も何度も何度も色を刻んでも、俺の心の中にある”何か”を100%表現できなかった。99%までしか、どんなにがんばっても無理だった。”白”が邪魔たった。最初っからキャンバスに存在するこの”白”のせいだとずっと思っていた。”白”を憎んでいた。

 結局、俺が一番伝えたい、誰かに知ってもらいたい1%は”白”のせいで、この世に存在できないのだと思っていた。この世に存在することは不可能なのだと、この世に存在することをあきらめなければいけないのだと……ずっと、絶望していた。


「はっ、ははっ、うぅっっつ! お! ほぉっう」


 気が付くと、俺は夕日が浮かぶ虚空に絵を描いていた。絵筆もなければ絵の具もない。それでも俺は、手を動かし、足を動かし、時には体全体を投げ出して、虚空に絵を描いた。この透明なキャンバスになら、100%を描ける気がして。
















 気が付くと、朝日が昇っていた。俺の体はよりいっそう震えていた。視界は涙で埋もれているし、極度の疲労と達成感から体に力が入らない……俺は、俺の絵は? はやく見たい! 


 俺は必死に涙をぬぐい、虚空を見た。そこにはきっと、俺の心の中にある”何か”が、後光にも似た朝日によって如実に浮き上がっているに違いない! そう思って、目を見開いた。


「……………………………………なんだ、何もないじゃないか」


 俺の目の前にあったのは、ただの虚空。どんなに目を凝らしてみても、そこにあるのはただの空気。


 あぁ、そうかそうか、それもそうだな。虚空に描いた絵を、どうやって見れというのか? そんなの見えるはずもない。小学生でもわかる、簡単なことだ。誰にだって、見えないんだ、心は。だから、みんなは必死に色をつけたり、音に変えたりして、伝えようとしているんだ。少しでもわかってもらいたいから、見えやすい、わかりやすい、伝わりやすい何かで必死に自分の思いを包んで、みんな表現しているんだ……俺はバカだな、ははは。


 俺が絶望と共に、自分自身を鼻で笑った瞬間、声をかけられた。それは、美しさと強さが共存した、いい声だった。


「どんなに目を凝らしても、そこにはもう、絵はないよ」


 振り向くと、そこには1人の小柄な女がいた。


「だって、あたしが”買った”んだから。あんたの絵。もう、あんたが書いた絵は、私のもの。私だけのもの。私、独占欲強いのよ。だから、私の心からはもう、出さない。一生。絶対に。この絵は私だけのもの。生み出したあんたにも、もう絶対に、見せないから」


 非常に強気な態度でそう言うと、女はその場から消えようとした。俺はよくわからなかったが、とにかく無我夢中で女を呼びとめた。


「ちょ、ちょっと待て! ……ほ、報酬は? お前は俺の絵を買ったんだろ? それなら、ちゃんと報酬をくれよ。この世は等価交換の大原則でできているんだぜ? 知らないのかい、お嬢さん?」


 俺は……なぜだろうな? 今でも理由はわからないが、この女をできるだけ長くこの場に留めておきたいと思った。もう少し、この女と同じ空間を、同じ時間を共有したいと、無意識で願っていた。


「あら? あんたはもう、報酬を貰っているはずよ?」


「な、何をいう。俺は何も貰ってなどいない!」


 俺は、女がすぐに消えてしまいそうな気がして、少し強めに言葉を吐いた。


「あんたの望みは、自分の絵を、誰かの心の中に飾ることでしょ?」


 !? ……ドキッとした。心を貫かれた気がした。


「あんたの絵は、私の心に飾られています。それだけで、十分でしょ?」


 それだけで十分……のはずだった。ずっと、それだけで十分だと思っていた。信じていた。でも、違った。俺は、”もっと”を望まずにはいられなかった。


「俺はずっと……絵を、描いてばかりだった。知って欲しくて、俺の心の葛藤を、知って欲しくて、描いてばかりだった。だから、今度は! 今度は……買いたい。人の心の絵を、飾りたいんだ。俺の心の壁に……君の心の絵を、飾ってみたい」


 俺の心は空っぽで、味気のない部屋だった。この部屋に、他の誰かの綺麗な絵を飾れたら……幸せかもしれない。俺は本気でそう思った。


「……そう、それは残念ね。私はあんたみたいに、絵を描けないから」


 女は物悲しい顔でそう言うと、後ろに振り返り、小さく


「……うらやましい」


 と呟いてから、消えてしまった。





 俺は、絵を描ける。それは、すごいことだと、今初めて実感した。世の中には、絵を描けない人もいるのだから。俺は自分の才能を愛しく思う。愛しく思いながら、これからも生きて行こう、そう思った。



 気が付くと、体がワナワナ震えていた。


「絵を、描きたい」


 俺は足早にアトリエへと向かい、絵を描いた。こんなに、心から絵を描きたいと思えたのは初めてだ。なんだかとても、うれしかった。


 「よし、できた」


 白かったキャンバスには、いつもの汚い絵ではなく、まるであの女のように凛として美しい、一厘の花が描かれていた。


 この日、俺の画風は大きく変貌を遂げた。






~エピローグ~


 あの日以来、俺の絵は売れなくなった。世の中とは本当に難しいものだ、と俺は肩を落とし、銭を数える。


「はぁー、今日も飯はなしか」


 果たして、俺はこれからどうなるのか、まったくわからない。今はただ、お腹がすいた。飯を食いたい。ただ、それだけだ。


「へっくちゅん!」


 寒空の下、思わずくしゃみが出た。それと同時にふと、あの女のことを思い出した。


「俺が虚空に描いたあの絵は、まだ飾られているのだろうか?」


 少しだけ、気になった。


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