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喰らえば強くなる!俺の異名はダンジョングルメ

掲載日:2026/06/22

■ 第1話「荷物持ちと置き去り、そして最初の一口」


 王都外縁に広がる「霧の迷宮」。その入口前で、霧島レンは巨大なリュックサックを背負いながら立っていた。

 中身は冒険者パーティー「緋牙」の全員分の荷物だ。食料、魔道具、着替え、野営道具——総重量は彼の体重を超えている。


「レン、ちゃんとついてこいよ。荷物落とすなよ」


 パーティーリーダーの黒鉄ガルドが振り返ることもなく言った。ガルドはBランク冒険者で、レンとは同じ冒険者ギルドの出身だ。

 レンはCランクにも届かない「Fランク」——成長が著しく遅く、魔力もほぼゼロ。同世代の冒険者たちとは何もかもが違った。


(でも、いつかきっと……)


 そう思いながら走ってついていく。


 迷宮第三層。そこで事件は起きた。


 石畳の廊下の奥から、巨大な唸り声が響いた。現れたのは体高三メートルを超える「バーサークグリズリー」——甲殻に覆われた鋼鉄の熊だ。Aランク相当の魔物で、緋牙の全員が蒼白になった。


「……逃げるぞ」


 ガルドが静かに言った。そして——


「レン、お前が囮をやれ。俺たちが逃げる間、奴の注意を引け」


 瞬間、レンの思考が止まった。


「は……?」

「荷物はここに置いていい。お前一人なら身軽に逃げられるだろ。後で合流すればいい」


 それは嘘だとわかっていた。Aランクの魔物から一人で逃げられるはずがない。

 けれど、パーティーのメンバーが一斉に走り出した。振り返る者は誰もいなかった。


 バーサークグリズリーの赤い瞳がレンを捉えた。


 ——気がついたとき、レンは冷たい石床に倒れていた。全身が痛い。どれだけ時間が経ったか、わからない。

 魔物は満足したのか、どこかへ去っていた。傍らには、別の冒険者に倒されたとおぼしきバーサークグリズリーの死骸が転がっていた。


 腹が減っていた。恐ろしく空腹だった。


(食料は……全部置き去りにした荷物の中だ)


 レンはぼんやりと魔物の死骸を見た。

 冒険者なら魔物の肉を食べることはある。生食は危険とされているが——今は選択肢がなかった。

 震える手でナイフを取り出し、最も傷の少ない部位の肉を切り取り、口に入れた。


 次の瞬間——全身が燃えるように熱くなった。


 【スキル取得:鋼鉄の皮膚Lv1 超回復Lv1 地響きの咆哮Lv1】


 頭の中に、見えない文字が浮かぶ感覚があった。

 体の痛みが——消えていた。


(何が、起きた……?)


 レンが呆然としていると、迷宮の入口方面から足音が聞こえた。


「誰かいますか!? 生きている人は!?」


 現れたのは、白いローブを纏った金髪の少女だった。碧色の瞳が、倒れたレンを見つけて大きく見開かれた。


「大丈夫ですか!? 今すぐ回復魔法を……!」


 少女の手から白い光が溢れ、レンの体に温かさが広がった。


「……ありがとう」

「よかった。意識があるんですね。私、アリア・ソレイルといいます。回復魔法の修行で迷宮に来ていたんですが、魔物の咆哮が聞こえたので……」


 アリアはレンの全身の傷を丁寧に治しながら、心配そうに顔を覗き込んだ。その距離が近すぎて、レンは思わず目を逸らした。


「助かりました。俺……霧島レンといいます」

「レンさん、ですね。一人でこんな深層に? パーティーは?」

「……置き去りにされました」


 一瞬の沈黙。アリアの表情が、静かな怒りに染まった。


「そんなこと……」

「いいんです。俺が弱いのは事実だから。でも——なんか、さっき何かが変わった気がします」


 レンは自分の右手を握りしめた。確かな力が、そこに宿っていた。


(俺は、強くなれる。食べれば——)


 それが、すべての始まりだった。



■ 第2話「ギルドの受付嬢と、二度目の食事」


 翌朝、レンは冒険者ギルドへ報告に行った。置き去りにした緋牙のことを伝え、迷宮内での出来事を正直に話す必要があった。

 受付カウンターにいたのは、いつも通り茶髪ショートに眼鏡の女性——エルナ・ハーヴェイだった。


「レンさん! よかった、無事だったんですね。昨日、緋牙から『レンが迷宮で行方不明になった』と報告が来て……」


 エルナは書類を手に持ったまま立ち上がり、カウンター越しにレンの顔を確かめた。その心配そうな表情に、レンは少し胸が痛くなった。


「一応生きてます。でも……緋牙に置き去りにされたことは、報告書に書いてもいいですか」

「当然です。それは重大な規約違反になります」


 エルナは眼鏡のフレームを指で押し上げ、真剣な顔で言った。そして事務的に「詳しい話を書類に残しましょう。保管室に案内します」と言った。


 ギルドの奥にある書類保管室は、棚が天井まで積み上げられた狭い部屋だった。二人が並ぶと肩が触れるくらいの幅しかない。

 エルナが棚の上段に手を伸ばした瞬間、バランスを崩した書類の束が雪崩を打って崩れた。


「きゃっ!」

「エルナさん!」


 レンが咄嗟に支えようとして——二人もろとも棚に背中をぶつけ、レンはエルナの上に折り重なって倒れた。

 書類が舞い散る中、エルナの眼鏡だけが棚の上へ飛んでいってしまった。


 ……静寂。


「……レンさん」

「す、すみません! 今すぐ——」

「その前に、眼鏡を……見つけてください。私には何も見えませんので」


 エルナは真っ赤な顔のまま、ほぼ囁くように言った。レンとの距離は十センチもない。


「……は、はい!」


 レンは顔を真っ赤にしながら立ち上がり、棚の上の眼鏡を慌てて取り戻した。


 書類整理を終え、エルナがステータスカードを確認したとき——彼女は目を丸くした。


「レンさん……これ、本物ですか?」

「何かおかしいですか?」

「昨日まで全ステータスがFだったのに……STR:C、VIT:B、スキル欄に三つ。こんな急上昇、見たことがありません」


 レンはバーサークグリズリーの肉を食べた話をした。エルナはメモを取りながら、真剣な顔でうなずいた。


「つまり——魔物の肉を食べることで、そのスキルを吸収できる。レンさん、あなたはもしかしたら、前代未聞の才能を持っているかもしれません」


 その言葉は、昨日まで「外れ冒険者」だったレンの胸に、静かに火をつけた。


「もう一度、ダンジョンに行きます。もっと食べて、もっと強くなる」

「……応援しています。ステータスの変化は私が毎週記録します。無茶はしないでください」


 エルナはそう言って、いつものように書類を整え始めた。けれどその耳が、まだ少し赤かった。



■ 第3話「宿屋の娘と、秘密の夕食」


 ギルドを出たレンは、住み込みで世話になっている「ランタン亭」へ戻った。築四十年の木造宿で、壁はあちこち隙間風が通るが、料金が安く居心地がいい。

 宿の厨房から、いい匂いがしていた。


「あ、レン兄ちゃん! おかえり!」


 赤茶色の髪をポニーテールにしたミアが、エプロン姿で顔を出した。そばかすの散った頬が笑顔でほころんでいる。


「ただいま。ミア、今日も夕飯作ってるの?」

「うん! でも……なんかレン兄ちゃん、昨日より顔色よくない? 昨日、ギルドで倒れたって聞いたけど」


 さすがに観察眼が鋭い。レンは少し迷ってから、ダンジョンで起きたことをかいつまんで話した。

 ミアは話を聞きながら真剣な顔になり、最後に「それ、料理できる?」と聞いた。


「え?」

「その……魔物の肉。ちゃんと火を通して食べた方がいいし、私、料理は得意だよ。もしまた持ってきたら、おいしく調理してあげる」


 その提案は、レンにとってありがたかった。生で食べるのはリスクがある。


「ありがとう、ミア。助かる」

「えへへ。お礼はいらないよ。ただ……その代わり、食べるときは私も一緒に食べさせて。どんな味がするのか気になるし」


 好奇心旺盛な表情で言うミアに、レンは思わず笑った。


 その夜、レンは翌日のダンジョン探索で入手した小型魔物の肉をミアに渡した。ミアは厨房で一時間かけてハーブと香辛料で丁寧に調理し、二人で宿の裏庭で夕食を食べた。


「……おいしい」とレンが言うと、「でしょ!」とミアが胸を張った。


 ところが、食後に宿の風呂場で事件が起きた。

 間仕切りの板が古くて緩んでいたらしく、ミアが扉を押した拍子に板が外れ、なぜか男湯側に倒れ込んできた。


「きゃあああ!?」


 ミアが悲鳴を上げた。レンは湯船から飛び上がり、咄嗟に壁に向かって体を押しつけた。


「き、来ないでください! 絶対来ないで、絶対! 目をつぶってください!」

「つ、つぶってる! つぶってます!!」


 背中合わせ、お互いに顔が真っ赤なまま、ミアが板を引きずって女湯に撤退するまでの二分間、二人は一言も喋れなかった。


 翌日の朝食時、ミアは一切その話をしなかった。ただ、レンの前に山盛りのパンを置くとき、耳が真っ赤だった。



■ 第4話「薬草師の村娘と、毒の夜」


 レンが次に狙ったのは「毒蜘蛛・アラクネイド」の肉だ。毒属性のスキルを得られれば、冒険の幅が大きく広がる。

 しかし計算が甘かった。アラクネイドの肉に残った毒素は、火を通しても完全には消えない。

 ダンジョンを出て王都外の街道を歩いていたレンは、急に全身に悪寒が走り、その場にしゃがみ込んだ。


「——大丈夫ですか!?」


 声の方を見ると、薬草の詰まった籠を背負った黒髪おさげの少女が走ってきた。


「顔色が悪いです。少し前まで魔物と戦いましたか?」

「……毒蜘蛛の肉を食べました」

「それはいけません! 私の家に来てください。解毒薬があります」


 セナと名乗った少女は、レンの腕を自分の肩に回し、迷いなく歩き始めた。


 村のはずれにある薬草師の家で、セナはてきぱきと薬を調合し、レンに飲ませた。苦い液体が胃に落ちると、じわじわと楽になっていった。


「助かりました……。なんで一人でいたんですか? 危なくなかったですか」

「私は毒の見分けに慣れています。それに——強くならなければいけない理由があるので」


 セナは棚に並んだ薬瓶を見ながら静かに言った。レンが問うと、ゆっくりと話してくれた。


「三年前、弟が毒魔物に噛まれたとき、村には解毒できる薬草師がいなかったんです。王都まで運ぶ時間もなくて……弟は助かりましたが、後遺症が残りました。その日から、私はこの勉強を始めました。もう誰も、同じ思いをさせたくないから」


 静かな夜の中、ランプの灯りに照らされたセナの横顔は、凛として美しかった。


 レンは思わず自分のことを話した。置き去りにされた夜のこと。冷たい石床に倒れながら、誰も来ないと思ったこと。それでも立ち上がろうとしたこと。


「……だから私も、強くなります。誰かに守ってもらうんじゃなくて、守れる側になるために」


 セナは少し驚いた顔をして、それからかすかに笑った。


「似てますね、私たちの理由」

「そうですね」


 【スキル取得:毒耐性Lv2 解析眼Lv1】


 翌朝、体が完全に回復したレンは礼を言って立ち上がった。セナは「次に食べる前に私に聞いてください。毒があるかどうか、わかりますから」と言った。

 その言葉が、レンには何よりも頼もしかった。



■ 第5話「剣士の弟子と、稽古場の転倒」


 レンがギルドで依頼掲示板を見ていると、「新人冒険者向け基礎稽古 参加者募集」という張り紙があった。主催は王都の剣術道場「灰刃流」で、無料開放日だという。

 スキルは増えてきたが、実戦での技術が追いついていない。レンは参加を決めた。


 道場の床は磨かれた木材で、朝の光が差し込んでいた。参加者は十人ほど。その中に、銀色ショートヘアの少女がいた。


「新顔ね。名前は?」


 切れ長の目でレンを見下ろし、腕を組んで言う。カリン・アッシュブレイドと名乗った彼女は道場の内弟子で、今日の模擬戦の相手として指定された。


 稽古が始まった。カリンの斬撃は素早く正確で、レンは何度もよろめいた。しかし——スキル「鋼鉄の皮膚」のおかげで、直撃を受けても皮膚が金属のように硬化し、大きなダメージを受けない。


「……なぜ効かないの」


 カリンの眉間に皺が寄った。何度打ち込んでも、レンが平然としているのが腑に落ちないらしい。


「えっと、スキルで——」

「いいから来なさい!」


 カリンが間合いに飛び込んできた。二人が鍔迫り合いになった瞬間、道場の床の一点だけが濡れていて、カリンの足が滑った。


「っ!?」


 カリンは咄嗟にレンの胴着を掴み、そのまま二人もつれて床に倒れ込んだ。レンが下、カリンが上——完全に抱きつく形だった。


 ……しばらく、道場が静まり返った。


「……今のは事故だ」


 耳まで赤くなったカリンが、低い声で言った。


「わかってます」

「そういうことにしておけ。絶対に誰にも言うな」

「言いません」

「……よし」


 カリンはぱっと立ち上がり、袴を直して稽古の続きを命じた。その後の二時間、彼女はずっとレンに向かって最大出力で打ち込んできたが、なぜかその頬がずっと赤かった。


「また来なさい。まだあなたのスキルの謎を解明できていない」


 帰り際、カリンはそれだけ言った。ライバル宣言なのか挨拶なのか判断できなかったが、レンは「また来ます」と答えた。その返事に、カリンが一瞬だけ口元を緩めたことに、レンは気づかなかった。



■ 第6話「市場の花売りと、嵐の夜明け」


 王都の市場は毎朝にぎわいを見せる。野菜、魚、布——そして、ひときわ鮮やかな花の屋台が一軒。薄紫の巻き髪の少女が、白い歯を見せて花を売っていた。


「お兄さん、花はいかがですか? 今日のイチオシはこれですよ」


 差し出されたのは青い野の花だった。レンは別に買う気はなかったが、なんとなく立ち止まった。


「この花……もしかして薬にも使えますか?」

「あ、わかります? えへへ、実は薬草も混ぜて売ってるんです。私、リリスっていいます。よく来る人ですか?」


 くるくるとよく喋るリリスと話していると、急に空が暗くなった。遠くで雷鳴が轟き、大粒の雨が降り始めた。


「きゃっ! お花が!」


 リリスが商品を守ろうと慌てる中、レンは持っていたマントを広げて花を覆い、露店の幌を下ろすのを手伝った。なんとか花を守りきったところで、二人は近くの建物の軒下に駆け込んだ。


 軒下は狭かった。並んで立つと肩が触れるほどだ。


「ありがとうございます! お花、守ってくれて……!」


 リリスが笑顔でお礼を言ったそのとき、嵐の強風が路地を吹き抜けた。


「きゃっ!」


 リリスのスカートが風に舞い上がった。レンは反射的に手を伸ばしてスカートを押さえようとし、しかし勢いがついてそのまま二人でよろめき——気がつくと、レンはリリスの前に立ち、壁との間に彼女を挟む体勢になっていた。


 距離、十センチ。


「……これが噂の……壁ドン?」


 リリスがきょとんとした顔で言った。


「違います!!」


 レンは真っ赤になって飛び退いた。リリスはぷっと吹き出して笑い始めた。


「ふふ、冗談ですよ〜。でも顔、真っ赤ですね」

「それはあなたもです」

「……あ、ほんとだ」


 リリスは自分の頬に手を当てて、それでもおかしそうに笑っていた。


 雨が上がった後、二人はランタン亭で乾いた服に着替え(リリスはミアの服を借りて)、夕食を一緒に食べた。リリスは話が止まらなく、気づいたらレンは三時間も話し込んでいた。


「また花、買いに来てね」


 帰り際、リリスは一輪の青い花を手渡した。「これは代金なしです。今日のお礼」と言って。レンはその夜、ランタン亭の窓際に花を飾った。


 【スキル取得:風読みLv1(嵐の中で目覚めた感覚)】



■ 第7話「元Sランクの孫娘と、封印された地下層」


 霧の迷宮、第五層。ギルドの記録では「封印済み区画あり」とだけ記されていた通路を、レンは好奇心に負けて進んでいた。

 スキルが増えるにつれて、体が限界を押し上げてくれる感覚がある。ステータスは今やC〜B相当になっていた。


 封印された扉の前に、先客がいた。


「……あなたも封印区画に興味があるの?」


 ダークブラウンの長髪を束ねた長身の女性が、扉を調べながら言った。


「Fランクにしては迷い込み過ぎだと思うけれど」


 彼女が胸のプレートに目をやると、レンのランクがまだFだった(更新が間に合っていなかった)。フィーナ・グランセルと名乗った彼女は、それだけで興味を失ったように扉に向き直った。


「構わず先に行く。ついてきても足を引っ張るなら置いていく」

「それ、昔別の人に言われました。その人はその後、ギルドに報告書を書かされてましたけど」


 フィーナが初めてこちらを振り向いた。


 封印は術式ではなく物理的な石細工で閉じられていて、二人で力を合わせれば開けられた。中は螺旋状に続く地下通路で、魔石の光がかすかに壁を照らしていた。


 途中、通路の床が部分的に抜けていた。フィーナが一歩踏み出した瞬間、その石が崩れた。


「っ——」


 フィーナが落ちるより早く、レンは腕を伸ばして彼女の手首を掴んだ。しかし体勢が悪く、そのまま引き上げることができない——結果として、フィーナが落ちるのを緩めながら、レンも引きずられて飛び降り、二人で下の石棚に着地した。


 レンがフィーナを抱きかかえる形で、軟着陸。


 長い沈黙。


「……降ろせ」


 フィーナが静かに言った。


「はい」


 降ろすと、フィーナはすっと立ち上がり、ローブについた埃を払った。その耳が、燭台の光の下で、明らかに赤かった。


「助かった。……一応、礼を言う」

「怪我はないですか」

「ない。……あなた、Fランクにしては力がある」


 地下層の最奥には、古い魔物の骨と、未回収の魔石があった。レンはそこに残っていた「深淵蛇・アビスウィルム」の乾燥肉片を発見し、その場でかじった。


 【スキル取得:気配察知Lv2 暗視Lv1】


「……食べるの?」


 フィーナが信じられないものを見る目で言った。


「強くなれるので」

「……変わった人ね」


 帰り道、フィーナはずっと無言だったが、出口の前でぽつりと言った。


「次にここに来るときは、私に声をかけなさい。一人は危険だから」


 それは、彼女なりの「また会いたい」という意味だと、レンが気づくのはずっと後のことだった。



■ 第8話「風呂屋の看板娘と、一番風呂の惨事」


 連続してダンジョンに潜ったレンは、全身に汗と埃が染みついていた。ランタン亭の風呂は月三回しか沸かさない。仕方なく街の銭湯を探すことにした。


 王都の東区にある「東の湯」は、古い木造建築の落ち着いた銭湯だった。入口の暖簾が渋い紺色で、脱衣所の床は綺麗に磨かれていた。

 受付には、黒髪ストレートのおっとりとした少女がいた。


「いらっしゃいませ。今日は一番風呂です。ごゆっくりどうぞ」


 その声がひどく穏やかで、レンは思わず立ち止まった。


「ありがとう……ところで、あの」

「なんでしょう」


 大きな瞳がゆったりとレンを見た。


「俺の周りに、なにか変なもの見えませんか?」


 唐突な質問だが、なんとなく聞いてみたかった。するとナナは少し首を傾けて、


「……はい。炎と、風と、あと毒っぽい何かのオーラがぐるぐる回っています。とても珍しい人ですね」


 とあっさり言った。


 レンはしばらく固まった。エルナでさえステータスカードでしか確認できないものを、この子は一目で感知している。


「……もしかして、感知系のスキルを?」

「持って生まれました。正確には、力の種類がわかる程度ですが」


 ナナはそう言って微笑んだ。名前を聞くと「ナナ・ホウシンといいます。ここの看板娘です」と答えた。


 風呂から上がったとき、入口で暖簾を張り替えていたナナが脚立の上でバランスを崩した。


「あっ」


 レンは瞬時に走り、腕を伸ばした。ナナはそのままストンとレンの腕の中に落ちた——まるで計算したかのように、無駄のない落下だった。


 ナナはしばらく動かなかった。


「……ナナさん? 怪我は?」

「……気持ちいい場所に落ちてしまいました」


 ぽつりとナナが言った。


「え?」

「あ、いえ。受け止めてくださってありがとうございます」


 ナナはゆっくり立ち上がり、軽く頭を下げた。その頬が、かすかに桜色に染まっていた。


 それからレンは週に一度「東の湯」に通うようになった。ナナは毎回「今日はどんなオーラが増えましたか」と聞いてくれた。スキルの記録係がエルナなら、雰囲気の観察係はナナだ——レン本人はそう思っていたが、ナナが彼を待つ理由はもう少し別のところにあった。



■ 第9話「鍛冶屋の娘と、炎の試練」


 レンの武器は冒険を始めた当初から変わっていない——量産品の鉄ナイフと、安い短剣。スキルが増えてきた今、それが明らかに限界を迎えていた。

 ギルドの掲示板に「武器のご相談はブレイズ工房へ」と書いてあったので、足を運んだ。


 工房の前に着いたとき、中から金属を叩く音が響いていた。


「いらっしゃい! ……っておい、ナイフそれだけか? よくそれで冒険者やってたな」


 赤毛を短く切った筋肉質の少女——テファ・ブレイズが、ハンマーを持ったまま出てきてレンの武器を一目で評価した。


「お父さんはいますか」

「父は腰を痛めて今月は休み。私が全部やる。注文は?」


 その眼が真剣で、口調は短いが誠実だとわかった。レンは自分の戦い方——スキルを活かした近接重視で、受け止めることが多い——を説明した。

 テファはしばらく考えてから「わかった、引き受ける。三日くれ」と言った。


「代金は?」

「いい素材を持ってこい。魔物の素材でいい。それで相殺にする」


 三日後に素材を届けに来たレンは、工房の扉を開け——固まった。

 炉の前でテファが金属を叩いており、工房の熱気のせいで汗だくになっていた。作業着のシャツの前が、体温を逃がすためか大きく開いていた。


「……な」

「見るな!! バカ!!」


 テファが顔を真っ赤にして怒鳴った。手に持った赤鉄の鑢を振りかざして、レンは全力で工房を飛び出した。三十秒後、テファがシャツを直して出てきて「先に声をかけろ!!」と怒鳴り続けた。


「す、すみません……」

「……ま、いい。作業中に入ってくるのが悪い。次は声をかけろ」


 テファは咳払いをして、照れを誤魔化すように奥へ引っ込んだ。


 完成した短剣と手甲は、見事なものだった。レンのスキルに合わせて「衝撃吸収強化」の鍛造が施されており、打撃系スキルとの相性が抜群だった。


「……これ、すごいです。本当にありがとうございます」

「当たり前だ。私の作品だから」


 テファはそっぽを向いたが、その耳は赤かった。


「また素材を集めたら来てもいいですか」

「……素材次第だ」


 それはつまり「来い」ということだと、レンにはわかった。



■ 第10話「孤独な図書館司書と、禁書の夜」


 エルナから「あなたの現象を詳しく調べるなら図書館が良い」と言われ、レンは王都図書館を訪ねた。

 石造りの静かな建物で、入ってすぐ高い天井と、膨大な本棚が出迎えた。


「何かお探しですか」


 カウンターの奥から、低く静かな声がした。黒いセミロング、白い肌、大きな瞳——クロエ・ノワールが本から目を上げた。


「魔物の肉を食べるとスキルが移るという現象について、何か文献はありますか」


 クロエの目がかすかに動いた。


「……あります。ついてきてください」


 案内されたのは図書館の最奥、地下への階段を降りた先にある「閲覧制限書庫」だった。手書きの古い羊皮紙が収められた区画で、クロエは迷いなく一冊を取り出した。


「三百年前の錬金術師の手記です。『食肉による能力移譲現象』——あなたのことが、そのまま書かれています」


 読み進めるうち、レンはその手記に記述された実例が自分の経験とほぼ一致していることに気づいた。ただし——手記の後半には警告が書かれていた。


「『能力移譲は蓄積する。しかし上限を超えた場合、肉体が耐えきれず崩壊する可能性がある』……」


 レンは顔を上げた。クロエは静かに本を見ていた。


「知っていたんですか、この警告を」

「はい。あなたが来た瞬間に、少し——」


 クロエは言葉を止めた。そして、本棚を見上げながら続けた。


「私の友人は、魔物に食べられました。二年前。迷宮で一緒にいたのに、私だけ逃げてしまった。……あのとき、魔物の弱点を知っていれば。習性を理解していれば。もしかしたら、守れたかもしれない。だから私はずっとここにいる。答えを探して」


 図書館の中は、二人だけだった。


 レンはしばらく黙っていた。そして「俺も一人で置いていかれた夜がありました」と言った。クロエがこちらを見た。


「でも、そこで食べた一口が俺を変えてくれた。あなたが探している答えも——きっとどこかにある。俺が一緒に調べます」


 クロエはしばらくレンの目を見ていた。そして「……手伝ってもらえるなら」とだけ言った。


 その夜、二人は閉館後も本を読み続けた。レンの肉体耐性の上限を慎重に見極めるための、共同研究が始まった。



■ 第11話「踊り子の姉と、祭りの夜に」


 王都の夏祭り「星明かりの宴」は一年で最も賑やかな夜だ。屋台、花火、舞踏——広場のいたるところで音楽が鳴り響く。

 レンはミアに「お祭り行こうよ!」と誘われてついてきたが、人混みの中でミアとはぐれ、一人で屋台を歩いていた。


 そのとき、人混みの端でしゃがみ込んで泣いている小さな女の子を見つけた。


「迷子? 大丈夫?」


 女の子は「お姉ちゃんと来たけど、いなくなった」と泣きじゃくった。レンは手をつないで一緒に迷子センターに向かおうとしたとき——


「リリカ!!」


 人混みを割って、茶色のウェーブロングを揺らした女性が駆けてきた。華やかな舞踏衣装を着たままで、息を切らしていた。


「ごめんね、ごめんね。お姉ちゃんが悪かった……!」


 女の子——リリカを抱きしめ、それからレンに向かって深々と頭を下げた。


「ありがとうございます! 私、イリア・ベルカント。あの子の姉で、舞踏団の踊り子です」


 お礼がしたいというイリアに「お気になさらず」と言うと、彼女は「じゃあペア踊りの練習に付き合って! 相手がいないのよ」と言い出した。


 広場の隅の練習スペースで、イリアがレンの手を取った。


「祭りのペア踊りは簡単よ。私の動きに合わせるだけ。いい? せーの——」


 ターン。レンが回る。イリアが回る。二人の手が絡まる——


 そのまま勢いが余って、二人もつれ合いながら草の上に転倒した。


 イリアがレンの上に。


「……いたた。あなた、運動神経は悪くないんだけど、リズムがズレてるのよ」


 イリアはそう言いながら、起き上がる気配がなかった。


「……あの、イリアさん」

「これ舞台だったら幕が下りてたわ。恥ずかしい」


 笑いながらも頬が赤い。レンも当然、顔が赤い。


「ええと……」

「ふふ。ごめんごめん」


 ようやく立ち上がったイリアは、屈託なく笑った。その笑顔がひどく眩しかった。


 祭りの最後、イリアは本番の舞台で踊った。炎と月明かりの中で動くその姿は息を呑む美しさで、レンは人混みの中で一人、ずっとその舞を見続けた。

 舞台が終わり、イリアが客席に向かって手を振った。その目がレンを見つけ、特別に、笑いかけた。



■ 第12話「最初の仲間と、囮少年の名誉」


 緋牙への調査が完了した。ギルドの裁定は「囮行為・重大規約違反」による一年間の活動停止処分だった。

 エルナが報告書を読み上げる声を、レンはギルドの入口で聞いていた。


 静かだった。怒りはもうない。ただ、少し——終わった気がした。


 外に出ると、初夏の陽光が眩しかった。噴水広場のベンチに腰を下ろしていると、後ろから声がかかった。


「レン……」


 振り向くと、栗色の三つ編みに大きなリボンをつけた少女が立っていた。目が赤かった。


「シルヴィア? どうしたの、泣いてる?」


 シルヴィア・クレストはレンと同じ時期にギルドに登録した同期だった。弓を使う新人で、いつも端の方でひっそりと依頼を受けていた。


「……言わなきゃいけないことがあって」


 シルヴィアは隣に座り、膝の上で手を握りしめた。


「私、ずっと知ってた。あの夜、緋牙があなたを置いていったこと。ギルドで聞こえてたの……。でも、何もできなくて。声もかけられなくて……ごめんなさい」


「え……シルヴィアが謝ることは——」

「違う、それだけじゃない」


 シルヴィアは顔を上げた。目に涙が光っていた。


「私、最初からずっとレンのことを見てた。登録日から。あなたが誰よりも必死に、でも誰にも認められなくて、それでも毎日ギルドに来て——諦めなかったこと、知ってた。ずっと知ってたの」


 その言葉が、静かに胸の奥に落ちた。


 レンは空を見た。噴水の音だけが広場に響いていた。喉の奥が、思いがけず熱くなった。


「……ありがとう」


 それだけしか言えなかった。シルヴィアは袖で目を拭い、それからまっすぐレンを見た。


「一緒にパーティーを組みたい。私、弓は少し得意なの。レンのそばで戦いたい——ダメ?」


 レンは少し間を置いてから、笑った。


「ダメなわけがない。よろしく、シルヴィア」


 その日の夕方、レンはランタン亭に戻った。玄関にはアリア、エルナ、ミア、セナ、それからカリンまでなぜかいた。


「何? なんで全員いるの」

「「「お疲れさまです(よ!)」」」


 ミアが用意したお祝いの夕食を囲んで、賑やかな夜になった。

 レンは置き去りにされたあの夜から、こんなにも人に囲まれることになるとは思っていなかった。


(まだ、強くなる。まだまだ食べる。——そして、全員を守れる奴になる)


 【スキル一覧(1期前半終了時点)】

 鋼鉄の皮膚Lv3 超回復Lv2 地響きの咆哮Lv2 毒耐性Lv3 解析眼Lv2

 気配察知Lv3 暗視Lv2 風読みLv2 炎耐性Lv1 水流制御Lv1


 ——1期後半、第13話へ続く。


■ 第13話「新しいパーティー、最初の依頼」


 霧島レンとシルヴィア・クレストの二人パーティー「グルメコンビ(仮)」が正式にギルドに登録された——という話をすると、エルナに「パーティー名はちゃんとつけてください」と注意された。

 名前を「ダンジョンコレクト」に改め、最初の正式依頼を受けることにした。依頼内容は「第一層の中型魔物・ゴブリン隊長の討伐」。新パーティー向けのEランク依頼だ。


「緊張する?」とレンが聞くと、「しない」とシルヴィアが答えた。しかしその手がわずかに震えていた。


「緊張していい。初めてだし」

「……少し、してる」


 出発前の広場で、シルヴィアが弓の照準練習をしていた。腰を低く構えて矢を引き——跳び退いた際にバランスを崩し、そのまま後ろへ体重が倒れた。


「きゃっ——」


 ドン、とレンの胸に背中が当たる形で着地した。


 沈黙。


「え、あ……ご、ごめんなさい」

「大丈夫ですか」

「わ、私は大丈夫だけど、あの……柔らかいって言いたいわけじゃないよ!?」


 シルヴィアが顔を赤くして自爆した。レンも当然顔が赤い。


「柔らかくはないですよ、筋肉ですから」

「そ、そういう問題じゃなくて……!」


 そのまましばらく顔を覆っていたシルヴィアだったが、気を取り直して「出発しましょう」と言い張った。


 迷宮第一層は慣れたものだった。レンのスキルとシルヴィアの弓の相性は抜群で、ゴブリン隊長を含む群れを三十分で制圧した。

 帰りのギルドで討伐証明を提出すると、エルナが嬉しそうに「最速新記録です、おめでとうございます」と言った。


 【スキル取得:電撃耐性Lv1(ゴブリン隊長の雷杖を受け、血を少量舐めた結果)】


 帰り際、シルヴィアがぽつりと言った。


「……楽しかった。冒険者になって初めて、ちゃんと楽しかった」


 それがこのパーティーの、本当の意味での始まりだった。



■ 第14話「カリンとの特訓、そして剣の答え」


 カリンから「稽古に来い」という言伝がギルドに届いていた。レンが道場を訪ねると、カリンは既に木刀を持って待ち構えていた。


「遅い。三十分待った」

「すみません、依頼が——」

「言い訳無用。かかってこい」


 その日の稽古は四時間に及んだ。カリンはレンのスキルの使い方を一つずつ分析し、「そのスキルはそこで使うな」「移動の癖を直せ」「スキルに頼りすぎると基礎が崩れる」と矢継ぎ早に指摘した。


「お前のスキルは確かに強い。だが、剣士として考えたとき——スキルが消えたとき、お前には何が残る?」


 その問いが、レンの胸に刺さった。


 昼過ぎの組み手で、カリンの道着の帯が解けかかっているのにレンは気づいた。カリンは気づいていない。しかし次の瞬間、踏み込んだ拍子に帯が完全に解けた。


 レンは咄嗟に手を伸ばし、帯の端を掴んだ。


 ……静止。


「……お前、今何を掴んでいる」


 カリンが低い声で言った。


「帯です」

「……正しい。だが放せ」

「は、はい」


 カリンは自分で帯を結び直しながら、真っ赤な顔を完全に背けた。


「……見たか」

「全力で見ていません」

「……よし。稽古を続ける」


 夕刻、稽古の後でカリンはお茶を出してくれた。


「お前に教えたいのはスキルの使い方だけじゃない。体で覚えた技術は、スキルが消えても消えない。それが剣士の答えだ」


 レンはその言葉を、大切にメモした。カリンが背を向けながら「また来い」と言った。振り返らないのは、まだ耳が赤かったからだと、レンはなんとなくわかった。



■ 第15話「フィーナの祖父と、禁断の第七層」


 フィーナから「第七層に行きたい。同行しろ」という、命令なのか依頼なのかわからない連絡が来た。レンはシルヴィアを誘い、三人で挑むことにした。


 第七層は「溶岩回廊」と呼ばれ、熱気と魔物の密度が高い危険区画だ。


 出発前、フィーナの屋敷に集合した。迎えに出てきたのは白髪の老紳士だった。


「おや、孫娘の連れか。私はグランセル。昔は少し冒険者をしておった」


 「少し」どころか伝説のSランクだが、老紳士は謙遜して笑った。レンと握手を交わしながら、ひそりと耳打ちした。


「孫娘が誰かの名前を出したのは、これが初めてだよ。それが何を意味するか——まあ、若者は気にせず行きなさい」


 フィーナが「祖父、余計なことを言わないでください」と割り込んできた。その頬がかすかに紅潮していた。


 第七層で、フィーナは酸を吐く魔物「アシッドリザード」と交戦した。魔法で仕留めたが、その際に飛び散った酸がローブの背面を大きく溶かした。


「フィーナさん、後ろ——」

「何だ」

「……マントを」


 レンは自分のマントを素早くフィーナの肩に掛けた。フィーナは一瞬固まり、それから静かに言った。


「……これは恩を着せようとしているのか」

「違います」

「……ならいい」


 頬が赤かった。シルヴィアがこっそりレンに目配せした。


 第七層の奥で、レンはアシッドリザードの処理した肉を食べた。


 【スキル取得:酸耐性Lv1 溶解爪Lv1】


 帰り道、フィーナがぽつりと言った。


「……あの地下層で、初めて怖かった。誰かがいなかったら戻れなかったかもしれない、と思った」


 それは、フィーナ・グランセルという人間が初めて口にした「弱さの告白」だった。レンは何も言わず、ただ「また一緒に行きましょう」と答えた。フィーナは前を向いたまま、かすかに頷いた。



■ 第16話「クロエの涙と、三百年前の答え」


 図書館でクロエと共同研究を続けて三週間が経った。レンはスキルの上限に関する古文書を読み続け、クロエは並行して別の文献を追っていた。


 その夜、閉館後の図書館で、クロエが静かに本を読んでいた。レンが新しい資料を棚から取ろうとしたとき——クロエが小さな声で「レン」と呼んだ。


「見つけました」


 手元の羊皮紙を指差す。レンが覗き込むと、古い文字でこう書かれていた。


『能力移譲者は孤独に限界を向かえる。しかし心から信頼を置く者が傍にいる場合、肉体は限界を超えて器を広げる。力は一人のものではなく、繋がりの中でこそ咲くものなり』


 レンは文字を読み直した。


「……信頼できる仲間がいれば、上限が広がる」

「はい。つまり——あなたには、もう仲間がいる」


 クロエは本を膝に置いて、静かに言った。その目が、光っていた。


「クロエさん……泣いてますか」

「……少し」


 クロエは眼元を指で拭った。


「友人が亡くなったとき、私は一人でここに逃げ込んで、答えを探し続けた。でも今、あなたと一緒に調べていて——はじめて、探すことが怖くなくなった。それが……嬉しくて」


 灯台の光の下、本に囲まれた静かな空間で、クロエは少しだけ泣いた。レンは何も言わずに隣に座り、次の頁をめくった。


 それで十分だと、二人にはわかっていた。



■ 第17話「ミアの料理と、嘘つきな笑顔」


 ランタン亭が最近、お客が少ない。レンはなんとなく気づいていたが、ミアはいつも通り「全然大丈夫だよ!」と笑っていた。


 その日、ミアは朝から誕生日ケーキを焼いていた。定宿のお客の誕生日を覚えていて、毎回手作りしているらしい。


「レン兄ちゃん、クリームどっちが好み? バニラと生クリームと——」


 泡立て器を動かした拍子に、クリームが飛んだ。レンの顔に直撃。


「……あはは! ごめんごめん! 拭くよ!」


 ミアが背伸びしてレンの顔を拭こうとした。そのとき、エプロンの結び目がほどけた。ミアが「あっ」と声を上げた瞬間、レンが後ろから押さえようとして——エプロンをほぼ全部引き抜いてしまった。


「ちょっ——返して!!」

「す、すみません! これは——」

「返してよぉ!!」


 厨房を二人で走り回り、最終的にレンはエプロンを床に置いて全力で厨房を出た。


 夜、ミアが一人でテーブルを拭いているのを見た。誰もいない食堂で、笑顔がない。


「ミア」


 レンが声をかけると、ミアはぱっと笑顔を作った。それが——少し、無理をしている顔だとわかった。


「どうしたの?」

「なんでもないよ! いつも通り!」


 レンはしばらく黙ってから、


「笑ってないとお客さんが来ない——って思ってるから、ずっと笑ってる?」


 ミアの表情が止まった。


「……バレた?」


 こくりとうなずいた。そのまま目に涙がたまってきた。


「宿のお金が、少し、足りなくて……でも笑ってたら、なんとかなるかなって思ってて……」


「泣いていい」


 レンの一言に、ミアは少しだけ泣いた。声を殺して、小さく。


 翌日、レンはギルドで「ランタン亭」を常宿として登録する書類を出した。依頼報酬の一部を前払いで宿代に充てる制度を使って。

 エルナが処理しながら「……優しいんですね」と言った。レンは「普通です」と答えた。



■ 第18話「セナの弟と、毒の森の決戦」


 セナから「弟のレイが森に採取に行ったまま戻らない」という連絡がレンのもとに届いた。レンはシルヴィアを連れ、セナと共に「霧毒の森」へ向かった。


 森に入ってすぐ、セナが足を滑らせて小川に転落した。


「セナさん!」


 レンが腕を掴んで引き上げると、ずぶ濡れのセナが上がってきた。白いシャツが完全に濡れ、透けている。レンは一秒見て、それから即座に目を逸らし、上着を脱いでセナの肩に掛けた。


「……見ましたか」

「見ていません」

「絶対見ましたよね」

「全力で見ていません」

「……ありがとうございます。でも絶対見ましたよね」

「本当に見ていないです」


 最後まで半信半疑のセナだったが、先に進むことを優先した。


 レイは森の奥で毒蛇型魔物「ヴェノムウィルム」に噛まれ、意識を失いかけていた。セナが解毒薬を調合し始めたが、完成まで十分はかかる。その間に毒が全身に回れば——


「俺が引き受けます」


 レンがヴェノムウィルムの傷口に指を当て、毒を自分の体内に誘導するスキルを発動した。毒耐性のある体で毒を引き受け、解毒薬が完成するまでの時間を稼ぐ。


「レン!? あなたが倒れたら——」

「俺には耐性がある。大丈夫です」


 しかし耐性があっても、これほどの量の毒は堪えた。十分後、レイの解毒が完了したとき、レンは膝をついていた。


「レン! レン……!」


 セナが飛んできて、レンの体を支えた。


 翌朝、レンはセナの家のベッドで目を覚ました。セナが隣で眠っていた——机に突っ伏して、泣き腫らした目のまま。


 レンは静かに毛布を肩にかけてやり、外に出た。



■ 第19話「エルナの秘密と、ギルドの夜残業」


 その夜、レンはギルドに置き忘れた受領書を取りに行った。閉館後だったが、エルナが残業するときは裏口の鍵を開けておくと教えてもらっていたので、そこから入った。


 受付カウンターは電灯が一つだけついていた。レンが近づくと——エルナが椅子に座ったまま机に突っ伏して眠っていた。眼鏡が机の端にある。


(起こすのは悪いな……受領書だけ取って——)


 棚の前で書類を探していると、エルナが寝言を言い始めた。


「……レンさん……気づいてましたか……私が、あなたのことを……」


 レンの手が止まった。


「……ずっと、見てて……強くなってほしくて……」


 その後は聞き取れない呟きになった。


 レンは受領書を見つけ、静かに電灯の明るさを少し落とし、棚の上着をエルナの肩にかけた。

 出口に向かいながら、耳が熱かった。


 翌朝、ギルドに行くとエルナが普段通り眼鏡をかけて「おはようございます、レンさん。昨日は残業が長くて」と言った。


「……ゆっくり眠れましたか?」


 一瞬、エルナの動きが止まった。


「……眠れました。なぜか上着が掛かっていて、暖かかったです」


 それ以上は何も言わなかった。エルナも何も聞かなかった。


 ただ、その後エルナがレンのステータスカードを記録する際、いつもより丁寧に文字を書いていた。



■ 第20話「ナナの予言と、迷宮の最深部」


 ナナは週に一度、レンが「東の湯」に来るたびに「今日はどんな色のオーラが増えましたか」と聞いた。その観察は正確で、レンが新しいスキルを取得した日は必ず当てた。


 ある日、ナナが静かに言った。


「レンさん。近いうちに、今まで出会ったことのない色のオーラが来ます。それは——とても強い、古いもの」


「具体的には?」

「黒と金が混ざった色です。迷宮の深いところにいる何か」


 それが「深層主魔獣」の予兆だと、クロエの文献で後に判明した。


 その日の帰り、ナナが「東の湯」の外の石畳で足を滑らせた。レンが通りかかったのは偶然だった。


「——っ」


 レンが腕を伸ばして受け止める。しかし、ナナが入浴後に羽織っていた薄い着物が肩からするりと落ちた。


 沈黙。


「……これは」


 ナナが真顔で言った。


「計算ではありません」


「わ、わかっています」

「偶然です」

「はい」

「……念のため、言いました」


 ナナは自分で羽織を直し、静かに礼を言い、「東の湯」に戻った。完全に落ち着いた表情だったが、その後ろ姿の耳が赤かった。


 翌週から、ナナはレンが来るたびに「予報」をするようになった。それは単なる感知スキルの報告ではなく——レンが無茶をしないための、彼女なりの心配の形だった。



■ 第21話「テファの剣と、父への誓い」


 テファから「来るな」という伝言が工房の扉に貼ってあった。

 レンは無視して中に入った。


 テファは炉の前に座って、ハンマーを膝に置いていた。叩いていなかった。


「……来るなって書いた」

「読みました。無視しました」

「……バカ」


 テファが俯いたまま言った。


「父が倒れた。入院した。今月中に工房の賃料を払えないと、取り壊される」


 静かな声だった。いつもの大きな声じゃない。


「素材の仕入れも止まっている。私一人では——」


「俺が素材を集める」


 テファが顔を上げた。


「ダンジョンで必要な素材を集めて、ここに持ってくる。テファが作る。それだけでいい」


「……慈善事業のつもりか」

「違います。テファの作った武器は本物だから。俺もシルヴィアも、これからも使いたいから」


 テファは少し黙ってから、また俯いた。肩が、小さく揺れた。


「……俺には鍛冶は無理だから、これしかできないです」


 テファがぐしっと鼻をすすった。


「……バカ。本当に、バカ」


 声が震えていた。


 翌日から、レンは毎週素材をブレイズ工房に届けた。テファは少しずつ叩く音を取り戻した。父が退院した日、工房に三人分の夕食があった。テファは「余ったから」と言ったが、三人分ちょうどだった。



■ 第22話「深層主魔獣との決戦」


 ナナの予言通り、霧の迷宮の第十層に異常が検知された。「深層主魔獣・黒金竜エボニウス」の覚醒——Sランク相当の脅威で、ギルドから緊急討伐令が出た。


 レンはシルヴィアとフィーナを誘い、カリンも「行かないとは言っていない」と自分から加わった。


 エボニウスとの戦いは三時間に及んだ。レンのスキルをすべて使い切るような激戦だった。鋼鉄の皮膚、毒耐性、気配察知、炎耐性——積み重ねてきたすべてが、今ここに意味を持った。


 最後、エボニウスが倒れた瞬間、レンも膝をついた。


「レン!!」


 シルヴィアの声。フィーナが駆け寄った。カリンが舌打ちしながら支えた。


 迷宮の出口まで運ばれると、アリアが待ち構えていた。


「すぐ治療します! 服を——」


 アリアが治療のためにレンの上着を脱がせようとした。カリンが「私が手伝う」と言って袖を掴んだ。フィーナが「邪魔だ」と言いながら反対の袖を引いた。シルヴィアが「二人とも引っ張りすぎ!」と言って背中を押した。


 四人が同時に引っ張り合い、レンの上着がパンッと音を立てて四方に弾けた。


 …………。


「「「「あ」」」」


「……服が、ない」


 レンが呆然と言った。


「こ、これは事故だ」とカリンが言い、「同意します」とフィーナが言い、「全員落ち着いて」とシルヴィアが言い、アリアが「とにかく治療させてください」と言った。


 激戦の後のこのカオスを、レンは後に「一番疲れた瞬間」と語った。


 【スキル取得:黒炎爪Lv1 竜の咆哮Lv1 再生加速Lv2(エボニウスの肉より)】



■ 第23話「ギルドランクアップと、みんなのお祝い」


 エボニウス討伐の報告から一週間後、ギルドからレンへの正式通知が届いた。


「霧島レン、ランクBへの昇格を認定します」


 エルナが読み上げながら、珍しく満面の笑みを見せた。


「Fから三ヶ月でB——前代未聞の記録です。おめでとうございます、レンさん」


 その夜、ランタン亭の食堂が貸し切りになった。ミアが一日かけて料理を作り、アリア、エルナ、セナ、カリン、リリス、フィーナ、ナナ、テファ、クロエ、イリア、シルヴィア——十二人全員が揃った。


「「「「おめでとう、レン!」」」」


 イリアが「お祝いに踊りを教えてあげる」と言い出した。レンの手を引いてステップを踏み——案の定、二人もつれて転倒した。


「また!?」と全員が叫んだ。


 その転倒にリリスが「大丈夫!?」と駆け寄って躓き、ミアが「リリスちゃん!?」と飛び込み、最終的にレンの上に三人が積み重なった。


「……なんでみんな来るんですか」


 下敷きになりながらレンが静かに言うと、食堂中が笑いに包まれた。


 夜が更けてから、少しずつ人が散り、最後はシルヴィアとレンだけが残った。


「……すごいね、レン。三ヶ月前は誰も知らなかったのに、今はこんなにたくさん」

「シルヴィアが最初から見ててくれたから」


 シルヴィアは少し目を細めて、静かに笑った。その笑顔が、あの日の泣き顔よりずっと綺麗だと、レンは思った。



■ 第24話(最終話)「俺の異名と、次の一口」


 朝のギルドに、珍しく人だかりができていた。掲示板に一枚の紙が張り出されていたからだ。


「霧島レン冒険者への公式称号授与 ——『ダンジョングルメ』」


 エルナが照れくさそうに説明した。


「エボニウス討伐後から口コミで広がって……ギルドに正式に登録申請が来たんです。魔物の肉を食べてスキルを得るその戦い方が、あまりにも独特すぎて」


 レンはしばらくその紙を眺めた。


『ダンジョングルメ』。


 かつて「外れ冒険者」と呼ばれた少年の、新しい名前。


 あの夜を思い出した。冷たい石の床。全身の痛み。誰も来ないと思った暗闇。腹が減って、魔物の肉を口に入れたとき——


(捨てていってくれてよかった、と今は思う)


 笑えるくらいに、そう思えた。


 そのとき後ろから声がした。


「レン!!」


 振り向く間もなく、アリアが飛びついてきた。続いてミアが「私も!」と横から抱きついた。リリスが「おめでとー!」と正面から。イリアが「よかったー!」と後ろから。シルヴィアが「え、みんな早い」と言いながら右腕を掴んだ。カリンが「騒がしい……」と言いながら左腕を掴んだ。


 エルナがカウンター越しに困り顔。フィーナが「品がない」と言いながら肩に手を置いた。セナが「怪我はありませんか」と心配そうに袖を掴んだ。ナナがそっと背後から「……おめでとうございます」と囁いた。テファが「離れろ、俺も行く」と全員を押しのけて入ってきた。クロエが本を抱えたまま「……おめでとう」と静かに微笑んだ。


 十二人。全員揃って、全員レンに絡まっていた。


 レンは身動きが取れなくなりながら、天井を仰いだ。


「……これ、どうやって解体するんですか」


 ギルドの受付ホールに、笑い声が弾けた。


 その後も、レンは食べ続けた。強くなり続けた。仲間が増え続けた。誰かに守ってもらうんじゃなくて——自分が守れる側になるために。


 次の一口は、もう見えている。

 だって、腹はいつだって減っているから。


 ——1期、完。


 【最終スキル一覧(1期終了時点)】

 鋼鉄の皮膚Lv4 超回復Lv3 地響きの咆哮Lv3 毒耐性Lv4 解析眼Lv3

 気配察知Lv4 暗視Lv3 風読みLv3 炎耐性Lv2 水流制御Lv2

 酸耐性Lv2 溶解爪Lv2 電撃耐性Lv2 黒炎爪Lv1 竜の咆哮Lv1

 再生加速Lv2 竜鱗Lv1(解放中)


 【1期登場ヒロイン一覧】

 ①アリア・ソレイル(20歳)回復魔法使い

 ②エルナ・ハーヴェイ(21歳)ギルド受付嬢

 ③ミア・ランタン(20歳)宿屋娘

 ④セナ・フォレスト(21歳)薬草師見習い

 ⑤カリン・アッシュブレイド(21歳)女剣士

 ⑥リリス・モーヴ(20歳)花売り娘

 ⑦フィーナ・グランセル(22歳)魔法剣士

 ⑧ナナ・ホウシン(20歳)銭湯看板娘

 ⑨テファ・ブレイズ(21歳)鍛冶屋娘

 ⑩クロエ・ノワール(22歳)図書館司書

 ⑪イリア・ベルカント(22歳)踊り子

 ⑫シルヴィア・クレスト(20歳)弓使い冒険者




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