白衣の葬送
私は教会の門前で、白い喪服を受け取った。
3日間、これを纏って過ごす屋敷に戻る。
妻として「死ぬ」ためだ。
白衣の葬送――この王国の教会に、数世紀に一度しか行われぬ古き儀礼の名である。
夫が浮気をしているからではない。夫が私を罵るからでもない。
私の心が、もう完全に死んでしまったから。
それを、教会に証明してもらうためだった。
「ヘレン・フォン・ヴィーゼンタール伯爵夫人」
老いた司祭マルクス様が、私の名を呼んだ。
「申請を受理いたします。これより3日間、貴女様は『生けるご亡骸』としてお過ごしください。3日後、屋敷にて霊視の儀をもって、貴女様の御心の真否を確かめます」
「真否――と申しますのは」
「貴女様の心が、本当に夫君に対して死んでいるかどうか、ということでございます」
私はかすかに頷いた。
「もし、確かに死んでいると認められた場合は」
「教会は、貴女様の婚姻を解消いたします。当然、夫君のご同意は必要ございません」
これが、白衣の葬送だった。
***
私が結婚したのは、21歳の春だった。
ヴィーゼンタール伯爵家は古い家柄で、夫アルブレヒトは3歳年上の当主。婚姻自体は政略だったが、最初の半年だけ、私は彼を信じていた。
信じることをやめたのは、結婚1年目の冬。
夫がザクセン侯爵令嬢オクタヴィア様を、屋敷の客間に連れ込んだ夜だった。
「お前は気にしなくていい。妻は妻、客は客だ」
夫はそう言って、私の前を素通りした。
2年目の秋には、もう諦めていた。
3年目の冬には、夫の名を耳にしても、何も感じなくなった。
4年目の春には、屋敷の中ですれ違っても、目を合わせる気すら起きなくなった。
5年目の春が来た朝――その日、夫は朝食の卓で、オクタヴィア様からの手紙を堂々と開いた。
「読み上げてやろうか、ヘレン。お前にもわかるように」
「結構ですわ」
「お前は色のない女だ。せめて愛人の文字くらい眺めて、女らしさを学ぶといい」
義母である先代伯爵夫人は、隣で微笑んでいた。
「ヘレンさん、それが妻の務めですよ。アルブレヒトはまだお若いのだから」
社交界の貴婦人方も、口を揃えてそう言った。
――妻の務め。
――まだお若いのだから。
――子さえ産めば、いずれ落ち着かれます。
その朝、私の中で、なにかが完全に終わった。
怒りも、悲しみも、もう湧かなかった。
胸の真ん中に、冷たい空白だけが残った。
私は、自分の心臓に手を当ててみた。
脈は確かに打っていた。
けれど、それは「妻」としての脈ではなかった。
***
白衣の葬送――その儀礼の存在を私が知ったのは、亡くなった祖父の書斎で、古い教会法典を見つけたときだった。
《妻の心が、夫に対して完全に死した場合、教会はこれを霊視によって証明し、婚姻を解消する権を有す》
《申請者の名を、夫君に告げる必要はなし》
《申請の事実を、夫君に告げる必要もなし》
《教会の霊視官が屋敷を訪れる日まで、儀礼は秘される》
夫の同意は要らない。
夫の知らぬ間に、儀礼は始まる。
私は法典を閉じた。
そして、教会へ向かう馬車を、自分で手配した。
***
申請から3日後の朝。
屋敷の玄関に、教会の馬車が止まった。
「アルブレヒト様。教会から、お客様でございます」
執事の声に、夫は怪訝そうに眉を寄せた。
オクタヴィア様も、隣で首を傾げていた。
「教会だと? なぜだ」
「霊視官様が、奥様に御用とのことでございます」
夫は鼻で笑った。
「ヘレンが教会に何の用がある。神官の暇つぶしか」
扉が開いた。
現れた人物に、夫の笑みが凍った。
深い藍色の祭服。胸には金の十字架。30代前半と見える、整った顔立ち。
異例の若さで枢機卿に列せられたと、王都では誰もが知る人物。兄が以前、そう私に語ったことがあった。
レナルド・ド・サン=クレール枢機卿だった。
「ヴィーゼンタール伯爵閣下、ご機嫌麗しゅう」
夫が慌てて立ち上がった。
枢機卿といえば、王国の宗教階級の最上位の一角である。地方の伯爵家を、わざわざ訪れる位ではない。
「猊下、なぜここに……」
「霊視の儀のためでございます。伯爵夫人のご申請に基づき」
「申請? ヘレンが何を――」
夫が私を振り返った。
私は、ただ黙って茶器を置いた。
レナルド・ド・サン=クレール。
その名を、私は知っていた。
14年前――まだ私が11歳の頃、亡き祖父の側に仕えていた、18歳ばかりの青年。
書斎の窓辺で、いつも書類に目を通していた、静かな人だった。
彼が私の名を覚えているかどうかは、わからなかった。
「白衣の葬送、と申します」
レナルド様が、淡々と告げた。
夫の顔から、血の気が引いていった。
***
霊視の儀は、屋敷の聖堂で行われた。
夫とオクタヴィア様、義母、そして兄フリードリヒ――兄は教会から知らせを受けて、急ぎ駆けつけてくれていた――が、儀礼の証人として並んだ。
私は祭壇の前に立った。
白衣の喪服が、燭台の灯に照らされて、薄く光っていた。
レナルド様が、私の前に進み出た。
「ヘレン・フォン・ヴィーゼンタール伯爵夫人」
「はい」
「これより、貴女様の御心の真否を、霊視によって確かめます。御心の臓に、私の手を翳すことを、お許しいただけますか」
「お願いいたします」
レナルド様の手が、私の胸の前に翳された。
触れてはいない。手のひらが、指3本分ほど離れた空間に置かれている。
彼の灰青色の瞳が、ゆっくりと閉じられた。
長い、沈黙だった。
燭台の炎が一度、揺れた。
やがて、彼が瞳を開いた。
「閣下に、申し上げます」
夫が一歩前に出た。
「な、何だ」
「伯爵夫人ヘレン様の御心は――」
レナルド様の声は、静かだった。
まるで天気のことを語るように。
「夫君に対しては、確かに、死んでおられます」
夫が口を開いた。
何か言おうとして、言葉が出てこないようだった。
義母が立ち上がりかけた。
「猊下、お待ちください。それは何かの間違いで――」
「間違いはございません」
レナルド様は、義母を見もしなかった。
「霊視に、間違いはございません。御心の臓は、夫君に対して、もう3年半、動いておりません」
オクタヴィア様の顔が、白くなった。
3年半――それは、彼女が屋敷に通い始めた、ちょうどその時期だった。
「では、猊下」
夫が震える声で言った。
「では、どうしろと――」
「閣下」
レナルド様が、夫の言葉を遮った。
「死者には、離縁が要りません」
聖堂が、静まり返った。
燭台の炎の音すら、聞こえないほどに。
「死者は、生者から離れる必要がございません。なぜなら、すでに離れているからでございます。生者と死者は、もはや、同じ卓を囲む関係ではないのです」
「猊下、しかし、私の妻は、ここに、生きて――」
「閣下」
レナルド様の声は、揺るぎなかった。
「肉体に、罪はございません。心が、夫君に対して死んでいる。それだけのことでございます。教会は、この事実を、確認したまでのこと」
「では、では、私はどうすれば、心を取り戻させれば」
「取り戻すことは、できません」
短い、断定だった。
「死者は、生者の領域には戻りません。3年半の間に、貴方様が為さらねばならなかったことを、貴方様は為さらなかった。それだけでございます」
夫が、よろめいた。
オクタヴィア様が、彼を支えようとして、伸ばした手を、途中で止めた。
兄が、私を見た。
兄の目には、なんとも言えぬ光が宿っていた。
怒りでも、同情でもなく――ただ、深い、静かな了解の光だった。
***
その夜から、私は白衣を纏って屋敷で過ごした。
3日間、私は死者だった。
食事は、教会から運ばれる聖餅と水だけ。
夫の食卓には、もう着かなかった。
夫は、何度も私の部屋を訪れた。
「ヘレン、話を聞いてくれ」
「ヘレン、頼む、もう一度だけ」
「ヘレン、お前を妻として、ちゃんと迎え直す」
私は、振り返らなかった。
死者は、答えない。
それが、白衣の葬送の作法だった。
オクタヴィア様は、2日目の朝には、屋敷から姿を消していた。
侯爵家の馬車が、夜中に音もなく去っていったと、侍女が囁いた。
義母も、私の前から消えた。
「妻の務め」を説いた口元は、もう、私の前では開かれなかった。
***
3日目の朝。
教会の大聖堂で、解消の宣言が行われた。
マルクス老司祭が、祭壇の前に立った。
レナルド様が、その横に立った。
兄フリードリヒが、私の隣に立っていた。
「神の御名において、ここに宣する」
マルクス様の声が、聖堂に響いた。
「ヘレン・フォン・ヴィーゼンタール伯爵夫人と、アルブレヒト・フォン・ヴィーゼンタール伯爵閣下との婚姻は、本日この時をもって、解消される」
「ヘレン様は、本日より、ヴィーゼンタール家の籍より除かれる。生家の姓に戻られるか、別の姓を選ばれるかは、後日、本人の御意思に任される」
「夫君の同意は、要らぬ。これは、霊視によって確認されし、心の真の事実に基づく宣言である」
夫が、聖堂の隅で、肩を震わせていた。
もう、私の方は見られないようだった。
社交界では、後に、こう囁かれることになる。
――ヴィーゼンタール伯爵は、教会に妻を奪われた。
――いや、奪われたのではない。霊視で、心の死が証明されたのだ。
――3年半の間、夫人の心は、すでに死んでいた。
――それに気づかなかった夫君が、すべてを失った。
ザクセン侯爵家は、オクタヴィア様の婚約を、その月のうちに別家へ取り決めた。
ヴィーゼンタール家との縁は、二度と戻ることはなかった。
***
宣言の後、私は教会の門前まで、白衣のまま歩いた。
春の朝の太陽が、眩しかった。
3年半ぶりに、私は太陽を、まっすぐに見た。
兄が、馬車を待たせていた。
「ヘレン」
兄が、低い声で言った。
「すまなかった。お前の心が死ぬまで、俺は、何もできなかった」
「兄様」
私は微笑んだ。
「兄様のせいではございません。死は、誰にも止められぬものですから」
兄は、ゆっくりと頷いた。
馬車に乗り込む前に、私は一度だけ、振り返った。
大聖堂の階段の上に、レナルド・ド・サン=クレール枢機卿が、立っていた。
藍色の祭服が、朝の光に染まっていた。
目が合った。
彼は、何も言わなかった。
ただ、深く、頷いた。
私も、頷き返した。
言葉は、要らなかった。
なぜか、要らないのだと、わかっていた。
***
半年が、過ぎた。
私は、生家ヴェルマール侯爵家に戻り、兄の領地の片隅にある離れで、静かに暮らしていた。
白衣はもう、纏っていなかった。
代わりに、青いドレスを誂えた。
深い、夜明け前の空のような色だった。
「色のない女」と、夫は私を呼んだ。
けれど私は、白衣の3日間で、自分が決して色のない女ではなかったことを知った。
ただ、夫の前では、色を見せる必要が、なかっただけだった。
ある朝、離れの庭で本を読んでいると、馬の蹄の音が聞こえた。
顔を上げると、見慣れぬ私服姿の男性が、門の前に立っていた。
けれど、その立ち姿には、見覚えがあった。
レナルド・ド・サン=クレール。
藍色の祭服は、もう着ていなかった。
代わりに、簡素な黒の旅装に、白いシャツ。
胸の十字架も、外されていた。
「猊下――」
「もう、猊下ではございません」
彼は、静かに微笑んだ。
「先月、枢機卿の職を辞しました」
「なぜ……」
「ヘレン様」
彼は、門の内側に、一歩、踏み入った。
「私が貴女様にお目にかかりましたのは、14年前――貴女様が11歳の頃でございます」
「……はい」
「貴女様のお祖父様が、私を屋敷に呼んでくださっておりました。書斎で書類を読んでおりますと、時折、窓の向こうの庭で、貴女様が薔薇に水を遣っておられる姿が、見えました」
「……」
「貴女様がご結婚なさると伺ったのは、私が28歳の年。私は、その月のうちに、教会に身を投じました。俗世にいては、貴女様の幸せを願うことが、難しかったからでございます」
私は、ゆっくりと立ち上がった。
「霊視の儀の日――」
「はい」
「あなたは、私の心を、視ましたね」
「視ました」
「私の心は、夫に対しては、確かに死んでおりました」
「はい」
「けれど、他の方に対しては――」
彼は、目を伏せた。
長い、長い沈黙の後、ゆっくりと顔を上げた。
「生きておられました」
「あなたは」
私は、微笑んだ。
「あなたは、それを、聖堂では、おっしゃらなかった」
「申し上げる必要が、ございませんでした。教会の儀礼に、必要なのは、夫君に対する御心の真否だけでございます。それ以外を口にすれば、儀礼の純粋を、汚すことになります」
「では」
私は、青いドレスの裾を、軽く持ち上げた。
「では、今、おっしゃってくださいますか」
「ヘレン様」
彼が、もう一歩、近づいた。
「ずっと、見ておりました」
「はい」
「14年、ずっとでございます」
「はい」
「もし、お許しいただけるならば――」
離れの卓には、2つの朝食が用意されていた。
兄が、彼の到着を、私に告げぬまま、手配してくれていたらしかった。
私は、レナルドの手を取った。
「お入りください。朝食が、冷めてしまいますわ」
彼は、灰青色の瞳を、わずかに細めた。
それから、ゆっくりと頷いた。
春の朝の光が、青いドレスと、黒い旅装を、同じ柔らかさで包んでいた。
卓を囲んで朝食を共にする――それが、生者と生者の関係なのだと、私は静かに知ったのだった。
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