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白衣の葬送

作者: 夢見叶
掲載日:2026/05/03

 私は教会の門前で、白い喪服を受け取った。


 3日間、これを纏って過ごす屋敷に戻る。

 妻として「死ぬ」ためだ。


 白衣の葬送――この王国の教会に、数世紀に一度しか行われぬ古き儀礼の名である。


 夫が浮気をしているからではない。夫が私を罵るからでもない。

 私の心が、もう完全に死んでしまったから。

 それを、教会に証明してもらうためだった。


「ヘレン・フォン・ヴィーゼンタール伯爵夫人」


 老いた司祭マルクス様が、私の名を呼んだ。


「申請を受理いたします。これより3日間、貴女様は『生けるご亡骸』としてお過ごしください。3日後、屋敷にて霊視の儀をもって、貴女様の御心の真否を確かめます」


「真否――と申しますのは」


「貴女様の心が、本当に夫君に対して死んでいるかどうか、ということでございます」


 私はかすかに頷いた。


「もし、確かに死んでいると認められた場合は」


「教会は、貴女様の婚姻を解消いたします。当然、夫君のご同意は必要ございません」


 これが、白衣の葬送だった。


 ***


 私が結婚したのは、21歳の春だった。


 ヴィーゼンタール伯爵家は古い家柄で、夫アルブレヒトは3歳年上の当主。婚姻自体は政略だったが、最初の半年だけ、私は彼を信じていた。


 信じることをやめたのは、結婚1年目の冬。

 夫がザクセン侯爵令嬢オクタヴィア様を、屋敷の客間に連れ込んだ夜だった。


「お前は気にしなくていい。妻は妻、客は客だ」


 夫はそう言って、私の前を素通りした。


 2年目の秋には、もう諦めていた。

 3年目の冬には、夫の名を耳にしても、何も感じなくなった。

 4年目の春には、屋敷の中ですれ違っても、目を合わせる気すら起きなくなった。


 5年目の春が来た朝――その日、夫は朝食の卓で、オクタヴィア様からの手紙を堂々と開いた。


「読み上げてやろうか、ヘレン。お前にもわかるように」


「結構ですわ」


「お前は色のない女だ。せめて愛人の文字くらい眺めて、女らしさを学ぶといい」


 義母である先代伯爵夫人は、隣で微笑んでいた。


「ヘレンさん、それが妻の務めですよ。アルブレヒトはまだお若いのだから」


 社交界の貴婦人方も、口を揃えてそう言った。


 ――妻の務め。

 ――まだお若いのだから。

 ――子さえ産めば、いずれ落ち着かれます。


 その朝、私の中で、なにかが完全に終わった。

 怒りも、悲しみも、もう湧かなかった。


 胸の真ん中に、冷たい空白だけが残った。


 私は、自分の心臓に手を当ててみた。

 脈は確かに打っていた。

 けれど、それは「妻」としての脈ではなかった。


 ***


 白衣の葬送――その儀礼の存在を私が知ったのは、亡くなった祖父の書斎で、古い教会法典を見つけたときだった。


 《妻の心が、夫に対して完全に死した場合、教会はこれを霊視によって証明し、婚姻を解消する権を有す》


 《申請者の名を、夫君に告げる必要はなし》


 《申請の事実を、夫君に告げる必要もなし》


 《教会の霊視官が屋敷を訪れる日まで、儀礼は秘される》


 夫の同意は要らない。

 夫の知らぬ間に、儀礼は始まる。


 私は法典を閉じた。

 そして、教会へ向かう馬車を、自分で手配した。


 ***


 申請から3日後の朝。

 屋敷の玄関に、教会の馬車が止まった。


「アルブレヒト様。教会から、お客様でございます」


 執事の声に、夫は怪訝そうに眉を寄せた。

 オクタヴィア様も、隣で首を傾げていた。


「教会だと? なぜだ」


「霊視官様が、奥様に御用とのことでございます」


 夫は鼻で笑った。


「ヘレンが教会に何の用がある。神官の暇つぶしか」


 扉が開いた。

 現れた人物に、夫の笑みが凍った。


 深い藍色の祭服。胸には金の十字架。30代前半と見える、整った顔立ち。


 異例の若さで枢機卿に列せられたと、王都では誰もが知る人物。兄が以前、そう私に語ったことがあった。


 レナルド・ド・サン=クレール枢機卿だった。


「ヴィーゼンタール伯爵閣下、ご機嫌麗しゅう」


 夫が慌てて立ち上がった。

 枢機卿といえば、王国の宗教階級の最上位の一角である。地方の伯爵家を、わざわざ訪れる位ではない。


「猊下、なぜここに……」


「霊視の儀のためでございます。伯爵夫人のご申請に基づき」


「申請? ヘレンが何を――」


 夫が私を振り返った。

 私は、ただ黙って茶器を置いた。


 レナルド・ド・サン=クレール。

 その名を、私は知っていた。


 14年前――まだ私が11歳の頃、亡き祖父の側に仕えていた、18歳ばかりの青年。

 書斎の窓辺で、いつも書類に目を通していた、静かな人だった。


 彼が私の名を覚えているかどうかは、わからなかった。


「白衣の葬送、と申します」


 レナルド様が、淡々と告げた。


 夫の顔から、血の気が引いていった。


 ***


 霊視の儀は、屋敷の聖堂で行われた。


 夫とオクタヴィア様、義母、そして兄フリードリヒ――兄は教会から知らせを受けて、急ぎ駆けつけてくれていた――が、儀礼の証人として並んだ。


 私は祭壇の前に立った。

 白衣の喪服が、燭台の灯に照らされて、薄く光っていた。


 レナルド様が、私の前に進み出た。


「ヘレン・フォン・ヴィーゼンタール伯爵夫人」


「はい」


「これより、貴女様の御心の真否を、霊視によって確かめます。御心の臓に、私の手を翳すことを、お許しいただけますか」


「お願いいたします」


 レナルド様の手が、私の胸の前に翳された。

 触れてはいない。手のひらが、指3本分ほど離れた空間に置かれている。


 彼の灰青色の瞳が、ゆっくりと閉じられた。


 長い、沈黙だった。


 燭台の炎が一度、揺れた。


 やがて、彼が瞳を開いた。


「閣下に、申し上げます」


 夫が一歩前に出た。


「な、何だ」


「伯爵夫人ヘレン様の御心は――」


 レナルド様の声は、静かだった。

 まるで天気のことを語るように。


「夫君に対しては、確かに、死んでおられます」


 夫が口を開いた。

 何か言おうとして、言葉が出てこないようだった。


 義母が立ち上がりかけた。


「猊下、お待ちください。それは何かの間違いで――」


「間違いはございません」


 レナルド様は、義母を見もしなかった。


「霊視に、間違いはございません。御心の臓は、夫君に対して、もう3年半、動いておりません」


 オクタヴィア様の顔が、白くなった。

 3年半――それは、彼女が屋敷に通い始めた、ちょうどその時期だった。


「では、猊下」


 夫が震える声で言った。


「では、どうしろと――」


「閣下」


 レナルド様が、夫の言葉を遮った。


「死者には、離縁が要りません」


 聖堂が、静まり返った。

 燭台の炎の音すら、聞こえないほどに。


「死者は、生者から離れる必要がございません。なぜなら、すでに離れているからでございます。生者と死者は、もはや、同じ卓を囲む関係ではないのです」


「猊下、しかし、私の妻は、ここに、生きて――」


「閣下」


 レナルド様の声は、揺るぎなかった。


「肉体に、罪はございません。心が、夫君に対して死んでいる。それだけのことでございます。教会は、この事実を、確認したまでのこと」


「では、では、私はどうすれば、心を取り戻させれば」


「取り戻すことは、できません」


 短い、断定だった。


「死者は、生者の領域には戻りません。3年半の間に、貴方様が為さらねばならなかったことを、貴方様は為さらなかった。それだけでございます」


 夫が、よろめいた。

 オクタヴィア様が、彼を支えようとして、伸ばした手を、途中で止めた。


 兄が、私を見た。

 兄の目には、なんとも言えぬ光が宿っていた。


 怒りでも、同情でもなく――ただ、深い、静かな了解の光だった。


 ***


 その夜から、私は白衣を纏って屋敷で過ごした。


 3日間、私は死者だった。


 食事は、教会から運ばれる聖餅と水だけ。

 夫の食卓には、もう着かなかった。


 夫は、何度も私の部屋を訪れた。


「ヘレン、話を聞いてくれ」


「ヘレン、頼む、もう一度だけ」


「ヘレン、お前を妻として、ちゃんと迎え直す」


 私は、振り返らなかった。


 死者は、答えない。

 それが、白衣の葬送の作法だった。


 オクタヴィア様は、2日目の朝には、屋敷から姿を消していた。

 侯爵家の馬車が、夜中に音もなく去っていったと、侍女が囁いた。


 義母も、私の前から消えた。

 「妻の務め」を説いた口元は、もう、私の前では開かれなかった。


 ***


 3日目の朝。

 教会の大聖堂で、解消の宣言が行われた。


 マルクス老司祭が、祭壇の前に立った。

 レナルド様が、その横に立った。

 兄フリードリヒが、私の隣に立っていた。


「神の御名において、ここに宣する」


 マルクス様の声が、聖堂に響いた。


「ヘレン・フォン・ヴィーゼンタール伯爵夫人と、アルブレヒト・フォン・ヴィーゼンタール伯爵閣下との婚姻は、本日この時をもって、解消される」


「ヘレン様は、本日より、ヴィーゼンタール家の籍より除かれる。生家の姓に戻られるか、別の姓を選ばれるかは、後日、本人の御意思に任される」


「夫君の同意は、要らぬ。これは、霊視によって確認されし、心の真の事実に基づく宣言である」


 夫が、聖堂の隅で、肩を震わせていた。

 もう、私の方は見られないようだった。


 社交界では、後に、こう囁かれることになる。


 ――ヴィーゼンタール伯爵は、教会に妻を奪われた。


 ――いや、奪われたのではない。霊視で、心の死が証明されたのだ。


 ――3年半の間、夫人の心は、すでに死んでいた。


 ――それに気づかなかった夫君が、すべてを失った。


 ザクセン侯爵家は、オクタヴィア様の婚約を、その月のうちに別家へ取り決めた。

 ヴィーゼンタール家との縁は、二度と戻ることはなかった。


 ***


 宣言の後、私は教会の門前まで、白衣のまま歩いた。


 春の朝の太陽が、眩しかった。

 3年半ぶりに、私は太陽を、まっすぐに見た。


 兄が、馬車を待たせていた。


「ヘレン」


 兄が、低い声で言った。


「すまなかった。お前の心が死ぬまで、俺は、何もできなかった」


「兄様」


 私は微笑んだ。


「兄様のせいではございません。死は、誰にも止められぬものですから」


 兄は、ゆっくりと頷いた。


 馬車に乗り込む前に、私は一度だけ、振り返った。


 大聖堂の階段の上に、レナルド・ド・サン=クレール枢機卿が、立っていた。

 藍色の祭服が、朝の光に染まっていた。


 目が合った。


 彼は、何も言わなかった。

 ただ、深く、頷いた。


 私も、頷き返した。


 言葉は、要らなかった。

 なぜか、要らないのだと、わかっていた。


 ***


 半年が、過ぎた。


 私は、生家ヴェルマール侯爵家に戻り、兄の領地の片隅にある離れで、静かに暮らしていた。


 白衣はもう、纏っていなかった。

 代わりに、青いドレスを誂えた。

 深い、夜明け前の空のような色だった。


 「色のない女」と、夫は私を呼んだ。

 けれど私は、白衣の3日間で、自分が決して色のない女ではなかったことを知った。


 ただ、夫の前では、色を見せる必要が、なかっただけだった。


 ある朝、離れの庭で本を読んでいると、馬の蹄の音が聞こえた。


 顔を上げると、見慣れぬ私服姿の男性が、門の前に立っていた。

 けれど、その立ち姿には、見覚えがあった。


 レナルド・ド・サン=クレール。


 藍色の祭服は、もう着ていなかった。

 代わりに、簡素な黒の旅装に、白いシャツ。

 胸の十字架も、外されていた。


「猊下――」


「もう、猊下ではございません」


 彼は、静かに微笑んだ。


「先月、枢機卿の職を辞しました」


「なぜ……」


「ヘレン様」


 彼は、門の内側に、一歩、踏み入った。


「私が貴女様にお目にかかりましたのは、14年前――貴女様が11歳の頃でございます」


「……はい」


「貴女様のお祖父様が、私を屋敷に呼んでくださっておりました。書斎で書類を読んでおりますと、時折、窓の向こうの庭で、貴女様が薔薇に水を遣っておられる姿が、見えました」


「……」


「貴女様がご結婚なさると伺ったのは、私が28歳の年。私は、その月のうちに、教会に身を投じました。俗世にいては、貴女様の幸せを願うことが、難しかったからでございます」


 私は、ゆっくりと立ち上がった。


「霊視の儀の日――」


「はい」


「あなたは、私の心を、視ましたね」


「視ました」


「私の心は、夫に対しては、確かに死んでおりました」


「はい」


「けれど、他の方に対しては――」


 彼は、目を伏せた。


 長い、長い沈黙の後、ゆっくりと顔を上げた。


「生きておられました」


「あなたは」


 私は、微笑んだ。


「あなたは、それを、聖堂では、おっしゃらなかった」


「申し上げる必要が、ございませんでした。教会の儀礼に、必要なのは、夫君に対する御心の真否だけでございます。それ以外を口にすれば、儀礼の純粋を、汚すことになります」


「では」


 私は、青いドレスの裾を、軽く持ち上げた。


「では、今、おっしゃってくださいますか」


「ヘレン様」


 彼が、もう一歩、近づいた。


「ずっと、見ておりました」


「はい」


「14年、ずっとでございます」


「はい」


「もし、お許しいただけるならば――」


 離れの卓には、2つの朝食が用意されていた。

 兄が、彼の到着を、私に告げぬまま、手配してくれていたらしかった。


 私は、レナルドの手を取った。


「お入りください。朝食が、冷めてしまいますわ」


 彼は、灰青色の瞳を、わずかに細めた。

 それから、ゆっくりと頷いた。


 春の朝の光が、青いドレスと、黒い旅装を、同じ柔らかさで包んでいた。


 卓を囲んで朝食を共にする――それが、生者と生者の関係なのだと、私は静かに知ったのだった。


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