第93話:泥を落とした策士、つかの間の休息
パリの城門を抜けたルブランが馬を向けたのは、パレ・ロワイヤル近くにある高級娼婦クルチザンヌの館だった。
久しぶりの訪問に、薄衣を纏って現れたセシルは、泥にまみれたルブランを見て鼻を鳴らす。
「……まあ。どこの野良犬かと思ったら。私のベッドを汚す気?」
「相変わらず手厳しいな。……悪いが、死ぬほど熱い風呂を頼む。それと、預けていた『仕事着』を。」
いつもとは違うルブランの瞳に宿る鋭さに、セシルは言葉を飲み込み、黙って奥へと通した。
広々とした浴室に、湯気が立ち込める。
ルブランが湯船に身を沈め、凍てついた四肢がようやく解き放たれた時、セシルもまた、しなやかな体を湯船へと滑り込ませた。
彼女はルブランの背後に回り、その広い背中の汚れを優しく拭いながら、耳元で甘く、だが冷徹な声を落とす。
「……随分と無茶をしたのね、ルブラン。らしくないわね」
「ピレネーの雪の女王に、少し手荒い歓迎を受けてな。……それよりセシル。この街の『毒』の回り具合はどうだ?」
ルブランはセシルに向き直り、その細い腰を引き寄せ、彼女の体温と情報を受け取る。
「今のパリは最悪よ。閣下ボナパルトはもう何日も眠っていないそうよ。昨日は執務室で、側近の顔にインク壺を投げつけたんですって。暗殺の恐怖が、あの天才を狂犬に変えつつあるわ」
「眠らぬ狂犬、か。……なら、餌は慎重に選ばないとな」
「……あのクレオールの女も、あの人の荒れように怯えて、兆しだの前触れだの、そんな話ばかり集めているらしいわ。私の父や母は、首を撥ねられた時でさえ、もっと気高く微笑んでいたというのに。無様に震えて愚かな夢占いや縁起頼みなんて、品性のかけらもないわね」
セシルがルブランの腕を、跡が残るほど強く噛んだ。
「……ふっ、美しい毒だな」
ルブランは顔をしかめることもなく、腕に走る痛みを愛おしむように呟いた。
湯気の中で、彼女の瞳だけが復讐を遂げた後のような冷たい光を放っていた。
セシルの指先が、ルブランの口元をなぞる。
「パリの市門がいつ閉まってもおかしくないわ。……ねえ、ルブラン。貴方、そんな狂犬と震える女の巣穴に、わざわざ首を突っ込みに行くの? そんなお人好し(ハズレくじ引き)だったかしら?」
ルブランはふっと口角を上げ、彼女の手を掴んで引き寄せた。
「ああ。狂犬には、とびきり強烈な『躾け(しつけ)』が必要だろう?」
数時間後、完璧にプレスされた公使服を纏う。
鏡の中に立つのは、さっきまでのドブ鼠ではなく、隙のない微笑を浮かべた「帝国の策士」だ。
布で厳重に包まれた「二本の漆黒の瓶」を、ルブランは宝石のように大切に抱えた。
「……さぁナギ殿。盤面を返す時間だ。この劇薬、使わせて貰おうか」
「……その顔。シャルル提督でもない、誰か別の女に『毒』でも盛られたのかしら?」
「次はお前の好きな菓子店で手土産を用意してくるよ!」
「いらないわよ。…食えない男は、私の趣味じゃないの」
セシルの鋭い指摘を背中で受け流し、ルブランは夜のパリへと踏み出した。




