第92話:国境の街の喧騒と野望の胎動
ピレネーの雪嶺を越え、馬を潰し、命を少しだけ削りながら、ルブランはようやくフランス側の国境の街へと滑り込んだ。
公使としての資格を持つ者が泊まれる、厳重な警備の宿。
そこは、死の白銀の世界から一転して、熱に浮かされたような情報の坩堝だった。
「……はぁ、ようやく文明の匂いだ。残念だがピレネーの雪の女王は俺は好みでは無かったのだな…」
ルブランは泥と雪にまみれた変装用の外套を脱ぎ捨て、温かな暖炉の火に当たりながら、差し出された安酒を一口啜った。
喉を焼くアルコールの刺激が、胸ポケットで空になった「あの劇薬」の熱を思い出させる。
(本当に劇薬だったな……ふっ)
宿の食堂からは、各都市から集まってきた役人や商人たちの、ひそひそとした、だが隠しきれない興奮を帯びた声が漏れ聞こえてきた。
「おい、聞いたか? パリの市門がいつ閉まってもおかしくないらしい」
「またか……。イギリスの刺客が、執政閣下の喉元まで迫っているという噂は本当だったんだな」
(イギリスは、海で勝てないからといって、陸で直接首を獲りにきた。奴が必死に私を追ってきたのも、この計画と連動していたのかもしれないな……)
ルブランはグラスを傾けながら考える。給仕から渡された、新聞を広げ端から端まで目を走らせる。
活字の裏側に潜む「毒」を読み解き、彼は小さく、愉しげに鼻を鳴らした。
(……ふむ。つまりパリの現状は、こういうことか)
王党派のカドゥーダルが市内に潜伏、暗殺計画は最終段階。
ボナパルトは猜疑心に狂い、極度の睡眠不足で「狂犬」化。
フーシェの秘密警察が血眼で、誰もが「裏切り者」に見える極限状態。
(ふ……追い込まれているな、未来の皇帝陛下は)
政治も、精神も、安全も。すべてが「詰み」の一歩手前。
もし今、ボナパルトが暗殺されれば、フランスは再び大混乱に陥る。
シャルルの行動も、ナギ殿の安全も、すべてが泡と消える。
「……ただのハズレくじを引いたつもりが、大ハズレだったな…」
ルブランは自嘲気味に呟いた。
ボナパルトは今、極度の睡眠不足と猜疑心の中にいるはずだ。
そんな男に、ナギ殿の新レシピと言えども「黒い液体」を飲ませるのは至難の業か。
だが、だからこそ盤面をひっくり返すような『完璧な信頼』を勝ち取れれば、最後に面白いじゃないか…。
(暗殺者の毒より先に、ナギ殿の劇薬をその喉に叩き込んでやるとしよう)
国境の街で数時間の仮眠を取ったルブランは、すぐさま駅馬を仕立て、北へと走った。
ボルドーを抜け、オルレアンを過ぎ、ひたすら泥を跳ね飛ばしながら馬を乗り換える。
「…俺の尻、頑張れよっと…」
三日三晩、ただ「漆黒の瓶」を抱えて走り続けた。
――バイヨンヌを出て四日目の夕刻。
ついに、冬の霧に包まれたパリの城門がその姿を現した。
そこには、かつての華やかさは微塵もなく、銃剣を構えた憲兵隊と、冷徹な目をした秘密警察の男たちが目を光らせていた。
「身分証を」
ルブランは内心の苛立ちを隠し、公使としての通行許可証を差し出す。
憲兵はそれを入念に調べ、次にルブランの鞄に手をかけた。
「……その瓶は何だ。毒薬か、あるいは爆薬の原料か」
(やれやれ…最高に面倒くさいな)
憲兵の無骨な指が、布に包まれた瓶に触れようとした。
その瞬間、ルブランは冷ややかな、それでいて酷く愉しげな声を上げた。
「おいおい、よせ。その指を失いたくなければな」
「……あ? 何だと?」
「それはカディスの『女神』が作り、我が提督が閣下のために用意させたレモンジュースの特別品だ。……君も噂くらいは聞いているだろう?」
憲兵の動きが止まる。
カディスの海でイギリス軍への奇襲に成功し、兵たちの喉を潤す黄金のジュースを作るという「東洋の女神」の噂。
そして何より、パリの執務室に籠もりきりのボナパルト閣下が、その到着を今か今かと心待ちにしているという話は、宮殿警護の間では周知の事実だった。
「……閣下が、楽しみにしている……」
「そうだ。いいか、よく考えろ。閣下は今、暗殺の噂で酷く神経を尖らせておいでだ。……もし、届いた瓶の封が解かれていたり、毒味のせいで中身が一口でも減っていたら、あの方はどう思われるかな?」
ルブランは憲兵の耳元で、死神のように優しく囁いた。
「『私の楽しみを奪ったのは、どこのどいつだ?』――そう仰って、犯人を暗殺者の仲間としてフーシェの拷問室へ送るだろうな。……さあ、検品を続けたまえ。私は止めないよ?」
憲兵の顔から血の気が引き、指が目に見えて震えだした。
ボナパルトの苛烈な性格を知っていれば、その「お楽しみ」を汚す勇気などあるはずがない。
「……し、失礼した! ヴィルヌーブ提督とシャルル提督の特使、ルブラン公使とお見受けする。即刻、通れ!」
憲兵は瓶から飛びのくように手を離し、全力の敬礼で道を開けた。
「忠告痛み入るよ。……ああ、馬をもう一頭用意してくれるかな? 閣下をお待たせしたくないのでね」
ルブランは鼻で笑い、悠然と城門をくぐり抜けた。
(ナギ殿……あんたの噂は最高の盾だ。さあ、この『減らしてはいけない劇薬』を、閣下の喉に直接叩き込んでやるとしようか)




