第91話:雪嶺の劇薬、あるいは女神の残り香
――遡ること、あの雪嶺での出来事――
深い雪の底。
ルブランの意識を呼び戻したのは、顔に触れる冷徹な雪の感触ではなく、共に斜面を滑落した馬の、急速に失われていく体温だった。
「……っ、はぁ、……生きて、るのか。俺は」
肺に突き刺さるような冷気を吸い込み、ルブランは這い出した。
すぐ傍らで、馬が力尽きようとしている。
ルブランは震える手でその首筋を撫でた。
「……すまない。……そして、ありがとうな。お前の温かさ、無駄にはせんよ」
感傷に浸る時間はなかった。
体温が尽きれば、次は自分がこの白銀の墓標に加わる番だ。
ルブランは雪をかき分け、必死に自分の鞄を掘り出した。
アーサーに奪われた荷物は囮だ。
万が一を想定し、この鞄には二本の瓶を、布で何重にも巻いて隠し持っていた。
布を解く指が凍えて感覚がない。
焦燥の中でようやく姿を現した瓶は――無事だった。
「……ふぅ。良かった、これさえあればボナパルトを……こちらの盤面に座らせることができる」
だが、今の自分の命を繋ぐために、この重厚な「献上品」を開けるわけにはいかない。
ルブランは胸ポケットを探った。
そこには、カディスを出立する間際に渚から手渡された、もう一つの小さな瓶があった。
『もし、雪山で凍えそうになったら……これ、飲んでください。』
吹雪の中、ルブランは自嘲気味に口角を上げた。
「……これに、いい記憶はないんだがな」
「飲む焚き火」こと、超高濃度コーラシロップ。
ここには割るような、お湯はない。
ルブランは躊躇なく栓を抜き、一気に飲み干した。
「――ッ!!!」
喉から胃袋にかけて、文字通り「爆ぜるような熱」が駆け抜けた。
心臓が暴力的な速さで鼓動を刻み、凍りついていた末端の血管が強制的に拡張される。
意識の混濁を焼き払うような、あまりに強烈な劇薬。
「全くだ……。ナギ殿の言う通り、火どころか地獄の業火じゃないか……!」
けれど、そのおかげで視界がクリアになった。
ルブランは、吹雪に霞むピレネーの尾根をしっかりと見据えた。
「ふん。今回の旅費は、そうとう高額だな、シャルル……」
しばらく歩くと、馬車から逃げ出し、岩陰でうずくまっている一頭の馬を発見した。
「お前、運がいいな。……いや、運がいいのは俺か」
奇跡的だった。
これなら行ける。
ルブランは手綱を掴み、馬の背に跨った。
その瞬間、ふと思い出したのは、出立の日に渚の額へ送った別れのキスだ。
『女神の祝福をいただいたんだ! これで冬のピレネーも、地獄の業火に守られているようなもんだな!』
あの日、シャルルたちの前で軽口として放った言葉。
だが、今この胸を焦がしている熱は、間違いなく彼女からもらった「祝福」そのものだった。
「……ふん。祝福、か。……悪くない」
「アヴァンセ(前へ)!!」
鋭い掛け声と共に、馬が雪を蹴った。
目指すは花の都、パリ。
ハズレくじを引いた男の、命懸けの逆転劇がここから始まった。




