第90話:扇子の言語と、おねぇのしごき
翌日。
隠れ家には、パサリ、パサリと、規則的で鋭い音が響いていた。
まだ座っているのが精一杯の渚の前で、スパルタ・旧貴族マナー教室が幕を開けた。
「いい、ナギ。パリの社交界は、言葉を信じる者が負ける場所よ。淑女は口を開かずに、この『羽根』だけで会話するの」
「……扇子で、会話? 喋ればいいじゃないですか……?」
渚は、京都の「いけず」と重ねる。
「洒落臭い(しゃらくさい)ですねぇ……」
(ええ腕時計してはりますなぁ……。要するに『話が長い』ってことやろ、を扇子でするみたいな?)
渚が不満げに口を尖らせると、シャルルは流れるような動作で扇子を動かす。
「淑女が安っぽく喋るんじゃないわよ。見てなさい」
ギラリと渚を睨む。
その眼光は、優雅な淑女のものではなく、戦場を統べる提督そのものだ。
(ひいいい、おねぇの圧が更利と増してる!)
「まずは威圧よ」
シャルルがパサリと鋭い音を立てて扇子を閉じ、そのまま自分の顎をトントンと叩く。
冷ややかな、獲物を定めるような瞳に見下ろされ、渚は思わず背筋が凍った。
それはシャルルが本物の貴族であることを改めて知らしめる、逃げ場のない威圧感だった。
(パリは……もしかして、こんな化け物揃いなわけ!?)
「これは『近寄るな、この無礼者』。まずはこれで壁を作るのよ」
(威圧感すごすぎる……! 物理的な壁より分厚い!)
「ほら、持ちなさい!」
いつもの穏やかに微笑むシャルルはいない。
手渡されたのは、ずしりと重い、象牙と絹で作られた一品だった。
受け取った瞬間、渚の腕がガクンと沈む。
(ちょっ……重っ! 何これ!?)
渚は内心で絶叫した。
日本の扇子と別物やんけ……!と。
夏にパタパタ仰ぐ、あの軽やかな竹と紙の感覚で挑んだのが間違いだった。
そこに鎮座しているのは、精緻な彫刻が施された厚い象牙の骨と、重厚な刺繍。
もはや、優雅な工芸品の皮を被った「鈍器」である。
「それは姉の形見の一つよ。大切になさい」
「そんな大切な物、使えないです!」
「姉は完璧な淑女だったわ。その扇子があなたをきっと導いてくれる。……いい? 扇子は『牙』よ。こうして閉じて持つだけで、不敬な男を打擲できるくらいの強度はあるわ。ほら、早く構えて!」
(……練習にジャンを叩けばいいのかな。ぶぶ漬けの代わりにこれでぶん殴るのがマナー……。フランス貴族、武闘派すぎるやろ。ふふふ……これ、ジャンなら一撃で沈むわ)
「次は『誘惑』。扇子をゆっくり顔に近づけて、唇をなぞりなさい」
「なぞっ……!? むりむりむり! それは恥ずか死ぬ!」
「言葉が汚いわよ!!! 謹みなさい!」
シャルルの怒号が飛ぶ。
(ひぃっ!)
シャルルはおねぇであっても軍人なのだ。
先ほどまで突っ込みを入れて楽しんでいた渚も、その真剣な空気におずおずと居住まいを正した。
必死に「武器」を操ろうとする渚だったが……。
「ちょ、シャルルさん! 今の私、どうですか!? 扇子で顔を隠して……こう!」
「……あんた、それじゃあ『誘惑』じゃなくて『いないいないばあ』よ。やり直し!」
カディスの夕闇が迫る中、シャルルの怒号と、重たい扇子を振り回す渚の謝罪が響き続けた。
そこへ、仕事を押しつけられて艦に戻されていたアドリアンが、シャルルの想定より早く帰ってきた。
その顔には「大切な小鳥」がしごかれているのではないかという懸念がありありと浮かんでいる。
「失礼する。……ナギサ、体調はどうだ。シャルル様に無理を言われていないか?」
「失礼ね、過保護な番犬くん」
シャルルが悪戯っぽく口角を上げた。
「でも、いいところに。ねぇナギ、今日の集大成を彼に見せてあげたら?」
「えっ、今!? ……あ、でも、はい! 見ててくださいませ、アドリアン様!」
「(……様?)」
急に淑女然とした渚の口調に、アドリアンが訝しげに眉を寄せる。
渚は重い扇子を必死に持ち直し、アドリアンの目の前まで慎重に歩み寄った。
「ナギサ、無理は……。」
「では……今日の集大成です!!」
精一杯の淑女の顔を作り、扇子をゆっくりと顔に近づける。
そして、象牙の骨で自分の唇を優しくなぞり――そのまま扇子をパッと閉じ、アドリアンの胸元にそっと押し当てた。
(……あ、これ『誘惑』じゃなくて、えーっと……!)
パニックで頭が真っ白になる渚。
だが、その効果は絶大だった。
「……っ」
アドリアンの喉仏が大きく上下し、その瞳に熱い火が灯る。
「……ナギサ。そんなことを、誰に教わった」
「えっ、ええと、シャルルさんに『誘惑』の……あ」
言い切る前に、アドリアンの大きな手が渚の腰を優しく引き寄せた。
「お見事です。……私もだ」
「それは『あなたに夢中です』の合図よ、ナギ。呆れた。でも一発で落としたわね。上出来よ」
シャルルの言葉通り、アドリアンは愛おしそうに手を握ると手の甲へキスを落とそうとする。
「ひゃ、ひゃわっ……!?」
アドリアンも没落したとはいえ、旧式の貴族。
その所作に込められた意味を痛いほど理解している。
あまりの恥ずかしさと破壊力に、渚の右手が「反射的」に動いた。
手に持っていた「武器(扇子)」が、アドリアンの脳天を直撃する。
――ゴンッ!!!
「………っ!?」
悶絶し、膝をつくアドリアン。
「きゃあああああ! ごめんなさい! 違う、違うの、護身の技が!」
「ふふ、合格点ね。そこまで含めてマナーよ。……さあ番犬くん、そこから先はマナー違反よ?」
一部始終を、用事をしながら眺めていたレオノールが、静かに呟いた。
「……これがお貴族様のお遊びなのかしら。ナギ様お可愛そうに…」
真っ赤になって硬直する渚と、頭を抱えるアドリアン。
カディスの夕闇は、不穏なパリへの予感を一瞬だけ忘れさせるほど、甘く、そして物理的に痛かった。




