第88話:カディスの陽だまり、ロドリゴの隠れ家
ロドリゴが用意した隠れ家は、カディスの喧騒から少し離れた、オレンジの木々に囲まれた古い石造りの邸宅だった。
厚い石壁が外の熱を遮り、中はひんやりとした静寂に満ちている。
「さあ、ナギ様。ここは海風が一番優しく通る部屋です」
深夜の密約通り、アドリアンとジャン、そしてロドリゴらの手によって慎重に輿で運ばれた渚は、レオノールの案内で中庭に面したテラスのある寝室へと横たえられた。
ふかふかの羽毛布団、清潔なリネンの香り。
軍艦の「血と錆の匂い」に慣れてしまっていた鼻腔に、乾燥したラベンダーの香りが心地よく忍び込む。
「……あ、あったかい……」
(ただの日常が、こんなに幸せ……。ありがとう、レオノール)
渚が沈み込むようにベッドに横たわると、窓の外からはロドリゴが庭で薪を割る小気味よい音が聞こえてきた。
「ナギ様、これを。……お湯で割ってありますわ」
レオノールが差し出したのは、湯気の立つ黄金色のレモンジュースだった。
渚はそれを受け取り、ゆっくりと口に含む。
鼻に抜ける鮮烈な香りと、甘みの中に隠れた僅かな酸味。それは、自分たちが不在の間、あの傲慢な軍人――ディエゴが死守した「黄金の工場」が、今も変わらず息づいている証だった。
彼らが街を、そしてあの場所を護り抜いたからこそ、今、この一杯がここにある。
(ありがとう……ディエゴさん)
「……おいしい、レオノール。カディスの味がするね」
二人は目を合わせ、小さく微笑んだ。
それを見守っていたジャンとアドリアンは、部屋の隅で安堵の視線を交わす。
次にレオノールが運んできたのは、新鮮なヤギのミルクでじっくりと煮込んだ「パン粥」だった。
「さあ、あーんして。……ゆっくりでいいですからね」
「……自分で、食べられるよ」
照れくさそうに手を伸ばそうとする渚を、レオノールがぴしゃりと制した。
「ダメです! 今日はうんと甘えてください。それとも……そちらの殿方に食べさせていただきますか?」
レオノールの悪戯っぽい視線が、部屋の隅のアドリアンへと向く。
渚の顔が、一瞬で真っ赤に染まった。
あの苦しかった最初の一週間。
アドリアンの献身的な看護と、その瞳に宿っていた慈悲深い愛情。
記憶の中の温かさが、今のパン粥の温もりと重なる。
「い、いただきます!」
慌てて口を開けた渚に、レオノールが優しく匙を運ぶ。
一口ごとに、温かなミルクのコクとパンの優しい甘みが全身に染み渡っていく。
「……レオノール、美味しい。本当に……」
渚の目尻に、熱いものが溜まっていく。
軍艦の中では、シャルルやアドリアン、ジャン、そして五百人の乗員たちが命をかけて『生』を奪い合っていた。
けれど、今ここにある「何の変哲もない日常」こそが、守るべき命そのものなのだと、渚は肌で感じていた。
「お帰りなさい、ナギ様。……もう、あんな恐ろしいところへは行かせたくありませんわ。私たちが、ここでお守りしますから」
ついに溢れ出した涙が、頬を伝う。
「ありがとう……。ただいま、レオノール」
「さぁ、泣いている暇はありませんよ! 完食するまで私は帰りませんからね」
年下のレオノールの、まるで母親のような力強い優しさ。
渚はこくんと頷き、差し出される匙を一生懸命に受け入れ続けた。
その時、パチリ、と爆ぜるような心地よい音が部屋に響いた。
いつの間にか暖炉の前へ移動していたロドリゴが、無骨な手つきで新しい薪をくべていた。
「……おう。少し冷えてきたな。しっかり食って温まらねえと、早く治らねえぞ」
薪が火を掴み、部屋の温度が一段階ふわりと上がる。
オレンジ色の柔らかな光が、渚の涙の跡を優しく照らし出した。
「ありがとう、ロドリゴさん。……とっても暖かいです」
渚の掠れた声に、ロドリゴは振り返りもせず鼻を鳴らした。
「……礼なら、この家を磨き上げたレオノールに言いな。俺はただの火の番だ」
「もう、お父様ったら! それは内緒にしておくつもりだったのに!」
レオノールが頬を膨らませて笑う。
その明るい声に誘われるように、部屋の隅で控えていた二人も、ようやく「軍人」ではない顔を見せた。
「ナギ、今は何より栄養を摂れ。体を元に戻すのが、今のお前の最優先だ」
ジャンが軍医らしい厳しさを装いつつ、その瞳には隠しきれない安堵を滲ませて告げる。
「ナギサ。君が自力で動けるようになるまで、私はずっとここにいる。……安心して、ゆっくり休んでくれ」
アドリアンの言葉は、ただ一人の愛する人を思う、慈愛に満ちたものだった。
カディスの夜の、まだ少し冷たさの残る潮風。
けれど、この部屋を満たす薪の熱と、母親の愛情のように温かいパン粥。
ボロボロになった一行に、ようやく本当の安寧の時間が訪れていた。
幸せだった。
溢れる幸せの涙の奥で、その温かさを噛みしめようとするたび、胸の奥底で成瀬への罪悪感が小さく蠢く。
――私は、ここでこんなに愛され、幸せと感じていいのだろうか。
その思考を、渚は自ら無理やり押し殺した。
まるで這い出てくる虫を、見ないふりをして踏み潰すように。
今はただ、この温もりに縋りたかった。




