第86話:カディスの凱旋と、深夜の密約
カディスの港に、一ヶ月ぶりに艦の錨が下ろされる。
石畳を叩く波の音は変わらない。
だが、埠頭に降り立った瞬間、肌を撫でる空気の「密度」が変わっていることにシャルルは気づいた。
(……面白いわね。一ヶ月前よりも、街の『目』が研ぎ澄まされているじゃない)
市場の物売り、荷揚げの男たち、屋根の上で欠伸をする若者。
彼らの視線は単なる好奇心ではなく、よそ者を一歩も逃さぬという強固な意志を孕んでいる。
それは、自分たちが不在の間、この街の「裏」を託した男が、その約束を完璧に果たした証拠だった。
(彼らは、守ってくれたのね……)
同時に、胸の奥を締め付けるような熱いものが込み上げる。
指揮官としての「慢心」が、あの惨劇を招いた。
それなのに、この街は過ちを許し、こうして研ぎ澄まされた刃のように守り、信じて待っていてくれた。
(……ありがとう。あなた達を信じて正解と思わせてくれて)
出迎えたのは、三人――。
岩のようなロドリゴと、祈るように手を組むレオノール。
そして、憮然とした顔で腕を組むディエゴだ。
「ふん……。遅かったじゃないか、提督」
ディエゴが鼻で笑い、シャルルを睨む。
その目は「約束通り、街も工場も守りきってやったぞ」という傲慢な自負に満ちていた。
「……ふ。ご苦労、ディエゴ。……褒美をあげたいところだが、あいにくこの巡回で私の金庫は今は空っぽだ」
シャルルは優雅に歩み寄り、彼とすれ違いざま、袖口から一通の書付を滑り込ませた。
それは、船内でナギが激痛に耐えながら、紡いだ「新しいレシピ」の走り書きだ。
「……これは軍事機密ではない。私は何も知らない。魚たちが届けてくれたものだ。好きに使え」
耳打ちして離れると、書付の中身を盗み見たディエゴの目が、一瞬で少年のように輝き出した。
これから旬を迎える、イワシを使ったオイルサーディンのレシピだった。
「――シャルル提督と、勇猛なる連合艦隊のご帰還だ! 万歳! 万歳!!」
(現金なものね)
ディエゴの突然の叫びに、街中から地鳴りのような歓声が上がる。
だが、その喧騒の中で、ロドリゴとレオノールだけは微動だにせず、タラップを見つめていた。
兵たちが次々と降り立ち、活気ある港の喧騒に混じっていく。だが、レオノールが一番待ち望んでいた「女神様」の姿は、いつまで経っても現れない。
「……ナギ様? ナギ様はどこ……?」
レオノールの声が不安に揺れたその時、ようやくタラップに、見覚えのある長身の騎士が姿を現した。アドリアンだ。
だが、その傍らにはいつもいる彼女がいない。
彼は一人で降りてくると、真っ直ぐにロドリゴとレオノールの前で足を止めた。
「アドリアン様! ナギ様は……ナギ様はどこにいらっしゃるのですか!?」
駆け寄ろうとするレオノールを、アドリアンは鋭い、しかしどこか哀切を孕んだ視線で制した。
そして、周囲に悟られぬよう、ロドリゴの耳元で密やかに、けれど重い言葉を落とす。
「……深夜、ここへ来てください。本来、民間人が軍艦に足を踏み入れるなど、厳格な軍規に照らせば有り得ぬことですので……」
アドリアンの拳が、微かに震えていた。
「今のナギサは、自力で歩くことすらままならない。……女神と言われる彼女の今の姿を、この熱気の前に出すことはできない……」
ロドリゴはその一言だけで、すべてを察した。
軍の誇り高い騎士が、規律を犯してまで自分たちを艦へ招き、隠密に彼女を運び出す手助けを求めている。
それが、今の渚にできる唯一の「最善」なのだと。
「……分かった。深夜、この港の灯りが落ちる頃に。誰にも、魚の目一粒にも見られずに参上しよう」
レオノールは溢れそうな涙を堪え、唇を噛んで頷いた。
「承知いたしました。……お父様と一緒に、世界で一番静かな輿を持ってくるわ」
歓声に沸くカディスの太陽の下。
愛する女神をこっそりと「家」へ連れ戻すための、静かなる密約が交わされた。
***
深夜。
カディスの港を包んでいた全ての灯りが消え、星の瞬きだけが海面に映り込む頃。
ロドリゴとその部下、レオノールは音を立てぬよう黒い布で覆われた簡素な輿を担ぎ、艦へと繋がるタラップを昇っていた。
生まれて初めて足を踏み入れた軍艦の内部は、レオノールの想像を遥かに超えるものだった。
500人もの男たちが一ヶ月も起居していたという艦内は、鼻腔をこれでもかと刺激した。
汗、燻製肉、錆、そして何よりも拭いきれない「血」の匂い。
足元は粘つくように汚れていて、狭い通路の壁には、男たちが荒々しくつけた手垢や傷跡が生々しく残されている。
(……こんなところで。ナギ様は、こんな場所で戦っていたの?)
この汚れた艦内のどこかで、優しくて可憐な「女神様」が命を削っていたという事実に、レオノールの胸は締め付けられた。
提督たちの居住区は、艦の奥。
そこだけは、他とは一線を画すように清潔で、僅かながらだが暖炉の温もりが漂っていた。そこに渚はいた。
ベッドに横たわるその姿は、レオノールが「スペインの太陽」と讃えた輝きを完全に失っていた。
顔色は病的に青白く、頬は痩せこけ、見る影もなくなっていた。
呼吸に合わせて、か細い肩が僅かに上下する。それさえも、ひどく苦しげに見えた。
「……ナギ様……」
レオノールの口から、掠れた声が漏れる。
だが、その微かな声に、ベッドの上の渚がゆっくりと瞼を持ち上げた。
「レオノール……? 嬉しい……ふぅ……ぅ……。会いたかった……!」
届いた声は、痛々しいほどに細く、弱い。
(あの日の出来事が、ナギ様の体をここまで……)
けれど、向けられた笑顔は――レオノールの記憶の中にある、あの眩い「スペインの太陽」そのものだった。
「っ……!」
レオノールの目から、堪えていた涙が溢れ出す。
今すぐ駆け寄って、その細い体を抱きしめたい。
けれど、触れれば壊れてしまいそうなその姿に、彼女は衝動を必死に抑え、ただ渚の手をぎゅっと握りしめた。
「ナギ様……っ……。おかえりなさい……!」
震える声を絞り出すレオノールに、渚はさらに深く、愛おしそうに目を細める。
「ただいま……。レオノール……」
「帰りましょう……。ナギ様の街に」
その光景を背後で見守るアドリアン。
かつての冷徹な「軍人」の面影はない。
今の彼が湛えているのは、慈愛と安堵が混じり合った、あまりにも人間らしい眼差しだった。
(……ふん。あの鉄壁の**『不落のアルカサール(城塞)』**も、ついに開城したか)
その様子を横目で見たロドリゴは、心の中で静かに確信した。
フランス軍の堅物副官は、もはや単なる軍人ではない。
一人の少女に心を捧げた、一人の男になったのだと。
「……アドリアン殿。港の人払いは完璧だ。俺たちを、信じてくれ。療養場所も絶対にネズミ一匹入らない場所を用意した」
ロドリゴの重みのある言葉に、アドリアンは深く、静かに頷いた。
「……感謝する」
レオノールたちが持ってきた、世界で一番静かな輿。
それに横たわった渚は、仲間たちの手によって、一ヶ月ぶりに懐かしいカディスの地へと、そっと足をおろした。




