第9話:嵐のあと、怪物(けもの)は微睡む後半
「……っ、船は!? 艦の状態はどうなってるの!?」
弾かれたように跳ね起きた渚の第一声は、周囲への気遣いや自身の体調よりも先に、船というシステムの安否を確認するものだった。
視界が激しく揺れ、倒れそうになる肩を、柔らかな、けれど力強い手が支える。
「あらあら、落ち着きなさいな。……今の、何かしら?さっぱり聞き取れなかったわ」
目の前にいたのは、ティーカップを片手に優雅に微笑むシャルルだった。軍服の襟を緩め、私室でだけ見せる「おねぇ」の顔をした提督が、興味深そうに目を細める。
「……あ、すみません。……船は、船は無事なんですか?」
渚は、咄嗟に日本語が出たことを自覚し、口の中で馴染まないフランス語に意識して切り替え、事務的なトーンで問い直した。
すると、シャルルは「ああ」と可笑しそうに肩を揺らした。
「ふふ、やっぱり船の状態のことね……ええ、無傷よ。あなたの無茶な針路のおかげで、岩礁一つ擦らなかったわ」
「……よかった…。あの計算ままの進めば、損害は最小限のはずですから」
熱に浮かされながらも、渚の言葉には一片の迷いもなかった。自らの計算に対する絶対的な自負。シャルルはその傲慢とも取れるほどの自信を、呆れを通り越して、どこか逞しく、眩しいものを見るように見つめた。
(……大したものね。死に損ないの軍人たちよりも、よっぽど戦士らしいじゃない)
シャルルは、この小さな体に宿る強固な意志を、つい愛おしく思い、その熱い額を優しく撫でた。
「ええ、あなたの計算通りよ。でも、今は無理は禁物。まだ熱が全然引いてないじゃない」
渚はその手を振り払うようにして、ベッドの支柱を掴んだ。
その時、重厚な扉の向こうから、またあの「迷い」のある気配が伝わってきた。行ったり来たりを繰り返したかと思えば、立ち止まる。ノブに手をかけては離す、落ち着きのない音。
シャルルはそれを見て、いたずらっぽく目を細めると、私室全体に響き渡るような大きな声で叫んだ。
「ちょっと! 扉の前の不審者さん、いつまでそうしてるの? お姫様はお目覚めよ! さっさと入りなさいな!」
「なっ……! 提督、言葉が過ぎます!」
勢いよく扉が開くと、そこには顔を真っ赤にしたアドリアンが立っていた。彼は姿勢を正し、厳しい表情でシャルルへ抗議したが、その視線はすぐにベッドの上で荒い息を吐く渚へと向けられた。
「……目覚めたか。貴公の仕事は海図を書くことだろう。そのような顔色で何ができるというのだ。大人しく横になっていろ」
貴族らしい、冷徹なまでに理知的な口調。だが、渚は朦朧とする意識の中で食い下がった。
「アドリアン副官……休んでいる暇はありません。今後の航海計画と、この船の目的地を開示してください。……それと、現在の燃料残量と備蓄のリストも、今すぐに」
「……何だと? 貴公、自分の状態がわかっているのか。そのような確認は後日でかまわん」
「後では意味がないんです! 計画を共有していただかなければ、私が次に何をすべきか、この船でどう動くべきか把握できません」
渚の声は、熱のせいだけではない震えを帯びていた。この得体の知れない世界で、有能な航海士としての価値を示し続けなければ、自分は一瞬で不要なものとして排除されてしまう。その焦燥感が、彼女を無理やり突き動かしていた。
「……私は、この船の一部として機能していなければならないんです。お願いします……」
必死に「自分の席」を確保しようとする渚の瞳。アドリアンはその異様な気迫に、思わず言葉を呑み込んだ。彼は一度目を伏せ、わずかな沈黙の後、重々しく口を開いた。
「……承知した。資料は私がここに持参しよう。だが、それは貴公の熱が下がり、軍医の許可が出てからの話だ。それまでは一歩も動いてはならん。……いいな」
「アドリアン副官、それでは遅すぎます。今すぐに――」
「意識が朦朧としているものに、航海計画を預けるほど、我が海軍は愚鈍ではない!」
一歩も引かないアドリアンの厳格な拒絶に、渚はベッドの上で唇を噛み、鋭い視線で彼を睨み返した。互いに譲らぬ二人の間に火花が散るような沈黙が流れる。
それを見守っていたシャルルは、「やれやれ」と肩をすくめ、けれどその口元には楽しげで、どこか嬉しそうな微笑を浮かべていた。
「あらあら。二人とも、元気なことね。そんなに熱烈に見つめ合っちゃって」
「提督! からかわないでください!」
「…………っ」
顔を赤くして言い淀むアドリアンを、シャルルは手で制した。そして、静かに、けれど逃れられない重みを持って、渚の細い肩に手を置いた。
「いい、ナギ。アドリアンの言う通り、今は休み。これは提督命令よ」
「……っ、でも、私は……」
「焦らなくていいわ。あなたが心配しているようなことは、何ひとつ起こらない」
シャルルは渚の瞳を真っ直ぐに見つめ、その心の奥底にある「役立たずと思われたら居場所を失う」という怯えを見透かすように、穏やかに告げた。
「あなたが有能な航海士であることを、もう誰も疑っていないわ。……海図の一枚や二枚、今すぐ描けなかったからといって、あなたの居場所がなくなることはない。ましてや、冷たい海へ放り出すような真似もしないわ」
シャルルは一瞬、かつて断頭台で消えた姉の面影を重ねるように、慈しみを込めて目を細めた。
「だって、そうでしょう? あなたはもう、私たちの命を、この艦のすべてを一度救ってみせたんだもの。この船の誰一人として、自分たちの救世主を追い出そうなんて思わないわ」
その言葉は、必死に自分の存在価値を証明しようと張り詰めていた渚の心に、予想外の温かな「重み」として落ちてきた。
シャルルの手のひらから伝わる体温が、熱で昂ぶっていた渚の意識を、ゆっくりと安息の方へ引き戻していく。
「今は眠りなさい。仕事は目覚めた後に…」
シャルルの魔法のような囁きに、渚の強張っていた指先から、ようやく力が抜けた。重たい瞼が、ゆっくりと閉じていく。
(……私はまだ、ここにいてもいいみたいだ……)
アドリアンが二角帽子の縁を掴んで目深に引き下げ、複雑な表情でそれを見守る中、渚は深い眠りに落ちていった。
それは、荒れ狂う海を越えた彼女が、この世界で初めて得た本当の意味での「休息」だった。




