第84話:(番外編)『カディスの盾、祈りの灯火』
シャルル艦隊が沖にでて、1ヶ月が過ぎていたー
カディスの港は、一見すればかつてない活気に沸いているように見えた。
渚がもたらした「海の道」は今も死守され、市場には色とりどりのスパイスや砂糖が並び、酒場からは陽気なギターの音が漏れ聞こえる。
だが、その喧騒はどこか空々しい。
石畳を歩く漁師たちの目は鋭く、路地裏に座り込む男たちは酒瓶を握りながらも、その視線は常に港の入り口――水平線の向こう側を刺すように見つめていた。
この街を知る者にはわかる。
今、カディスは巨大な「罠」と化しているのだ。
「……父さん。まだ、シャルル様の艦隊は見えないの?」
レオノールが、いつになく暗い顔でロドリゴの隣に立った。
彼女の目には、後から聞かされた「あの日」の惨劇が、まるで見てきたかのような生々しさで焼き付いている。
あんなに楽しそうに一緒にコーラナッツを砕き、機能的なドレスを喜んでくれた「女神様」。
そんな彼女が無残に打ち据えられ、血の気が引いた顔で担ぎ込まれたという。
あの時、そばにいれば。
罠の可能性を伝え、砂浜へ行かせなければ……。
後から知らされたその真実は、レオノールの胸をずっと掻きむしり続けている。
シャルル提督が沖へ出た理由を父から聞いた時、彼女は自分の無力さに涙を流した。
「……ああ。提督は、イギリスのネズミを追って沖へ出た。あの子も一緒だ」
ロドリゴの声は地を這うように低く、不甲斐なさに、大きな拳を握りしめていた。
フランス軍の警備より確実だと自負していた「ロドリゴの目」が、イギリスの潜入を許していた。
いや、フルトンという男と協力者の「内側の毒」を甘く見ていたのだ。
「お父様、私たち、祈ってもいいかな」
レオノールの言葉に、ロドリゴは一瞬、苦い顔をした。
フランスから来たあの軍人たちは、理性を重んじ、神をあまり信じない。
ボナパルトという男にいたっては、教会を政治の道具としか見ていないと聞く。
だが、このスペインの地は違う。
海と共に生き、嵐に翻弄されるカディスの民にとって、祈りは最後の、希望だった。
「……誰にも見つからんようにな」
ぶっきらぼうに答えたロドリゴだったが、彼はレオノールと共に、港の外れにある古びた聖堂の影へと足を運んだ。
小さな蝋燭に火を灯す。
揺れる炎の中に浮かぶのは、自分たちの街を救ってくれた少女の笑顔だ。
壊血病の恐怖から私たちを救い、この街に「命の輝き」を取り戻してくれた。
きっと「未来から来た」とても可愛いい女神様。
(ナギ様、大好きよ……またあなたに会いたいの)
「神様……。どうか、ナギ様を救ってください。あんなに優しい人が、冷たい海で泣いていないように」
レオノールが震える声で祈る。
彼女の頭にあるのは、渚と一緒に過ごしたかった「カディスの春」の景色だ。
(……春になれば、この街はもっとキラキラするのよ。ナギ様。)
(市場には甘い香りのオレンジの花が咲き誇って、獲れたての新鮮なイワシや、大粒のイチゴが山のように並ぶわ。見たこともないような色鮮やかな布地や、新しいスパイスだってたくさん届くの)
(そしたらまた、ナギ様は目を輝かせて、『レオノール、この果物であのシロップが作れるかも!』なんて、びっくりするような突飛なレシピを言い出すかもしれないわね。でもそこに『いわし』入れるのはゴメンだわ…。ふふ…。…私はそんなあなたに似合うドレスを選んで、また髪を結うわ。またカディスの太陽の下を一緒に歩きたい……)
ロドリゴは祈りの言葉こそ口にしないが、その背中は巨大な岩のように、聖堂の入り口を守っていた。
(提督が戻るまで、これ以上俺たちの街で自由は許さんぞ、イギリス……。ネズミの一匹も、次は逃がさん)
フランス軍とスペイン軍は共に監視し、ロドリゴの配下は影で動く。
街全体がシャルル艦隊の帰還を待ちわびる巨大な監視網となっていた。
そして。
「……風が変わったわ、お父様」
レオノールが顔を上げる。
一ヶ月に及ぶ別離に、ようやく終わりを告げるような春の予兆。
その柔らかな風に乗り、水平線の向こうから、待ちわびた「三色の旗」を掲げた艦影が、白い飛沫を上げて現れた。




