第83話:一晩中の献身、嵐の中の揺り籠
《……破壊は外側からだけじゃない。……内側から、形を保てなくなるまで膨れ上がり、爆発する。その絶望を存分に味わえ》
脳裏に、あの浜辺での成瀬の声が反復する。
自らの専門である『高圧の理論』をなぞるように冷たく笑い、私の心、体もろとも破裂させようとする男。
(これは全て、私が招いた事だ……あの時、成瀬君を巻き込まなかったら…)
《どんな扱いを受けたと想像した? どんな拷問を受け、どれだけ精神を、感情を、ズタズタに引き裂かれたと――想像したことがあったか…?》
(成瀬君の瞳の絶望は、一体どれだけの物だったんだろう…)
(どれだけの時間を、耐えて来たんだろう…)
二月のカディス沖は、慈悲などひとかけらもない地獄の様相を呈していた。
荒れ狂う波が艦を叩くたび、医務室の床は大きく傾ぎ、あばらを折った渚の体に容赦のない衝撃を伝える。
「……っ、ふ、ぅ……っ」
渚の喉から、掠れた悲鳴が漏れる。
高熱に浮かされ、呼吸のたびに激痛が走る彼女にとって、この揺れは拷問だった。
アドリアンは、診察台に自らの体を固定し、背後から渚を包み込むようにして抱きしめていた。
揺れで彼女の体が滑り、折れた骨がさらに内臓を傷つけるのを防ぐため、自らの両腕を彼女の肉体に縫い付けているのだ。
アドリアンは震える彼女の肩を、自分の大きなマントでそっと覆い隠した。
「……ナギサ。大丈夫だ、私がいる」
アドリアンは、渚の耳元で絶え間なく囁き続けた。
時折、渚が苦痛に体勢を動かそうと身悶えする。
そのたびにアドリアンは、壊れ物を扱うような手つきで彼女を何度も抱きかかえ直した。
「ナギサ、この体勢は辛いか? ……それなら……」
彼は渚を自分の膝の上に完全に引き上げ、自分の胸板を背もたれにするようにして、彼女の小さな体をすっぽりと腕の中に閉じ込めた。
不自由な腕を、彼女の細い腰と、さらしの巻かれた胸のすぐ下に回す。
薄い布一枚を隔てて、彼女の熱すぎる肌の感触が、アドリアンの腕に伝わってくる。
「………うっ…」
間違えば、渚が激痛に悲鳴を上げる。
アドリアンはそのたびに「すまない、大丈夫だ……」と低く掠れた声で囁き、彼女の頭を愛おしそうになで、その震える肩に口付けを何度も落とした。
意識が混濁している彼女に、彼は届くと信じて声をかけ続ける。
渚が水を欲せれば、清潔な布を水に浸し、自分の指先に滴る程度の水を含ませた。
そして、渚の乾いた唇へ、一滴ずつ、慈しむように落としていく。
指先から伝わる彼女の唇の熱に、アドリアンの胸が締め付けられる。
本当は、その熱を吸い取るように強く抱きしめてやりたい。
だが、今の彼ができるのはただ折れた骨がこれ以上暴れないよう、一晩中、彼女を自分の腕の中に「封印」することだけだった。
「……ナギサ。たとえ海が荒れても、俺が守り抜く」
やがて、窓の向こうの闇が白み始める。
アドリアンの腕の中で、渚の呼吸が、ほんのわずかだけ凪いだ。
「……っ、……ぁ……」
渚がゆっくりと震える瞼を持ち上げる。
そこには、一晩中眠らず自分を支え続けた男の、やつれ果てた、けれど慈愛に満ちた瞳があった。
「……おはよう、ナギサ」
掠れた声で笑ったアドリアンの顔を見て、渚の指先が、微かに、けれど確かな意志を持って彼の袖を握り返した。
「……アド…リ…アン……?」
熱で潤んだ瞳が、ゆっくりと、目の前の男を捉える。
一晩中、苦しげに喘ぐだけだった彼女の唇からこぼれた、自分の名。
その響きを聞いた瞬間、アドリアンの胸の奥が、熱い塊を飲み込んだように震えた。
「ああ、そうだ。ここにいる。」
アドリアンの声は、喜びと安堵のあまり、自分でも驚くほど優しく、そして震えていた。
意識が戻った。
自分のことが分かっている。
その、当たり前のようでいて、死の淵では奇跡に等しい事実に、彼はただ、震えるほど感謝していた。
渚が、安堵したようにアドリアンの胸に額をそっと預ける。
まだ高熱に焼かれているはずの身体が、自分を頼るように微かに重みを増した。
「……アドリアン…」
消え入りそうな微かな声。
アドリアンは、一晩中張り詰めていた肩の力が、一気に抜けていくのを感じた。
「ナギサ、今はまだ休め…」
自分の腕の中に、温かい命がある。
規則正しい呼吸がある。
アドリアンは、渚の頭を愛おしそうにそっとなで、その小さな肩に、安堵の涙を隠すようにして顔を埋めた。
「……よかった。……本当によかった」
朝日が、窓からゆっくりと医務室を照らし始める。




