第82話:陸の上で溺れる少女
渚の意識は、真っ白な激痛の閃光と、底なしの闇の間を激しく行き来していた。
意識が戻れば、酸欠と骨の痛みに悶絶し、耐えきれずまた意識を失うという残酷な繰り返し。
「が……っ、は、ぁ……っ!!」
空気を吸いたい。
けれど、吸い込もうと胸を膨らませた瞬間、折れたあばらが軋み、容赦のない激痛が走る。
それはまるで、陸の上にいながら、見えない水の中で溺れ続けているようだった。
「ナギサ……っ、ナギサ! 大丈夫だっ!」
アドリアンが彼女の手を握りしめる。
その掌は、恐怖と焦燥の汗で濡れていた。
騎士としても指揮官としての冷静さは、今の彼には微塵もない。
ただ、愛する人を繋ぎ止めることに必死な、一人の男がそこにいた。
「……どけッ!」
ジャンがアドリアンを突き飛ばすようにして、渚の胸元へ顔を寄せた。
迷わず彼女の露わになった白い胸元に直接耳を押し当て、内側の音を拾う。
耳を澄ます。
そして――。
(……肺の膨らむ音に、血のにじみ出るような雑音はない……。漏れていない……!)
ジャンは一瞬、顔に喜びの色を滲ませた。
「……大丈夫だ。肺はまだ破れていない! 致命的な内出血もない……! 最悪の状態は免れている!」
ジャンの叫びに、アドリアンの瞳に僅かな希望の光が宿った。
ジャンはすぐさま助手たちに指示を出し、ナギサの胸を拘束していたさらしを緩めさせた。
そして、ジャンは上半身を斜めに起こした状態で固定する「半座位」へと彼女を抱え上げる。
「ナギ、落ち着け! 俺の声を聞け!」
ジャンは渚を背面から抱き、耳元に声をかけ続ける。
さらしの拘束が緩んでも、渚の苦痛は終わらない。
うまく空気が取り込めず、彼女の目尻からは絶え間なく涙が溢れ続ける。
「深く吸おうとするな! いいか、細く、細くゆっくり吸うんだ。深く吸えば、また骨が痛む。……そうだ、細く……。俺と一緒に呼吸しろ」
説得するように、あるいは祈るように顔を覗き込み、自身の呼吸のリズムを伝えていく。
「……ひ、ぅ……、あ……ふー」
アドリアンは、ジャンの指示に従おうと必死に喘ぐ渚の指を、もう一度強く、壊れないように握り直した。
地獄のような時間が過ぎ、男たちの必死の祈りがようやくナギサに届き始める……。
ジャンの規則正しい呼吸に合わせるように、ナギサの喘ぎが、少しずつ、少しずつ凪いでいく。
チアノーゼで真っ青だった唇に、わずかながら赤みが戻り、その目尻に溜まっていた涙が乾き始めた。
ふわり、と。
アドリアンの掌の中で、力が抜けていたナギサの指先が、微かに、けれど確かな意志を持って握り返された。
「……っ、ナギサ」
アドリアンは、ようやく自分も心臓の動悸が少しずつ収まり、やっと生きた心地がした。
「……アドリアン、代われ。お前が支えてやれ」
ジャンが、汗にまみれた顔で低く言った。
アドリアンは頷き、ジャンと入れ替わるようにして、渚の体を後ろから包み込んだ。
彼女の体は驚くほど軽く、そして脆い。
背中から伝わってくるのは、細く、弱々しいが、規則正しく刻まれる「生」の鼓動。
生きようとしている彼女の命の重み。
アドリアンは、安堵のあまり、彼女の小さな肩に額を擦りつけた。
(……すまない。……ナギサ、愛してる。…………)
言葉にならない祈りを彼女の背中に刻み込む。
その体温が、何よりも確かな救いだった。
――だが。
その安らかな静寂を切り裂くように、重厚な振動が艦底を揺らした。
ズウゥゥゥン……ッ!
巨大な鎖が巻き上げられる、鉄と鉄が軋む不吉な音。
抜錨。
この軍艦が、再び戦場へと動き出す合図だった。
「抜錨?!……何故……っ!?」
抜錨の音が艦内に鳴り響き、アドリアンが驚愕して顔を上げた。
「……シャルル提督! 何故、今抜錨を!」
(今の渚には船の揺れも命取りだ! それに容態次第では陸の方が……)
アドリアンは思わず、扉の外に控えていた影に向かって声を上げた。
ナギサの容体は、ようやく呼吸が整い始めたばかり。
この不安定な渚がいる状態で、副官である自分に何の相談もなく船を出すなど、平時であればあり得ない暴挙だ。
「……騒ぐな、アドリアン」
扉の影から現れたシャルルは、感情の読めない瞳で医務室を眺めていた。
そこには「おねぇ」の仮面を脱ぎ捨て、ただ職務を遂行するフランス軍提督としての姿があった。
「ですが、ナギサをこのまま……」
「入り江は今や安全じゃない。ナギを本当に守りたいなら、今は黙って揺れに耐えろ。……これは、私が決めたことだ」
シャルルはそれ以上、アドリアンに説明を重ねるつもりはないようだった。
「……アドリアン。抜錨の理由は『海の道(海上交通路)の緊急巡回』、および『イギリス艦隊の封鎖任務』。……という事だ。あとの事務的な処理(事後報告)は、すべて任せる」
「………承知いたしました、提督」
アドリアンは反論する隙もなく、ただそう答えるしかなかった。
この艦の提督はいつだってそうだ。
ナギサを安全な沖へ逃がすという目的を、完璧な「軍事的名目」に隠し、その事後処理は、すべて副官である自分の役目。
「……護衛全艦、抜錨。カディス沖の巡回に向かう」
(…ポルトガルの商船にはもう、追いつけないだろうが…、見つけ次第拿捕する)
シャルルは一度も振り返ることなく、歩き出した。
残されたアドリアンは、腕の中のナギサをより慎重に、壊れ物を扱うように抱き直した。
「……ナギサ。たとえ海が荒れても、私が守り抜く。」
艦底から響く巨大な鼓動が、渚の微かな呼吸と重なり合う。
シャルル提督率いる艦隊は、冬の怒涛が渦巻く暗い沖合へとゆっくり滑り出した。




