第81話:救済という名の拷問
「科学の変態――その程度の認識でしかなかった」
岩陰から沖を睨むジャンの瞳に、じわりと後悔の熱が滲む。
フルトンという男を、ただの奇妙な発明家だと侮っていた。
その甘さが、この最悪の事態を招いたのだ。
誘い込まれたのは、潮の香りが澱んだ入り江の岩場だった。
フルトンが仕掛けた罠。
潜んでいた協力者たちの凶刃を辛うじてかわし 海に飛び込んだ。
ジャンは震える指で銀の笛――ボースンコールを唇に当てた。
霧を切り裂くような鋭い高音。
それが、彼にできる唯一の手立てだった。
波間から顔を出すと、フルトンと数人の男を乗せた小舟が、霧の向こうへと消えていくのが見えた。
だが、逃げる背中を追う余裕など一欠片もなかった。
「……ナギ……っ!」
砂浜に横たわる彼女の体は、あまりに脆く、そして静かすぎた。
ジャンが渚の胸に手を当てた瞬間、軍医としての腕が凍りつく。
不自然に隆起し、波打つような胸の動き。
触れるまでもなく分かる。あばらが折れ、内部で無残にズレているのだ。
肺が満足に膨らまない。
吸い込んだ空気は血と混じり、行き場を失って彼女の体内で暴れている。
透き通るようだった肌は土気色に沈み、その薄い唇は、酸欠を告げる忌々しいチアノーゼによって真っ青に染まっていた。
「……はぁ、はぁ……っ……死ぬな、まだ死ぬな……!」
意識を失っている今は、まだいい。
だが、彼女の体は内側からの激痛にのたうち、暴れ狂うだろう。
そうなれば、折れた骨がさらに内臓を突き破り、取り返しのつかないことになる。
早く、艦へ。
意識が戻る前に、さらしでこの体を、この絶望を固定してしまわなければ。
岩場から海に飛び込んだジャンの体は、至るところが裂け、どす黒い血が滴っている。
海水が傷口に染み、焼けるような痛みが走る。
けれど、そんな痛みなどどうでもよかった。
(すべて俺が……俺の判断の過ちだ…」
冷たくなっていく渚を壊れ物を扱うように抱き上げ、霧の深淵へと足を踏み出すと、霧の向こうから必死に叫ぶアドリアンの声が聞こえてきた。
「ジャン……! ナギサ!」
駆け寄ろうとしたアドリアンの足が、安堵で激しく震えている。
アドリアンに、抱えていた渚をそっと差し出した。
「…………すまん。」
ジャンの絞り出すような声。
渚の顔は痛みで歪み、呼吸のたびに胸元が不自然な動きを見せている。
「……っ、これは……」
「……あばらを、やられてる。」
ジャンの言葉に、アドリアンの瞳から色が消えた。
何が起きたのか分からない、
だが渚は「物理的な破壊」を受けていたのだ。
アドリアンは、折れたあばらを刺激しないよう、細心の注意を払って彼女を抱き直した。
怒りで奥歯が砕けんばかりに鳴る。
「……ジャン、艦へ急ぐぞ!」
渚を慎重に抱え、船の医務室へ駆け込む。
「さらしを持ってこい! 急げ、早くしろッ!」
ジャンの怒声が響き渡った。
慌てふためく助手たちが、清潔な布を抱えて走り回る。
アドリアンは、腕の中の渚を診察台に横たえた。
その手は、いまだに彼女の温もりを求めて離れようとしない。
「……アドリアン、外に出ろ」
ジャンの声は、もはや悲鳴に近かった。
軍医として数多の兵士を看取ってきた彼には、これから始まる「処置」がどれほど凄惨なものになるか、容易に想像がついていたからだ。
「断る。……私は、これ以上ナギサから目を離したくない、一時も…」
アドリアンの返答は、凍てつくほど静かだった。
だが、その直後。
ナギサの喉がヒュッ、と異音を立てて鳴った。
「が……っ、はあ……っ!!」
意識を失っていた彼女の瞳が、苦痛に裏返りながら見開かれる。
酸素の足りない肺が、狂ったように空気を求めて喘ぎだした。
「押さえろッ!!」
ジャンの怒号と同時に、ナギサの体が弓なりに跳ね上がった。
あばらが複数本折れ、呼吸しようとする動作そのものが、自らの内臓をナイフで抉る行為に等しい。
「あ、ぐ……あぁぁぁあッ!!」
喉を掻き切るような絶望的な叫びが、狭い医務室に反響する。
渚の服をハサミを入れる。
右胸の下が、内出血で皮膚が黒い紫色に変色している。
このままでは骨のズレがさらにひどくなり、内出血を加速させる。
「固定しろ! 骨を動かすな! ナギ…動くなよ!」
ジャンがナギサの細い体に馬乗りになり、力任せに押さえつける。
助手たちが4人係りで彼女の手足を縛り上げ、さらしを胴体に幾重にも巻き付けていく。
麻酔などない。
あるのは、剥き出しの痛みと、骨がぶつかり合う音だけだ。
バキッ、という嫌な音が、ナギサの体の中から聞こえた。
「……っ、うあああああ!!」
アドリアンは、渚の砂にまみれた指を、砕けんばかりの力で握りしめた。
自分の無力さが、心臓を直接握りつぶされるよりも痛い。
騎士として、指揮官として、一人の男として。
守ると誓ったはずの少女が、今、目の前で「医学」という名の拷問に晒されている。
(すまない、ナギサ……すまない……っ!!)
アドリアンはただ、獣のようにのたうち回る彼女の手を握り締め続けるしかなかった。
凄惨な悲鳴が鼓膜を突き抜けるたび、アドリアンの脳裏には、遠い日の記憶が蘇っていた。
かつて、両親を奪った断頭台。
振り下ろされる刃は冷酷だったが、そこに宿る死と苦痛は、一瞬の出来事だったはずだ。
だが、ここは違う。
目の前で繰り広げられているのは、生きるための地獄だ。
助けるために縛り上げ、救うために叫ばせ、愛する人が、その体に凄まじい苦痛を強いられる。
自分の無力さを呪った。
死よりも深い苦しみの淵で、それでも彼女の生を繋ぎ止めようとするジャンの形相は、救世主ではなく、地獄の番人のようだった。
(……ああ、ナギサ……っ!)
終わりのない、地獄の時間が始まった。




