第80話:偽りの安寧が終わる時
霧の彼方から届いた、針で刺すような鋭い高音――ボースンコール。
アドリアンは軍議の最中、弾かれたように顔を上げた。
ペンを握る指が止まり、その端正な顔から一瞬にして血の気が引いていく。
「……今の音は、まさか……」
それは、彼がジャンに預けた「最悪の事態」を告げるための銀の笛。
本来なら部外者の立ち入りが厳禁されている上甲板に、荒々しい足音が雪崩れ込んだ。
現れたのは、場違いな革鎧を纏い、潮と血の匂いを纏った男――
スペイン傭兵隊長、ロドリゴだった。
「待て! 貴様、何者だ!」
衛兵たちが一斉に抜剣し、男を取り囲む。
白刃の群れがロドリゴの喉元に突きつけられたその時、 騒ぎを察知したアドリアンが、上甲板へ飛び出す。
だが、ロドリゴはその切っ先すら視界に入っていないかのように、真っ向からアドリアンを見据えた。
「どけッ!! 時間がねえんだよ!!」
獣の咆哮のような怒号が、規律に満ちた艦内の空気を叩き割った。
アドリアンは制止する部下を押し除け、ロドリゴの前へと歩み出る。
「アドリアン!!」
ロドリゴは、喉を裂くような声で叫んだ。
「……ジャンの笛が鳴った。――“合図”だ! 追い詰められた時以外、あいつは絶対に吹かねえと言っていた、あの笛だ!」
アドリアンの喉が鳴る。
「……潜伏させていた俺の連中が、すでに動いてる。イギリスの犬どもを必死に追ってる……だが――!」
ロドリゴは悔しさに顔を歪め、拳を甲板に叩きつけた。
「遅れた……っ。俺たちが……俺たちが気づくのが、一歩遅すぎた!」
「場所を詳しく言え!」
アドリアンはロドリゴの胸倉を掴み、叫び返した。
その瞳には、冷静な指揮官としての色はもう残っていない。
「東の……入り江の砂浜だ……!」
「……っ!」
「すまねぇ、アドリアン……! カディスの街は、喰われてやがった。イギリスの手が……俺たちの喉元まで来てやがったんだ……!」
ロドリゴの震える声。
アドリアンの脳裏に、穏やかな浜辺で屈託なく貝殻を拾っていた渚の姿がよぎる。
あの柔らかな笑顔が、今は霧の中に消えようとしている。
アドリアンはロドリゴを放すと、背後を振り返ることなくマントを翻し、タラップを跳ねるように駆け下りた。
港の石畳を全力で蹴り出した。
視界を遮る白い霧の中を、彼は一人の男として、なりふり構わず疾走する。
「はぁ、はぁ……っ! ナギサ……っ!」
彼女がこの世界に現れてから、まだたったの数ヶ月。けれど、彼女のいない世界など、もはやアドリアンには想像もできなかった。
冷たく湿った空気が気道を刺激する。
先ほど耳にした、悲痛な笛の音。
今も彼女はそこにいるのか。それとも――。
市街地を抜け、砂利に足を取られながらも海岸線へ飛び出す。
市街地の喧騒が遠ざかり、代わりに聞こえてきたのは、霧に遮られて不気味にこもった波の音だけだった。
「ナギサ!! ナギサ、どこだ!! ジャン! 返事をしろ!!」
アドリアンは剣の鞘を強く押さえ、砂を蹴り上げながら、最愛の人がいるはずの白い闇の中へと突っ込んでいった。
どうか、無事でいてくれ。その願いだけが、限界に近い彼の足を突き動かしていた。
不意に、霧の向こうから影が揺らめき、ロドリゴの部下たちが現れた。
その顔は一様に暗く、血の匂いを漂わせている。
「……こちらです」
手招きされ、アドリアンが霧の奥へと足を踏み入れた瞬間。
彼の呼吸が、凍りついたように止まった。
そこには、渚の警護につかせていた精鋭の部下たちが、物言わぬ骸となって転がっていた。
砂浜を汚すどす黒い血が、白い霧にじわりと滲んでいる。
「……あ……」
アドリアンの脳裏に、最悪の事態が、鋭い刃となって突き刺さった。
部下を殺し、ジャンを海へ追い詰め、そして渚を連れ去ったのか。
あるいは、この骸の中に、彼女も交じっているのか。
震える指先で剣を握り直し、アドリアンはさらなる絶望が待つ霧の深淵へと、足を踏み出した。
ザッ、と砂を噛む音がした。
霧の向こうから影が揺らめく。
それは、冷たい海水にずぶ濡れになり、肩で荒い息をつくジャンだった。
顔は青ざめ、体中に擦り傷を刻みながらも、その腕には、意識を失った渚をしっかりと抱え上げている。
「ジャン……! ナギサ!」
アドリアンの駆け寄ろうとしたその足が、あまりの安堵と衝撃で震え、膝から崩れ落ちそうになった。
ジャンは今にも倒れそうな足取りでアドリアンの元へたどり着くと、その場に膝をつき、宝物のように抱えていた渚を、そっとアドリアンの方へ差し出した。
「…………すまん」
ジャンの口から絞り出されたのは、それだけの言葉だった。
アドリアンは何も言わず、砂と海水にまみれた二人を、祈るように強く抱きしめた。




