第79話:ボースンコール(号笛)の音色
(成瀬の深い口付けの中、渚の意識が遠のき始める……)
不意に、霧の奥底から鋭い高音が鼓膜を刺した。
――ピィ、ピピィ、ピィッ!!
霧の向こう、ジャンとフルトンが消えた断崖の淵。
ジャンは背後から襲い掛かる**工作員(間諜)**の刃を紙一重でかわすと、迷うことなく冷たい海へと身を投げた。
荒れ狂う波間に消えながら、彼は最後の力を振り絞って銀の笛を吹き鳴らす。
それはアドリアンが「もしもの時」のためにと託した、反撃の狼煙。
特定の音色が街に響き渡ると同時に、潜伏していたロドリゴ率いるスペイン傭兵たちが、一斉に獣のような牙を剥き始めた。
(号笛…………! ジャン……っ)
渚は成瀬の腕の中で、辛うじて拒絶するように目を開けた。
「……なるほど。なかなか手回しがいい。お前の騎士様は」
成瀬は唇を離すと、不快そうに街の喧騒を振り返った。
遠くから傭兵たちの怒号と、石畳を叩く軍靴の音が迫っている。
「……ああ、時間だ。」
成瀬は近づく傭兵たちの足音を気にする風もなく、ぐったりとした渚を砂浜に横たえた。
見下ろす瞳には、かつての級友としての情など微塵もない。
彼は、獲物を追い詰める獣のような低い声で囁いた。
「渚。破壊は外側からだけじゃない。……内側から、形を保てなくなるまで膨れ上がり、爆発する。その爆発はお前の周りの奴をも焼き尽くすだろう。その絶望を存分に味わえ」
成瀬は自らの専門である『高圧の理論』をなぞるように、冷たく笑った。
「シリンダーと同じだ。……お前の心も、内側から俺への恐怖で満たしてやる。耐えきれずに破裂するその日まで、精々、幸せな航海士ゴッコをしていろ」
霧の向こうから、救難を告げるボースンコールが鳴り響き続ける。
「なるせ……くん……」
渚が震える手を伸ばすが、成瀬は一度も振り返ることなく、霧に溶けるように背を向けた。
「いくぞ」
成瀬が霧の向こうへ鋭く声をかけると、入り江の陰から一艘のボートが音もなく滑り出してきた。
そこには、成瀬の協力者と、ロバート・フルトンが、狂気を孕んだ眼光で状況を注視していた。
成瀬は凍えるような水温を厭う様子もなく海へ入り、数メートル泳いでボートへと辿り着くと、フルトンが差し出した手を無造作に掴んで這い上がった。
「……ナギ殿は? 彼女を連れて行かぬのか?」
フルトンが、計画の核心であるはずの渚を置き去りにしたことを責め立てるように問う。
しかし、成瀬は濡れた髪をかき上げ、傲然と言い放った。
「勘違いするな、フルトン。お前の技術を具現化できるパトロンは、この時代に俺しかいない。あんな女に何ができる? あいつが持っているのは、管理と保安の知識だ。事故が起きないよう見守るだけの、臆病な知恵に過ぎない」
成瀬はフルトンの胸ぐらを掴むほどの勢いで顔を近づけ、その瞳に宿る野心を射抜いた。
「だがお前が真に必要としているのは、そんな守りの知識じゃないだろう。ゼロから圧力を生み出し、鉄を駆動させ、破壊的な力を形にする――『製造』という名の創造だ。お前の作りたい物は、あの女の唱える理念の様な生ぬるい物なのか?」
成瀬は唇を歪めて畳みかける。
「お前の夢を『現実の兵器』に変えられるのは、この俺だけだ。お前は、俺という動力なしでは、敗北確定のフランス軍と同じく、ただの夢想家として終わるだけだ!」
フルトンは成瀬の圧倒的な威圧感に言葉を失ったが、技術者としての本能がその言葉を肯定していた。
(……成る程。この男が私の設計図を『本物』に変え、莫大な富を運んでくるというのなら、今はそれでよい……)
一方、警護の軍人を殺害したイギリスの工作員たちは、役割を終えた人形のように、音もなく霧の中へと霧散していく。
(成瀬……くん……)
ポルトガルの商船が鳴らす重低音の汽笛が、弔鐘のように響き渡る。
街から駆けつける傭兵たちの足音が間近に迫る中、渚の意識は、口内に残るコーラシロップの不気味な甘さと共に、深い闇へと沈んでいった。




