第78話:再会の言霊
心臓が、耳元で鐘のように激しくなった。
目の前に立つ男は、確かに日本語を発した。
この十九世紀初頭のスペイン、立ち込める霧の中で、あり得ないはずの音が空気を震わせた。
もしこの言語を、渚以外に話す者がいるとするなら。
あの時、実習船から転落した、かつの同級生しかいない。
「探したよ。」
「……な、なるせ…くん」
渚の喉から、ひび割れた声が漏れる。
久しぶりに使った母国語は、まるで使い古した機械のようにぎこちなく、自身の肺を焼くほどに重い。
「ずっと、ずっと探してやっと見つけたよ。」
本来なら、泣いて喜ぶべき再会のはずだった。
しかし、ゆっくりと顔を上げた渚を襲ったのは、さらなる戦慄だった。
「……」
違和感。
目の前に立つ男の顔は、渚の記憶にある「成瀬」とはどこか違っていた。
年齢は二十代後半から三十代だろうか。
渚が知っている彼よりも、数年も、あるいは十年近くも時を重ねたような深みと、冷徹な陰りがある。
何より、その瞳に宿る光が、かつての同級生のものとは思えないほどに昏い。
私の手を離さずに暗い海の底へと一緒に消えた彼を、一日たりとも忘れたことはなかった。
けれど、今、全身を支配しているのは、熱い感動などではない。
肌を刺すような、逃げ場のない「恐怖」だけだった。
あんなに会いたかったはずの男が、今は、一歩も近づいてほしくない「未知の怪物」に見える。
本能が、喉の奥で悲鳴を上げていた。
(私の知っている成瀬慎司じゃない…)
「……ああ。その呼び方は、少し懐かしいな。渚。」
男は「名前」を、親しげに、それでいて刃物のような冷たさで呼んだ。
「渚にとっては『昨日』のことかもしれないが……。俺にとっては、もう随分と前だ。この泥沼のような時代で、渚、君の事は忘れたことは無かった…。」
男――成瀬が、一歩、歩み寄る。
彼が纏っているのは、霧に紛れるような黒い外套。
風が彼の黒い外套を乱した一瞬、その裏地から**「鮮烈な赤」**が火花のようにのぞいた。
それはフランス軍が決して身につけない、イギリスの誇りそのものの色だった。
「ジャン……ッ! ジャン、逃げて!!」
渚は反射的に霧の向こうへ叫んだ。
(……成瀬くんは、スペインに流れ着いてたんじゃない…)
彼は、二年後にフランス艦隊を壊滅させる、あの「最強の包囲網」の側にいるのだ。
目の前の男が、自分の知っている「成瀬くん」などではない。
二年後のフィナーレ。
私たちが辿り着くはずの終着駅で、死神として待ち構えている――敵国側の人間だ。
成瀬は渚の叫びを気にする様子もなく、その身体を無理やり抱き寄せた。
「渚の『守る』だけの資格と、俺の『破壊』できる資格。この世界を地獄に書き換えられるのは、どっちだと思う?」
「成瀬くん!はな…して」
だが、成瀬の腕は鉄の鎖のように、彼女を離さなかった。
その鎖はどんどん渚を締め付ける。
(く、苦しい…息が…)
「渚。お前は日本のテレビで流れる戦争のニュースで泣いた事があったか?紛争のニュースをみて何かを感じた事があったか?」
成瀬は日本のモニター越しに、移す世界にお前は興味があったか、と問いかける。
「人質にされた人間が、そんな場所に行くから自己責任と、処刑されても何も感じなかっただろう?」
成瀬の目が深淵の闇を、渚に向け、深く深くその闇が浸食していく。
「どんな扱いを受けたと想像した? どんな拷問を受け、どれだけ精神を、感情を、ズタズタに引き裂かれたと――想像したことがあったか…?」
成瀬の声が、僅かに震える。
そして頭をきつく抑えていた、手が微かに緩み、渚は警護の軍人がいた場所を振り返った。
「だれ…か!」
そこには、物言わぬ骸と化した軍人。
砂浜は黒く濡れ、血液が音もなく大地を侵食していた。
「いやぁぁぁぁあ!!!あああああ!いやぁー」
渚をきつく抱きしめる腕に成瀬は更に力を込め、締め上げいく。
「これは、渚、お前の自己責任だと思わないか?」
渚は「さっきまで守ってくれていた者」に手を伸ばし、泣き喚く。
(アドリアン、私は…)
((私は恐ろしいんだ。ナギサが、無自覚にこの時代を壊してしまうのではないかと……))
私の無自覚な『悪魔との契約』が、人の命を奪った。
泣き喚き続ける渚の頭を再度掴み、成瀬は黙らせるように、深く、暴力的な口づけで彼女の唇を奪った。
「……んんん…ふー、ふー」
成瀬の背中を叩き、爪を食い込ませて抵抗するが、彼はより一層に圧力をかける様に抱きしめる。
深く絡められた舌。
抵抗しようとすればさらに奥まで押し込まれ、意識が遠のいていく。
(い、息ができない…)
その接吻の奥に、微かに、けれど確信を持って広がる『アンダルシア・コーラ』の味が、渚を絶望の底へと突き落とした。
(成瀬の深い口付けの中、渚の意識が闇へと溶け始める……)
――ピィ、ピピィ、ピィッ!!
不意に、霧の奥底から鋭い高音が響き渡った。




