第76話:守るための剣、奪うための罠
冬の夜の冷気が、旗艦の重厚な提督私室にも忍び込んでいた。
揺れるランプの火が、壁に掛けられた海図を不規則に照らす。
シャルルは窓から漆黒の港を見つめていた。
「……入ってきなさい、アドリアン。ノックの音が硬いわよ」
扉が開き、軍服の襟を正したアドリアンが、かつてないほどに険しい表情で入室する。
「……フルトンとナギはどうかしら?」
全てを悟っているかのようなシャルルの問いに、アドリアンは焦燥を抑え、一歩詰め寄って報告した。
(提督は全て分かっている。それでも、あえてナギサとフルトンを引き合わせているというのか……)
「彼は『本物』です。そして今、ナギサ殿が彼を真の意味で『本物』にしようとしています。蒸気船を……閣下が一度は『詐欺師』だと一蹴した設計図を、彼はまだ諦めていない。そして、彼に足りなかった最後の部品……それを、ナギサ殿が持っている。これ以上、二人を接触させるのは危険です! いますぐナギサ殿を船に戻すご判断を!」
「そう……」
シャルルは窓の外を見つめたまま、短く応じた。
「ボナパルト閣下は、科学の徒です。数学を愛し、新しい公式と合理性のためなら、神の教えすら踏みにじる方だ。ナギサ殿の『未来の知識』を目の当たりにすれば、彼女を『可愛い客人』としてなど扱いません。『帝国を動かす最高の歯車』としてパリの学士院に幽閉し、その知恵の最後の一滴まで搾り取るでしょう」
シャルルの眉が、微かに動いた。
「……そうね。でもそれは、私たちがナギを拾った時点で決まっていたことなのよ。アドリアン、彼女は帝国の歯車なんて小さな部品じゃないわ。ナギが用意した『運命の歯車』に、私たちが選ばれた……そう思わない?」
アドリアンの喉が、ごくりと鳴った。
「ナギの知識は、この時代にとっての『禁断の果実』。彼女が自分の価値を分かっていないことが、今ナギ自身を、そして私たちを死の螺旋に巻き込んでいる。でもね、アドリアン……」
シャルルがゆっくりと振り返る。
その瞳には、諦念を超えた強い光が宿っていた。
「本来、此処にはなかったはずの命なのよ。あの嵐を越えられず、血を口に溜めて死にゆくのを待つだけだった……。けれど、本来なら入港すらかなわなかったはずのカディスにいる。その全てが、ナギの『運命の歯車』になる為に生かされているからだとは思わない?」
全てはナギの運命に取り込まれているからだ。
シャルルはそう言い切った。
アドリアンの胸中にも、同じ想いが去来する。
「だから、行く末を見守ろうじゃない。流されるんじゃないわよ。ナギの作る未来を、私たちの意志で見届けるの。……本来、神が用意した海図にはない航路でしょうけどね」
ふっと、シャルルが不敵に笑った。
「でもね。ただ見守るだけなんて、私の性に合わないわ。いい? 全員で生きて春を迎える。……わかった?アドリアン」
その笑顔と、提督としての絶対的な決断を前に、アドリアンは深く、深く頭を下げた。
「……承知いたしました。神の描いた海図を破り捨て、ナギサ殿の描く未来へ。出会ったその時から、私は彼女の『剣』となると決めております。その航路を邪魔する者がいれば、たとえ誰であろうと斬る。それが、私が自ら望み、この魂に課した『終身の使命』でございます」
顔を上げたアドリアンの脳裏に、ふと、あの日の光景が蘇った。
公現祭の日。
オレンジの花が香るロスコンを囲み、小さな『王様の陶器人形』を引き当てて、あどけなく笑っていた彼女の姿。
『私は……みんなで、無事に春を迎えたいです。誰一人欠けることなく、この海で笑っていたい』
あの時、彼女が「王様」として捧げた無垢な願い。
それがどれほど困難で、血塗られた道の先にあるものだとしても。
(……貴女の願いは、私たちが守る。例えこの手が、どれほど汚れようとも)
冬の夜、旗艦の提督室。
二人の決意を乗せて、運命の歯車は、さらに速度を上げて回り始めた。
カディス工廠の片隅。
一晩中、取り憑かれたように図面を引き続けていたフルトンの元に、白み始めた朝霧の中から密使が戻った。
「……フルトン様。ジブラルタルからの回答です」
差し出された書簡を、フルトンは充血した瞳で凝視する。
『――本日、カディス港三号岸壁にポルトガル商船「サン・ジョゼ号」が停泊中だ。夕刻の出航までに、技師としてナギサと共に乗り込め。見張りについては、彼女を海岸へ誘い出した後に我が方の工作員が処分する。 貴殿は予定通り、素材集めを口実に彼女を連れ出せ』
「……フフ、海岸か。昨日、彼女が僕を誘ってくれた場所だな。実に皮肉で、美しい幕引きだ」
フルトンは窓の外を見つめた。




