第75話:甲種×簿記2級の全否定マウント-劇薬の狂乱の夜
「立ち会いすらできない。……それが『甲種×簿記2級の全否定マウント-劇薬の狂乱の夜』以上の資格者にしか許されない領域だってこと、知らなかったか?」
成瀬は、久しぶりに笑った。
その手には、どろりと黒いコーラの原液がなみなみと入っていた空瓶が握られている。
カフェインと糖分の過剰摂取で瞳孔は開き、頬は異様に紅潮していた。
「はは……っ。どうせ簿記も三級だろ? しかもそれ、商業簿記だけじゃないか! 工業簿記が入ってない! ああ、ダメだ……これは、笑うしかないわ」
「あーダメだ。久しぶりに笑ったらはらがよじれる…」
成瀬は傍らに跪くアーサー
――奴隷として飼われ愛玩動物のような憂いをと美しさのあった面影を失い、「ルカ」と呼ばれた生き物はもう何処にもいない。
「Look at me, you arrogant British soldier.」
(俺を見ろ、傲慢なイギリス軍人殿)
パチンと何度もアーサーの頬を叩く。
乾いた音が響き渡る。
「お前が持ってる『販二』で現代できることなんて、せいぜい引っ越しシーズンのアパートを回って、ガスコンロが点くか確認して、お情けで警報器を売りつける……そんなレベルだろ? 俺が持ってる資格は『甲種』に『設備士』だ!入社時点で格が違うんだよ!あははは。」
アーサーは、その痛みと侮蔑に、恍惚とした表情で身を震わせる。
一晩中、この主従逆転の儀式は続くのだ。
「はは……っ、ああ……。それで、どうやってこの巨大な軍事プラントを運用するんだ、渚? 悪いが、お前の持ってる資格は全部『物流の入門編』に過ぎない。お前はせいぜい、安全に管理して『売る』だけだ。だが、俺が出来るのは『製造』であり、物流コストをミリ単位で削り取る『原価計算』もだ!」
成瀬は空の瓶を見つめる。
「この世界の低俗な蒸気機関を、一気に『内燃機関』へ引き上げてやる。渚、お前は漏洩チェックに配管に石鹸水でもかけて、法令遵守の理念でも唱えていろ…。その泡が乾く頃には、世界は俺の計算通りに焼き尽くされているよっ』
「Discard your pride. In this new world I’m building, you’re not a commander. You’re my personal dog. Now, say it. Say 'Yes, Master'.」
(プライドを捨てろ。俺が作る新世界じゃ、お前は指揮官じゃない。俺の飼い犬だ。ほら、言ってみろ。『イエス、マスター』とな)
アーサーは、頬を真っ赤に腫らしながら、ガタガタと震えていた。
成瀬は今、かつてないほどに輝いている。
成瀬が吐き出す、理解不能な「異国の言葉」。
理解出来ないが、その傲慢な響き。
彼に罵倒され、足蹴にされ、続くこの折檻が……ああ、たまらなく愛おしい。
この男は、私という存在を粉々に砕き、全く別の「何か」へと作り変えていく。
差し出そう。
私の魂も、地位も、かつて私が踏みにじった、お前の尊厳のすべてを彼に返そう。
利息などいらない。ただ、もっと私を壊してくれ。
「ああ……あああッ……!」
声にならない歓喜が喉を焼く。
成瀬の瞳に映る私は、かつての主人ではない。
ただの、便利な「部品」だ。
それでいい。
彼が語る『何か』とやらの一部になれるのなら、私はこの海を、この世界を、喜んで焼き尽くす燃料になろう――。
その絶望の果てに、アーサーの唇から漏れたのは、嗚咽混じりの甘い声だった。
「……Yes……Master……」
アドリアンに丁重に送られ、ホテルの部屋で荷物をまとめる渚。
渚は、ベッドにダイブしたい気持ちを抑えて、漆黒のジュース用の帳簿を開いた。
「よし……。まずは今日のうちに、ボナパルト様に献上した分の帳簿をまとめちゃわないと」
ランプの心もとない明かりの下で、渚は「三級のテキスト」を思い出しながらペンを走らせる。
記録するのは、コーラ原液5パイント分の原料費だ。
「ええっと……香料とかのスパイス類は、市場でその場で払ったから『現金仕入』でしょ。でも、あの大量の砂糖は問屋さんからツケで買ったから……『買掛金仕入』、だよね」
頭の中で電卓を叩く。
現代ならパソコン一台で終わる作業だが、ここでは羽ペンとインク。
手が汚れるのも構わず、渚は必死に数字を並べていく。
「この買掛金……明日、アドリアンに支払い依頼を出さなきゃ。あの人、お金の話になると結構シビアなんだよねぇ…領収書抜けてたら怒られそう…」
成瀬が「原価計算」で世界を壊そうとしている一方で、渚は「たった数ペンスの買掛金」の責任を背負い、一生懸命に自分の職責を果たそうとしていた。
「よし……。これで借方と貸方、ピッタリ一致!」
最後に引いた二重線。
左右の数字が1の位まで完璧に揃った瞬間、渚の顔にパァッと明るい笑みが浮かんだ。
成瀬に「格が違う」と笑われようが、「入居作業レベル」と蔑まれようが、今の渚にとってはこの「貸借一致」こそが、自分の存在をこの世界に認めてもらう為の能力(資格)だ。
「ふふ、やっぱり簿記やっててよかったかも……」
満足げに帳簿を閉じた渚は、そのままベッドに倒れ込む。
成瀬という「甲種」の怪物が、すぐ近くの暗闇でアーサーを「固定費」と呼んで踏みつけていることなど、今の渚には全く想像できる余地もなかった。




