第8話:嵐のあと、怪物(けもの)は微睡む前編
地獄は、唐突に終わった。
狂ったように艦を叩いていた怒濤が引き、気づけば頭上には、皮肉なほどに美しい星空が広がっていた。
「……助かったのか。我々は」
アドリアンは、震える手で自身の軍帽を拾い上げた。その指は、極限の緊張から解放され、鉛のように重い。
(……あり得ない。お前が示したあの針路は、海軍兵学校のどの教本にも載っていなかった)
アドリアンの脳裏に、数分前までの光景が鮮烈に焼き付いている。渚が示した針路は、海を知る者からすれば「自殺志願者」のそれだった。だが、潮の流れを、風を、そして艦の重さすらも計算し尽くしたかのような、完璧な「誘導」が、死の岩礁を背後へと過ぎ去らせたのだ。
(あれは単なる運などではない。まるで……未来からこの海を俯瞰していたかのような……。何者なんだ、お前は)
アドリアンが、畏怖の念を込めて隣の「少年」を振り返った時だった。
「……」
渚の顔は、月光の下で死人のように青ざめていた。
彼女は震える膝を支えようと、手すりに指をかける。だが、その指先から力が失われ、崩れ落ちるように甲板へ倒れ込んだ。
「おい、お前! しっかりしろ!」
咄嗟にアドリアンがその体を抱き止める。腕の中に収まった体は、驚くほど細く、熱かった。
「……アドリアン副官。その者を私の私室へ運びなさい」
シャルルの声が響く。そこには、先ほどまで戦場を統べていた冷徹な提督の響きしかなかった。
「提督、ここに医官を呼びましょうか」
というアドリアンの申し出を、シャルルは鋭い眼差しで遮った。
「私が診る。私室に運んでくれ。貴公は被害状況の確認を。……行け」
「……はっ!」
アドリアンは戸惑いながらも、意識を失った渚を抱き上げ、重厚な私室の扉の向こう、ベッドへと横たえた。
バタン、と重厚な扉が閉まり、廊下にアドリアンの足音が遠のいていく。
その瞬間、シャルルの空気が一変した。
シャルルは深くため息をつくと、ピンと張っていた肩の力を抜き、艶然と微笑んだ。
「……あらあら。とんでもない『化け物』を拾っちゃったみたいね…」
甲板にいた厳格な軍人の面影は、もうどこにもない。そこには、柔らかく、どこか妖艶な響きを帯びた「おねぇ」の顔に戻ったシャルルがいた。
シャルルは手際よく、渚の軍服のボタンを外していく。
「苦しかったわよね……。ごめんなさいね、こんな重荷を背負わせて」
シャルルは、慣れた手つきで限界まで巻いたさらしを解き、熱を出した渚の額に冷たいタオルを当てた。
眠る少女を見つめるシャルルの瞳には、慈愛だけでなく、ぞっとするような「期待」が混じっていた。
「この時代の人間が逆立ちしても思いつかないようなことを、当然のようにやってのける……。ふふ、まるで神様が、私を助けるために送り込んでくれたみたい。……いいわ、あなたが何者でも。この私を、どこまでも高いところへ連れて行ってちょうだい」
その手つきは、かつて断頭台へ消えた姉が、弟を撫でた時と同じ優しさに満ちていたが、その独白は、運命を変える切り札を手にした野心家のそれだった。
「……なるせ…………」
渚がうなされながら、掠れた声で名を呼ぶ。
「……? ナルセ……?」
聞き慣れない響きに、シャルルは手を止めて小首をかしげた。
「何かしら、人の名前? ……ふーん、海を漂っていた理由は、その『ナルセ』って人に関係あるのかしらね」
シャルルは、成瀬がこれから対立する最大の相手とはまだ知る由もない。ただ、少女が夢にまで見るその相手に、少しだけ興味を惹かれたように唇を歪めた。
「いいわ、ゆっくりお休み。……私の可愛い、諮問官さん」
その時、扉のすぐ向こうから微かな気配が伝わってきた。
誰かが扉の前で立ち止まり、行ったり来たりを繰り返している。ノブを掴もうとしては躊躇い、拳を固めては下ろす――そんな迷いに満ちた「音」を、シャルルは静かに耳にしていた。
(……ふふ。ノックくらいすればいいものを。本当に、不器用な子ね)
扉の向こうにいるアドリアンの、ソワソワと落ち着かない様子を想像して、シャルルは小さく肩を揺らした。
やがて、諦めたような、あるいは自分の不甲斐なさに苛立ったような足音が、廊下に遠ざかっていく。
シャルルは静寂の中で、再び眠る渚へと向き直った。
「さて……。この子が目覚めたら、どんな面白い『お話』が聞けるかしらね」
月光が差し込む私室で、おねぇに戻った提督は、とんでもない掘り出し物を愛でるような不敵な笑みを浮かべ、夜の静寂へと沈んでいった。




