第74話:覚醒の黒い劇薬 ――反逆の利息は高くつく
ジブラルタル要塞、英軍司令部隣接のホテル。
かつて完璧な聖域だったその部屋は、今や死臭に似た沈黙に支配されていた。
アーサーは、手元の密書を苦々しく睨みつけていた。
フルトンの従者に潜り込ませていた協力者から届いた、亡命の打診。
『――この古臭い大陸に、私の夢を受け止める器はない。宿敵である貴国へ、最高の土産と共に下ろう。……あの「女神」を連れて』
アーサーは密書を握りつぶした。
本来なら狂喜すべき報告だが、今の彼に余裕はない。
ネルソンからは「ドブネズミ」と罵倒され、ピレネーで仕留めるはずだったルブランは谷底へ消え、生死すら不明。
手元にあるのは、泥にまみれた一本の瓶――不気味に澱んだ「漆黒の液体」だけだ。
「……女神だと? 笑わせるな。私の盤面を泥靴で踏み荒らした、忌まわしきカディスの『光』が……」
その時。
一ヶ月近くベッドに横たわっていたルカの手が、ピクリと動いた。
「……それを。……その、紙を」
枯れ木のような声。
驚愕するアーサーから密書をひったくると、ルカ――成瀬は、瞳に異様な燐光を宿し、貪るように文字を追った。
「あは……あははは!! フルトン……! 渚と会ったのか!! しかも何だ、この図面は……」
成瀬は日本語で、まくしたてるように独り言を繰り返す。
「ルカ、異国の言葉は慎め!」
「渚……お前はこの世界で『保安責任者』にでもなるつもりか? あはははは!」
成瀬の狂笑が響く。
「渚…『販二』しかもってないのか??ははっ、そうか、そうだよなぁ……。お前の持ってる資格じゃ、どうあがいてもそりゃ無理だわ!ガスを容器に充填する事さえ許されてない資格だ……製造プラントなんてもはや無理だ!あは、あはははは!」
成瀬は商社入社後に、新入社員が求められる資格を在学中に網羅していた。
(俺が持っているのは、そんな管理だけ(守り)の資格じゃない……『製造』の資格だ)
だからこそ、渚の知識が浅いものであると理解した。
アーサーは初めて、成瀬の「真の狂気」を目の当たりにし、背筋に冷たいものが走った。
成瀬は傍らの漆黒の瓶を掴み取ると、アーサーが止める間もなく栓を抜き、その猛毒のような液体を喉を鳴らして飲み干した。
「ゲホッ……、……ッ! く、くふふ……凄い。…ああ、そうだ。この『毒』が欲しかったんだ。炭酸なしじゃ、胸が焼けるような甘さだな。ははっ、これは、本当にこの時代の『理』を無視している。……もっと、ずっと先の……飲み物!」
カフェインと糖分の暴力が、衰弱していた成瀬の神経を強制的に再起動させる。
彼は歓喜と憎悪に顔を歪ませ、アーサーを見上げた。
「ル、ルカ……何をさっきから喋っている! 分かるように話せ!」
成瀬の口から、氷のように冷たく、そして完璧な英国紳士を嘲笑うような英語が放たれた。
"You fool, who can't even handle my prophecies properly!"
(俺の予言書すらまともに扱えん無能が!)
アーサーは、初めて自分に牙を剥いた成瀬に怯んだ。
「ル、ルカ……! 誰が主人か分かっているのか!」
アーサーが拳を振り上げた瞬間――。
ドッ!! と重鈍な音が響いた。
成瀬の足が、アーサーの腹部を容赦なく蹴り上げたのだ。
「がはっ……!?」
アーサーは胃液をぶち撒けながら床に倒れ伏した。
「な、なな何を……」
「この十年間、お前はただ予言をなぞるだけだった。先を見る目があるように振る舞うだけの無能のくせに、自らネルソンに進言したこの地中海封鎖もこの様だ」
(退屈な分かりきった未来のフィナーレを迎える為に、あえて時間を早めるようにアーサーに持ちかけた。そうした事で渚が現れた…)
でも成瀬はようやく気づいた。いや、最初から分かっていた。
自分はただ、生きるために「無能な上司」に搾取されるを選んだ。
必死に会社にしがみつく愚かな駒のように。
だが、渚は違った。
彼女は現代知識を使い、自分の足で這い上がって生きている。
それは未来で自分が描いていた、商社で働く自分の姿だった。
(……ならば、俺もこの理を破壊してやる。この男もろとも!)
それはまるで、ブラック企業の部下が、積年の恨みを込めて反旗を翻す光景だった。
成瀬は、倒れたアーサーの胸ぐらを掴み、頬を思い切り叩いた。
「十年間分の利息だ!!」
「な、何をする……ッ!」
アーサーはその狂気に震え上がる――が、同時に歪んだ快感が脳をかすめる。
成瀬は無造作にアーサーのベルトを外すと、それを鞭のように構えた。
「俺の知識で、お前にキッチリ一万ポンドを返してやる!」
鋭い音が響き、再びアーサーの肌が裂ける。
「ああ……っ、はぁ、はぁ……」
アーサーは恐怖しながらも、どこか恍惚とした表情で成瀬を見上げた。
「アーサー。フルトンをカディスから脱出させろ。ポルトガル経由でイギリスだ。それを俺も追いかける! わかったな!」
成瀬はベルトをアーサーの首に押し付け、力任せに絞り上げた。
アーサーは顔を真っ赤にしながら、絞り出すように答える。
「は、はい……マスター……」
(渚、お前がその資格で『壊さない』ようにするなら……俺の持っているすべての資格で、破壊し尽くしてやる)
カディスの女神と、ジブラルタルの破壊者。
運命の歯車は、もはや誰にも止められない速度で回り始めた。




