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ナポレオン戦争に迷い込んだ女子大生、おねぇ提督とフランス軍を救います  作者: もふおのしっぽ
第四章:蒸気機関と現代の資格『守り』と『破壊』

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第71話:渚先生とフルトン君の科学教室

カディスの海岸で拾い集めた大量の貝殻。



 渚はそれを、重い鉄の乳鉢を使って粉々に砕いていった。



「ナギ嬢。その白い粉末(貝殻)から、どうやって『死の空気』を呼び出すつもりだ?」



 フルトンが、好奇心と執着の混ざった目で覗き込む。



 渚は工場の薬品棚から、厳重に栓をされた琥珀色の瓶を取り出した。



「これですよ、フルトンさん。……ええと、塩酸。じゃなくてムリア酸です!」



 現代で言うところの塩酸だと、ジャンにあらかじめ教えてもらっていた。



「……ムリア酸だと? 金属を溶かし、皮膚を焼く毒液ではないか」



「そうです。でも、この白い粉――つまり炭酸カルシウムに、この酸をかけると……」




 渚が粉末になった貝殻に、薄めた酸を数滴垂らした。



 その瞬間。



 ――ジュワッ!!



 という音と共に、白い泡が沸き立ち、目に見えない気体が溢れ出した。



フルトンはそれが危険であると理解して、それ以上近づこうとはしなかった。



「気体にはそれぞれ『水との相性(溶解度)』があって、普通の空気は、いくら圧力をかけても水にはほとんど溶けません。でも、二酸化炭素は違う。この子は水に溶けるのが得意なんです」



「ナギ嬢。話は分かった。君の言う『二酸化炭素』が、我々の言う固定空気であることも、それが水によく溶けるという理屈も……認めよう。だがな」



 フルトンは喉を鳴らし、瓶の中の「見えない死」を睨みつけた。



「それを……本当に口に入れて大丈夫なのか? 相手はボナパルト閣下だぞ。固定空気は炭鉱の底で男たちの命を奪う、死そのものだ。それを水に混ぜて飲ませるなど、正気の沙汰ではないか?」



 1804年の最先端を行く発明家にとっても、毒ガスを「飲料」にするという発想は、生存本能が拒絶する狂気だった。



 渚はそんなフルトンの怯えを払拭するように、シャンパンの瓶をポンと叩いた。




「フルトンさん。じゃあ、このシャンパンを飲んで、飲みすぎ以外で死んだ人を見たことがありますか?」




「……。それはいない。だが、これは葡萄の精霊が宿した奇跡であって……」



「いいえ、これも、私が貝殻から作ったものと、同じ『固定空気』なんです。フルトンさん、この世に『絶対的な毒』なんて存在しないんですよ。あるのは『量』と『場所』の違いだけなんです」



 渚はチョークを手に取り、水と炭酸ガスの関係、そして温度による変化を黒板代わりの作業台に書き殴った。



「いいですか。普通の空気(酸素や窒素)を無理やり水に押し込もうとしても、あの子たちは水と相性が悪いから、すぐに外へ逃げ出そうと暴れます。無理に仲良くさせると、フルトンさんの自慢のボイラーも、喧嘩の圧力に耐えきれずに爆発してしまいます」



「……ああ、気体の反発力については、身をもって知っている」



「でも、二酸化炭素は特別なんです。他の気体に比べて、数十倍も水と仲がいいのです。だから、力任せに閉じ込めなくても、水の中にしっとりと隠れてくれる。これが、低い圧力でシュワシュワの飲み物を作れる魔法の正体なんです」



 渚はさらに、胃の中で何が起きるかをジェスチャーを交えて説明した。



「お腹に入れば、体温で温められてまたガスに戻ります。それが『ゲップ』になって外に出るだけです。毒が体に溜まるわけじゃないんです。むしろ、このガスには菌が増えるのを抑える力がある。だから、長旅でも腐らない『保存食』にもなるし、お腹を壊さないための薬にもなるんです!」



 渚の淀みのない解説に、フルトンの時が止まった。



「……。炭素と酸素が手を結び、水の中にこれほどまでに深く、密やかに溶け合うというのか……」



 フルトンは渚の描いたグラフを、うっとりとした、どこか病的な手つきでなぞり始めた。



「ならば、ナギ嬢。もし、炭素と酸素のように、私と君が一つに交わったならば……我々は一体、どのような熱量でこの世界に溶け合うことができるだろうか?」




「……は?」




 渚の口から、素の困惑が漏れた。



 フルトンは渚のすぐ隣まで詰め寄ると、その鼻先が触れそうな距離で、脂ぎった熱い吐息を吐きながら囁く。




「炭素に二つの酸素が寄り添い、安定した結合を得るように、私の『鋼の技術』に君の『未知の英知』が結びつく。それはもはや、水と油のような不安定な関係ではない。……ああ、想像しただけで私のボイラーの内圧が限界まで高まってしまう! 君という触媒を得て、私は、私たちは、歴史という名の巨大な水槽の中に、誰にも引き剥がせないほど濃密に溶け込むことができるのではないか……!」



(うわ……きっ……きっっも……!!)



 渚の背筋に、冬の海風より冷たい戦慄が走った。




 彼にとって科学とは、ピストンを動かし、船を走らせるための「動力」に過ぎなかった。



 だが、目の前の少女は、目に見えない空気の「性格」を熟知し、それを人体という精密な機械に適合させようとしている。



 フルトンの背筋に、今まで感じたことのない熱情が走った。



 (恐ろしい。この娘は、世界の毒と薬の境界線を、指先一つで書き換えている……。彼女こそが、私の夢を完成させるための、最も美しく、最も希少な『パーツ』だ!)



 フルトンの中で、渚への評価が「知恵のある娘」から、「世界の摂理を支配する女神」へと塗り替えられた。




「よし、信じよう、ナギ嬢! その『死の空気』、私の技術で最高の圧力まで高めてみせよう。君の言う『水門レギュレーター』があれば、私は爆発を恐れずに、閣下を驚かせる『炭酸ガス』を完成させられる!」



 フルトンが狂気じみた笑顔で渚の手を握りしめた。



 渚は「あ、握力が強い……!」と心の中で悲鳴を上げたが、同時に、歴史の歯車が「産業革命」のさらに先へと加速する音が、確かに聞こえた気がした。



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