第70話:開かれた海の道、綻ぶ防壁
1804年2月。
カディスの港は、かつての海上封鎖が嘘のようにこの2ヶ月間は活気に満ちていた。
イギリス艦隊をジブラルタルに釘付けにしたことで、市場には宝石のようなスパイス、そして人々の笑い声が溢れている。
だが、その「自由」が、今は軍事上の致命的な隙を生むことになっていた。
「……これ以上の検問は、もはや不可能です、シャルル様」
アドリアンの報告は、重苦しいものだった。
交易が盛んになれば、人の出入りは激増する。
商船の乗組員、荷運びの労働者、そしてその雑踏に紛れるイギリスの諜報員。
かつてロドリゴが掃討した不穏分子の空席を埋めるように、イギリスの「影」が、開放された港から静かに浸透していた。
ジブラルタルから海へ出られなくなったイギリス軍は、その有り余る兵力を陸路の封鎖と破壊工作へと転換させていたのだ。
海を奪われた海軍、アーサーの執念が今やピレネーへと続く街道を血で染めようとしていた。
そう、ルブランが向かった北への道に。
そこには現在、イギリスが雇った野盗のみならず、イギリス軍そのものが密かに動きを見せていた。
カディスの連合艦隊司令本部。
そこには、フランス軍提督ヴィルヌーヴを筆頭としたフランス軍の提督たち、そしてスペインの名将グラビーナを筆頭としたディエゴらスペイン軍の重鎮も顔を揃えていた。
「シャルル! 貴公がもたらした『海の解放』のせいで、この港は今やイギリススパイの温床だ! いつどこで内通者に火を放たれるか分からん。こんな泥沼のような治安を放置して、一体何を考えている!」
ヴィルヌーヴが脂汗を浮かべながら机を叩く。
彼はこの「制御不能な活気」を、ボナパルトからの無茶な命令以上に、自分の首を絞める縄のように感じていた。
「陸路は野盗とイギリス軍の魔境と化し、港内は得体の知れぬ商人で溢れている。貴公の招いたこの混乱を、どう責任取るつもりだ!」
「……仰る通りだ。」
シャルルの低く、淀みのない声が室内の怒号を遮った。
反論されると身構えていたヴィルヌーヴは、拍子抜けしたように口を突き出す。
シャルルは真っ直ぐにヴィルヌーヴを見据え、一歩前に出た。
「海の道を開いたことで、管理しきれないほどの人間が流入した。それは私が招いた事態だ。そして今、諸提督には、多大な心労をかけていることを素直に謝罪する」
あの傲慢なシャルルが、非を認めて頭を下げた。
その姿に、室内を支配していた殺気立った空気が、戸惑い混じりの沈黙へと変わる。
シャルルの手元には、二週間前の消印が押されたパリからの書簡があった。
だが、彼にとってそんな紙切れは、答え合わせの道具に過ぎない。
(……ああ、やっぱり。)
今、ボナパルトは内政に注力している。
だが、渚が記した『予言書』によれば、彼は間もなく冠を戴き、皇帝となる。
自分が呼び出されることになれば、それは単なる帰還ではなく、新しい「帝国」の幹部候補として選ばれることを意味する。
そうなれば、もうカディスへは戻れないだろう。
ルブランが無事にパリにたどり着き、あの『漆黒のジュース』をボナパルトが気に入ったとなれば……間違いなく、渚を連れての召喚を命じるだろう。
それが、渚という存在が書き換えた「正解」のルートなのだ。
シャルルは頭を下げる。
その沈黙に、ヴィルヌーヴとディエゴは、得体の知れない恐怖を覚えた。
「だが、諸君……信じてほしい。この活気も、市場に並ぶオレンジも、すべてはナギ殿がこの海に灯してくれた『光』の結果なのだ」
シャルルは顔を上げ、静かに、だが熱のこもった瞳で提督たちを一人ずつ見つめた。
「今年、パリであの御方が冠を戴く時、私とナギ殿、アドリアンはカディスを離れ、帝都へ赴かねばならないだろう。……私が去った後、この美しく、そして危ういカディスを守れるのは、ここにいる貴方たちだけなのだ」
その言葉は、「もうすぐ共和制は終わり、彼が王か皇帝になるだろう」という、確信に満ちた予言であった。
二週間遅れのニュースで右往左往しているヴィルヌーヴたちにとって、それは狂気の沙汰か、あるいは神託に近い重みを持って響いた。
一介の軍人が口にするにはあまりに重い、だが否定しきれない時代の確信。
ヴィルヌーヴは息を呑んだ。
この男の、未来を完全に手中に収めているかのような目。
ヴィルヌーヴはパリのボナパルトも怖いが、今はこのシャルルという男が、もっとも恐ろしかった。
「……だからこそ、改めて言おう。私が不在の間、この幸福なカディスを、守り抜いてほしい」
フランス軍の提督が、それまで見下していたスペイン軍の提督たちに「カディスの安定」を託し、頭を下げた。
頭を上げると、シャルルはディエゴの方を向き、射抜くような鋭い目つきに戻った。
「ディエゴ殿。ナギ殿が残した『黄金の工場』は、貴殿の責任で守ってもらう。一滴の汁も失うことは許さん。……お前が盗み飲みしようとした『漆黒の汁』は、次の皇帝陛下の喉を潤すための至宝となるのだからな」
「……!」
ディエゴは、先ほどまでの落差と、シャルルの言葉の重みに息を呑んだ。
もし失敗すれば、今度は笑い話では済まない。
「私たちがパリから戻るまで、工場にイギリスの指一本でも触れさせてみろ。その時は、お前の首で償ってもらうぞ」
「……!」
ディエゴは、拳を握りしめた。
ヴィルヌーヴは、背筋に走る戦慄を隠せなかった。
シャルルが頭を下げたのは、屈服したからではない。
「自分たちが不在になる未来」を見据え、その後に訪れる混沌を予測し、自分達にそれを守るよう託す凄絶な覚悟の表明に。
「女神が灯した『光』を、留守の間に消すことだけは許さない。提督……頼んだぞ」
初めて自分たちを「頼るべき軍人」として扱ったシャルルの姿に、彼らは震えたのであった。




