第69話:ルブラン公使の隠密行軍
カディスを出立したルブラン一行を待ち受けていたのは、冬の容赦ない長雨だった。
未舗装の王道は幾頭もの馬に踏み荒らされた巨大な泥の沼と化し、ベルリン馬車の重い車輪は一度ぬかるみに嵌まれば大人四人がかりでも動かない。
従者たちは泥まみれになりながら車輪を押し、ルブランは車内で揺さぶられ続け、連日の車酔いと戦うことになった。
マドリードに辿り着く頃には、予定より三日の遅れが生じていた。
スペイン中央平原、メセタ。
ここでは泥に代わり、凍てつく乾いた氷風が一行を襲う。ここでルブランは、ある重大な決断を下した。
「馬車は囮だ。ここからは馬で行く」
マドリードを過ぎたあたりから、イギリスの息がかかった武装集団の影がちらついていたからだ。
ルブランは公使の正装を脱ぎ捨て、従者と見分けのつかない厚手の野戦用防寒外套に身を包み、毛皮の帽子を深く目深に被る。
豪華なベルリン馬車には身代わりの秘書官を乗せ、ルブラン自身は一介の騎馬護衛に紛れ込んだ。
最大の難所、ピレネー山脈。1月の山嶺は白銀の地獄である。
峠の要所に潜み、馬車を待ち構えていたのは、野盗を装ったイギリス海軍の精鋭たちだった。
その先頭に立つのは、まるで寒さを感じていないような姿のアーサー。
彼は自身の盤面をこれ以上汚されるものかと、自ら指揮を執っていた。
「……来たな。一匹たりとも逃すな。叩き潰せ!そしてルブランを捉えろ!」
アーサーの鋭い命令と共に、イギリス軍が雪煙を上げて馬車へ襲いかかる。
「くっ、やはり内通者がいたか……!」
ルブランは悟った。
ロドリゴら市民傭兵が仕留めきれなかった内通者が、イギリス軍に情報を流し続けていたのだ。
今のカディスは海より陸の方が危うい。
それは分かっていた。
海の道を取り戻せない焦燥に駆られた連中は、手段を選ばない恐ろしさを持っていた。
「囮にしたからといって、見捨てるわけにいかんだろう……! 全員、全力前進!!」
ルブランは自ら馬に鞭をあて、最前線に躍り出た。
尻が痛いとボヤいていたが、今は痛みなど忘れた。
だが、相手は馬の扱いに長けた本職の軍人である。
無情にも、囮の馬車はすぐ包囲され拘束された。
「……貴様がルブランか?」
馬車の扉を剥ぎ取ったアーサーが、中の男を睨みつける。
だが、そこにいたのは人相書きとは似ても似つかぬ、怯えた秘書官の姿だった。
「図ったか……!」
アーサーの顔が激怒に染まる。
盤面を汚され続けることへの屈辱。
彼は周囲に散らばった荷物を蹴り飛ばしたが、その時、雪の中に転がった「一本の瓶」を見つけた。
雪煙を切り裂き、ルブランは道なき急斜面へと馬を追い込む。
背後から迫る銃弾が耳元を掠め、冷たい風が頬を切り裂く。
(……ああ、やっぱりだ)
凍てつく意識の淵で、ルブランはカディスのあの温かい日々を思い出していた。
イギリス軍の包囲網を突破し、それだけではなく奇襲に成功し久ぶりの再会を果たした悪友。
活気を取り戻した街と人々。
有り得なかったスペイン軍との連合艦隊の発足。
巻き込まれ、はっきりいって鬱陶しくもあった。
だがあの目まぐるしい日々が、スペインの太陽のように暑かった日々が。
そして宝石のように輝くドライフルーツ、甘いオレンジの花の香り。
皆が笑い、渚が「王様」の石像を引き当てて歓喜に沸いた、あの公現祭の午後。
指先に残っていたのは、口から吐き出した漆黒の、乾燥した空豆の感触だ。
『……やれやれ。どうやらパリへの旅費は、私のポケットマネーから出すことになりそうだ』
おどけて見せたあの言葉。
渚が願った『みんなで無事に春を迎えたい』という、あまりに無垢で贅沢な王様の願い。
その清らかな「幸運」の裏で、誰かが泥を啜り、闇を歩き、敵を欺き通さねばならない。
その「ハズレくじ」を引き受けられるのは、この場にいる誰でもない。
人の心の裏を読み、汚れ仕事に手を染めてきた、この「食えない男」の役目だ。
「シャルル……この旅行代は、俺が全部……持っていってやるからな……ッ!」
最後の急勾配。
馬の足が雪の下の虚無を捉えた。
滑落する視界の端で、アーサーが自分の守り抜こうとした「黒い劇薬」を拾い上げるのが見えた。
――ハズレをあえて引いた男の、それが最期の仕事だった。
ルブランの体は、音もなく真っ白な地獄へと呑み込まれていった。




