第68話:小学校の理科室、初めて科学
渚は作業台に置かれた冷たいシャンパンの瓶を指差し、フルトンへ向き直った。
「フルトンさん。シャンパンの泡は、酵母たちが時間をかけて自発的に生み出すものです。でも、ボナパルトさんが求めているのはその『逆』……。無理やり、水の中にガスを叩き込むことなんです」
「自然の摂理に逆らい、力ずくで気体を水へ押し沈める、ということだな」
渚はフルトンの目を真っ直ぐに見つめ、力強く頷く。
するとフルトンは、手元の設計図を凝視したまま、一歩、また一歩と間詰めを詰めてきた。
「はい。だから、フルトンさんの高圧技術……暴れる気体を狭い筒に閉じ込める力が絶対に必要なんです。そのためにまず私たちが作るのは――火をも消す『死の空気』です!」
「火を消す空気……?」
渚の脳裏に、懐かしい理科室の風景が蘇る。
ビーカーの中。
石灰石に薄い塩酸を注ぎ、火のついたマッチを近づけると、炎がふっと消える。
日本で育った子供たちが最初に触れる、もっとも身近な「科学」の原体験。
「その気体の中では、どんな火も消えてしまう。私の故郷では、子供たちが最初に学ぶ『理』なんです」
――ガシッ!!
「ああ、あの石灰石から出る『固定空気(Fixed Air)』のことか!」
フルトンの目が、飢えた獣のように輝いた。
「素晴らしい……素晴らしいぞナギ嬢! 君はやはり、私のために天が遣わした存在だ!」
フルトンの両手が、渚の肩を万力のような力で掴んだ。
あまりの勢いに、渚の内心で悲鳴を上げる。
(う、わわ……近い、近いですって!!)
ルブランに抱き寄せられた時も、心臓は跳ねた。
けれど、それは人間らしい「体温」を感じるものだった。
だが、目の前の男の瞳は違う。
自分を見ているようでいて、その奥にある「知識」という財宝だけを、顕微鏡で覗き込むように凝視しているのだ。
(何だろう……このゾワゾワする感じ。熱烈なんだけど、どこか『人間』を見てないっていうか……。歴史上の偉人って、こんなに怖いの!?)
一方、フルトンの脳内では、かつてない衝撃が嵐のように吹き荒れていた。
この時代、女は家庭に収まり、男の三歩後ろを歩く愛玩物に過ぎない。
どんな高貴な婦人でも、語るのは流行のドレスか観劇の噂話だけだ。科学や工学の深淵など、女の柔らかな脳には理解できるはずがない――。
それが、この1804年の「常識」だった。
だが、目の前の少女はどうだ。
男である自分と対等な地平に立ちあろうことか、自分を「導こう」とさえしている。
(……こんな面白い女、私は一人として知らない! まさに東洋の奇跡だ!)
奪いたい。
この知恵を、この才能を、否この女そのものを。
彼女はもはやただの人間ではない。
自分の夢を完成させるための、もっとも美しく、もっとも希少な「パーツ」だ。
(この『知恵の女神』を独占し、共にイギリスへ渡ればどうなるか。フランスを出し抜き、ロンドンの資本家たちにこの技術を売り込めば、強大なパトロンが付くはずだ!そして王侯貴族のような待遇で迎えられるに違いない!)
フルトンの頭の中で、野心という名の計算機が高速で回転を始める。
(…このフランスという泥沼に、私の才能が分からない、愚かなフランスに彼女を埋もれさせておくにはあまりに惜しい!)
「フ、フルトンさん。……一旦、外へ出ましょう。まずは材料を揃えに行きましょう!」
肩に食い込む指の感触から逃れるように、渚は少し引き気味に提案した。
「材料? どこへ行くというのだ」
「海岸ですよ。二酸化炭素……『死の空気』を生み出すための魔法の石――貝殻や珊瑚の残骸を拾いに行くんです」
「二酸化……炭素? ナギ嬢、それは君の故郷の言葉か? 炭と酸素……二つの酸素が炭素に結びついたものと意味か。なるほど、理に適っている。なんと合理的で美しい響きだ!」
「更には、わざわざ石を買わなくても、足元のゴミを固定空気の材料にするのか!」
一々大げさな反応を示すフルトンに、渚は完全に引いていた。
冬の寒空の下、二人はカディスの海岸へと向かう。
フルトンはなおも、逃がさないと言わんばかりに渚のすぐ隣を、肩が触れ合う距離で歩き続けている。
(あぁ……。早く終わらせてみんなのところに帰りたい……。空気を読まないで壊してくれるルブランさんがいてくれたら……!)
渚は、ピレネーを越えているはずの「悪友」の、少しだけ暑苦しくも安心できた体温を、切実に思い出していた。




