第67話:地中海の檻と、狙われた「悪友」
ジブラルタル要塞。吹き抜ける海風を遮る司令部の石壁の中には、地響きのような怒号が吹き荒れていた。
「――アーサー! お前の『卓上論』のせいで、我が艦隊はドブネズミのようにこの狭い檻で腐りかけているんだぞ!」
ホレイショ・ネルソン提督は、失った右腕の袖を激しく振り回し、机を叩いた。
本来の『予定』ならば、今はまだ海の上で自由に風を追い、数年をかけてフランスを追い詰めるはずだった。
だが、アーサー・ウィンストンが提示した「最短ルート」の戦略が、歴史の歯車を強引に歪めたのだ。
「奴らを地中海に誘い込み、早期に決戦の場を用意する……お前のその断言を信じた結果がこれか! 蓋をしたはずの我らが逆に釘付けにされ、一歩も動けんとはどういうことだ!」
「ネルソン提督、落ち着きを。計算には不確定要素が混入したに過ぎません」
アーサーは表情一つ変えず、静かに書類を整えた。その無機質な態度が、かえってネルソンの火に油を注ぐ。
「不確定要素だと!? カディスの市場にはオレンジが溢れ、我が兵の口には血が溢れている! 閉じ込めるはずの敵が肥え太り、包囲しているはずの我らが飢える……こんな馬鹿げた逆転が、大英帝国の歴史にあっていいはずがない!」
ネルソンが激昂し、部屋を去ってもなお、アーサーは微動だにしなかった。
一人残された司令部で、アーサーは窓の外、冬の濁った海を見つめる。
(……ルカの予言は、正しかったはずだ)
アーサーにとって、ルカの言葉は「神の設計図」と同義だった。
この十年間、その通りに動けば世界はアーサーの望むままに再構築されてきたのだ。
ルカという愛おしい玩具が紡ぐ未来、それこそがアーサーの信じる唯一の真実だった。
だが、その盤面を泥靴で踏み荒らす存在が現れた。
カディスに現れた「女神」、ナギサ。
(あの女が、ルカとその予言を汚し、更には神の盤面を書き換え、私の『予定』をゴミ屑に変えたのだ……)
アーサーの指先が、地図の上の「カディス」を憎悪を込めてなぞる。
ルカは今、壊れた人形のように眠っている。
愛する者の心を砕いたのは、ナギサがもたらした「女神の栄光」という名の毒だ。
「……許しはしない。ナギサ、お前がどれほど私とルカの記す未来を書き換えようと、私は力尽くでそれを奪い返す」
その時、一人の伝令が飛び込んできた。アーサーの耳元で囁かれた報告に、彼の細い目が冬の月のように冷酷な光を宿す。
「……報告ご苦労。……提督、風向きが変わりましたよ」
戻ってきたネルソンに、アーサーは捕食者のような笑みを向けた。
「スペインの外交官、ルブラン公司がカディスを発ちました。目的地はパリ。しかも、ボナパルトへの重要な『献上品』を持って――馬車で、雪深いピレネーを越えようとしています」
「海ではなく、陸で仕掛けるというのか。我ら海軍に、泥にまみれろと?」
「ええ。海での包囲が阻まれるなら、背後から心臓を突く。……ピレネーの雪の中で、彼には静かに消えてもらいましょう」
アーサーの手元には、ルカがかつて描いた「正しい歴史」の断片があった。
それを握りつぶす。
「……ナギサ。お前の知恵が、貴様に忠誠を誓う騎士たちの命を救えるか試してみよう」
アーサーの唇が、捕食者のような歪んだ笑みを形作った。
その瞳の奥には、愛するルカの平穏を奪った者すべてを焼き尽くそうとする、冷たくて暗い情念が渦巻いていた。




