第66話:獅子の憂慮と、混沌への予感
シャルルは、司令室の窓から造船所の工房を苦々しく見つめていた。
浮かぶ明かりの向こうでは、渚とあの「アメリカ人」が、鉄の筒と図面を前に心血を注いでいる。
(……ロバート・フルトン、か)
シャルルの脳裏に、かつてルブランが残した言葉が、冷たい風のように蘇った。
『一度見限られた男が、ボナパルトの一言でホイホイと船に乗り、カディスに現れた。……シャルル、あの男の目は気をつけろ。ただ夢を見ているだけの男には見えない』
ルブランの予感は、これまで一度として外れたことがない。
シャルルにとって、士官学校時代からの腐れ縁であり「悪友」である彼の言葉は、この世で唯一、疑う余地のない真実だった。
シャルルの耳にも届いている情報では、1803年、セーヌ川での実験。
ボナパルトの眼前でフルトンの蒸気船は一度沈没し、再挑戦の際も「醜い、遅い、使い物にならん」と、糞味噌に叩き伏せられたという。
自尊心をズタズタにされたはずの男が、なぜ今さらボナパルトの命を二つ返事で受け、ここへ来たのか。
「……アドリアン。あの男の身辺はどうなっているかしら」
背後に控えていたアドリアンに、低く問いかける。
「フルトンには、数人の『助手』が同行しています。表向きはパリの国立工芸院(CNAM)から派遣された、蒸気機関に精通する技師たちを称していますが……。その中には、流暢な英語を操る、得体の知れぬ連中も混ざっています」
かつては一蹴したものの、ボナパルトはフルトンが持つ機雷や潜水艦技術の価値にようやく気づいた。
ならば同時に、他国のスパイがその果実を狙って公式な調査員に紛れ込んでいても不思議ではない。
「フルトンだけではない。その『部下』共も一歩たりとも見逃すな。工房の周囲には、ロドリゴが束ねる市民の傭兵たちを配置しろ。軍の制服では、奴らも警戒するだろうからな」
「承知いたしました。……ですがシャルル様。ナギサ殿の知識が、フルトンの持つ技術にどう作用するか……。二つの技術が混ざり合った果てに、何が生まれるのか。私には、それが読めずにもどかしくてなりません」
専門外の事にアドリアンの言葉は苦渋に満ちていた。
シャルルは奥歯を噛み締めた。
「高圧ガスの製造」。
それは今、ボナパルトが最も欲し、それゆえにフルトンという猛獣を送り込んでまで渚に要求した技術だ。
もし、これが実現できなければ――。
これまでボナパルトに対し、「事後報告」と「独断専行」を重ねて自分勝手を押し通してきたシャルルの立場も危うくなる。
結果が出せぬと分かれば、あの男は冷酷に自分を切り捨てるだろう。
(そうなれば……私は、渚を守れなくなる)
ルブランをパリへ向かわせたのは、自分たちのパリ召喚を少しでも遅らせるための「時間稼ぎ」でもあった。
だが、フルトンの出現によって、もはやその猶予は尽きようとしている。
この開発が成功しようが、失敗に終わろうが、自分たちは「あそこ」へ引きずり出されるのだ。
(……パリ。あの、欲望と混沌が渦巻く奈落へ)
ギロチンの残響がいまだ石畳に染み付いた、血の匂いのする帝都。
渚を、あんな伏魔殿へ連れて行きたくはなかった。
だが、その不吉な足音は、刻一刻と近づいていることを、シャルルは肌身で感じていた。
「アドリアン。……荷造りを始めておきなさい。カディスの穏やかな海は、もうすぐ終わるわ。」




