第7話:最奥で見つけた「至宝」
英国海軍代将、アーサー・ウィンストン。彼は、自他共に認める氷の男であった。
「家門」という名の重い錨を引きずり、一寸の狂いもない潮路をなぞらされる日々。黄金で鋳造された檻の中、神が修正を施した退屈な叙事詩をなぞるだけの人生。先月執り行われた政略結婚は、その檻の扉を永遠に閉ざす最後の一打に過ぎなかった。
彼にとって、夜の奴隷市場は単なる「消耗品の調達場」に過ぎなかった。完璧すぎる日常の歪みを吐き出すため、目についた男を買い、一晩で使い捨てる。それが唯一の、乾いた気晴らしだった。
だが、その夜。
壇上に引きずり出された「それ」を目にした瞬間、アーサーの内にあった「諦め」という名の平穏は、音を立てて崩れ去った。
「紳士淑女諸君、ご覧ください! 漆黒の夜露に濡れたような、この艶やかな黒髪。東洋が育んだ、最高級の宝石です!」
売人の煽り文句に、会場が下卑た熱を帯びる。
壇上に立つ青年。貴族好みの薄絹を纏わされているが、その隙間から覗く手首や鎖骨には、凄惨な虐待の痕が刻まれていた。「手入れされた美しさ」と「執拗に刻まれた痛み」。その残酷なコントラストが、より一層、鮮烈な存在に仕立て上げている。
アーサーは、自身の脈拍が異常な速度で跳ね上がるのを感じた。
生涯で、一度として経験したことのない衝撃だった。
(……ああ、これだ。俺が、この死んだような世界で待ち続けていたのは)
これまでの人生、どんな勝利の瞬間も、これほどの震えはなかった。血管を流れる血が、一瞬にして入れ替わるような凄まじい高揚感。
冷静沈着なはずの軍人の指先が、隠しきれぬ法悦に微かに戦慄する。
奴隷は屈辱に震えながらも、射抜くような視線でアーサーを見つめ返した。その瞳には、絶望を燃料にした、傲慢なまでの知性が宿っている。
「……黙っていろ、下衆が。私の価値は、貴様の汚い舌が決めることではない」
凛とした声が響く。流暢な英語に会場の皆が驚く。
奴隷は、濡羽色の髪を乱しながら、挑発的にアーサーへと声を放った。
「……旦那様。……私を買いなさい。貴方のその、退屈で死にかけた人生に、一生消えない『猛毒』を注いで差し上げましょう」
その咆哮に、アーサーの心臓は人生で最高の鼓動を打った。
理性が、歓喜の悲鳴を上げている。この男を奪いたい。この誇り高い魂を、その傷だらけの身体を、神に代わって自分が支配し、塗り潰したい。
「一万ポンドだ」
極めて冷静に、しかし会場の端まで響き渡る重い声で、アーサーは告げた。
新婚の妻が待つ屋敷に、一人の奴隷を、軍艦一隻分にも及ぶ異常な価格で買い受ける。
それは、彼が初めて「神のシナリオ」から逸脱し、自分自身の生を掴み取った瞬間だった。
「その男を、こちらへ。今日から、お前の名はルカだ」
翌朝、重厚なマホガニーの食卓。
向かいに座る新妻が、一分の隙もない仕草で紅茶を啜りながら、冷ややかに口を開いた。
「……奥の部屋に、新しい『玩具』を置いたそうですわね。アーサー」
ティーカップを置く小さな音が、静まり返った食堂に不快に響く。彼女は夫を正視することもなく、その唇を蔑むように歪めた。
「構いませんわ。ですが、あのような不潔なものを私の目に触れさせないでくださいませ。この屋敷の品位を汚すような真似だけは、お慎みになって」
吐き捨てるような、剥き出しの嫌悪感。
だが、その侮蔑さえ、今のアーサーには至上の心地よさだった。妻がルカを拒絶すればするほど、あの男は自分だけの秘密、自分だけの地獄、自分だけの「生」になる。
「……ああ、分かっている」
アーサーは短く、淡々と応じた。
その声に熱情は微塵も混じっていない。だが、彼は椅子を立ち、一秒でも早くその場所へ向かいたいという衝動を、冷徹な仮面の下で必死に抑え込んでいた。
扉を開ける。そこには、漆黒の髪を散らし、自分を憎悪の瞳で見つめる「真実」が待っている。
「ルカ。……私を見ろ。お前のその憎しみだけが、この死んだ世界で唯一、俺を生きさせてくれる」
アーサーは、震えるルカの顎を強引に持ち上げ、静かな狂気と情熱を込めて、その唇を塞いだ。




