第62話:鋼鉄の金庫(ヴォルト)へのレシピの封印
ディエゴが『漆黒のジュース完成』の噂を聞きつけ、息を切らしてナギサたちのいる倉庫へ駆け込んできた。
「ナギ様!ボナパルト様に献上する漆黒のジュースができたそうですな!!さぁ、私の『黄金の工場』で早速量産しようではありませんか!」
その場にいた者たちの空気が凍りついた。
シャルルは、射抜くような鋭い視線をディエゴに向けた。
「……ディエゴ殿。貴公はまだ黄金のジュースの量産や流通、やるべきことが山積しているはずだ。余計なことに首を突っ込むな。この液体は、貴公が扱うべきものではない」
「そ、そうです!これは門外不出のレシピなんです!ボナパルト様専用のジュースなんですっ!」
ナギサは心底から怯えていた。
この時代に「糖分とカフェインの暴力」を解き放てばどうなるか。
人々は一口飲んだ瞬間に瞳孔を見開き、眠りを知らぬ獣のように働き続け、効果が切れた瞬間に激しい虚脱と錯乱に陥るだろう。
(街中の人間が、目を血走らせてこの黒い水を求めて暴徒化する……。私は魔女どころか、世界を壊した災厄として火炙りにされる……!)
シャルルは一歩、ディエゴに詰め寄る。
その美しい顔には、深く、どす黒いクマが刻まれている。
昨晩、脳が強制的にフル回転し続け、まばたき一つできないまま夜を明かした彼の眼光は、さながら戦場の死神であった。
「付け加えよう。もしこのレシピが外部に漏れれば、それは貴公独自の反逆とみなす。連合艦隊の締結も、貴公との信頼も、すべて無に帰す。……ディエゴ殿、貴公の命と、この『漆黒のジュース』、どちらが重いか秤にかける必要はないな?」
ルブランとジャンも、クマの刻まれた顔でディエゴを睨みつける。
三人の「不眠の魔王」たちからの圧倒的な圧力に、ディエゴはたじたじとなり、大粒の冷や汗を流した。
「あ、ア、ハイ……。そうですな!私は黄金のジュースで忙しいんだった!輸送ルートの確認が残っておりました!それでは、失礼いたしまする!!」
ディエゴは脱兎のごとく逃げ去っていった。
ディエゴ去りし後――
ディエゴの足音が完全に消えたのを確認すると、シャルルはピクピクと痙攣する瞼を指で押さえ、がっくりと肩を落とした。
「……はぁ。やっと行ったわね。あいつ、声が大きいのよ、脳に響くじゃない……。ねぇナギ、ジャン。この製法は厳重に封印よ。ナギ、今日以降勝手に作らないでね。約束よ?」
声は優しいが、寝不足の極致にいる人間の「静かな怒り」がこもっている。渚は「はい……絶対作りません……」と力なく頷いた。
シャルルは横に控えていたルブランに、震える手で(しかし異常に速い筆致で)命令を下した。
「ルブラン。このレシピの原本は、王国の国立銀行の最深部、誰の手も届かない鉄の金庫へ収めること。鍵は二つ作り、一つは余が、もう一つはあんたが持ちなさい。二人同時に立ち会わぬ限り、その金庫は永久に開けてはならない。……いいわね、セントヘレナの底にでも沈めるつもりでやって頂戴……」
「了解だよ、提督さん。……あぁ、目が冴えて痛いねぇ。これなら未来永劫、誰もこの『悪魔の飲み物』の量産には辿り着けやしないよ」
ルブランは肩をすくめた。
だが、シャルルが漆黒の液体を見つめる際、一瞬だけ、その「一晩中戦術を練り続けられた異常な覚醒」に魅了された軍略家の顔に戻ったのを、ルブランだけは見逃さなかった。
側に控えていたアドリアンは、テーブルの上に置かれた残りの「漆黒の液体」を、まるで毒蛇でも見るような目で見つめた。
好奇心がなかったわけではない。
だが目の前で廃人のようになっている軍医と、クマを刻んでなおギラギラと輝く提督を見れば、その「代償」は明らかだった。
(……飲まなくて、本当に良かった……)
アドリアンは内心で深く、深く胸をなでおろした。
もし自分がこれを口にしていれば、提督の前で狂った誓いを立てていたに違いない。
「シャルル様、私は……皆様のために、胃に優しい白湯を淹れて参ります」
そう告げて、アドリアンは逃げるようにその場を後にした。
背後からは、シャルルの「あら、気が利くじゃない!レモンを多めに入れてね!」という、不眠ゆえの明るすぎる声が響いていた。




