第61話:眠れぬ夜の四重奏(コーラ・パニック)
深夜。
そこには、人生で初めて「過剰なカフェイン」という劇薬をぶち込まれた、三人とぶち込んだ本人の四人それぞれの夜。
『シャルル提督私室』
シャルルは、目の前に広げられた海図を鬼気迫る形相で睨みつけていた。
「……おかしいわ。一睡もしたくない。むしろ、ジブラルタルの岩山を素手で引き剥がせそうな気がするの。さっきから、羽ペンが紙を撫でる音が、まるで大砲の轟音みたいに脳に響くわ! 心臓は、軍鼓を打ち鳴らしてるようだわっ……ッ!」
扇子を仰ぐ速度は通常の三倍。
喉は紅茶を何度飲んでも乾く。
だが瞳には異常な活力が宿っている。
彼のペンは、超高速で完璧な兵站計画を書き記していた。
『ルブラン:酒場にて』
ルブランは、コーラを一瓶飲み干した直後、突如として廃倉庫を飛び出していった。
「ナギサ……今夜の俺は、愛の狩人だ! この万能感、この高揚……! 君への愛の詩が、あと三万行は書けそうだ! ……」
彼はカディスの夜の酒場に現れるや否や、女性客たちを捕まえ、普段以上の情熱的な口説き文句を浴びせ続けた。
「貴女の瞳は、まるで深淵の星の煌めき。その唇からは、地中海の真珠が零れ落ちるようだ……! 愛している、永遠に!」
しかし、その過剰すぎるロマンチシズムと、カフェインでギラギラと輝く瞳は、かえって女性たちを凍りつかせた。
「……フランスの公使様、今日はいつもより目が怖いわね…」
ルブランの詩的な愛の演説は、次々と女性たちの白い視線を浴び、最終的にはウェイターに「そろそろお引き取りを」と、静かに諭される結果となった。
『ジャン:倉庫にて』
ジャンは、自らの手首に指を当て、血色のいい顔で淡々と記録を取っていた。
ジャンは繰り返し、コーラの比率の調整をしてたため、もう眠れぬ夜が2日続いていた。
「脈拍、通常の1.5倍。思考の明晰化、および多弁。これはすごいぞ……。我々が知るコーヒーとは比較にならない。この『コーラ』という液体は、直接脳の神経を一本ずつ弾いているような感覚だ。 医療用としては劇薬だが、行軍中の兵士に飲ませれば、不眠不休でピレネー山脈を越えられるな。……ただ、私の手が、さっきから止まらずに震えているのが少し気になるが」
軍医としての本能が、疲労を麻痺させ眠りを忘れさせる劇薬の症状を書き記す事に没入していた。
『渚:ホテルの一室』
渚は、遠い目をして試作品のコーラを眺めていた。
「……ああ、この感じ。久しぶり。受験前のデスマーチの時に、エナドリを三本ぶち込んだ後の感覚そのも」
まだ気づいていなかった。
19世紀、この時代の人々にとっての「覚醒作用」はせいぜい濃いお茶やコーヒー程度。
そこに『精製された糖分』と『高濃度カフェイン』の狂乱の夜を仕掛けてしまったのだと。
「……あ、これ、耐性がない人に飲ませちゃいけないやつだった。きっと今ごろみんなの脳内が、ドーパミンが大洪水を起こしてる……。」
歴史を動かす「漆黒」の飲み物は、カフェイン体制のない人達の精神を極限まで加速させていった。
翌朝。
一番乗りで倉庫に現れたのは、いつも通り凛とした軍服姿のシャルル……のはずだった。
だが、その足取りは幽霊のように重く、手にした扇子は一度も開かれることがない。
「……おはよう、ナギ。昨夜の私は、少し……いえ、かなり、おかしかった、眠りたいのに眠れなかったのよ…」
シャルルが顔を上げると、そこには歴史に残るレベルの「クマ」が鎮座していた。
普段の美貌が台無しなほどの深いのクマを湛え、力なく椅子に沈み込む。
「夜通しで書き上げた『無敵の兵站計画』を読み返したのだけれど……。文字が震えすぎていて、自分でも何が書いてあるかさっぱり読めないの。ただ、端々に『私は神だ』という走り書きだけが残っていて……訳が分からないわ」
そこへ、這うようにしてルブランが入ってくる。
昨夜、酒場で愛の狩人(笑)と化していた公使は、今や完全に魂の抜けた殻だった。
「ナギ殿……。気がついたら知らない未亡人の家の前で、月に向かって三時間も自作のポエムを朗読していたんだ……。外交官として、いや、人間として終わりだ……」
彼は机に突っ伏し、昨夜の自分に絶望して震えている。
最後に入ってきたジャンだけは、医師としての矜持か、なんとか直立を保っていた。
しかし、その手首には自ら処置したであろう「鎮静剤」の包帯が巻かれている。
「……おはよう。ナギ、報告だ。あの飲料の持続時間は約六時間。その後、急激な意識の低下と精神的脱力感、および『激しい後悔』が襲ってくる。これは……戦場では使えんな。兵士が全員、戦う前にメンタルを病んでしまう」
ジャンの声は、まるで地底から響くような低さだった。
渚は、並んで机に突っ伏す19世紀の英雄たちを眺め、冷めたお茶を差し出した。
「ほ、ほら、とりあえずこれ飲んで落ち着いてください」
みんなの顔に刻まれた、底も見えぬタホの谷のような深いクマ。
それは、不用意に「あの黒い液体は飲まない」という人類最初の固い決意の証でもあった。




