第57話:鋼鉄のナッツと、泥水の旋律
カディスの爽やかな朝とは裏腹に、港近くの廃倉庫には、重苦しい「死闘」の空気が漂っていた。
「……ナギ。これが、本当に『覚醒の薬』の正体なのか?」
軍医ジャンが、信じられないものを見るような目で、すり鉢の中を覗き込む。
そこにあるのは、数時間かけてようやく粉状にしたコーラナッツの残骸。
しかし、そこから漂うのは芳醇な香りとは程遠い、**「湿気った墓場の土」**を掘り返したような、どろりと重い不気味な匂いだった。
「……信じたいんだけど、今のところはただの『泥の素』だね」
渚は額の汗を拭った。
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数日前まで、彼女たちはホテルの最上階で優雅に作業をしていた。
しかし、コーラナッツの殻を割るために、肉たたきや石を叩きつける「ゴン! ゴン!」という凄まじい重低音が連日響き渡り、他の宿泊客から苦情が殺到。
最後には支配人らがスペイン軍の庸平ロドリゴに涙ながらに出て行ってほしいと土下座したため、この埃っぽい倉庫へ「追放」されたのだ。
「アドリアンの部下が運んできた、この貴重な湧き水。無駄にはできない……」
テーブルの上には、馬の扱いを熟知した伝令係が、往復三日かけて一滴もこぼさず運んできた冷涼な湧き水の樽がある。
現代なら蛇口一つで手に入る水だけでも、この時代には人の手がかかる。
その貴重さが、渚の肩にのしかかった。
まずは物理的な力だけでは難攻不落な、この「鉄の果実」を攻略しなければいけない。
ジャンが、ボコボコに変形した肉たたきを横にどけた。
助っ人に呼んだ屈強な軍人たちも、ナッツの硬さに手が痺れ、まるで「剣士の誇りに血が滲むような」無力な顔で引き下がっている。
「……ナギ、こいつは本当に食い物か? 石炭の塊を叩いてる気分だぞ」
最終的に力任せではなく、ナッツの「縫線(わずかな継ぎ目)」を見極めることに。
「これは叩くのではない。外科手術と同じだ。特定の『一点』にのみ衝撃を集中させる……」
ジャンが、鋭い目つきで足切断手術で大腿骨を割る時にな……という冗談なのか、なんなのか分からない事を言いながらノミと小槌を使い、外科医の様な手つきでナッツを割る手法を編み出した。
ようやく一つ、ナッツが「パキッ」と不気味な音を立てて割れる。
手伝いの軍人が剣の柄や石を使い、石のすり鉢で執念で種を粉末状にした。
しかし、そこから漂うのは、およそ口に含む物とは程遠いものだった。
「……ナギ、これ、本当に大丈夫なのか? 墓場の湿気った土を掘り返したような匂いがするぞ」
ジャンが鼻をつまみながら、すり鉢の中を覗き込む。
渚もまた、その「到底食べ物とは思えない」原始的な土の臭いに顔をしかめた。
粉末には、期待していた「覚醒の薬」の片鱗すら感じられない。
「ナギ、発想を変えろ。コーヒーの豆はどうしている?」
助言した。
「あれも元はただの苦い種子だが、火を加えることで香りが跳ねる。……軍医として言わせてもらえば、組織を熱で変質させるんだ。この『土の種』を、一度フライパンで『焙煎』してみろ」
「……それだ!」
渚は即座に火を起こし、粉末にする前のナッツをフライパンへ投入した。
しばらく煎り続けると、不思議なことが起きた。
あの不快な「湿った土」の匂いが、太陽を浴びた大地のような**「乾いた土」**の香ばしさへと昇格していったのだ。
熱で脆くなったナッツは、あんなに苦労したのが嘘のように、すり鉢の中で小気味よい音を立てて砕けていく。
「いける……。ジャン、湧き水を入れて!」
水1パイントに対し、粉末0.1。という狂気じみた贅沢な比率。
煮え立つ鍋から立ち上るのは、濃厚な土の匂いと、鼻を刺すような未知の苦々しい臭い。
布で丁寧に濾し、カップに注がれたのは、光を一切通さない、底なしの漆黒を湛えた液体だった。
「アンダルシア・コーラへ繋がる第一歩……。いくよ」
レオノールは私はお断りしますと微笑んでいる。
渚とジャンは、覚悟を決めてその「黒い泥水」を口に含んだ。
「…………!!!」
一秒後。
「「にがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいっ!!!」」
二人の絶叫が、廃倉庫の天井を突き抜け、カディスの夜の海へと反響した。
それは、歴史を変えるはずの「聖杯」が、ただの「苦い拷問薬」として誕生した瞬間だった。




