第56話:運命を狂わせる「炭酸(圧力)」
1803年12月末、カディス
渚は、机の上に広げられた複雑な図面を前に、めまいに似た無力感に襲われていた。
第一執政ナポレオンが強引に押し付けてきた「鋼の心臓」――蒸気機関の構築。
それは、現代のレシピや衛生知識でしのいできた渚には、遥かに超える難解な命令だった。
(……これ、私じゃ無理だ。成瀬くんだったら、きっと一瞬で理解できたんだろうけど……)
「……シャルル様、アドリアンさん。やはり、これは私では不可能です」
絞り出すような渚の告白に、シャルルが眉を上げた。
「弱気ね。だが、ボナパルト第一執政からは、ある『技術者』をこちらへ向かわせていると伝令が入っているわ。1月中にはカディスに到着するはずよ」
(技術者を送り込んでまで…)
渚は驚きに目を見開いた。
ただのジュース事業から始まった自分の行動が、今や歴史に名を残す発明家たちをも巻き込み、巨大なうねりとなって動き出している。
その中心に自分が立たされている事態に、背筋が震えた。
ジブラルタル、同時刻
地中海の要衝、ジブラルタル要塞。
その一角にある高級ホテルの一室で、アーサーは怒りに声を震わせていた。
「フルトンがパリを離れ、カディスへ向かっているだと……!?」
報告を受けたアーサーの脳裏には、数日前までの確信があった。
イギリス政府と密約を交わし、間もなくロンドンへ亡命してくるはずだった発明家、ロバート・フルトン。
彼がなぜ、土壇場で敵陣の中枢であるカディスへと進路を変えたのか。
アーサーは迷いなく、部屋の奥に鎮座する豪奢な寝台へ歩み寄った。
そこには、かつての華やかさを失い、シーツの白さに溶けてしまいそうなほど蒼白なルカが横来している。
「起きろ、ルカ! 答えろ……お前を闇に落としめるあの『光』は、今度は何をしようとしている!?」
アーサーの強い手が、眠りに逃げ込もうとするルカの肩を掴んで叩き起こした。
無理やり現実へと引き戻されたルカは、焦点の定まらない瞳でアーサーを見上げると、喉の奥から絞り出すような、か細い笑い声を漏らした。
「お前は言っていたはずだ。フルトンはイギリスのために、水中から獲物を捕らえ、魚のように敵をドーバーの底へ沈めると! なぜ奴はカディスへ向かっている……!」
「……ああ、本当に面白いよ、渚……。そうだね。君の作るレモンジュースには、炭酸の圧力がよく合うだろう……。ふふ、ははははは!」
うわごとのように繰り返される不敵な笑い。
それは狂気そのものだった…。
「渚、最高のビジネスだ……」
「ルカ! 説明しろ!」
苛立ちと焦燥に駆られたアーサーの手が、ルカの頬を鋭く打ち抜いた。
乾いた音が静寂を切り裂き、ルカの端正な顔が横に振られる。
切れた唇から一筋の鮮血が流れ、白いシーツに真っ赤な染みを作った。
しかし、ルカはその痛みさえも慈しむように、濡れた瞳でアーサーを凝視した。
「……私に、玩具をください。あの、可愛く可憐な、とても愛おしく……そして、とてつもなく……憎い……あの玩具を……」
一筋の涙がルカの頬を伝い、鮮血と混じり合う。
その壊れそうなほどに歪んだ熱情に、アーサーは突き動かされるようにルカを激しく抱きしめた。
「やろう。それが、お前が初めて口にした望みであるなら」
アーサーの低い声が、ルカの耳元で冷徹な誓いとなる。
「必ず、その女を捕らえ、お前の元にくれてやろう。……して、その『光』は何を企んでいる?」
腕の中で、ルカが消え入るような声で囁いた。
「蒸気汽船の知識でしょう……」
「何だと……? ボナパルトが鼻で笑い、不要と言って追い出したあのガラクタが、なぜ今さら?」
アーサーはルカを突き放すように立ち上がると、扉の外へ向かって裂帛の気合で叫んだ。
「伝令! 直ちに部隊を編成しろ! 目標はカディスへ向かうロバート・フルトン、および渚という名の東洋人の女だ。手段は問わん。奴らを捕らえ、生きてこのジブラルタルへ連れてこい!」
ついに、イギリス軍の精鋭が「女神」の捕縛に向けて動き出した。
カディスへ向かうフルトン。彼を待つ渚。そして、その背後に迫るアーサーの執念。
1804年を迎えようとする海が、かつてない嵐に包まれようとしていた。




