第53話:アンダルシアの熱い夜 ―スパイスの香りと踊れぬ女神―
荒々しく扉を閉めてホテルに向かったアドリアン。
静寂が戻った執務室で、シャルルは楽しげに紅茶を揺らした。
「さて。騎士様を追い出したものの、やっぱり気になるわね。……ところでルブラン、あんた、ナギを見たことあったかしら?」
「ああ。あの、カディスの夜会でなら恐怖に震える『女神様』を見たよ」
ルブランは手元のペンを止めず、吐き捨てるように言った。
「シャルル、お前のやり方には反吐が出るね。あんなに怯える娘を外交の道具に据えるとは」
「ふふ、手厳しいわねぇ。……様子を見に行くけど、ルブラン、あんたはどうする? 挨拶くらいしてきてもいいのよ?」
「俺はいい」
ルブランは短く切り捨て、ようやく顔を上げた。その瞳には冷ややかな理性だけが宿っている。
「俺は、あんな青白い、閉じ込めておかなければいけないような女は趣味じゃない。……俺の好みは、焼けた肌にスパイスの香りがする女だ。公使の仕事以上に胃を焼くような、ね」
「ふん、相変わらず可愛げのない男ねぇ。……じゃあ、お先に失礼するわ。あんたはそこで、その可愛くない書類と心中してなさいな」
シャルルはひらりと手を振り、部屋を後にした。
――ルブランもまた「食えない男」だった。
シャルルが馬車に乗り込もうとすると、憮然とした顔のルブランが、まるで義務であるかのようにその隣に腰を下ろしていたのである。
「書類との心中は諦めたのかしら?」
「……気分転換だ」
皮肉を投げ合う二人を乗せ、馬車はナギサたちが滞在するホテルへと向かった。
ホテルの部屋の扉を開けたシャルルは、扇子で口元を隠しながら可笑しそうに声を上げた。
「あら? もぬけの殻ね。逃げ出されちゃったかしら?」
しかし、程なくして廊下から賑やかな足音が響き、散策から戻ってきたアドリアン、ジャン、レオノールそして渚と鉢合わせる。
その瞬間、ルブランの動きが止まった。
かつてカディスの夜会で見た、今にも消え入りそうな「青白い娘」の姿はどこにもない。
そこには、太陽の下を駆け回り、少し上気した肌に意思の強い瞳を宿した、眩しい生命力溢れる女性が立っていた。
ルブランは迷うことなくナギサの前に進み出ると、流れるような所作で彼女の手を取り、熱い視線を注いだ。
「……失礼。以前お見かけした時は、随分と厚いベールが君の輝きを隠していたようだ。今の君は、地中海の陽光そのもの……私の胃を焼く公使の仕事以上に、刺激的で芳醇なスパイスの香りがする。どうだい、今夜、私とアンダルシアの星を数えに行く気はないかな?」
「ル、ルブラン殿……っ!! 何を、何をなさるか!!」
アドリアンが、ナギサを自分の背後へ隠した。
彼女の肩を覆うように、アドリアンのジャケットがしっかりと掛けられている。
「あらあら、面白いわねぇ。男の変節って早いのね」
シャルルが愉快そうに笑う傍らで、ジャンは「(アドリアンの目が殺し屋のようだ……)」と冷や汗を流し、レオノールは「あらまぁまぁ、素敵なご挨拶ですこと!」と、どこ吹く風で笑っていた。
場の空気が混沌に包まれる中、レオノールがパンと手を叩いた。
「さて皆様! お腹も空いているでしょう? よろしければ、私の母がやっている食堂へご招待しますわ。せっかくです。この街の最高の活気を味わっていただかなくては!」
レオノールに連れられて訪れたのは、港の近くにある活気溢れる食堂だった。
一行が店に入るやいなや、店内にいた漁師や荒くれ者たちが一斉に立ち上がった。
「女神様だ! 女神様がおいでだ!」
「あんたのおかげで、この街は救われたんだ。礼を言わせてくれ!」
「おい、こっちのテーブルの酒は全部俺のツケだ! 女神様と、そのお連れさんに振る舞ってくれ!」
次々と差し出されるエールとワイン。
熱烈な歓迎に圧倒されるナギサの横で、アドリアンは「彼女はそんなに飲めない!」と必死にガードを固めるが、ルブランは隙あらばナギサの耳元で愛の言葉を囁こうと狙っている。
やがて、店の隅でギターが掻き鳴らされ、軽快なリズムが響き始めた。
「さあ、ダンスの時間だ! 女神様、あんたも踊ってくれ!」
誰かが叫び、フロアにスペースが作られる。
荒くれ者たちがそれぞれ得意な楽器を演奏し、手拍子が地鳴りのように響く。
「ナギ殿……。情熱的なアンダルシアの夜は、まだ始まったばかりだ。このステップが、君の魂を焦がす熱になるだろう」
ルブランが再び強引にその手を取ろうと割り込むが、それを力強く遮るように、アドリアンが渚へ必死な面持ちで手を差し出した。
「……ナギサ。私と踊っていただけますか?」
「私、踊れないです……! 無理です! 無理!」
(中学の時に、体育でフォークダンスをちょっと踊ったくらいなのに……! こんな時に――!)
頭の中を陽気なオクラホマミキサーが流れる。
混乱し、赤くなって固まっている渚の背後で、レオノールが静かにシャルルの傍らへ寄り添い、耳元で密やかに囁いた。
「シャルル様……イギリスのネズミが三匹、潜り込んでおりますわ」
その報告を受けても、シャルルの余裕は微塵も揺らがなかった。
優雅にワインを傾け、視線だけを店内の隅、影に潜む不審な男たちへと向けた。
(……無駄なことを)
ネズミと思わしき男たちを、冷徹な瞳で見据えた。
(文字通り『袋のネズミ』よ。ロドリゴは街の傭兵。そしてこの街の市民全員が彼の目であり耳。よそ者が紛れ込めば、彼らが見逃すはずがないもの)
男たちが周囲の異変に気づいた時には、すでに手遅れだった。
先ほどまで陽気に笑っていた漁師たちが、いつの間にか退路を塞ぐように、無言で、しかし逃さぬ殺気を孕んで立ちふさがっている。
(悪あがきはよしなさい。……そちらの誰かが大事に抱えているその『預言書』は、もう一文字たりとも通用しないのだから)
狂乱のダンスタイム、誰にも聞こえぬほど小さく、シャルルは毒を孕んだ笑みを深める。
(未来を記すペンを握っているのは、あななたちではない。私なのよ)
賑やかな喧騒と、ギターの激しい旋律に塗り潰されながら、影の中のネズミたちは声もなく消し去られた。




